第32話 月と剣の正義
カイゼルが報告を終えると、イリシアはしばらく黙っていた。
昨夜の少女の声が、カイゼルの耳にはまだ残っていた。責め立てられたのではない。むしろ、ひどく丁寧だった。契約書を示され、酒の産地を尋ねられ、仕入れ経路を確認された。その末に王都審査の話を出されて、彼は初めて言葉を失った。商談で譲歩した経験はある。しかし、今回は譲歩ではない。答えを用意できなかったのだ。
イリシアは報告の間、一度も遮らなかった。聞き終えると、組んでいた指をほどき、ようやく顔を上げた。
「……十代の少女に、王国法を持ち出されたの?」
「ああ。契約の解釈だけじゃない。貴族身分法の王都審査まで指摘された。あのまま話を続ければ、こちらが答えられないことまで問われただろう」
「あなたが言い負かされかけるなんて、珍しいわね」
「笑いたければ笑え」
「笑っていないわ。むしろ、気になる」
カイゼルは声を落とした。
「もう一つある。こっちの方が、ずっと重要だ」
「何?」
カイゼルは、契約書を押さえていた白い指を思い出した。ずれた袖口に月の形が覗いたのは一瞬。そこで視線を止めれば少女に不審がられる。だから彼は何も見なかったふりをした。
しかし、その姿は鮮明に記憶に残っていた。
「その少女、左手にルナリウム製の月のブレスレットをしていた」
イリシアの指先が止まった。
「……本当に?」
「契約書を押さえたときに見えた」
「それは間違いなく王族の証ね。それに、王国法まで持ち出されて。王族は十六歳までに王国法をすべて覚える義務がある。庶民が法律に詳しいこともあるでしょうけれど、十代の少女で貴族身分法まで正確に扱える人は稀よ」
「年齢も合う」
「エレナ王女である可能性は極めて高いわ」
「俺もそう考えている。ただし、本人確認はまだだ」
「本人だと名乗ったわけではないのね」
「ああ。王女の名を口にしたこともない」
「なら、こちらが勝手に結論を決めてはいけないわ。もっとも、何も知らせずにいるには大きすぎる情報だけれど」
「似た品を持つ別人という可能性も、なくはない」
「そう。でも法律知識まで重なった。偶然だと片づけるのも難しいわ」
イリシアは慎重だった。興奮していないわけではない。むしろ、これほどの情報だからこそ、受け取る者が事実と判断を取り違えることを恐れていた。
「事実と推測は分けて報告しましょう」
「ユリウス様へ騎馬急使を出す。クロイツ家の者なら伝令所を使える」
カイゼルは少女の年頃、法律知識、左手の装飾品を記し、王女本人との断定は避けた。ほどなく伝令所から騎馬急使が出発する。蹄の音が遠ざかっても、胸の疑問は消えなかった。
報告文には少女の年頃、法律知識、左手の装飾品を記した。確かめていない姓名と身分は断定しない。カイゼルは一度書いた文を読み返し、曖昧な表現を削った。
伝令所の者は必要以上のことを聞かなかった。騎馬急使が動き出すと、蹄の音は次第に遠くなった。ユリウスの手元に届くまで、どんな判断が下されるかは分からない。
それでも、知らせないという選択肢はなかった。
(もし本当に王女なら、なぜあの店にいた?)
「それで、酒の方はどうするの?」
イリシアが話を戻した。
「クロイツ家に関係する会社を通している。ユリウス様が直接関わっていなくても、王都審査の問題が表に出れば家に影響する可能性がある」
「少女は、貴族の関係する会社から個人の店へ高額な商品を卸す場合、王都審査が必要になると指摘した。無承認なら爵位に関わるともな」
「それで、あなたは?」
「適用されるかは取引の実態による、と答えた」
「間違いではないわ。でも、実態を示すよう求められたら?」
「会社のつながりを説明する必要がある」
「そう。ユリウス様が直接関わっていないことと、クロイツ家が疑われないことは別よ」
イリシアはため息をついた。違法と決まったわけではない。しかし、審査の必要性を事前に確認していなかったことは、紛れもなく彼らの落ち度だった。
「小さな店なら何も言われない。どこかで、そう思っていたのね」
「……否定できない」
「そこが間違いだったわ」
「先に審査を通しておくべきだったわね」
「……準備不足だった」
ヴァレスタ方面の活動資金を確保するため、カイゼルは酒の流通経路を作った。従来の供給会社には大口の顧客を紹介し、卸商人への供給が途絶えるようにした。そして卸商人には、会社が廃業したと偽っていた。
「せっかく作った経路だが」
「諦めましょう。資金を得るためにクロイツ家そのものを危険にさらしては意味がないわ」
「最初の供給会社は、今も紹介した大口の客と取引しているのね」
「ああ。向こうは以前よりまとまった量を売れて喜んでいる」
「なら、そこを無理に動かす必要はないわ。別の供給元を探しましょう」
「卸商人が以前の会社に確かめたら?」
「そのときは説明の矛盾が表に出るでしょうね。嘘が消えるとは言わないわ」
イリシアは窓の外へ視線を移した。
「だから、これ以上重ねないこと。新しい仕入れ先については実際に条件を確かめてから紹介する。違約金も、卸商人自身に取り下げさせる」
「こちらがそこまでする必要があるか?」
「放っておけば、あの少女はまた契約書を開くわ。次はもっと詳しく調べるかもしれない」
カイゼルは苦い顔をした。
「それは避けたいな」
「私もよ」
「前の会社が潰れたと伝えた嘘は残るぞ」
「こちらから明かす必要はないでしょう。店主が望んでいるのは、元のように無理なく仕入れられる酒よ」
「別の供給元を探すのか」
「クレザンディルは商業共和国。酒を売りたい会社はほかにもある。クロイツ家が代々築いた交易人脈を使えば、条件に合う相手を紹介できるはず」
「違約金は?」
「卸商人本人に取り下げさせる。新しい条件は店主が納得してから決めればいい」
カイゼルはため息をついた。
「今回は俺たちの負けだな」
「商業面ではね。あんな小さな店で、そこまで法律を知る少女と出会うとは思わなかった。私たちの準備不足よ」
「悔しくないのか?」
「その少女、あなたを言い負かして満足そうにしていた?」
「いや。店主のことばかり気にしていた」
「そう」
イリシアは短く答えた。商業利益も、店を通じた情報収集の経路も失う。準備した時間は戻らない。だが、失敗した先で王族の証を持つ少女を見つけた。
王女かもしれない人物が、どうして見知らぬ店主のために法律を語るのか。その理由を知るまでは、単純な利益と損失では測れなかった。
「悔しいけど、王女の手掛かりを得た。そちらの方がずっと大きいでしょう?」
◇
翌日、エレナは店主の向かいで契約書を読み返していた。
昼の店内は静かだった。店主は入口を見るたびに、何もなかったように手元へ目を戻す。昨夜の口論の続きが始まるかもしれない。その不安を隠せていなかった。
「昨夜は眠れましたか?」
エレナが尋ねると、店主は困ったように笑った。
「少しだけね。あんたたちまで巻き込んでしまって、申し訳ない」
「私たちが自分でお手伝いしたいと思ったんです。気にしないでください」
「そう言ってもらえると助かるよ」
ラヴィナは椅子に座り、腕を組んだ。
「また変なこと言われたら、俺だって黙ってねえぞ」
「ラヴィナ」
「分かってる。手は出さねえって」
「まだ何も言っていないわ」
「顔に書いてあった」
エレナが笑うと、店主の肩からも少し力が抜けた。
「まだ来ねえのかな」
ラヴィナが入口を見た。
「確認することが多いのでしょう」
「エレナは落ち着いてんな」
「そんなことないわ。昨日はあれだけお話ししたのだもの」
「俺だったら、あんなに法律の話できねえな」
「知っていることを、確かめながら話しただけよ」
そこへカイゼルと卸商人が現れた。
「お話を伺う前に、一つよろしいでしょうか」
エレナは穏やかに尋ねた。
「今日のご提案は、昨日の条件を一方的に変えるものですか。それとも、双方で新しい条件を相談するものですか」
「後者です。無理に押しつけるつもりはありません」
「ありがとうございます。それなら、店主さんにも考える時間が必要ですね」
店主は驚いたように彼女を見た。自分の店の話なのに、昨日までは選べることなどないと思っていたのだ。
カイゼルは少女が自分ではなく店主の顔を見ていることに気づいた。相手を負かすために質問しているのではない。それがかえって厄介だった。
「昨日は説明が足りませんでした。取引条件を改めて確認しましたので、ご相談させてください」
カイゼルは礼儀正しく頭を下げた。
「従来に近い価格で酒を仕入れられる別の会社をご紹介できます。高額な輸入酒を無理にお買いいただく必要はありません」
「本当ですか?」
店主が身を乗り出した。
「品質や種類、価格は改めてご確認ください。双方で納得して条件を決めるべきです」
エレナは尋ねた。
「違約金については、どうなるのでしょう?」
卸商人は少し顔をしかめた。
「取り下げるというのは、今日だけ請求しないという意味でしょうか。それとも今回の契約を理由とした請求は、今後も行わないという意味でしょうか」
卸商人は口を開きかけて止まった。
「……今回の件では請求しません」
「店主さん、それでよろしいですか?」
「ええ。後から同じ話が出ないなら」
エレナは頷いた。言葉一つの違いで、後からまた争いになることもある。だから曖昧なままにしたくなかった。
カイゼルも静かに答える。
「その点は、こちらでも確認しておきます」
「……今回の請求は取り下げます」
「本当に、払わなくていいんですね」
「ええ。ただ、今後の取引条件は改めて話し合いたい」
エレナは店主を見た。
「納得できるまで確かめてください。どちらかだけが条件を決めることになってはいけませんから」
「はい」
店主は酒の種類と品質、価格、納品の見通しを一つずつ尋ねた。卸商人は答え、カイゼルは必要なところだけ補足した。エレナは店主の代わりに承諾せず、本人が判断するのを待った。
店主はすぐに承諾したわけではなかった。種類、品質、価格、納品の見通しを一つずつ尋ねた。エレナはほとんど口を挟まない。
「どう思いますか?」
迷った店主が彼女を見る。
「私が決めることではありません。でも、気になることは今のうちに聞いていいと思います」
「そうですね……」
店主はもう一度商人に向き直った。今度の声は、さっきよりはっきりしている。
エレナはその変化が嬉しかった。法律を知ることと、自分の暮らしについて自分で選べることは同じではない。後者のために前者が役立つのなら、学んだ時間にも意味がある。
「……これなら続けられそうです」
ようやく店主が顔を上げた。
「よかった……」
エレナの声は思ったより小さかった。
「なんだよ、そんなに心配してたのか」
「もちろんよ、ラヴィナ」
「昨日は全然そう見えなかったぞ」
「あなたが隣にいてくれたから、落ち着いてお話しできたのかもしれないわ」
「……そ、そうかよ。あんまり法律は詳しくないけど」
ラヴィナは顔をそらした。
カイゼルは二人の親しげな様子を観察していた。少女の身元を問いただすことはしない。今ここで警戒させる必要はなかった。
「昨日のご指摘は、こちらでも重く受け止めました」
「私は契約書を一緒に確かめただけです」
エレナが微笑む。カイゼルは礼を返した。
彼女は旧供給会社が実際には廃業していないことも、流通経路を動かした人物が目の前にいることも知らなかった。ただ、店主が明日も店を開けられることを喜んでいた。
◇
夕方、二人が店へ向かう頃には、通りの空気も昼とは変わっていた。仕事を終えた人々が連れ立って歩き、戸口からは料理の匂いが流れてくる。
「なあ、今日もあそこだよな?」
「ラヴィナ、歩きながら何度目?」
「確認だって。途中で別の店に変わったら困るだろ」
「そんな約束はしていないわよ」
「じゃあ今しようぜ」
「ふふ。もう着くわ」
ラヴィナは目に見えて歩調を速めた。エレナが追いつくと、何も言わずに少し速度を落とす。その自然な気遣いが、エレナには嬉しかった。
昼間の店主の顔を思い出す。契約書を前にしたときの強張りが消え、自分の店のことを自分の言葉で話していた。今夜はその店で、心置きなく食事を楽しみたい。
「また来てくれたんですね」
その夜、店主は二人を見て嬉しそうに笑った。
「二日続けて来ちゃいました」
「俺がまた食いたかったんだよ。昨日の、あの熱いやつ!」
「ラヴィナ、料理の名前くらい覚えておきなさいよ」
「うまけりゃいいだろ」
料理が運ばれると、湯気とともに香ばしい匂いが広がった。焼き色のついた肉には熱い汁が絡み、添えられた野菜はつややかだった。焼きたてのパンを割ると、小麦の甘い香りがふわりと立つ。
「おおっ、やっぱりうまそう!」
「熱いから気をつけてね」
「分かってるって」
ラヴィナは勢いよく一口運び、すぐに目を見開いた。
口の中に熱い汁が広がり、ラヴィナは慌てて息を吸った。けれど、すぐ皿へ目を戻す。
「外が香ばしいのに、中がやわらけえ。これ、どうやって焼いてんだろ」
「そんなに気になるなら、あとで店主さんに聞いてみたら?」
「聞いて作れるようになるなら聞くけどさ」
「作ってみたいの?」
「……いや、食う方が得意」
エレナは笑いをこらえられなかった。
パンをちぎり、肉の汁に軽く浸す。焼きたての皮が汁を吸って柔らかくなり、小麦の甘さと塩気が重なる。ラヴィナが真似すると、今度は熱さに用心しながら口へ運んだ。
「おお、これもうまい!」
「ゆっくり食べれば、ちゃんと味わえるでしょう?」
「食う速さと味は関係ねえだろ」
「さっきは熱くて味が分からなかったんじゃない?」
「……それは、そうだけど」
珍しく言い返せなくなったラヴィナを見て、エレナはまた笑った。
「……あっつ!」
「だから言ったでしょう」
「でも、うまい!」
エレナは呆れながら笑った。自分も肉を小さく切り分ける。香ばしい表面の下は柔らかく、ほどよい塩気が口に広がった。
「本当に美味しいわね」
「だろ? 明日も来ようぜ」
「今日で二日続けてよ?」
「三日続けたらもっとすげえじゃん」
「何がすごいの?」
「……続けたこと?」
エレナは吹き出した。
ラヴィナがパンで皿の汁をぬぐうと、エレナはまた食べる速さを注意した。ラヴィナは口では反論しながら、少しだけゆっくり噛んだ。
「なあ、エレナ」
「何?」
店主は忙しそうに卓の間を動いていた。それでも客に呼ばれるたび、以前のように顔を曇らせることはなかった。料理の出来を尋ね、客の返事に頷き、また次の卓へ向かう。
ラヴィナはしばらくその様子を眺めていた。
「昨日はさ、店がなくなっちまうのかと思った」
「私も心配だったわ」
「店のおっちゃん、今日は元気だったな」
「ええ。よかったわ」
「お前が頑張ったからだろ」
「私だけではないわ。店主さんが諦めずに話してくださったから」
「そういうとこ、エレナらしいよな」
「どういうところ?」
「自分が頑張ったって言わねえところ」
「ラヴィナだって、ずっと一緒にいてくれたじゃない」
「俺は腹減ってただけ」
「ふふ。そういうことにしておくわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
料理が少し落ち着いた頃、ラヴィナはようやく椅子の背に身体を預けた。
「なあ、エレナ。昼間のあの男、急に物分かりよくなったよな」
「そうね。きちんと調べてくださったのだと思いたいわ」
「昨日はあんなに言い張ってたのに?」
「だからこそ、今日もう一度お話しできたことはよかったと思うの」
「……俺だったら、昨日のうちに怒って終わってたな」
「ラヴィナは、店主さんが困っているのを見て怒ってくれたのでしょう?」
「まあ……そうだけど」
「その気持ちは嬉しかったわ。でも、怒っているだけでは解決しないこともあるから」
「お前は怒らねえの?」
エレナは少し考えた。
「怒ることはあるわ。ただ、怒ったままでは見えなくなることもあると思うの」
「そっか」
ラヴィナは残ったパンを手に取った。
「でもさ、相手が最初から話す気なかったらどうすんだ?」
「そのときは、ほかの方法を考えるしかないわね」
「法律とか?」
「それも一つの方法。でも、誰もが同じように法律を使えるわけではないでしょう? 知らない人だっているもの」
「だったら、知ってる奴が教えてやればいいじゃん」
あまりに簡単に言われて、エレナは目を丸くした。
「……そうね」
「何だよ」
「いえ。難しく考えすぎていたのかもしれないわ」
「俺、変なこと言った?」
「いいえ。とても大事なことだと思う」
ラヴィナは照れくさそうに視線をそらした。
「ま、俺には難しい話は分かんねえけどな」
「今日、十分に分かっていたと思うわ」
「そうか?」
「ええ。店主さんのために怒って、最後まで一緒にいてくれたもの」
ラヴィナは答えず、パンをちぎった。さっきまで勢いよく食べていたのに、今は妙に小さく分けている。
エレナはその横顔を見ながら、シャルネの村で初めて言葉を交わした頃を思い出した。互いに知らないことはたくさんある。それでも、同じものを見て笑い、困った人を放っておけない気持ちを分け合える。今夜の食事がこんなにも楽しいのは、料理が美味しいからだけではなかった。
店主が皿を下げに来ると、ラヴィナはすぐに顔を上げた。
「なあ、これ、また食いに来てもいい?」
「もちろん。いつでもお待ちしていますよ」
「やった!」
「ラヴィナ、まだ今日の分も食べ終わっていないでしょう」
「もう次のこと考えたっていいだろ」
店主は声を立てて笑った。その笑い声が店の奥まで届き、エレナもつられて微笑んだ。
食後、店主に礼を言って外へ出る。夜風は涼しく、満腹の身体には心地よかった。
「送ってくよ」
「宿へ戻るのが遅くならない?」
「平気だって。腹いっぱいだし、ちょっと歩きたい」
「それなら、お願いしようかしら」
二人は並んで歩いた。
店を離れても、ラヴィナは何度か振り返った。灯りのついた窓の向こうでは、客が料理を囲んでいる。
「店ってさ、料理がうまけりゃ大丈夫ってわけじゃねえんだな」
「そうね。仕入れる人がいて、運ぶ人がいて、料理を作る人がいて……どこかで困ることが起きると、ほかの人にも影響するのね」
「前に港の話してたときも、そんなこと言ってたよな」
「ええ。私も、実際に見て少しずつ分かってきたの」
「王都じゃ、こういうこと教わらなかったのか?」
エレナは一瞬だけ足を緩めた。ラヴィナは何気なく聞いただけだ。けれど、返す言葉を選ぶ必要があった。
「書物で知ることと、自分の目で見ることは違うわ」
「そりゃそうか」
ラヴィナは深く追及せず、前を向いた。その気軽さに救われることが、エレナには何度もあった。
「法律って、すげえな」
「法律だけではないわ。知っていても、使い方を間違えたら人を苦しめることだってあるもの」
「難しいこと言うなあ。でも、お前が使うなら大丈夫そう」
エレナはすぐに返事をしなかった。
「……そう言ってもらえると、嬉しいわ」
ラヴィナは照れたように鼻を鳴らした。
少し離れたところでは、カイゼルとイリシアが二人を見ていた。距離を保ち、人の流れと建物の陰を利用して歩く。二人が親しいことは、店での会話だけでなく、帰り道の自然な歩調からも分かった。
「ずいぶん仲がいいのね」
イリシアが小さく言った。
「だからこそ、同行者から聞けることがある」
「本人を警戒させないように」
「ああ」
やがてエレナが住まいの近くで足を止めた。
「ここまでで大丈夫。ありがとう、ラヴィナ」
「おう。またな」
「気をつけて帰ってね」
「そっちこそ」
エレナが離れた後、ラヴィナは宿へ向かって歩き出した。
◇
別れてしばらく歩くと、ラヴィナは満腹の腹を軽くさすった。
(やっぱり、食いすぎたかな)
そう思いながらも、後悔はなかった。店主の笑顔も、エレナが料理を口にしたときの嬉しそうな顔も、今夜はよく覚えている。
そのとき、後ろから足音が近づいた。人通りの少なくなった道で、わざわざ自分に声をかけようとする気配がある。
ラヴィナは歩みを止めた。
「少し、お時間をいただけますか」
聞き覚えのある声に、ラヴィナは振り返った。
「……あんた、店に来てた」
「カイゼルと申します。まずは酒場の件でご迷惑をおかけしたことを、お詫びしたくて」
「もう済んだんだろ?」
「ええ。ですが、少し気になることがありまして」
「何だよ」
「先ほど一緒にいらした女性です。どちらで知り合われたのですか?」
ラヴィナの表情が変わった。
「……何で?」
「お名前を教えていただけませんか。おいくつくらいの方なのでしょう」
「本人に聞けば?」
「事情がありまして」
「じゃあ、俺にも事情がある。話すことねえよ」
ラヴィナは歩き出した。
「あの女性が一体何者か分かってて会っているの?」
別の声がした。
振り返ると、女が立っていた。いつ現れたのか分からない。
女は旅人にも町の人間にも見える軽装だった。剣を誇示する騎士のような格好ではない。けれど、その立ち位置だけが妙に不自然だ。
ラヴィナが進もうとした方向には男がいる。振り返れば女がいる。道幅は十分にあるのに、二人の間を抜けるには、どちらかへ背を向けなければならない。
(偶然じゃねえな)
ラヴィナは足を止めたまま、相手の目を見た。
「……誰だよ、お前」
「質問に答えて。あの女性が何者なのか、知っているの?」
「関係ないだろ。友達だからな」
「友達? あなたみたいなどこの馬の骨とも分からない人が?」
ラヴィナの目が細くなった。
「あの女性は、あなたを何と呼んでいたの?」
「さあな」
「さっきは友達だと言ったでしょう?」
「友達のことを、知らねえ奴に教える義理はねえって言ってんだよ」
イリシアは微笑みを消さなかった。ただ、質問の仕方を変えても少女の答えが変わらないことは分かった。
「守ってあげたいのね」
「そういう話じゃねえ」
「なら、なぜ答えないの?」
「お前らが信用できねえからだよ」
ラヴィナは短く言い切った。相手が何を探っているのかは分からない。それでも、エレナが嫌がることを勝手に話すつもりはなかった。
「友達になるのに、身分なんか関係ねえだろ」
女は答えず、ラヴィナの呼吸と視線を観察した。
ラヴィナも二人の立ち位置を見た。男は進む先に、女は後ろ寄りにいる。道を塞ぐつもりなら、どちらからでも動ける。
そして、肌を撫でるような奇妙な感覚があった。
(……精霊力?)
男にも女にも、何かがある。だが、どんな精霊力なのかは分からない。
(何者だ、こいつら。エレナを探してるにしちゃ、妙に町に溶け込んでる。騎士団じゃねえのか?)
「あまり手荒なことはしたくない」
カイゼルの声から柔らかさが消えた。
「質問に答えれば、命だけは保証する」
短剣が抜かれた。
短剣は脅しのためだけに見せられたようには思えなかった。男の手首は余計に力んでいない。刃先の高さも、相手を傷つけるつもりならすぐに動ける位置だ。
(話を聞きたいだけで、そこまでやるかよ)
ラヴィナは腹の底が冷えるのを感じた。今ここでエレナの名前を口にすれば、相手はそれで満足するのか。そうは思えない。名前を聞けば、次は居場所を聞くだろう。何を知っているか分からない相手に、一つだけ教えるという選択はできなかった。
「……おいおい。本気かよ」
ラヴィナは一歩下がった。女の方からも精霊力の気配がする。どちらも逃がすつもりがないらしい。
「だったら、こっちも黙ってるわけにいかねえな」
ラヴィナは背中へ手を回し、隠し持っていた小太刀を抜く。
白い小太刀が夜の光を受けた瞬間、二人の動きが止まった。
イリシアの視線が刀へ吸い寄せられる。
(あれは、……ミスリア製。白月……!)
イリシアは一瞬、呼吸を忘れた。白い小太刀の姿は、見間違えるには特徴的すぎる。だが、その名を口にすれば、少女に自分たちの知識を知らせることになる。
ラヴィナは刀を抜いたとき二人の反応に気づいた。けれど、理由を問い返さない。自分の間合いを確保し、相手が動くのを待っている。
(何故、目の前の少女が持っている?)
イリシアは問いを胸にしまった。いま必要なのは、相手を見誤らないことだ。
彼女はすぐに顔を戻した。ただ、なぜ目の前の少女がそれを持っているのか。考えるべきことが、また一つ増えたのは事実だった。
「もう一つ質問ができた」
カイゼルが言った。
「おまえはそれをどこで手に入れた?」
「……答えると思うか?」
「子供が持っていいものではないことを教えてやる」
「だったら、やってみろよ」
ラヴィナは切っ先をわずかに下げ、二人の動きを視界に収めた。
先に動いたのはカイゼルだった。
ラヴィナは足を開きすぎず、肩から力を抜いた。相手の短剣は白月より短い。正面から来るなら間合いはこちらにある。だが二人目がいる以上、男を追いすぎるわけにはいかない。
(来いよ。どっちからでも)
カイゼルの目線が右へ流れた。肩もそちらへ傾く。しかし踏み込む足は別の方向を向いている。
ラヴィナは刃ではなく、その足を見た。
次の瞬間、カイゼルが踏み込んだ。 次の瞬間、カイゼルが踏み込んだ。
短剣の突きは真っすぐだった。しかし身体は暗がりへ寄り、視線だけが別の方向を示している。
(そっちじゃねえ!)
ラヴィナは足の運びを見て、白月の角度を変えた。刃と刃が短く触れる。突きを外側へ流され、カイゼルの肩がわずかに開いた。
「っ……!」
カイゼルは無理に押し込まず、すぐ距離を取った。
(速い。いや、見切られたのか)
ラヴィナは追わなかった。男だけを見れば、女に背を向けることになる。
「そんなに聞きてえなら、本人に聞けって言っただろ」
「それができれば苦労しない」
「じゃあ諦めろよ」
カイゼルの足がまた動いた。今度は視線を誘うように身体を揺らし、別の角度から短剣を差し込む。ラヴィナは刃の軌道を見極め、手首を返して受け流した。
その隙をイリシアが狙った。
風が頬をかすめる。先ほどまで離れていたはずの女が側面へ迫っていた。
(速っ!)
ラヴィナは腰を落とし、白月を身体の近くで返した。短剣が小太刀に触れ、イリシアの攻撃は逸れる。
「……この子」
イリシアが思わず呟いた。
二人で挟んでいる。それなのに、少女はどちらの刃も追いかけすぎない。正面の相手を受け流しながら、横から来る攻撃のための間合いを残している。
カイゼルはもう一度踏み込んだ。ラヴィナは白月で短剣を受け、相手の力の向きを変える。逆波。ぶつかって止めるのではなく、押してくる勢いを外し、その流れを返す。
短剣の切っ先が空を切り、カイゼルの身体が半歩流れた。
「……冗談だろ」
彼は息を整えた。
カイゼルは、今の一合を頭の中でなぞった。短剣を弾かれたのではない。押し込んだ力をわずかに外され、体勢を立て直すまでの時間を奪われた。力で競り合った覚えはなかった。
「まだ本気を出していない、という顔じゃないわね」
イリシアの声が低い。
「お前にはどう見える?」
「こちらの動きに反応しているだけじゃない。次にどこへ動けるかまで残している。正面だけを見ていないのよ」
「年齢を考えると、信じがたいな」
「年齢で測るのはやめましょう」
ラヴィナは二人の短い会話を聞きながら、少しだけ息を吐いた。褒められているようでも、嬉しくはない。二人はまだ自分を逃がす気がないのだ。
「剣術だけなら、俺たちより上か」
「認めた方がよさそうね」
イリシアはラヴィナの足元を見た。力任せの攻撃ではない。何度も繰り返した身体の動きが、考えるより先に形になっている。
ラヴィナにも余裕はなかった。男の動きは妙に読みづらく、女の踏み込みは予想より速い。精霊力の気配は感じるのに、何を使っているのか分からない。
(くそっ。二人とも、変な動きしやがる)
それでも剣先だけは見失わない。自分の得意な間合いを保てば、短剣の二人に容易には懐へ入らせない。
カイゼルは建物の陰を利用し、イリシアは風の補助で素早く角度を変える。二人とも蓄積した精霊力を使っていた。目に見える大技を放つのではなく、足運びや接近の一瞬に力を重ねる。
最初の数合で、ラヴィナは二人の厄介さを理解していた。
カイゼルは攻撃の瞬間にだけ身体を暗がりへ寄せ、視線を誘う。姿が消えるわけではないのに、刃の出所が一瞬つかみにくい。イリシアはさらに厄介だった。こちらが男を受け流した直後、ほんの短い隙を狙って側面へ入ってくる。
(剣の腕は、こっちが上だ)
それは分かる。短剣の切っ先を受けた感触、重心の動き、押し返す力。どれも白月で制御できる範囲だった。
(でも、あいつらは二人で一つみてえに動く)
ラヴィナは不用意に追い込まない。カイゼルが退いたからといって前へ出れば、イリシアの刃が届く。イリシアの踏み込みを外しても、その方向へ身体を流しすぎれば男が戻ってくる。
相手を倒すだけなら、もっと強く打ち込める場面はあった。だが、刃を深く入れれば自分も止まる。今欲しいのは勝負の決着ではない。
「さっきから、何を考えてる?」
カイゼルが間合いの外から尋ねた。
「お前らが邪魔だってことだよ」
「質問に答えれば終わる」
「終わるって、誰が決めたんだ?」
カイゼルの眉が動いた。
「あいつのことを教えたら、次は何を聞く? どこに住んでるか? 誰と会ってるか?」
「……名前を聞いただけだ」
「だったら、こんなもん抜くなよ」
ラヴィナは白月を軽く上げた。短剣を向けたのは向こうだ。何度問われても、その事実は変わらない。
イリシアは二人のやり取りを聞きながら、ラヴィナの顔を観察していた。強がりだけではない。自分たちが何を望むか分からないから、答えない。そういう判断をしている。
そして、その判断を実行できるだけの腕がある。
カイゼルが再び近づく。イリシアも反対側から足を進めた。ラヴィナは一度下がると見せて、逆に半歩踏み込んだ。カイゼルの短剣を外へ流し、そのまま刃の向きを変えてイリシアの進路を塞ぐ。
金属が短く鳴った。
「くっ……!」
イリシアが体勢を立て直す。風の補助で退いたはずが、白月の切っ先はなお自分の前にあった。
(速さだけでは崩せない)
イリシアはそこで初めて、ラヴィナの剣が自分たちの動きに合わせて変わっているのではなく、動ける場所そのものを狭めていることに気づいた。
カイゼルも同じことを感じていた。二人がかりなら押し切れると考えた最初の見立ては、もう捨てるべきだった。
ラヴィナは退路を探した。
(こいつらを倒す必要はねえ。エレナのことを聞き出したいだけなら、ここに残る方が危ねえ)
だが、すぐに背を向ければ追われる。まず二人の間を開かせなければならない。
ラヴィナは蓄積したフィレナの力を使った。足に力が集まり、踏み込みが一瞬鋭くなる。まだ慣れない使い方で、身体が思ったより前へ出た。
(……っと!)
それでも白月の軌道は乱さない。カイゼルの短剣を横へ払い、追撃しようとしたイリシアの刃を受け流す。
イリシアの目が細くなった。
イリシアはラヴィナの踏み込みが変わった瞬間を見逃さなかった。さっきまでは足と腰の使い方だけで二人の攻撃を外していた。今はその動きに、別の力が加わっている。
ただ速くなったのではない。流れに沿って身体が運ばれるような、一瞬の伸びがある。その直後、わずかに制御を修正したことも見えた。
(蓄積型……でも、まだ慣れていない)
イリシアは確かめるように一歩動いた。ラヴィナが白月を返し、追撃の線を塞ぐ。剣の正確さは変わらない。違うのは、足元の力の使い方だけだった。
「……水か」
「フィレナか?」
カイゼルもラヴィナの踏み込みを見ていた。
「おそらくね。まだ使い慣れてはいないみたいだけれど」
(……こいつら、俺の精霊力が分かるのか?)
ラヴィナは驚いた。相手の精霊力は感じられるのに、属性さえ見当がつかない。だが、問い返している暇はなかった。
カイゼルが短剣を突き出す。ラヴィナは白月で受け流し、相手の踏み込みを外側へ返した。イリシアがすかさず横へ回るが、ラヴィナは足を引くのではなく半身になって刃を逸らす。
金属音が夜道に響いた。
カイゼルの短剣が大きく弾かれた。続いてイリシアも後退する。
「二人がかりでも、簡単には捕まえられないわね」
「精霊力は未熟でも、剣が別物だ」
ラヴィナは荒くなりかけた呼吸を整えた。力を使い続ければ、こちらが先に消耗する。二人を倒すことにこだわれば、逃げる機会を失う。
(今だ)
カイゼルが体勢を戻し、イリシアがその動きに合わせようとした瞬間、二人の間にわずかなずれが生まれた。
ラヴィナは白月を返し、カイゼルの短剣を押し出す。相手の視線が刀へ寄ったところで、踏み込む方向を変えた。フィレナの補助を短く使い、二人の間合いの外へ抜ける。
カイゼルは追いかけようとして、すぐに足を止めかけた。ラヴィナの逃げ足は速い。それ以上に、今の突破は偶然ではなかった。二人の間が開くのを待ち、短い一歩だけ精霊力を使い、最も安全な方向へ抜けたのだ。
深追いすれば人目につく。無理に捕らえようとすれば、こちらも傷を負うかもしれない。
それでもカイゼルには、白月のことを問いただせなかった悔しさが残っていた。
「待て!」
カイゼルが追おうとした。
「やめて」
イリシアが制した。
「このまま追えば、こちらが何者か知られる危険が大きくなる。これ以上、目立つべきではないわ」
「……逃がすのか」
「もう逃げられたのよ」
カイゼルは悔しそうに息を吐いた。
ラヴィナの姿はすでに遠ざかっていた。二人を倒したわけではない。だが、二人が望んだ情報は何一つ渡さず、その場から離脱した。
「白月を持っていたわ」
イリシアが静かに言った。
「ああ。どこで手に入れたのかも分からない」
「それに、あの剣術。普通の少女とは思えない」
カイゼルは夜道の先を見た。
「王女らしき女性と、あの小太刀を持つ少女……か」
確かめるべきことが増えた。それでも、今夜はもう追えない。
ラヴィナは足を止めずに走っていた。
(何者だよ、あいつら……)
背中の白月の重さを確かめる。相手が何を知っているのか、どうしてこの刀のことを尋ねたのか、分からない。
だが、一つだけははっきりしていた。
(エレナのことは、絶対に話さねえ)
さっきまで二人で笑っていた夜の道が、今はまるで違って見えた。




