第30話 初めての海、再び
ラヴィナがエレナと出会ってから、一年が経った。
「おい、ラヴィナ。笑ってないで、そっち持ってくれよ」
ロイの声で我に返ると、目の前に花の束が差し出されていた。
「笑ってねえよ」
「笑ってた。朝からずっと」
「うるせえな。ほら、貸せ」
束を受け取ったラヴィナは、店の奥へ運んだ。ルベルのミレイの花屋には、シャルネの村の山奥で朝摘んだ花がたくさん荷車に残っていた。まだ水気を帯びた葉が指に触れ、土と青い茎の匂いが鼻をくすぐる。
「その花はこっちよ」
ミレイが作業台から顔を上げる。
「こっちって、どっちだよ」
「窓のそば。陽が当たりすぎない方」
「最初からそう言えって」
「さっき言ったわ」
ロイが吹き出した。
「お前、明日のことばっかり考えてるだろ」
「……悪いかよ」
「別に。羨ましいだけだ」
ラヴィナは返事をせず、花の向きを直した。明日になれば、エレナに会える。何度も手紙を読み、返事を書き、また手紙が届くのを待った相手に。
手紙は嬉しかった。遠く離れた町で元気に暮らしていると知るだけで、胸が軽くなった。それでも紙の上の文字は、笑ったときの声までは運んでくれない。
「エレナ、驚くかしら」
ミレイが小さく尋ねた。
「驚くだろうな。いや、笑うかな」
「あなたの顔を見たら、きっと喜ぶわ」
「……そうだといいけどな」
ロイは二人を見比べた。
「何だよ。いつもの威勢はどうした?」
「あるに決まってんだろ」
「なら、その花を逆さに置くなよ」
見ると、ラヴィナは束の向きを間違えていた。
「……これは、ちょっと考え事してただけだ」
「ははっ、やっぱりな!」
三人の笑い声に、開店前の静かな店が少し賑やかになった。
花屋の仕事は、摘んだ花を並べれば終わりというものではない。花弁の傷みを確かめ、茎を揃え、水を替え、客が選びやすいように置く。色の組み合わせ一つで、同じ花がまるで違う顔を見せる。
「これ、どうする?」
ラヴィナが一輪を持ち上げると、ミレイは手を止めた。
「そっちの白い花と合わせてみて」
「白と赤か。いいじゃん」
「赤い方を少し後ろへ」
「……細けえなあ」
「そういうところが大事なの」
以前なら、ラヴィナは花の名をいくつか覚えるだけで精一杯だった。今では客が何を探しているのか聞くこともできる。もちろん、ミレイほど上手にはいかない。
開店すると、間もなく客が入ってきた。家に飾る花を探しているという。
「明るい感じのがいいんだけど」
「だったら、こっちなんかどうだ?」
ラヴィナが差し出した束を、客は嬉しそうに眺めた。
「綺麗ね。でも、もう少し落ち着いた色はあるかしら」
「落ち着いた色か……ミレイ!」
「はいはい」
ミレイは笑いながら隣へ来て、別の花を添えた。
「こちらはいかがですか?」
「あら、素敵」
客が帰ると、ロイがラヴィナの肩を軽く叩いた。
「結局ミレイ頼みかよ」
「最後に選んだのは客だろ。俺もちゃんと聞いたんだよ」
「聞くだけなら俺でもできるぜ」
「じゃあ次はお前がやれよ」
「運ぶ仕事があるんでね」
ミレイが二人を振り返る。
「喧嘩するなら、もう一束ずつ運んでもらおうかしら」
「「やるよ!」」
声が重なって、また笑った。
昼前の手の空いた時間、ラヴィナは荷物の中から折り畳んだ手紙を取り出した。紙の角は、何度も開いたせいで柔らかくなっている。
「また読んでるの?」
「別にいいだろ」
「いいわよ。私も読ませてもらったもの」
エレナの手紙には、海を初めて見たときのことが書かれていた。光が水面いっぱいに散って、向こう側が見えないほど広いのだという。港には大きな船が集まり、人々が声を掛け合いながら働いているとも。
給仕の仕事で失敗したことも、少しずつ覚えたこともあった。うまくできた日の喜びが、丁寧な文字の端から伝わってくる。
「海って、そんなにすごいのかな」
ロイが尋ねた。
「知らねえ。だから見に行くんだよ」
「手紙だけじゃ分からないか」
「そういうこと」
ロイは頷いた。彼はエレナの秘密を知っている。最初に聞いたときは大声を上げたが、今では人前でその名を不用意に口にしなくなった。
「向こうでも気をつけろよ」
「分かってる」
ラヴィナは何気なく店の外へ目を向けた。
通りに掲げられたアランの手配書は、今もそのままだった。
国家重大犯罪の容疑による全国手配。
もう何度も目にしている。
(……まだ追われてんだよな)
エレナからの手紙には、港町での暮らしが楽しそうに綴られていた。
けれど、二人が本当に安心して暮らせているのかは分からない。
(大丈夫なのかよ、あいつら……)
明日になれば、ようやく会える。
まずは二人の元気な顔を見て、それから話を聞こう。
ラヴィナはそう思い、ロイに向き直った。
「お前、楽しくなると声がでかくなるからな」
「それはお前だろ」
ミレイは作業台に手紙を置かせず、きれいな布を差し出した。
「大事なものなんでしょう。汚さないでね」
「……ああ」
ラヴィナは手紙を包み直した。今度会ったら、どんな話をしよう。聞きたいことは山ほどあるのに、顔を見たら何から話すか忘れてしまいそうだった。
◇
夕方、売り場を片づけてから、ラヴィナは小さな袋の中身を確かめた。
「旅費、足りるのか?」
ロイが聞く。
「足りるって。馬車代も宿代も考えてある」
「お前がそんな計算するようになるとはなあ」
「俺を何だと思ってんだ」
「剣を持って走り回ってるやつ」
「間違ってねえけど、ほかのことだってするぞ」
ラヴィナは硬貨を袋に戻した。ミレイの店で花を運び、客を手伝い、働いた分として受け取った金だ。
誰かに旅費を出してもらうのとは違う。自分の手で稼いだ金を使って、会いたい友人に会いに行く。それが妙に嬉しかった。
「しばらく向こうにいるんだろ?」
「そうするつもり」
「こっちの仕事はどうすんだよ」
「お前がいるじゃん」
「軽く言うなよ!」
ミレイが口を挟んだ。
「大丈夫よ。忙しい日は私も運ぶし、ラヴィナが戻ってきたらまた手伝ってもらえばいいもの」
「そうそう」
「お前は気楽でいいよなあ」
ラヴィナは笑ったが、ロイが本気で怒っていないことは分かっていた。
夜、店の仕事が終わってから、ミレイと二人で旅支度を確かめた。翌朝の馬車に乗るため、ラヴィナは今夜ここへ泊まる。
「エレナ様に、元気にしてるって伝えてね」
「自分で手紙書けばいいじゃん」
「書くわよ。でも、直接会うあなたからも」
「分かった。ちゃんと言っとく」
ミレイは少し考えて、微笑んだ。
「それから、無理しないでね。今はいろいろあるでしょう」
「ああ。分かってる」
ラヴィナは窓の外を見た。暗い通りには、昼間の賑わいがない。
「一年か……」
「何?」
「いや。あいつと会ってから、もうそんなになるんだなって」
ミレイは黙って頷いた。
「会ったらさ、まず何て言うと思う?」
「ラヴィナなら『よっ』じゃない?」
「ははっ。それだと手紙と変わんねえな」
「きっと、それでいいのよ」
ラヴィナは返事をしなかった。言葉を飾るより、顔を見て笑えることの方が大事だと、少しだけ思った。
翌朝は早い。横になって目を閉じたが、なかなか眠れなかった。
手紙にあった青い海が、まだ見たことのない色のまま、瞼の裏に広がっていた。
◇
彼女が乗ったのは、ルベルを朝早く出る定期馬車だった。
「忘れ物は?」
「ねえって!」
見送りに出たミレイが笑う。
「手紙は?」
「持った!」
「お金は?」
「ある!」
「じゃあ、楽しんできて」
ロイは眠そうな顔で手を上げた。
「帰ってきたら海の話、聞かせろよ」
「おう。嫌ってほど話してやる」
「それは勘弁してくれ」
馬車が動き出した。ラヴィナは身を乗り出して二人に手を振り、曲がり角で姿が見えなくなるまで振り続けた。
街道に出ると、車輪が小石を踏むたびに座席が揺れた。隣の乗客が荷物を押さえ、御者が馬に声を掛ける。
ラヴィナは窓の外へ目を向けた。道の脇に畑が続き、やがて建物が減っていく。途中で荷車とすれ違い、休憩のたびに乗客が入れ替わった。
旅は初めてではない。だが、今日は誰かを追うためでも、仕事で出掛けるためでもなかった。
(エレナ、どんな顔するかな)
あの子の笑顔は、手紙を読むたびに思い出せた。それでも、最後に会ったときとまったく同じではないはずだ。
ラヴィナだって、この一年で覚えたことがある。花の束ね方、客への声の掛け方、稼いだ金を少しずつ残しておくこと。自慢するほどのことではないかもしれないが、話したらきっとエレナは喜んでくれる。
午前のうちに、馬車はヴァレスタへ着いた。
降りた途端、いつもと違う匂いがした。
「……何だ、これ」
乾いた土や花の香りとは違う、湿り気を帯びた風。通りを行く人の服には、見慣れない汚れや潮の跡がある。荷車には大きな木箱が積まれ、遠くから人の呼び声が響いてきた。
建物の向こうに高い棒のようなものが何本も見えた。
(あれが、船の……?)
まだ海は見えない。ラヴィナは期待を胸にしまい、教えられた住まいを目指した。
道を尋ねるときも、エレナの名前を大声で言うような真似はしなかった。手紙で確かめた目印を頼りに、港の喧騒から少し離れた通りへ入る。
賑やかな町にも、人の声が落ち着く場所がある。洗った布を干す家、荷物を抱えて行き交う人、小さな窓から漏れる食事の匂い。
やがて目当ての建物が見つかった。
ラヴィナは戸の前で立ち止まった。ここまで来て、妙に胸が騒ぐ。
「……よし」
小さく息を吐いて、戸を叩いた。
◇
エレナは朝から、何度も戸口を気にしていた。
食事処には前もって休みを伝えてある。今日は給仕のことを考えずに、ラヴィナと過ごす日だ。
小さな食卓には、昼に持っていく包みを用意していた。アランの分だけでなく、ラヴィナの分もある。少し張り切りすぎたかもしれない。
(ちゃんと着けたかしら)
外で物音がするたびに顔を上げ、違うと分かっては手元へ戻る。
戸を叩く音がした。
「はい!」
戸を開けると、そこにラヴィナがいた。
「よっ、エレナ」
いつもの調子だった。肩に荷物を掛け、少し照れくさそうに笑っている。
エレナはすぐに言葉が出なかった。手紙に書かれていた文字が、いま目の前で声になっている。
「……ラヴィナ!」
「おう。久しぶり」
「本当に来てくれたのね!」
「だから手紙で言っただろ。会いに行くって」
エレナは笑った。それでも胸の奥に溜まったものが収まらず、もう一度友人の名を呼んだ。
「ラヴィナ……!」
「何だよ、二回も」
「だって、嬉しいんだもの」
ラヴィナは一瞬目を丸くし、それから視線を逸らした。
「……俺だって嬉しいよ」
差し出した手を、ラヴィナが握り返した。その力は記憶にあるままだった。
「さあ、入って。長い道のりだったでしょう」
「思ったより早かったぜ。馬車がよく揺れたけどな」
「お疲れさま。お水を持ってくるわ」
「そんなに気を使うなよ」
「気を使っているんじゃないの。来てくれたのが嬉しいのよ」
ラヴィナは「そっか」と言って笑った。
部屋は広くない。小さな食卓と椅子、暮らしに必要な家具があるだけだ。立派な調度品も豪華な飾りもない。使った器を置く場所、衣服を畳んでおく場所、仕事から帰ってひと息つく場所。どれも毎日使うためのものだった。
ラヴィナの視線が室内を巡るのを見て、エレナは少し落ち着かなくなった。
「狭いでしょう?」
「ん? そうか?」
「王城の部屋とは、全然違うから」
「当たり前だろ。ここは王城じゃねえし」
ラヴィナは食卓に目を留めた。
「ここで飯食ってんのか?」
「ええ。アランと二人で」
「へえ。いいじゃん」
「……いい?」
「いいよ。ちゃんと暮らしてるって感じがする」
あまりに自然に言われ、エレナは返事に迷った。
王城では、必要なものはいつも誰かが整えてくれた。いまは水を汲み、食事を作り、働いて得たお金を数えながら暮らしている。慣れないことも、失敗も多かった。
それを見てラヴィナは、可哀想だとも不便そうだとも言わない。
「エレナ、顔つき変わったな」
「そうかしら?」
「ああ。前より、ここにいるのが普通って顔してる」
「ふふっ。それ、褒めているの?」
「もちろん」
エレナは笑いながら椅子を勧めた。
「ラヴィナは、どこに泊まるの?」
「宿を取るつもり。しばらくこっちにいるしな」
「うちに泊まってもいいのよ?」
「いや、アランもいるだろ。二人の家にずっと居座るわけにもいかねえって」
「そんなこと……」
「いいんだよ。宿代くらい持ってる」
ラヴィナは小さな袋を軽く叩いた。
「ミレイの店で働いた金だ。花を運んだり、客の相手をしたりしてさ」
「そうなのね。すごいわ」
「すごいってほどじゃねえよ」
「でも、自分で働いて旅に来たんでしょう?」
「まあな」
少し得意げに笑う友人を見て、エレナの胸も温かくなった。
「ミレイは元気?」
「元気すぎるくらいだよ。店が忙しくてさ。ロイも手伝ってる」
「ロイ?」
「ああ、最近一緒に花屋を手伝ってる奴だよ。出稼ぎから帰ってきた友達。花の置き場所を覚えられねえって、しょっちゅう怒られてる」
エレナはくすりと笑った。
「ラヴィナも同じじゃないの?」
「……何で分かるんだよ」
二人で声を立てて笑った。
エレナは食卓に置いた包みを持ち上げた。
「今日はね、アランのところへお昼を持っていくの。ラヴィナの分も作ったわ」
「えっ、お前が?」
「ええ。まだ上手とは言えないけれど」
「食う食う! 腹減ってたんだよ」
「ふふっ、よかった」
ラヴィナは包みを見て嬉しそうに目を細めた。
「それで、海は?」
「これから案内するわ」
「よし、行こうぜ!」
「もう。少し休まなくて大丈夫?」
「休むのは海を見てから!」
エレナは笑い、戸を閉める前に弁当の包みを確かめた。
◇
港へ向かう道は、進むほどに賑やかになった。
店先に荷物を積む人、通りを急ぐ商人、重そうな木箱を運ぶ男たち。ラヴィナは右を見たり左を見たり、少しもじっとしていない。
「おい、あれ何だ?」
「あれは荷物を運ぶ車よ」
「それは見りゃ分かる。何を積んでるんだ?」
「さあ……中までは分からないわ」
「何だよ、案内役なのに」
「港の荷物を全部知っているわけじゃないもの」
エレナが笑うと、ラヴィナも笑った。
通りの向こうに、建物より高い帆柱が見えた。
「……あれが船か?」
「ええ。もう少し行けば、ちゃんと見えるわ」
「ずいぶん高いんだな」
「私も初めて見たとき、驚いたの」
風が吹いた。髪を揺らす風には、ほのかに塩気がある。
「これ、海の匂い?」
「そうよ。潮の匂い」
「へえ……」
波の音が少しずつ大きくなる。人々の声に混じって、水が何かに当たる規則的な響きがした。
「エレナ、早く!」
「待って、走ると危ないわ」
「分かってるって!」
言いながら、ラヴィナは足を速める。
建物の間を抜けたときだった。
視界が、一気に開けた。
「…………」
ラヴィナが立ち止まった。
目の前には水があった。見渡す限り、どこまでも。陽の光を受けて波がきらめき、遠くでは空と海の境目がかすかに揺れている。近くには大きな船が浮かび、帆柱と綱が幾重にも重なっていた。
「……おい、エレナ」
「なあに?」
「これ……全部、海なのか?」
「ええ」
「向こうは?」
「向こうも海よ」
「じゃあ、あの先は?」
「ずっと遠くまで続いているわ」
ラヴィナはもう一度、水平線を見た。
「……すっげえ」
小さな声だった。次の瞬間、堪えきれなくなったように叫んだ。
「すっげえな、これ!」
近くを歩いていた人が振り返った。ラヴィナは構わず、港の見晴らしのよい場所まで進んだ。
「何だよ、こんなに広いのかよ! あっちもこっちも水じゃん!」
「ふふっ、そうね」
「お前、手紙じゃ全然伝わってねえぞ!」
「一生懸命書いたのに」
「いや、悪いって意味じゃねえ。こんなの、見なきゃ分かんねえよ!」
エレナは笑った。
自分も初めてこの海を見たとき、何を言えばいいのか分からなかった。城で地図を見て、海の広さを教わっていた。それでも、目の前に広がる青い世界は、知っていたはずのどんな言葉とも違っていた。
いま、ラヴィナが同じ景色を見ている。
「なあ、あの船、あんなに大きくて沈まねえのか?」
「沈まないように造られているんでしょうけれど……詳しい仕組みまでは知らないわ」
「乗ったら揺れるのかな」
「波があれば揺れると思う」
「俺、あの先まで行ってみたい!」
「いきなり船に乗るつもり?」
「乗らねえよ。今はな!」
ラヴィナは振り返って笑った。その顔を見たエレナも嬉しくなった。
「来てよかった?」
「何言ってんだよ。来てよかったに決まってんだろ!」
風に吹かれながら、二人はしばらく海を眺めた。
ラヴィナは波の形が変わるたびに声を上げた。遠くの船が動いているのを見つけると、エレナの袖を引いて知らせる。海鳥が水面へ降りると、あれは何をしているのかと尋ねた。
エレナは答えられることには答え、分からないことには首を傾げた。
「お前も知らねえこと、いっぱいあるんだな」
「もちろんよ。まだここへ来てから、知らないことばかりだもの」
「じゃあ、一緒に覚えりゃいいな」
「……ええ。そうね」
その言葉が、エレナには嬉しかった。
以前、ラヴィナはエレナの知らない暮らしをいくつも見せてくれた。山道の歩き方、町の人々の働きぶり、王城とは違う食事の仕方。自分が戸惑うたび、ラヴィナは笑いながら教えてくれた。
今日は逆だった。自分が見つけた景色を、ラヴィナに見せている。
大きなことを教えられなくてもいい。自分が驚いたものを、友人も同じように驚いてくれる。それだけで、この町で過ごしてきた日々が少し誇らしく思えた。
◇
港の端では、船から下ろされた荷物が次々と運ばれていた。
「おお、すげえ人数だな」
「荷役の人たちよ。アランもああして働いているの」
「アランが、あの仕事を?」
「ええ。重い荷物を運ぶのは大変だって」
「そりゃ大変だろうな……」
ラヴィナはしばらく働く人々を見ていた。
「でも、みんな息が合ってるな」
「一人では運べないものもあるから、声を掛け合うんですって」
「へえ」
エレナは自分が知っていることを少しずつ話した。船が運んでくる品物は一つではないこと。荷物を受け取る商人がいて、それをさらに町の店へ運ぶ人がいること。港の仕事が止まれば、町の暮らしにも影響が出ること。
ラヴィナは真剣に聞いていたが、途中で笑い出した。
「何?」
「いや。エレナ、詳しくなったなって」
「そうかしら?」
「ああ。シャルネにいた頃は、見るもの全部珍しがって、俺にいろいろ聞いてたじゃん」
「……そうね」
「今は俺に教えてくれてる」
エレナは少し照れた。
「みんなに教えてもらったことばかりよ」
「それでも、ちゃんと覚えたんだろ」
ラヴィナは海へ目を戻した。
「俺も、花のことなら少しは教えられるぜ」
「ふふっ、楽しみにしているわ」
「ミレイほどじゃねえけどな」
遠くで休憩を知らせる声が上がった。エレナは包みを持ち直した。
「そろそろアランのところへ行きましょう」
「おっ、飯か!」
「それもあるけれど、会うのが楽しみでしょう?」
「もちろん。あいつが荷物運んでるところも見たいしな」
エレナは仕事の邪魔にならない道を選んで歩いた。
港の騒がしさは、最初はただの大きな音にしか聞こえなかった。いまはその一つひとつが、誰かの仕事の声だと分かる。荷車の軋む音、綱を引く掛け声、箱を置く鈍い響き。
王城にいたころ、食事も衣服も必要なときに届いた。いまは、それらが届くまでに多くの手が働いていることを知っている。
ラヴィナが隣で、忙しそうな男たちに目を輝かせた。
「なあ、俺でもあれ運べるかな」
「ラヴィナなら運べそうだけれど、勝手に触ったら怒られるわよ」
「分かってるって」
その返事の速さが怪しくて、エレナは笑った。
◇
アランはちょうど、仲間と荷を置き終えたところだった。
額の汗を拭いながら振り返り、エレナを見つけて表情を和らげる。
「エレナ。今日は休みだったな」
「ええ。お昼を持ってきたの。それから……」
エレナが一歩横へずれる。
「よっ、アラン!」
ラヴィナが片手を上げた。
「ラヴィナ?」
アランは目を見開いた。
「いつヴァレスタへ?」
「さっきだよ。エレナに会いに来たんだ」
「そうか。久しぶりだな」
「おう。お前も元気そうでよかった」
ラヴィナはアランの仕事着を見て、口元を緩めた。
「それにしても、本当に荷物運んでんだな」
「見てのとおりだよ」
「大変だろ?」
「楽とは言えないな。でも、仲間がいるから何とかなる」
「腕、前より太くなったんじゃねえか?」
「どうだろう」
「ちょっと見せてみろよ」
「おいおい、ここで比べるのか?」
アランが苦笑すると、エレナも笑った。
「二人とも、お昼を食べましょう。休憩の時間がなくなってしまうわ」
「そうだったな」
「俺、腹ぺこだぜ」
休憩できる場所へ移ると、エレナは包みを広げた。簡素な食事だが、朝から手を動かして作ったものだった。
「三人分あるわ。ラヴィナも遠慮しないでね」
「遠慮なんかしねえよ。いただきます!」
ラヴィナはひと口食べて、すぐに顔を上げた。
「うまい!」
「本当?」
「ああ。これ、お前が作ったんだよな?」
「ええ」
「すげえじゃん!」
エレナは頬が熱くなるのを感じた。
「そんなに褒めなくても……」
「褒めるだろ。うまいんだから」
アランも頷いた。
「最近、ずいぶん上手になったんだ」
「アランまで……」
「事実だよ」
二人に見られて、エレナは困ったように笑った。
最初は包丁の扱いも、火の加減も分からなかった。王城では食事が運ばれてくるのを待つだけだった。いまは食材を選び、作る時間を考え、食べる相手のことを思い浮かべる。
それを二人が喜んでくれる。
港から潮風が吹いてきた。少し離れた場所では労働者たちが笑い合い、休憩を終えた者が仕事へ戻っていく。
「で、海はどうだった?」
アランが尋ねると、ラヴィナは箸を止めた。
「すげえよ。もう、何て言えばいいか分かんねえ」
「そんなに?」
「お前、毎日見てんだろ。何で平気な顔してんだ?」
「毎日見ても、綺麗だと思うよ」
「だろ? あんなの、何時間でも見てられるって」
ラヴィナは海の広さを手振りで伝えようとして、弁当を落としかけた。
「ちょっと、ラヴィナ!」
「おっと、危ねえ!」
三人が笑った。
「ミレイの店はどうだ?」
アランが聞く。
「忙しいぜ。花って案外手間がかかるんだよ」
「そうなんだな」
「お前らも忙しいんだろ?」
「港は日によるよ。荷が多い日は休憩まであっという間だ」
「食事処も昼はとても忙しいの」
エレナは少し考えてから続けた。
「でも、常連のお客様が顔を覚えてくださるようになったわ。仕事を頼まれるのが、前より嬉しいの」
「へえ。エレナが給仕ねえ」
「まだ不思議?」
「ちょっとな。でも、似合ってると思う」
ラヴィナの何気ない言葉に、エレナは微笑んだ。
「ありがとう」
食べ終わるころ、アランは残った水を飲み、立ち上がる支度をした。
「そろそろ戻らないと」
「もう?」
「まだ仕事があるからな」
ラヴィナは肩をすくめた。
「働くって大変だな」
「お前も働いているんだろ?」
「まあな。でも、今日は休み!」
アランが笑った。
「せっかく来たんだ。エレナとゆっくりしていくといい」
「そのつもり。なあ、夜も飯食おうぜ」
エレナは顔を上げた。
「そうだわ。アラン、今夜はあのお店に行かない?」
「あのお店?」
「時々、特別な日に行くところ」
アランはすぐに分かったようだった。
「いいね。ラヴィナにも食べてもらいたいな」
「そんなにうまいのか?」
「ええ。私たちのお気に入りなの」
ラヴィナは笑った。
「決まりだな!」
アランは仕事へ戻っていった。エレナはその背中を見送り、包みを片づけた。
「なあ、エレナ」
「なあに?」
「お前、楽しそうだな」
「ええ。とても」
エレナは答えた。こんなふうに誰かと昼食を食べる時間が、いまは何より大切だった。
◇
午後、エレナとラヴィナは港から続く通りを歩いた。
昼の仕事を終えた人々と、これから忙しくなる店の人々が行き交っている。ラヴィナは見慣れない品物を見つけるたびに足を止め、エレナに尋ねた。
「なあ、あれって船に積むやつか?」
「たぶん、そうだと思うわ」
「たぶんって」
「私だって知らないことはあるのよ」
ラヴィナは笑った。
しばらく歩いたところで、少し強い声が聞こえてきた。
「ですから、いつもの酒をお願いしているんです!」
声の方を見ると、酒場兼食事処の入口で、店主らしい男が商人と向き合っていた。
「何度も申し上げているでしょう。以前の業者は潰れてしまったんですよ」
「そんなはずは……この前まで、普通に届けてくれていたのに」
「こちらに言われても困ります。いま手に入るのは、先日お話しした酒だけです」
「でも、あの値段では……」
「でしたら、仕入れを諦めるしかありませんね」
商人は淡々と言った。
店主は口を開きかけ、結局何も言わなかった。指先が店の戸に掛かったまま動かない。
「……何だよ、あいつ」
ラヴィナが声を落とす。
「何か困っていらっしゃるみたいね」
「値段がどうとか言ってたな」
「ええ。でも、事情が分からないわ」
エレナは立ち止まったまま、二人を見た。
何か声を掛けたい気持ちはあった。けれど、何を尋ねればいいのかも分からない。店主はまだ商人と話している。客でもない自分たちが口を挟めば、かえって困らせるかもしれなかった。
「行こうぜ」
ラヴィナが小さく言った。
「……そうね」
二人は歩き出した。
少し進むと、また港町の賑やかな声が戻ってきた。ラヴィナは通りに並ぶ品物へ目を向け、エレナもそれに応じた。さっきの言い争いについて、それ以上は話さなかった。
◇
別の場所では、二人の人物が地図を挟んで向かい合っていた。
イリシア・フェルゼンは、手元の記録に目を落とした。
「ヴァレスタとルベルまで調査を広げるとなると、少し足りないわね」
向かいのカイゼル・リューデンが顔を上げた。
「何がだ?」
「資金よ。移動するにも、滞在するにも費用がかかるでしょう」
「今の分では?」
「すぐに尽きるわけじゃない。でも、長引けば厳しいわ」
カイゼルは地図を見た。
「騎士団の調査はどうなっている?」
「こちらが頼れるほど、進んではいないようね」
「なら、こちらで調べるしかない」
イリシアは頷いた。
「エレナ王女の生存を裏づける情報も、アラン・フォルディスの確かな足取りも、まだないわ」
「分かっている」
「調べる範囲だけ広げても、資金がなければ続かない」
カイゼルはしばらく黙っていた。
「……考えておこう」
「頼むわ。私は移動の予定を見直す」
イリシアは記録を閉じた。二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
◇
夕方、港の仕事を終えたアランが戻ってきた。
「待たせたね」
「いや、全然。俺たちも今来たとこだ」
ラヴィナは手を振った。
「海、もう一回見てきたんだぜ」
「そんなに気に入ったのか」
「当たり前だろ。明日も見に行きたいくらいだ」
「ふふっ、明日も行きましょうか」
エレナが言うと、ラヴィナは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、腹も減ったし飯だな!」
「ええ。案内するわ」
アランとエレナが先に立ち、ラヴィナがその後を追った。
店の前まで来ると、ラヴィナが足を止めた。
「あれ、ここって……」
「ええ。お昼に揉めていたお店ね」
エレナも見覚えのある店先に目を向けた。
「何かあったのか?」
アランが尋ねる。
「昼間、店の前でちょっと揉めてたんだよ」
「そうだったのか」
「でも、料理は美味しいのよ」
エレナがそう言うと、ラヴィナは店の中を覗いた。
「ま、腹も減ったし、入ってみようぜ」
エレナがそう言うと、ラヴィナは店の中から漂う香りに鼻を動かした。
「……確かに、うまそうな匂いだな」
「でしょう?」
三人は戸を開けた。
店内には食事を楽しむ客の声があり、焼いた料理の香りが漂っていた。昼に外で見た店主も、いまは客に料理を運びながら声を掛けている。
「いらっしゃいませ」
エレナは顔を上げて微笑んだ。
「こんばんは。三人なのですが」
「おや、いらっしゃい。空いている席へどうぞ」
案内された卓に座ると、ラヴィナは周りを見回した。
「へえ。いい店じゃん」
「私たち、たまに来るの。特別な日なんかにね」
エレナが言った。
「今日は特別な日なのか?」
ラヴィナが尋ねると、アランが笑った。
「もちろん。久しぶりに三人で会えた日だからな」
ラヴィナは少し黙ってから、照れくさそうに口元を緩めた。
「……そっか。なら、いっぱい食わねえとな」
料理が運ばれるまで、三人は昼の続きを話した。ラヴィナは海を見た感動をまた語り始め、アランは何度聞いても笑ってくれた。
「でさ、船の上にあんな高い棒が何本もあるんだよ」
「帆柱だな」
「そう、それ! 俺、あんなの初めて見た」
「エレナも最初は驚いていたよ」
「もう、アラン。私のことまで言わなくても」
「二人とも似た反応だったんじゃないか?」
「そうかもな!」
ラヴィナは笑い、エレナもつられて笑った。
やがて料理が届いた。
焼きたての肉にはこんがりと焼き色がつき、香草を使った温かなソースがたっぷりとかかっている。付け合わせの野菜にも肉汁が染み込み、皿から立ち上る湯気とともに食欲をそそる香りが広がった。
ラヴィナは目を輝かせた。
「おおっ、うまそう!」
「熱いから気をつけてね」
「分かってるって」
そう言いながら、さっそく肉を大きく切り分けて口へ運ぶ。
「……うまっ!」
表面は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。噛むたびに肉汁が広がり、香草の風味が後から追いかけてくる。
アランが笑った。
「気に入った?」
「これ、すっげえうまいな!」
「でしょう? だから案内したかったの」
エレナは嬉しそうに答えた。
三人で料理を分け合い、気に入った味を教え合う。ラヴィナがあまりに勢いよく食べるので、エレナは何度もゆっくり食べるように言った。
「お前、昼も同じこと言ってたな」
「だって、喉に詰まらせたら大変でしょう」
「大丈夫だって」
「ラヴィナ、エレナの言うことを聞いた方がいい」
アランが笑って言うと、ラヴィナは不満そうに眉を寄せた。
「二人がかりかよ」
その顔がおかしくて、エレナは声を立てて笑った。
アランは卓の上の品書きを眺め、少しだけ眉を上げた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
エレナが尋ねる。
「酒の値段が、前よりずいぶん高くなってる」
「そうなの?」
「ああ。こんな値段じゃなかったはずだ」
ラヴィナも品書きを覗き込んだ。
「酒だけ?」
「少なくとも、前に頼んだものはそうだな」
ちょうど近くを通った店主に、アランが声を掛けた。
「すみません。この酒、値段が変わったんですか?」
店主は一瞬だけ足を止めた。
「……ええ。仕入れの事情が変わりまして」
「そうでしたか。急だったものですから」
「申し訳ありません。こちらも何とかしたいんですが……」
店主はそこで言葉を切った。
「お食事の方は、いかがですか?」
「とても美味しいですよ」
エレナが答えると、店主は少しだけ表情を緩めた。
「それはよかった。どうぞ、ごゆっくり」
店主が離れていく。
エレナは昼間に見た口論を思い出した。あの商人も、酒の仕入れについて話していた。
ふとラヴィナを見ると、ちょうど向こうもこちらを見ていた。
二人は一瞬だけ目を合わせ、何も言わずに視線を戻した。
昼間のことが気にはなったが、事情も知らないまま口にすることではない。
「……まあ、今日は料理を楽しもう」
ラヴィナはそう言って、再び皿に手を伸ばした。
アランが品書きを置いた。
「そうだな。せっかくの飯だし!」
ラヴィナがすぐに笑う。
エレナも頷いた。
その後は花屋の話になった。ラヴィナがロイの失敗を面白おかしく語ると、エレナは「ラヴィナも同じことをしていそう」と言い返した。
「おい、何で分かるんだよ!」
「顔に書いてあるもの」
「書いてねえって!」
アランは二人のやり取りを聞きながら、静かに笑った。
仕事で疲れた身体には、温かな料理がありがたい。けれど今夜は、それ以上に二人の笑い声が心地よかった。
外では港町の夜が深まっていく。店内には食器の音と客の話し声があり、三人の卓にも笑いが絶えなかった。
◇
店を出ると、昼より冷たい風が頬を撫でた。
「いやあ、食った食った!」
ラヴィナが満足そうに伸びをする。
「そんなに気に入った?」
「最高だったぜ。エレナ、いい店知ってんだな」
「アランと一緒に見つけたの」
「また行きてえな」
「ふふっ、機会があればね」
三人は並んで歩いた。通りの人影は少なくなり、遠くに港の灯りが見える。
「ラヴィナ、宿は大丈夫?」
「おう。もう場所は見てある」
「一人で平気?」
「俺を誰だと思ってんだよ」
エレナは笑った。
「そうね。でも、何かあったら遠慮なく言って」
「分かってる」
別れる道まで来ると、ラヴィナは振り返った。
「今日はありがとな。海も飯も、すっげえよかった」
「私も楽しかったわ」
「明日も会えるんだろ?」
「もちろんよ」
アランも頷いた。
「ゆっくり滞在するといい」
「おう。じゃあ、また明日!」
ラヴィナは手を振り、宿へ向かって歩き出した。角を曲がる前にもう一度振り返り、大きく手を上げる。
エレナも振り返してから、アランと帰路についた。
「楽しそうだったね」
アランが言った。
「ええ。ラヴィナがあんなに海を喜ぶなんて」
「君も嬉しそうだった」
「だって、私が好きになった場所を、ラヴィナも好きになってくれたんだもの」
アランは微笑んだ。
「それはよかった」
家へ戻ると、朝から慌ただしかった小さな部屋が、静かに二人を迎えた。
エレナは食卓に手を置いた。昼にはラヴィナがここに座り、部屋を見回して「いいじゃん」と笑ってくれた。
その言葉を思い出すだけで、また笑みがこぼれる。
「どうしたの?」
アランが尋ねた。
「何でもないの。ただ……今日は本当に楽しかったわ」
「うん」
「明日も会えるのね」
「ああ」
エレナは窓の外へ目を向けた。
遠くから、かすかに港の音が聞こえる。
一年前には想像もできなかった暮らしの中で、懐かしい友人と笑い合えた。朝に作った弁当も、海を見たときの歓声も、夜の食卓も、どれも胸に残っている。
(明日は、何を話そうかしら)
答えを決める必要はなかった。
エレナは灯りを落とす前に、もう一度だけ微笑んだ。
また明日、ラヴィナに会える。




