第31話 理不尽な契約
ヴァレスタの通りを歩きながら、ラヴィナは昨夜の料理の話をしていた。
「もう一皿食えばよかったな、あの肉」
「二皿も食べたでしょう?」
「二皿食べたから、もう一皿欲しくなったんだよ」
エレナが笑う。港から潮風が吹き、荷車が石畳を鳴らして通り過ぎた。
港から吹く風に、荷車の軋む音と人々の呼び声が混じっていた。エレナは通りの端に積まれた木箱を見た。昨日は気にも留めなかった荷物にも、送り出す人と受け取る人がいる。港で聞いた話を思い出すと、街の賑わいが少し違って見えた。
「なあ、昨日の店、今日も寄らないか?」
「もうお腹が空いたの?」
「違うって。いや、空いてないこともないけどさ」
「ふふ。ラヴィナったら」
「だって、あんなに美味いもの、そうそう食えないだろ」
エレナは頷いた。昨日の温かな料理と、皿を運ぶ店主の気遣いを思い出した。その一方で、店先で商人と言い争っていたときの険しい表情も忘れられない。楽しい食事の時間と、店を支える人の苦労は、同じ場所にあった。
「それにしても、昨日の店主さん、困っていたわね」
「商人と言い合ってたやつか。あいつ、同じことばっか言ってたな」
「事情があるのかもしれないけれど、店主さんは納得できていないようだったわ」
「じゃあ聞いてみようぜ」
「いきなり尋ねたら失礼でしょう?」
「困ってるのに誰も聞かない方が嫌じゃねえ?」
エレナは返事を探した。ラヴィナは人の事情を細かく考えるより、まず相手の顔を見て話そうとする。時には危なっかしいが、その率直さに救われることもあった。
「もちろん、話したくなければ無理に聞かないわ」
「それでいいじゃん」
通りの向こうでは、荷を運ぶ人々が互いに道を譲っていた。大きな荷を抱えた者が立ち止まると、別の者が手を貸す。誰もが自分の仕事で忙しいはずなのに、誰かが困っていれば少しだけ足を止める。
エレナはその光景を見つめた。王城で読んだ書物には、商いと暮らしを支える仕組みが整然と記されていた。けれど、街で見えるのは、仕組みを動かしている人の手と表情だった。
「エレナ、また考え込んでる」
「そんなに分かる?」
「分かるって。さっきから同じ木箱見てるし」
思わず笑ってしまった。確かに目の前の木箱ばかり眺めていた。
「昨日のお料理が美味しかったから、また行きたいのは本当よ」
「だろ? あの肉、もう一皿……」
「それはさっき聞いたわ」
「何回言っても美味かったんだって!」
二人の笑い声は、通りのざわめきに溶けた。
昨日の食事処の前で、二人は足を止めた。店主が帳面を持ったまま、浮かない顔で立っていた。
「昨日のお客様じゃありませんか」
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「俺、また食べに来るから!」
店主は笑ったが、その笑顔はすぐに消えた。
「また来ていただけるよう、店を続けないといけませんね」
エレナは昨日の口論を思い出した。
「何か、お困りのことがあるのですか?お忙しいなら、無理にお話しいただかなくても」
「いえ。お二人には昨日も良くしていただきましたから」
「良くしてもらったのは俺たちだろ。美味い飯、食わせてもらったし」
ラヴィナの言葉に店主がかすかに笑った。店内は昨夜の賑わいが嘘のように静かだった。椅子を整えた卓、磨かれた食器、奥から漂う煮込みの匂い。これらを毎日守るために、店主は働いている。
エレナは勧められた席に腰を下ろした。話を聞くと決めた以上、軽い慰めだけで済ませたくはなかった。
店主はためらった末、二人を中へ招いた。
◇
「酒の仕入れが、急に変わりましてね」
店主は帳面を開いた。卸商人によれば以前の供給会社が潰れ、別の高価な酒しか入らなくなったという。
「そんな値段で仕入れたら、客に出す値段も上げなければなりません。でも、うちは気軽に飲んでもらえる店でいたい。だから契約を終えたいと言ったら、違約金を払えと」
ラヴィナの声に店主は苦笑した。
「お気持ちはありがたいんですが、商人にも商人の事情があるんでしょう。酒が入らなくなったのなら、代わりを探すのも仕事ですから」
「でも、あんたが困ってるじゃん」
「困っているのは確かです。今まで来てくださった方に、急に高い酒を勧めるわけにはいきませんしね」
「昨日の料理、また食べたいんし、店がなくなるなんて嫌だな」
「……ありがとうございます」
店主の声が低くなった。エレナは卓の上の帳面を見つめた。角のすり減った紙には、材料や酒の仕入れが丁寧に記されている。店主にとっては一つひとつが毎日の暮らしそのものなのだ。
「お酒の値段が上がった分を、料理の売上で補うことは難しいのですか?」
「材料を減らせば、昨日召し上がったような料理は出せなくなります。それでは、この店を続ける意味がありません」
エレナは言葉を失った。美味しかったと褒めた料理を、店主自身が守ろうとしている。その願いを、金額だけで片づけてよいはずがなかった。
「なんだよ、それ!」
ラヴィナが声を上げた。
「うちに来るお客さんは、何か特別なものを求めているわけじゃないんです」
店主は帳面の端を撫でた。
「仕事を終えて、いつもの酒を飲み、少し食べて帰る。それで明日も頑張ろうと思ってくださる方がいる。私は、そういう店を続けたい」
「昨日もみんな楽しそうだったもんな」
「ええ。だから酒を急に高くするのは、できれば避けたいんです」
「お料理の値段を変えるのは?」
エレナが尋ねると、店主は首を振った。
「料理の材料を削れば、昨日お二人が喜んでくださった味ではなくなります。酒の損を料理で補うのも、いつまでもできることではありません」
昨日の皿を思い出す。温かな料理の香りと、ラヴィナが勢いよく食べる姿。あの時間は、店主が何度も考えて仕入れを整え、働いているからこそ生まれたものだった。
「契約を終えると伝えたら、違約金を求められたのですね」
「そうです。金額を聞いて、何も言えなくなりました。仕入れを続けても苦しい。やめても苦しい。どちらを選べと言われても……」
言葉が途切れた。店主は怒っているというより、選べる道がなくなったことに疲れているように見えた。
「昨日はごちそうになったんだ。俺に何かできるなら言ってくれよ」
「お気持ちだけでもありがたいですよ」
エレナはラヴィナの横顔を見た。今の自分たちにできることは、まだ分からない。けれど、分からないまま終わらせたくなかった。
「最初からそのお酒を買うお約束でしたか?」
エレナが尋ねる。
「いいえ。今までの酒を、決まった値段で届けてもらう約束でした」
「新しい条件に同意したことは?」
「ありません」
「でしたら、契約書を見せていただけますか」
店主の姿が奥に消えると、ラヴィナが身を寄せた。
「なあ、エレナ。これって、どうにかなるのか?」
「まだ分からないわ」
「俺だったら商人に文句を言うけどな」
「そうしたくなる気持ちは分かるわ。でも、相手が約束を守っているのかどうか、先に確かめたいの」
「怒ってないのか?」
「怒っていないわけじゃないのよ。ただ、怒っただけでは店主さんは助からないでしょう?」
ラヴィナは少し考え、頷いた。
「剣と似てるな。むやみに振ったって当たらない」
「そうかしら」
「相手がどう動くか見ないと、こっちが困るんだよ」
エレナは小さく笑った。王族の教育で叩き込まれた法律が、こんな場所で誰かの役に立つかもしれない。そう考えると、今まで学んだ文字の一つひとつが急に重みを帯びた。
店主は驚いたが、奥から書面を持ってきた。
エレナは酒の種類、価格、供給条件を順に読み、ある一行で指を止めた。
「条件の変更には、双方の合意が必要と書かれていますよ」
「この契約を結んだときは、どのお酒を、どの値段で受け取るか、決めていらしたのですね」
「ええ。客が慣れ親しんだ酒でしたから」
「それが変わると聞いて、承諾しましたか?」
「いいえ。高すぎると言いました。考えさせてほしいとも」
「新しい契約書に署名したことは?」
「ありません」
エレナは指先で該当する行を示した。酒の種類も価格も供給条件も書かれている。読み慣れない人にはただ難しい言葉が並んでいるように見えるかもしれないが、そこには双方が守るべき約束がある。
「でしたら、ここが大切です。変更するには、お互いの合意が必要とあります」
「……私は署名した以上、商人の言うことを聞くしかないと思っていました」
「署名は、書かれた約束を守るためのものです。書かれていない条件まで、一方的に受け入れるためのものではありません」
店主は契約書を見つめた。何度も読んだはずの紙が、初めて別の意味を持ったかのようだった。
エレナは契約書を急いで読み終えようとはしなかった。酒の種類が記された行へ戻り、次に価格、供給条件の順に確かめた。
「この書面を交わしたとき、別のお酒に替わる可能性について説明はありましたか?」
「ありませんでした」
「新しい条件を承諾したという書面は?」
「作っていません」
「口頭でも、買うと約束しましたか?」
「いいえ。高すぎるので考えさせてほしいと」
エレナは頷いた。今は店主の話だけだ。相手に確認しなければ、事実として決めつけることはできない。
「この部分は、相手の方にも同じように尋ねましょう」
「私の言葉を信じてくださらないのですか」
店主の声に、わずかな傷つきがあった。
「いいえ。店主さんを疑っているのではありません。ただ、相手の方にも言い分があるかもしれません。両方を聞いて初めて、どこで約束が食い違ったのか分かると思うんです」
「……そういうものですか」
「はい。私は店主さんを助けたい。でも、助けたいからという理由で、確かめずに結論を出してしまうのは違うと思います」
店主はしばらく黙り、やがて深く頷いた。
「では、お願いします」
その返答に、エレナは胸の奥が引き締まるのを感じた。頼まれた以上、都合のよい答えだけを示すわけにはいかない。
さらに別の箇所を示す。
「違約金が発生するのは『正当な理由なく』途中解約した場合です」
「途中でやめたら払うってことじゃねえの?」
「いつでも、ではないわ。店主さんがやめたいと言ったのは、相手から違う品を違う値段で買うよう求められたからでしょう?」
「そうです」
「契約を守る義務は、どちらにもあるはずです。代わりのお酒を用意したからといって、店主さんが新しい条件を受け入れたことにはなりません」
店主は何度も契約書を見直した。
「署名した以上、何を言われても払うものだと思っていました」
「まだ払わなくてよいと決まったわけではありません。相手の説明も、取引の記録も確認しなければ」
「……ありがとうございます」
ラヴィナが感心したように言った。
「エレナ、すげえな。俺だったら文句言って終わりだ」
「それでは店主さんが困ったままでしょう?」
エレナは書面を丁寧に戻した。
◇
同じ酒でも、飲む者と売る者と運ぶ者では、見えているものが違う。
カイゼルにとって酒は、流通を通じて人と人を結び、活動に必要な資金を得るための手段でもあった。供給元が誰と取引するかは、その後の商人の選択を左右する。
従来の供給会社へ大口顧客を紹介したのは、強引に契約を破らせるためではない。会社自身が、より多く買ってくれる相手を選ぶようにしたのだ。結果として、以前から取引していたヴァレスタの卸商人には酒が回らなくなった。
そこで別の流通経路を示す。困っていた商人にとっては、新しい仕入れ先が見つかったことになる。
もっとも、カイゼルはその過程で事実を曲げた。以前の会社は潰れた、と卸商人に告げたのである。実は会社は今も取引を続けている。廃業したわけではない。
嘘が必要だったかどうかを、今さら考えても仕方がない。だが、その嘘が確認されれば、説明を変えなければならない。カイゼルは記録を見ながら、どこまで話せるかを頭の中で整理していた。
カイゼルは、酒の取引記録を見ていた。
従来の供給会社は廃業していない。彼が紹介した大口顧客との取引を優先し、卸商人への供給を終えただけだった。そして、ヴァレスタの卸商人からトラブルが起きているとカイゼルに連絡があった。
「卸商人には、潰れたと説明したのね」
イリシアが言った。
「ああ。それで別の経路を必要とするようになった」
クロイツ家経由のクレザンディル産高級酒を流通させれば、ヴァレスタ方面での活動資金を確保できる。商人との接点は、街の人と物の動きを知るためにも役立つ。そして、アランとエレナの情報にたどり着くという考えがその先にあった。
「でも、店主への違約金請求は私たちの指示ではないわ」
「卸商人が自分で判断したことだ」
「揉め事が大きくなれば、仕入れ元まで調べられるかもしれない」
「だから、私も店へ行く。条件を説明しておこう」
「揉め事が大きくなれば、仕入れ元まで調べられるわ」
イリシアは声を低めた。
「分かっている」
「利益が出るのは結構。でも、情報を集める場所を自分たちで騒がせるのは得策じゃない」
「店主への違約金請求は卸商人の判断だ」
「それでも、あなたが同行すれば無関係とは見られないでしょうね」
カイゼルは反論しなかった。イリシアは相手を責めているのではない。危険を正確に数え上げているだけだ。
「王女と護衛の件は?」
「確かな情報はまだないわ。だからこそ、商人たちとのつながりを増やしているんでしょう」
「そうだな」
「焦らないことね。こちらが探していると知られれば、情報の価値も変わってしまう」
カイゼルは頷いた。人を探す仕事と商いは別々に見えるが、どちらも相手の言葉を聞き、何を隠しているかを見極める必要がある。取引の利益だけでなく、街の人の行き来や噂を知ることができる。それが、この流通経路を確保する意味だった。
「まずは店の話を収めてくる」
「あなた自身が話を大きくしないようにね」
「承知している」
イリシアはそれ以上言わなかった。
カイゼルは書類鞄を肩に掛けた。ただ、この時探している王女につながる手掛かりを見つけるとは、まだ考えていなかった。
◇
店の入口が開き、通りのざわめきが流れ込む。店主は顔を上げた瞬間、手元の帳面を閉じようとした。だがエレナが書面を見ていることを思い出したのか、動きを止めた。
ラヴィナは店主の変化に気づき、椅子から身を起こす。
「またあいつか」
「ラヴィナ、まだ何も言われていないわ」
「分かってる。でも昨日のことがあるだろ」
エレナも覚えている。昨日の口論では、店主がいつもの酒を求め、商人は以前の業者が潰れたのだと繰り返していた。今日は契約書がある。昨日とは違い、確かめられることがある。
それでも、エレナは一度口を閉じた。自分が勝手に前へ出てしまえば、店主の取引に余計な混乱を招くかもしれない。
「店主さん、私から少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
店主は驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「お願いします。ただ、無理はなさらないでください」
「はい。分からないことは、分からないとお伝えします」
その言葉を口にしてから、エレナは背筋を伸ばした。王城では、正しい答えを求められることが多かった。ここでは正しい答えを知っているかどうかよりも、答えを出すまでの道筋が問われる。相手の話を聞かずに自分の知識だけを並べても、店主は救えない。
店主の手が帳面の上で止まっていた。エレナはその手を見て、もう一度静かに頷いた。
卸商人が若い男と一緒に店に入ってきた。
「店主、返事をもらおう。高い酒を仕入れるか、違約金を払うかだ」
「いや、その金額では……」
ラヴィナが踏み出しかける。エレナは袖を軽く引き、店主の了承を得て口を開いた。
「契約について、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
同行者のカイゼルが頷いた。
「私は新しい仕入れ経路を説明する立場です。どうぞ」
「以前の供給会社が廃業したので、代わりの酒を用意したというお話ですね」
「ええ。品質のよい酒です。仕入れ値が上がるのは避けられません」
「事情が変わったことは分かります。でも、代わりのお酒を用意したことと、約束したお酒を届けたことは同じでしょうか」
「供給を続けるための対応です」
「そのご努力は分かります。ただ、契約には種類と価格が明記されています。変更には双方の合意が必要とも。店主さんは、新しい条件を承諾しましたか?」
「していません」
店主が答えた。
卸商人は苛立った。
「だが、店をやめると言ったのはそっちだろう!」
「契約を終えたいと申し出たのは店主さんです。でも、違約金の条件は『正当な理由なく』とあります」
エレナは書面を指した。
「約束と違うお酒を、違う値段で買わなければならなくなった。そのために解約を望んだのなら、理由のない解約だと、どうして決められるのでしょう?」
エレナは声を荒らげなかった。むしろ一つ答えを得るたびに、次の問いを丁寧に選んだ。
「解約を申し出たのは店主さんです。そこは間違いありません。でも、その理由を確かめないまま違約金を請求することはできるのでしょうか」
「契約を終わらせたいと言ったのは向こうだ」
卸商人が言う。
「ええ。ですが、こちらには『正当な理由なく』と書かれています」
「だから何だ」
「最初に約束したお酒を、約束した値段で届けられない。その事情が先にあるのなら、店主さんの申し出を理由のない解約とは呼べないのではありませんか」
商人が口を開きかけたが、エレナは遮らずに待った。相手の答えを聞く姿勢を崩さないことが、かえって問いの重みを増していた。
ラヴィナは思わず拳を握り、すぐに解いた。ここで自分が怒鳴れば、エレナが積み上げた話を壊してしまう。剣を抜かないと決めることも、ときには我慢が必要だった。
「では、逆にお尋ねします」
エレナは契約書の一節を示した。
「この契約で、店主さんは何を買うと約束されたのでしょうか」
「酒です」
卸商人が答える。
「どんなお酒でもよい、という約束ですか?」
「そんなわけがない。種類も決まっている」
「では、今回ご用意されたお酒は、同じ種類で、同じ価格ですか?」
「それは……仕入れの事情が違うからな」
「そうですね。事情が変わったことは伺いました。でも、それでは最初の約束とは違いますよね」
卸商人は眉をひそめた。
「何度言わせるんだ。以前の酒は入らない。だから代わりを用意した」
「代わりを探してくださったことまで否定するつもりはありません」
エレナはゆっくり答えた。
「ただ、代わりを用意したことと、店主さんがそれを買うと約束したことは別だと思うんです」
「商売はそんなに単純じゃない」
「ええ。ですから、お話を伺っています」
カイゼルは黙って二人のやり取りを見ていた。少女の答え方には、相手を怒らせないためだけの遠慮がない。商売の難しさを認めたうえで、約束の中身へ戻してくる。
「もし代わりの品を用意するだけで、相手が買う義務まで生まれるのなら、最初に酒の種類や価格を決めた意味がなくなりませんか?」
店主が顔を上げた。
「確かに……私はその酒を、その値段で買うから契約したんです」
「そういうことです。店主さんが勝手に買う品を変えたわけではありません」
「だが、供給会社がなくなったんだ」
カイゼルが初めて前へ出た。
「こちらとしても、取引を継続するために代替品を手配しています。店主がそれを受け入れなければ、継続が難しくなるのは当然でしょう」
「継続が難しくなることは理解できます」
エレナは頷く。
「でも、だからといって、店主さんが理由もなく約束を破ったことになるのでしょうか」
カイゼルはすぐには答えなかった。彼女は一歩も論点を動かしていない。商人が何度説明を重ねても、契約書の文字へ話を戻してしまう。
ラヴィナは口を挟みかけて、思いとどまった。店主が不安そうにしているのが見える。怒鳴って商人を追い払えば、一時的にはすっきりするだろう。だが違約金の話は残る。
(今はエレナに任せよう)
そう決めて、ラヴィナは黙って見守った。
カイゼルは書面を見た。
「供給会社の廃業は、こちらの責任ではありません」
「では、その会社が廃業したことを確認できる記録はありますか?」
一瞬、返答が止まった。
廃業していないことを、カイゼルは知っていた。
「……今は持参していません」
「でしたら、確認が必要ですね。条件変更の理由となる大切な事実ですから」
嘘だと断定はしない。けれど、根拠を一つずつ確かめようとするエレナに、曖昧な説明は通じなかった。
「それから、もう一つ」
エレナは顔を上げた。
「以前の供給会社が廃業したことを、店主さんにも確かめられる資料はありますか?」
「それは……」
カイゼルの答えが遅れた。廃業は事実ではない。大口顧客への取引を優先するようになっただけだ。少女は何も知らないはずなのに、最も答えにくい場所へ手を伸ばしてくる。
「今は持ち合わせていません」
「では、後で確かめていただけますか。廃業が条件変更の理由になっているのでしたら、とても大切なことですから」
「それを確かめて、何が変わるというのです」
「本当に廃業しているのなら、その事情を踏まえて考える必要があります。でも、確かめないまま店主さんに不利な条件を求めるのは、公平ではないと思います」
エレナは嘘だと決めつけない。裁く立場にも立とうとしない。ただ確かめることを求める。その慎重さが、カイゼルには厄介だった。
カイゼルは考えを整理した。仕入れ先が失われた事情を強調すれば、商人の立場を理解させられるかもしれない。しかし、少女は事情を否定していない。問題にしているのは、その事情によって誰が何を負担するかだった。
「供給元が失われたことまで、卸商人の責任だとおっしゃるのですか?」
「いいえ。そこまで申し上げてはいません」
エレナは静かに首を振る。
「では、何を問題にされている?」
「店主さんが、正当な理由なく契約を破ったとされていることです」
「店主は取引を終えたいと申し出た」
「はい。ですが、その前に、約束した条件で酒を届けられなくなったと告げられています」
エレナは一度言葉を止め、店主へ目を向けた。
「店主さん、違っていたら教えてください」
「いいえ、そのとおりです」
「では、少なくとも解約の理由がないとは言えませんよね」
カイゼルは契約書へ視線を落とした。『正当な理由なく』という短い文言が、ここでは大きな意味を持っていた。
「契約書の解釈には、取引の実情も考える必要があります」
「私もそう思います」
エレナは同意した。
「ですから、以前の会社が本当に廃業したのか、どういう事情で代わりのお酒が必要になったのか、確かめたいんです」
「そのような資料が今すぐ出せるとは限りません」
「もちろんです。今すぐ結論を出してほしいわけではありません。ただ、確かめる前に店主さんへ違約金を求めるのは、早すぎませんか?」
答えを急ぐほど、自分たちの説明に不足があることを認める形になる。カイゼルはその危うさを理解した。
卸商人が苛立って息を吐く。
「そんなことを言っていたら、いつまでも商売が進まない」
「進めるためにも、約束を確かめる必要があるのではないでしょうか」
少女の声は変わらない。カイゼルはそこに、相手を負かしたいという欲を感じなかった。だからこそ、引き下がらせるための言葉が見つかりにくい。
「随分、論理的に事実の確認に迫るお話をされる」
「何か問題があったときは事実の確認から始めるのが基本です。例え、それが何年もかかろうと、事実が見えない間は簡単に決断は出せません」
エレナはそれ以上答えなかった。
すると一瞬、ラヴィナにはエレナが何かを自分に重ねているように見えた。
◇
「ちなみに、実際に卸す予定のお酒を、見せていただけますか?」
「酒を見たところで値段は変わらないぞ」
「それは承知しています。でも、どのような品なのか知りたいんです」
エレナは勝手に栓へ触れず、容器の外観を確かめた。王城では遠方の産物について書物で学んだことがある。しかし、目の前の酒が誰の手を経て届いたのかは、見ただけでは分からない。
だからこそ、まず産地を尋ねることにした。
カイゼルは、酒を見せてほしいという求めを意外に思った。契約の文言を争っていた少女が、今度は商品そのものを確かめようとしている。
「酒を見れば、何か分かるのですか?」
「分かることと、分からないことがあります」
「では、何を確かめたいのでしょう」
「新しいお酒が、どのようなものかです。値段が高い理由を理解しないまま、店主さんにとって不利だと決めつけたくありません」
カイゼルはわずかに目を細めた。高いから悪い、とは言わない。少女は商人側に有利になり得る事情さえ、確かめようとしている。
店主も驚いた様子だった。
「私は高いから困るとしか考えていませんでした」
「店主さんが困っていることは、変わりません。でも、なぜ高いのか分かれば、話し合うべきことも見えてくるかもしれません」
「……なるほど」
ラヴィナは卓を覗き込んだ。
「酒の種類なんて、俺にはさっぱりだけどな」
「私だって、全部分かるわけではないわ」
「でも、何か気づいたんだろ?」
「見てから確かめたいの」
エレナは穏やかに答えた。ラヴィナはそれ以上尋ねなかった。
商人が酒を卓に置いた。エレナは容器を眺め、静かに尋ねた。
「このお酒はクレザンディル産ですか?」
「よくご存じですね」
カイゼルが答える。
「外国産の高級酒です。だから仕入れ値も卸値も高い」
「そうなのですね。では、このお酒を仕入れているのは、貴族様ではありませんか?では、このお酒がここへ届くまでの取引先を、確かめることはできますね」
「外国からの品だ。何人もの商人を経ている」
「ええ。港で受け取る方も、倉庫へ運ぶ方もいらっしゃるでしょう。だからこそ、どなたが仕入れを行い、どなたが店主さんに卸す条件を決めたのか、分けて考えたいんです」
ラヴィナはエレナを見た。昨日まで二人で話していた港の仕事が、今は契約書の文字とつながっている。王女として学んだことだけではない。街で聞いた人々の声も、エレナの言葉を支えていた。
「そのようなことはありません」
「でしたら、仕入れ会社を調べれば確認できますね」
カイゼルの返答がわずかに遅れた。
「貴族様が仕入れたら、いけないんですか?」
店主が尋ねる。
「すべてがいけないわけではありません。ただし、貴族が仕入れた高額商品を個人商店へ卸すときは、条件によって王都審査の承認が必要です」
エレナは空いた卓を見た。
「高価な品を店が買わされれば、売る値段も上がります。いつものお客さんが買えなくなれば、店の経営も、そこで暮らす人たちの生活も苦しくなる。だからそうならないように、王国法にはっきりと審査が設けられています」
「もし、審査を受けていなかったら?」
「対象となる取引を無承認で行った貴族には、爵位の永久剥奪という重大な処分が定められています」
「そんな重い決まりがあるのか……」
ラヴィナが呟く。
「すべての高い品が悪いわけではありません」
エレナは静かに説明した。
「力のある貴族が高価な商品を仕入れ、小さなお店に断りにくい条件で卸したらどうなりますか。店は値段を上げざるを得なくなる。いつものお客さんが買えなくなれば、店主さんだけでなく、そこへ通う人たちの暮らしにも影響が出るでしょう」
「昨日の飯と一緒に酒を飲んでた客も、来なくなるかもしれないってことか」
「ええ。だから、一定の条件では王都の審査が必要です」
店主は空いた卓を見た。そこに昨日の客の姿を思い浮かべたのかもしれない。
「もちろん、今回の取引がその条件に当たると決まったわけではありません。まず、事実を確かめなければ」
エレナはそう付け加えた。誰かを罰するためではない。店主が自分の店を続けられるよう、約束の意味を明らかにしたかった。
カイゼルはその説明を聞きながら、視線を動かさなかった。
貴族の関与を否定した以上、次に問われるのは調達元だ。少女は、貴族が関与していると断定していない。むしろ、関与していないなら調べれば分かると言っている。正面から反論するほど、確認を拒む理由が必要になってしまう。
「高級な輸入酒であること自体が、問題だとお考えですか?」
「いいえ」
エレナは即座に答えた。
「高価でも、その品を望む方が納得して買うのであれば、それは別の話だと思います」
「では、商人が高級酒を用意したことも、責められるべきではありませんね」
「用意したことだけを責めるつもりはありません。でも、店主さんが望んでいない品を、以前の契約を理由に買わせることは別です」
「……なるほど」
「それに、もし仕入れに貴族様が関わっているなら、王都審査が必要となる条件に当たるかどうかも確かめなければなりません」
「その前提は、まだ確認されていません」
「ですから、確認をお願いしているんです」
返答が途切れた。
相手の推測を否定しても、調査の必要性までは否定できない。カイゼルは、議論を続けるほど自分たちの仕入れ経路が中心になっていくことに気づいた。
店主は二人を交互に見た。最初は、契約書の文字を理解するだけでも精いっぱいだった。だが今は、何が確かめられていないのか、少しずつ分かってきたようだった。
「私は、ただ以前の酒を以前の値段で買いたかっただけなんです」
店主の声が、静かな店内に落ちた。
「それが無理なら、無理だと説明してほしかった。どうして私だけが、違約金まで払わなければならないのか……」
エレナは店主を見た。先ほどまで書面に向けられていた視線が、今は相手へ向いている。
「その疑問を、確かめましょう」
彼女はそれだけを言った。
卸商人は言葉を失った。
エレナはカイゼルをまっすぐ見た。
「もちろん、今回それに当たると決めつけているのではありません。貴族様が関与していないのであれば、調達元を確かめることで疑問は解けるはずです」
「……確かに、確認はできるでしょう」
カイゼルは平静な声を保った。だが契約の解釈だけでなく、仕入れ経路そのものを調べられることになれば、容易には答えられない。
この娘は何者だ。
若いのに、王国法も知っている。それだけではない。法律を振りかざすのでなく、相手が答えられる問いを積み重ね、逃げ道を狭めてくる。
エレナが契約書を押さえ直した。
左の袖口がわずかにずれた。
その一瞬、カイゼルは目の前の議論から意識を引き戻された。
今まで彼が見ていたのは、契約の読み方に詳しい若い女性だった。身なりは街に溶け込んでおり、店主を助けるために自分の知識を使っている。王女の捜索とは、結びつける理由がなかった。
だが、左手首に覗いたものは違う。
月をかたどる意匠は、ただ高価な飾りだから目立つのではない。王族の事情を把握している者なら、その意味を知っている。カイゼルも例外ではなかった。
彼は思わず、少女の顔を見直した。
年齢は合う。言葉遣いは落ち着き、王国法についての理解も深い。そもそも王国法を理解している人など庶民にほとんどいない。
それぞれ一つなら、偶然で済ませられる。王国法を学ぶ者は王族だけではないし、月を模した飾りも、外見が似たものならあり得る。だが、今見えた品は、簡単に見間違えたと片づけてよいものではなかった。
カイゼルは呼吸を整えた。ここで視線を留めすぎれば、相手に気づかれる。まして名前を問いただせば、これまで穏やかに続いていた会話の意味が変わる。
(確かめる必要がある)
そう考えた瞬間、別の疑問も浮かんだ。
(もし本当に王女なら、なぜこんな場所で店主の契約を調べている?)
答えはない。彼女が誰と行動しているのかも、どこで暮らしているのかも分からない。傍らの少女は親しげに話しているが、その関係だけで何かを判断することもできなかった。
今は情報が足りない。
カイゼルはその結論に留めた。相手の正体を確かめたいからといって、目の前で不用意な行動を取る理由にはならない。
カイゼルの目が、そこへ止まる。
月の紋章。
ルナリウムで作られた、女性王族が生まれた時に授けられるブレスレット。
クロイツ家の諜報部員である彼は当然知っていた。
(まさか……)
年頃は一致する。自然な言葉遣い。王国法の知識。そして左手首の月の証。
(エレナ王女……?)
ただし、本人と断定できるだけの確認はない。ここで名を呼べば、相手を警戒させる。カイゼルは視線を戻した。
エレナは、相手の沈黙をどう受け取ればよいのか迷っていた。契約書の条項を示してから、カイゼルの返答は少しずつ慎重になっている。輸入酒の仕入れ経路について尋ねたときには、すぐに答えが返ってこなかった。
それでも、相手が間違っていると決めつけることはできない。実際に酒を運び、売る人々には、彼女が知らない事情があるかもしれない。
「私の説明に、誤りがあれば教えてください」
エレナは静かに言った。
「店主さんが困っているのは確かですが、だからといって、皆さんの事情を聞かずに責めたいわけではありません」
カイゼルは彼女を見た。答えるべきことは山ほどある。だが、今それらを一つずつ説明すれば、仕入れ経路を明らかにする必要が生じる。廃業という説明の裏付けも求められるだろう。
「ご指摘の中には、確認すべき点があると思います」
カイゼルはようやく口を開いた。
「では、違約金についても考え直していただけますか?」
「それを含めて、です」
「今ここで、請求を取り下げるというお話ではないのですね」
「申し訳ありませんが、現段階ではお約束できません」
店主が息を呑んだ。ラヴィナも不満そうに眉を寄せる。
エレナは少しだけ視線を落とした。相手の返答は、今すぐの解決にはならない。それでも、最初に迫られた『高い酒を買うか、違約金を払うか』という二つの選択肢の間に、ようやく別の道が見えた気がした。
「分かりました。では、何を確認していただけるのか、はっきりさせておきたいです」
エレナは契約書を開き直した。
「以前の供給会社の状況、代わりのお酒の調達経路、そして違約金を求める根拠。この三つでよろしいでしょうか」
カイゼルは一瞬、答えをためらった。
少女は引き下がったのではない。次に話し合うとき、曖昧な説明では済まないように、確認事項を残そうとしている。
「……承知しました」
ようやく得られた返答に、店主は小さく頭を下げた。
「お話は分かりました。取引条件を改めて確認します」
「違約金はどうなるんだ?」
ラヴィナが尋ねた。
「その点も含め、確認が必要です。今ここで結論は出せません」
請求を取り下げたわけではなかった。
店主の表情に再び不安が戻る。
「では、確認できるまで契約書と取引帳を残しておいてください」
エレナが言った。
「私も、もう少し調べてみたいと思います」
「……ありがとうございます」
カイゼルは軽く頭を下げ、卸商人とともに店を出た。最後まで少女の名を尋ねることはなかった。
外へ出ると、港から吹く風が外套を揺らした。
店の中では、エレナが店主と静かに話し続けている。
カイゼルは振り返らなかった。
ただ、書類鞄を持つ手に、知らず力が入っていた。
カイゼルは歩調を変えず、左手首に見えた月の証を思い返した。
(……エレナ王女なのか?)
答えを確かめるには、まだ足りないものがあった。




