↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
PR
29/40

第29話 レオルドの決断

 娘の筆跡を見ている間だけ、レオルドは国王であることを忘れそうになった。


 王城中央本館の二階。執務室の窓からは王都ローディスの屋根が連なって見える。机の上には国政に関わる書類が積まれていたが、彼の手元にあるのは一通の私信だった。


 エレナは生きている。


 失踪から数か月。その事実を知ったときの安堵は、今も胸の底に残っている。しかし手紙を読み返すたび、別の苦しさが生まれた。


 なぜ、帰ってこないのか。


 娘は王都の外で人々の暮らしを知ったと書いていた。王女として知らなかった苦労や不満に触れ、考えを深めていることが文章から伝わってくる。だが居場所は明かさず、生存も手紙も公表しないでほしいと願っていた。


 そして、十年後に帰るという。


「十年……」


 何度読み返しても、そこにある文字は変わらない。娘が生きているという事実は、初めて手紙を開いた日のように彼を救った。だが、読み終えて顔を上げたとき、向かい側に娘はいない。廊下に足音が響いても、扉の向こうからあの穏やかな声が聞こえてくることはなかった。


 王城に暮らしていた頃、エレナは父の執務を妨げまいと気遣いながら、それでも話したいことがあれば遠慮がちに訪ねてきた。レオルドは書類から目を上げ、短い時間だけ話を聞いた。忙しさを理由に後回しにしたこともある。そのとき娘は、いつも困らせまいと笑って引き下がった。


(あのとき、もう少し話を聞いてやればよかった)


 今なら、どれほど長い話でも聞く。王都の外で見たものも、食べたものも、出会った人々のことも。娘が知ったという暮らしの厳しさについても、父親として、国王として、耳を傾けたい。


 しかし手紙には、帰還を急がないという意志があった。父の都合で呼び戻せば、その意志を踏みにじることになる。無事を確かめたい気持ちと、娘が自分で選んだ道を尊重したい気持ちが、胸の中でぶつかり続けていた。


 レオルドは紙を伏せた。


 国王としてなら、十年先の国を考えることは珍しくない。だが父親として、十年も娘に会えないという現実はあまりに長かった。


 アルトの報告は、エレナ死亡、アラン行方不明。いま手元にある娘の手紙と食い違う。アルトが何かを誤認したのか、それとも別の事情があるのか。レオルドには判断できない。


 アランが帰還して正式に説明しないことも不可解だった。護衛責任者としての義務がある以上、いずれ真相は問われる。だが調べた結果、アルトかアランのどちらかが裁かれる事態になればどうなる。娘を守ろうとしたはずの行動が、娘の大切な人々を傷つけるかもしれない。


(何を知らずにいるのだ?)


 問いに答える者はいない。


 十年後。エレナは二十六歳になる。


 その瞬間、レオルドは顔を上げた。


 二十六歳は王族が正式な王位継承資格を得る年齢である。同時に、王都会議で十票の議決権を取得する。


(あの子は、それを待っているのか)


 娘は王国法を学んでいる。十票の意味も知っているはずだ。王都の外で民の声を聞き、自分の力で国を動かしたいと考えるようになったのだろうか。


 しかし、それは推測にすぎない。


 何を変えたいのか。なぜ十年必要なのか。なぜ父に相談しないのか。答えは手紙にはない。


 娘の真意を知ったような顔で誰かに話すわけにはいかなかった。レオルドは紙をしまい、しばらくその場所へ手を置いた。


 扉を叩く音がした。


「陛下。少し、よろしいでしょうか」


「入るがよい」


 レオルドは、アルトが帰還した日の報告を思い出した。傷を負っていた青年の声は疲れていた。エレナは死亡し、アランは行方不明。その言葉を聞いた瞬間、国王として何を命じるべきか考えるより先に、父親としての心が止まった。


 今、娘の手紙がその結論を否定しているように思えた。だからといって、アルトが故意に嘘をついたとは断定できない。戦場では誤認も起こる。負傷した者の記憶が混乱していても不思議ではない。しかし、アランが帰還しないことは説明がつかなかった。護衛責任者には報告義務がある。娘の婚約者でもあるあの青年が、理由もなく責任を放棄するとは考えにくい。


(何が二人を王都から遠ざけているのだ)


 疑問に答える者はいない。真実を明らかにすれば、アランかアルトのどちらかが罰せられる可能性もある。法を曲げて二人を守ることはできない。だが、娘が愛した者と、幼い頃から知る者が争うような事実が見つかったら、エレナはどう思うだろう。


 レオルドは手紙の文面へ再び視線を戻した。そこには、王都の外で知った庶民の苦しさや、王国への不満が記されていた。かつて書物を通して政治を学んでいた娘が、いまは人々の暮らしの中で学んでいる。父親としては喜ばしい。国王としては、自分が娘に教えられなかったことの多さを思い知らされた。


 十年後。その言葉はあまりも重すぎる。十六歳の娘は、十年後には二十六歳になる。王位継承資格と王都会議の十票。娘がその制度を知らないはずはない。


(あの子は、国を変えるために十年を選んだのか)


 そう考えれば、帰還の時期には意味がある。しかし、なぜ十年もの時間を必要とするのかは分からない。アランが戻らない理由も、所在地を伏せる理由も、まだ何一つ解けていない。推測を確信へ変えてはならなかった。


 王位継承の問題は、自分の家族だけの問題ではない。娘を待ちたいという願いで国の不安を無視すれば、国王としての責務を果たしたことにはならない。


 それでも、帰る道だけは残したい。娘が選んだ十年を、父親の都合で奪いたくはなかった。


     ◇


 エルミナ・ローデルは、部屋へ入るなりレオルドの顔を見た。


「陛下、お食事は召し上がりましたか」


「……それを聞きに来たのか」


「はい。ほかの者に尋ねても、お忙しいとしか答えていただけませんので」


 エレナの乳母だった彼女には、国王に対しても譲らないところがある。


 エルミナは、エレナがまだ言葉も覚えない頃から、その成長を見守ってきた。


 幼い頃の泣き方も、嬉しいことがあったときの笑顔も、何かを隠そうとしているときの、ほんのわずかな表情の変化も。


 王女として人前に立つようになってからも、彼女にとってエレナは、ずっとそばで育ててきた一人の少女だった。


 だからこそ、エルミナの前では、レオルドも娘のことを取り繕って話す必要がなかった。


 すると、レオルドは


「毎日の食事は確実にしておる」


「どのくらいでしょう?」


 レオルドは返答に詰まった。食卓に向かっても食欲が湧かない。娘がいない椅子を見てしまうからだった。


「陛下までお身体を壊されては、姫様もお悲しみになります」


 エルミナは娘の生存を知らない。手紙のことも知らない。彼女にとって、エレナは帰ってこないままなのだ。


 知らせたい。そう思うほど、レオルドの胸は痛んだ。


「……あの子は、余のことを心配しておったか」


「ええ。ご自分のことよりも、陛下のお忙しさを気にされることがございました」


 レオルドはかすかに笑った。


「自分の願いは、なかなか曲げなかったがな」


「海へ行くと決まったときも、本当に嬉しそうでした」


「そうだったな」


 十六歳の誕生日に、海を見たいと望んだ娘。その表情は、遠い昔に出会った一人の少女と重なった。


「セレフィーナに似ておった」


 エルミナは黙って耳を傾けた。


「余も十六歳で、初めて王都を出た。行った先はセレヴィアだった」


 思い出すのは、潮の匂いと波の音だ。


 城壁の外にこれほど広い世界があるのかと驚いた。海を見たのも初めてだった。だが、もっと心を動かされたのは、そこで働く人々の姿だった。


 初めて王都の門を出たとき、若いレオルドは景色の広さに驚いた。王城から眺めていた王都の屋根も、そこを行き交う人々も、いつもは遠くから見下ろすものだった。だが城壁の外では、すれ違う荷車の車輪が泥を跳ね、荷を運ぶ者が汗を拭い、仕事を終えた人々が互いに声を掛け合っていた。


 ヴァレスタを越えセレヴィアへ近づくと風に潮の匂いと花の香りが混じった。初めて聞く波音は、遠くでは低いざわめきのようで、海に向かって流れる花の香りは優しいささやきのようで、街に近づくほど途切れず押し寄せる美しい海岸線。その時見渡す先まで続く水面を前に、レオルドはしばらく言葉を忘れた。


 しかし、そこに暮らす人々は海ばかり眺めてはいなかった。誰かが仕事の手を止めれば、別の誰かがその分を補う。疲れた顔の者もいれば、声を掛け合って笑う者もいた。海が美しいというだけでは、その町で暮らしていけないのだと、若い彼は初めて知った。


 その中にセレフィーナがいた。


 同い年の少女。身分に頼ることなく、自分の足で立ち、自分の言葉で話す人だった。


 レオルドが何かを尋ねれば、彼女は知っていることを答え、知らないことは知らないと言った。相手が王族だからといって、すべてに同意するわけではない。


 あるとき彼は、自分の言葉が相手にとってどれほど軽く聞こえるかを思い知らされた。働く人々の苦労を見て、何気なく「大変だな」と口にしたときのことだった。


「大変だと思うだけなら、誰にでもできます」


 セレフィーナの声は厳しくなかった。ただ、当たり前のことを言うように落ち着いていた。


「では、何と言えばよい?」


「何も言わなくてもいいと思います。知らないことを、知ったつもりにならなければ」


 返す言葉が見つからなかった。王城では、彼が何かを尋ねれば答えが用意された。彼が感想を述べれば、それに賛同する声が続いた。ところが目の前の少女は、彼が聞きたい言葉を探そうとしない。


「……そなたは、いつもそうなのか」


「そう、とは?」


「余の言葉に、簡単には頷かぬ」


 彼女は少し考えてから、口元を緩めた。


「頷けることには頷きます」


 レオルドは思わず笑った。叱られた気がしたのに、不思議と腹は立たなかった。むしろ、彼女が次に何を言うのか知りたくなった。


 その日から、セレヴィアで目にするものが変わった。海の広さだけでなく、働く人々の手、疲れた背中、仕事を終えたときの表情まで目に入るようになった。少女の言葉が彼を変えたのか、それとも初めて外の世界を見たためなのか、当時は分からなかった。


 その自然な態度に、若いレオルドは戸惑い、やがて惹かれていった。


「彼女は強かった」


「存じております」


 エルミナの声は静かだった。


 セレフィーナはオルディネア帝国で奴隷だった過去を持つ。亡命した後、セレヴィアで働いて暮らしていた庶民の少女だ。彼女が何を経験し、どんな思いで故郷を離れたのか、レオルドにもすべてが分かったわけではない。


 それでも、彼女を見て最初に感じたのは憐れみではなかった。


 つらい過去を持ちながら、目の前の暮らしから逃げず、他人に対して自分の考えを失わない。その芯の強さだった。


「彼女のことをもっと知りたくなった」


 話すたびに、知らない世界が広がった。王都では当たり前だったことが、セレヴィアでは当たり前ではない。王家の名でできることが、普通の人々には簡単ではない。


 彼女は王子に教えようとしていたわけではない。ただ自分が見ている世界を、自分の言葉で話していただけだった。


 その言葉を聞く時間が、レオルドには何より楽しみになった。


 やがて二人は恋に落ちた。


 結婚を望んだとき、反対がなかったわけではない。王族と庶民という身分の差は、気持ちだけで消えるものではなかった。


 思いを告げるまでにも、幾度となく言葉を選んだ。王族である自分が望めば、彼女には断りにくいのではないか。地位や財産を差し出すような言い方をすれば、彼女の生き方を軽んじることになるのではないか。


 結局、彼は飾った言葉を捨てた。


「ずっと、一緒にいたい」


 少女はすぐには答えなかった。海からの風が二人の間を抜けていく。その沈黙の間、レオルドは王族として受けてきたどんな問いよりも緊張した。


「それは、王都へ来いという意味ですか」


「……そう聞こえたか」


「少し」


「違う。いや、いつかはそう願うかもしれぬ。だが、そなたの気持ちを聞かずに決めるつもりはない」


 言い終えたとき、セレフィーナは初めて目を伏せた。彼女が何を考えたのか、レオルドには分からなかった。ただ、しばらくして顔を上げたとき、その眼差しには普段と違う柔らかさがあった。


 結婚に至るまでの道は、平坦ではなかった。


 王家の婚姻は、本人の望みだけで決められるものではない。


 レオルドにも、以前から決められていた縁談があった。家柄も申し分なく、王家の将来を考えれば望ましい相手なのだと、幾度となく聞かされていた。


 だが、彼自身の気持ちを尋ねる者はほとんどいなかった。


 相手の女性に不満があったわけではない。ただ、まだ心を通わせてもいない相手との結婚を、王国のためという理由だけで当然のように受け入れることができなかった。


 そして、セレフィーナと出会った。


 彼女と話す時間が増えるほど、レオルドは自分がどのような人生を望んでいるのか、はっきりと分かるようになった。


 誰かに決められた相手ではなく、自分が愛した人と生きたい。


 その願いは、王族として育てられた彼にとって、決して小さなものではなかった。


 身分の違いを指摘する声を聞くたび、レオルドは自分の選択が彼女へ負担をかけていることを思い知らされた。


 それでも、彼女を諦めることはできなかった。


 やがて二人は結婚した。


 セレフィーナを、生涯を共にする最も大切な妻として迎えた。


 あのときのレオルドは、自分の選択がどれほど多くの人間の運命に関わっていくのか、まだ十分には理解していなかった。


 それでもレオルドは、彼女と生きることを選んだ。


「エレナが生まれたとき、セレフィーナは二十歳だった」


 小さな娘を見つめる妻の顔が、今も思い出せる。


 初めて抱き上げたとき、あまりに小さく、レオルドはどう腕を動かせばよいのか分からなかった。セレフィーナはその様子を見て笑っていた。


 娘が眠ると、二人は小さな寝顔を覗き込んだ。王家の未来を考えなければならないと分かっていても、そのときのレオルドには、ただ元気に育ってほしいという願いしか浮かばなかった。


「あなた、そんなに見つめていたら起きてしまいますよ」


 妻が笑い、彼は少し離れる。だが赤子がわずかに身じろぎすると、また顔を近づけてしまう。


「似ておるか?」


「まだ分かりません」


「セレフィーナに似てくれるとよい」


「それでは、きっと頑固になりますね」


「自分に似ても頑固になる」


 二人で笑った。あのときは、そのような会話を翌日も、翌年も続けられると信じていた。


 あれから十五年。


 レオルドは、机の上に置いた自分の手を見つめた。


 セレフィーナを失った日のことは、今も忘れられない。


 あのとき、自分に何ができたのだろう。


 何か一つでも違う選択をしていれば、彼女は今も隣にいてくれただろうか。


 答えの出ない問いを、幾度となく繰り返してきた。


 だが、胸に残る後悔は、それだけではなかった。


 王家の婚姻というものが、どれほど多くの人間の人生を左右するのか。


 若い頃には理解できなかったことを、レオルドはその後の年月で嫌というほど思い知らされた。


 かつて、自分の意思とは別に結ばれた縁があった。


 そこにも、一つの命が生まれていた。


 その小さな命を思い浮かべた瞬間、レオルドの指がわずかに動いた。


 忘れたことなど、一度もない。


 忘れてよいはずもなかった。


 けれど、思い出すことと、何かをしてやれることは違う。


 国王でありながら、守ることのできなかったものがある。


 国王であるがゆえに、守ろうとして手放さなければならなかったものもある。


 そして、自ら選んだことの責任から、逃れることもできない。


 レオルドはゆっくりと目を閉じた。


 セレフィーナの笑顔が浮かぶ。


 初めて出会った日の、まっすぐな眼差し。


 娘を抱きながら笑っていた、あの穏やかな横顔。


 彼女は、王家の名を求めて自分を愛したのではなかった。


 ただ、一人の人間として向き合ってくれた。


 それなのに、彼女が生きたかったはずの未来を、自分は守れなかった。


「……余は、何を守ってきたのだろうな」


 思わず漏れた声に、エルミナが顔を上げた。


「陛下?」


「いや……」


 レオルドは首を横に振った。


 これ以上は、言葉にできなかった。


 今も胸の奥にしまい続けているものがある。


 それを口にすれば、失ったものだけでなく、遠ざけたものにまで手を伸ばしたくなってしまう。


 だが、その手が本当に誰かを守ることになるのか。


 レオルドには、まだ答えが出せなかった。


 あの頃は、幸せがこんなにも簡単に壊れるとは考えていなかった。


 エルミナは国王の顔を見て、返事を待った。王女が姿を消して以来、彼女の目にも疲れが見える。それでも食事の話になると、遠慮はしなかった。


「お仕事を終えてから召し上がるとおっしゃって、結局何も口にされないのではありませんか」


「余にも事情がある」


「存じております。ですが、お身体を壊されては、姫様もお悲しみになります」


 レオルドは苦笑しかけ、すぐに口元を引き締めた。エルミナは娘の生存を知らない。彼女にとって、その言葉は行方の知れない王女を思う祈りに近い。


「……エレナは、海を見るのを楽しみにしておったな」


「はい。何度もお話しくださいました」


「余も十六で初めて王都を出た。あの子と同じだった」


 セレヴィアへ向かったあの時の旅をまた、思い出した。


 海は、想像より広かった。風は潮の匂いを運び、波は絶えず岸へ寄せていた。そこで働く人々を眺めていると、ひとりの少女から声を掛けられた。


「海を見るのは初めてですか」


「ああ。そんなに分かりやすいか」


「何度も同じところを見ていらっしゃるから」


 セレフィーナはそう言って笑った。自分と同じ十六歳。王城の人々のように、彼の一言一句を気にしている様子はなかった。


「海は美しいな」


「ええ。でも、ここで働く人たちは、眺めている暇のない日もあります」


 彼女の視線を追うと、忙しく荷を運ぶ人々がいた。レオルドは、それまで景色としてしか見ていなかった海が、誰かの生活の場所でもあることに気づいた。


 言葉を交わすうちに、彼女がオルディネア帝国の元奴隷で、亡命してきたことを知った。何を言えばよいのか分からず、彼はしばらく黙っていた。


「私を、過去だけで見ないでください」


 セレフィーナは穏やかに言った。


「今はここで、自分で明日のことを考えられますから」


 その声には、過去を消し去ろうとする強がりも、憐れみを求める響きもなかった。レオルドは彼女がどんな苦難を経たのか、すべてを知ったわけではない。ただ、その言葉を自分のものとして語る彼女に惹かれた。


 彼女が笑えば嬉しかった。彼女が疲れていれば、何かできないかと考えた。けれど、何でも与えようとすると、彼女はまず自分の話を聞いてほしいと言った。相手の望みを確かめずに助けることは、時に相手の生き方を見ないことでもある。そんな当たり前のことを、レオルドは彼女から教わった。


 結婚には反対があった。王家の婚姻は個人の気持ちだけでは決められない。だが、身分や生まれだけでセレフィーナの価値を測る言葉を、レオルドは受け入れられなかった。二人は恋に落ち、結婚した。二十歳で娘が生まれたとき、彼女は小さなエレナを抱いて笑った。その姿が、今も記憶の中にある。


     ◇


「……一年だった」


 レオルドは呟いた。


 エレナが生まれてから、セレフィーナが亡くなるまで。


 娘はまだ一歳だった。母の顔を記憶として残すには、あまりにも幼すぎた。


 それからおよそ十五年。


 国王として幾度も難しい決断を下してきた。だが、あの日についてだけは、何度考えても納得できないことが残っていた。


 避けられない死だったのか。


 もっと早く何かに気づいていれば、結果は変わったのか。


 ふと、別の記憶が胸をよぎった。


 あのときも、まだ一年だった。


 母の顔も、その声も、覚えてはいないだろう。


 それでも、抱きしめられた温もりだけは、どこかに残っていてほしかった。


 レオルドは目を閉じた。


 幼い子供にとって、母親を失うことがどれほど残酷なのか。


 父親である自分には、分かっていたはずだった。


 それなのに――。


 守れなかった。


 せめて、幸せに生きていてほしい。


 今となっては、それを願うことしかできなかった。


 疑問を口にしても、亡き妻は答えない。誰かの罪だと決めつけるだけの確かな根拠もない。


「陛下」


 エルミナの声に、レオルドは目を閉じた。


「……余は家族を何一つ守れておらぬ」


 レオルドは、絞り出すように呟いた。


「守るつもりだった。あのときも……余は、これが皆のためになると信じておった」


 机の上に置いた手を、ゆっくりと握りしめる。


「だが、余の選んだ道の先で、かけがえのない命が失われた」


 そこで言葉が途切れた。


 セレフィーナが亡くなった日のことを、レオルドは何度も思い返してきた。


 エレナはまだ一歳だった。母の顔を覚えるには幼すぎる。だからこそ、父親である自分が、その分まで愛情を注がなければならないと考えてきた。


 しかし、どれほど娘を愛しても、母親を返してやることはできなかった。


 そして、胸に残る後悔はそれだけではない。


 あのとき、違う選択をしていれば。


 もう少し早く、周囲の思惑に気づいていれば。


 失わずに済んだものが、あったのではないか。


 誰かが命を奪ったと決めつけるだけの確かなものは、今も手元にない。だが、避けられない死だったと納得することもできなかった。


「……余が、間違えたのだろうか」


 エルミナはすぐには答えなかった。


「妻を失い、今度は娘まで王城から消えた。国王として民を守ると口にしながら、最も近くにいる者たちさえ……」


 レオルドは俯いたまま、かすかに首を振った。


「王でありながら、守るべき者を守れなかった。いや……守れると思っていたこと自体が、余の思い上がりだったのかもしれぬ」


「陛下」


 いつになく、はっきりとした声だった。


「お守りできなかったことと、愛していなかったことは違います」


 レオルドは顔を上げた。


「ご自分の選択を悔やまれるお気持ちは分かります。ですが、どうか、愛したことまで間違いだったとは思わないでください」


「……愛しただけでは、守れなかったのだ」


「それでも、セレフィーナ様は陛下と出会われて、幸せだったと私は思います」


 レオルドは答えられなかった。


 エルミナは静かに続けた。


「姫様も、陛下に愛されて育ちました。私はそのお姿を、ずっと見てまいりました」


 レオルドの脳裏に、幼いエレナの姿が浮かんだ。


 小さな手を伸ばして自分を呼んでいた娘。


 成長するにつれ、少しずつ言葉を覚え、王女としての礼儀を身につけ、それでも父親の前では時折、幼い頃と変わらない笑顔を見せてくれた。


 あの子が笑ってくれるだけで、どれほど救われてきただろう。


 エルミナは一度視線を落とした。


「もちろん、私も姫様にお会いしたいです。今どこで、どうしていらっしゃるのか……よくないことに巻き込まれていなければ、それだけを願っております」


 最後の言葉が、わずかに震えた。


 レオルドは唇を結んだ。


(生きている。エレナは、生きているのだ)


 たったそれだけを伝えられれば、目の前の女性の悲しみを、少しは和らげられるだろう。


 娘が生まれたときから、その成長を見守ってきたエルミナ。


 彼女にとっても、エレナはかけがえのない存在だった。


 それでも、伝えることはできない。


 娘は自分の生存を秘密にしてほしいと願った。


 その願いを守ることが、今の自分にできる数少ないことの一つだった。


「……エルミナ」


「はい」


「心配をかけたな」


「私は、陛下がお食事を召し上がってくだされば、それで」


 レオルドは、わずかに口元を緩めた。


「分かった」


 エルミナは初めて、ほっとしたように息をついた。


 彼女は静かに一礼し、執務室を後にした。


 扉が閉まると、部屋には再び静けさが戻った。


 レオルドはしばらく動かなかった。


 机の上には、国政に関わる書類が積まれている。


 王国の財政、各地からの報告、貴族たちの意見。


 どれも国王として向き合わなければならないものだった。


 だが、その中に、娘が今どこで暮らしているのかを教えてくれるものはない。


 レオルドは立ち上がり、窓辺へ向かった。


 眼下には、王都ローディスの街並みが広がっている。


 多くの人々が暮らす王国。


 自分が守るべき国だった。


(セレフィーナ。余はどうすればよい……)


 妻の答えを期待したわけではない。


 ただ、あの頃の彼女なら何と言っただろうかと考えた。


 十六歳の自分に、知らないことを知ったつもりになるなと言った少女。


 王族という身分ではなく、一人の人間として向き合ってくれた女性。


 今も生きていたなら、娘の選択をどう受け止めただろう。


 レオルドは目を閉じた。


 娘の帰る道を残したい。


 十年という歳月がどれほど長くても、あの子が自ら選んだ道を、父親の都合だけで閉ざしたくはなかった。


 だが、王国の継承問題を放置することもできない。


 王女が行方不明のまま年月が過ぎれば、貴族たちが不安を抱くのは当然だった。国王として、その声に耳を塞ぐわけにはいかない。


 そして、王家の婚姻がもたらすものを、レオルドは誰よりも痛いほど知っていた。


 かつて、自分は愛する人と生きる道を選んだ。


 その選択を後悔したことはない。


 だが、その先で起きたことまで、なかったことにはできなかった。


 もう二度と、誰かの人生を王家の都合だけで決めたくはない。


 同時に、国王としての責任から逃げることも許されない。


 レオルドはゆっくりと目を開いた。


 父として、娘の帰還を待つ。


 国王として、王国の未来に責任を持つ。


 そのどちらかを選ぶのではない。


 どちらからも逃げない。


 レオルドは窓辺を離れ、机へ戻った。


 次の王都会議では、王妃候補募集の問題が再び取り上げられることになっていた。


 以前の会議では否決された議案だが、王位継承者が不在とされる状況は変わっていない。


 貴族たちの懸念も、時間とともに強まっていた。


 彼らが何を求め、何を恐れているのか。


 レオルドにも分かっている。


 だからこそ、ただ拒むだけでは終わらせられなかった。


 王国に対して、国王としての方針を示さなければならない。


 レオルドは椅子に腰を下ろし、積まれた書類の一つを手に取った。


 もう、現実から目を背けるつもりはなかった。


     ◇


 王都会議の議場では、否決されたはずの王妃候補募集が再び話題になっていた。


「陛下。王家の将来を案じる者の声を、どうかお聞きください」


 レオルドは黙って頷いた。


「王女殿下の消息が明らかにならぬ以上、継承の見通しを示す必要がございます」


「しかし前回否決したばかりです。あまりに拙速ではありませんか」


「では、いつまで待つのです」


 議論が交わされる。国家の安定を真剣に案じる者がいた。王家との婚姻による利益を期待する者もいた。今動くことで国民の不信を招くと警戒する者もいる。


 レオルドは彼らの意見を一つずつ聞いた。どの声にも、それぞれの理由がある。王家の血筋が途絶える不安を、単なる私欲と片づけることはできない。


 ユリウス・クロイツは議場の端から国王を観察していた。


 前回、ユリウスは自ら王妃候補募集に賛成する雰囲気を見せながらも、時期が早いと反対した。今も拙速な募集が適切だとは思わない。


 しかし、今日の国王は違って見えた。ただ拒絶するために座っているのではない。すでに何かを決めているようだった。


「陛下のお考えを伺いたい」


 レオルドは顔を上げた。


「諸卿の懸念は理解した。余も、王家の将来を考えぬわけにはいかぬ」


 議場が静まる。


「ゆえに、余の方針を示す」


 レオルドはゆっくりと告げた。


「大陸暦八八二年、セレナ月五日。その日までにエレナが戻らなければ、余は王妃候補を募る」


 ざわめきが広がった。


「八八二年……十年近く先ではありませんか」


「承知しておる」


「なぜ、それほど長く」


「王女の死が確かめられておらぬ以上、余は待つ」


 娘の誕生日であることも、二十六歳で得る議決権のことも、口にはしなかった。それは娘の真意を知らぬ父親の推測でしかない。


 貴族の一人が、慎重に尋ねた。


「では、将来の募集については道が開かれたと考えてよろしいのでしょうか」


「条件つきでな。ただし、もう一つある」


 レオルドは議場を見渡した。


「貴族から王妃を迎えることはせぬ」


 先ほどよりはるかに強い反応が返ってきた。


「陛下、それはどういう意味でございますか!」


「貴族家との婚姻を一切認めないと?」


「王家と有力家の結びつきは、国の安定にも必要です!」


 レオルドは彼らの声が収まるのを待った。


「婚姻が政治的な意味を持つことは分かっておる。しかし、余が次に王妃を迎えるとしても、貴族から選ぶつもりはない」


 亡きセレフィーナの姿が脳裏をよぎった。彼女は爵位を持たず、それでもレオルドが生涯を共にしたいと望んだ女性だった。


 その出自を、ここで語る必要はない。


「それでは……」


 言いかけた貴族が口を閉じた。隣の者が視線を送り、二人とも国王の方を見直した。


 レオルドはその反応を不思議に思った。婚姻の利益が失われる以上、反発は予想していた。しかし、何人かの反応は単なる不満以上に強い。


 だからといって、何かの秘密があると決めつけることはできない。


「さらに、もう一つ告げておく」


 議場が静まる。


「エレナの国葬は行わぬ」


 重い沈黙が落ちた。


「……国葬を、なさらないのですか」


「そうだ」


「しかし、すでに王女殿下の死は広く知られております」


「遺体は確認されておらぬ。以前、準備について検討したことはある。だが、国葬を執り行ったわけではない」


 レオルドは一人ずつ顔を見た。


「余は、確かめられていない死を儀式によって確定させるつもりはない」


「陛下のお気持ちは分かります。しかし国政の問題としては……」


「それも承知しておる」


 国王の声は揺れなかった。


「今日の発言は余の方針だ。募集の手続きが成立したということでも、法を改めたということでもない。必要な審議を省くつもりはない」


 それでも不満は消えなかった。


「十年も継承の不安を抱えたままでよいのですか」


「貴族家を除外することに、どのような利があるのでしょう」


「王女殿下の生死を確かめるため、さらに何をなさるおつもりです」


 答えられる問いには答えた。答えられない問いには、推測を事実のように語らなかった。


 レオルドは、手紙の存在だけは最後まで伏せた。


 議場の空気は、前回の王妃候補募集の採決時より重く感じられた。否決された議案が再び取り上げられるのは、それだけ不安が残っているからだ。王女の遺体は確認されず、捜索も続いている。それでも、王家の先行きを示してほしいという声は日を追って強まっていた。


「陛下。国王陛下のお気持ちは理解しております。しかし王国の継承は、王家だけの問題ではございません」


「承知しておる」


 レオルドは発言者を見た。そこには、王家の安定を本気で案じる者の切迫感があった。国王が答えを示さなければ、地方統治や外交にも不安が及ぶ。そうした懸念を私欲として退けることはできなかった。


「前回、募集は否決されたばかりです。王女殿下の生死を確かめる努力より先に婚姻の話を進めれば、民はどう受け止めるでしょう」


「民の受け止め方だけで継承を決めるわけにはいかぬ」


「しかし信頼を失っては、継承を安定させるという目的も果たせません」


 議論は一つの結論へ収束しない。ある者は早急な再婚を求め、別の者は時機を疑う。王家との縁組が自家にもたらす利益を考える者もいるだろう。だが、すべての貴族が同じ欲望で動いていると決めるのは誤りだった。


 ユリウスは、発言者よりも国王の反応を見ていた。レオルドは一つ一つの意見に耳を傾け、反論すべきところだけを短く返している。単に再婚を拒絶する者の姿ではなかった。


(すでに、何かを決めておられる)


 その何かを知るには、国王が次に何を言うかを待つしかない。ユリウス自身、前回は王妃候補募集の利益を認めながら時機を理由に反対した。今も募集がもたらす政治的な利益は理解している。しかし、利益があることと、その時点で採用すべきことは同じではない。


 レオルドは席を見渡した。王妃の座は単なる家族の問題ではない。誰を迎えるかによって、王家と貴族の力関係が変わる。妻を愛した過去と、王国を統治する現在が、同じ問いの中で向き合っていた。

     ◇


 ユリウスは、国王の示した日付を頭の中で繰り返していた。


 大陸暦八八二年、セレナ月五日。


 エレナ王女が二十六歳になる日である。


 王位継承資格と王都会議十票の議決権を得る年齢。国王がその意味を知らないはずはない。


(なぜ、その日なのだ)


 父親が娘の誕生日を区切りに選んだだけかもしれない。


 だが国葬を拒否したこと、アルトの報告に残る不整合、アランが戻らないことを合わせると、別の仮説も浮かんでくる。


(もし、王女自身が帰る時期を選んでいるとしたら……陛下はエレナ王女の生存を……)


 ユリウスはそこで思考を止めた。


 証拠がない。


 国王が何かを知っている可能性はある。しかし、その何かが生存の証拠だとは限らない。王女が生きていると断定することも、所在を推し量ることもできなかった。


 彼は眼鏡の位置を直し、再び議場を見渡した。


 いま他人に語るべきことではない。


 確認済みの事実と、自分の推測を混同してはならなかった。


 期限を聞いた議場には、驚きと困惑が広がった。十年という長さに異を唱える者がいた。国王が具体的な日付を示したことに、一定の前進を見いだす者もいた。しかし、その後に続いた「貴族から迎えぬ」という条件は、受け止め方が違った。


「陛下。それでは、王家と諸侯の結びつきを強める機会が失われます」


「婚姻によってのみ、王家と貴族は結ばれるものではあるまい」


「もちろんでございます。しかし、王妃を迎えることには、王国全体の均衡を整える意味もございます」


「均衡を整えるために、一つの家へ過度の力を与えることにならぬか」


 問いを返すと、発言者は一瞬言葉を止めた。レオルドは相手の忠誠を疑っているわけではなかった。王国を支える貴族たちの働きを否定するつもりもない。しかし、王家が誰かの婚姻上の利益によって政治的判断を左右されることには警戒があった。


 亡き妻の姿が浮かぶ。セレフィーナは王妃になるために自分と出会ったのではなかった。彼女は、自分の過去と現在を持つ一人の女性だった。レオルドが愛したのはその人間性であり、どこかの家の権勢ではない。だからといって、国王が再婚を求められる理由まで否定することはできない。彼は、その両方を知っていた。


「陛下は、我々貴族を信頼しておられぬのですか」


 静かな問いが落ちた。議場のいくつもの視線が王へ集まる。


「そなたたちの働きを否定するものではない」


「では、なぜ貴族を一律に除外なさるのです」


「王家の婚姻が、国政における特定の家の優位を保証するものになってはならぬと考えるからだ」


 言葉を選んだ。亡き妻の出自を持ち出すつもりはない。セレフィーナの過去を、議場で政治的な説明の道具にしたくなかった。


 別の貴族が声を上げる。


「十年後に候補を募るとして、その条件を今から限定してしまえば、選択肢を狭めることになります」


「その点は承知しておる」


「それでも、お変えにならないのですか」


「余の方針は示した。今日ここで婚姻の手続きを完了させるという話ではない。だが、方針を曖昧にして期待だけを残すことも、誠実とは言えまい」


 レオルドはそこで言葉を切った。議場の反応を確かめる。継承を案じる者は不安を強め、縁組の可能性を考えていた者は不満を隠さない。慎重論を唱えていた者でさえ、十年後という期限の重みを測りかねているようだった。


 国葬を行わないという宣言にも、疑問が続いた。かつて準備が検討されたことはある。だが実施されたわけではない。遺体の確認もなく、国王が国葬を拒むことには理由がある。しかし、その理由を正直に語れば娘の生存を明かすことになる。


「陛下。王女殿下を悼む民の思いを、どうお考えでしょう」


「その思いを軽んじてはおらぬ」


「では、なぜ国葬を」


「死を確かめぬまま、余は娘を弔うことはせぬ」


 それ以上は言えなかった。父親としては、娘が生きていると叫びたかった。だが、王としてその言葉を発することが何を引き起こすのか分からない。エレナ自身が秘密を望んでいる以上、約束を破ることはできない。


「それでは……!」


 ひとりの貴族が口を開きかけ、途中で止まった。隣の者と目を合わせ、視線を逸らす。その反応が何を意味するのか、レオルドには分からなかった。ただ、国王の宣言が単なる失望では済まない強い反発を生んだことは感じ取れた。


 ユリウスは発言を控えた。国王の選んだ期限は、エレナ王女が二十六歳になる日と一致する。その年齢で王位継承資格と王都会議の十票が生じる。偶然と見ることもできる。娘の誕生日を選んだ父親の心情だけでも説明はつく。しかし、国葬拒否とアルトの報告の不整合を合わせれば、別の可能性も浮かぶ。


(もし王女自身が、帰る時期を選んでいるとしたら)


 ユリウスは眼鏡の位置を直した。証拠がない。国王が何かを知っている可能性はあるが、それが生存の証拠とは限らない。今ここで誰かに語れば、推測が一人歩きする。彼はその危険を理解していた。


 議場のざわめきは、会議が終わっても消えなかった。レオルドは席を立ち、最後まで残った声を聞いた。納得できない者がいる。国王を疑う者もいる。だが、娘が帰る道を自ら閉ざすことだけはできなかった。

     ◇


 会議が終わっても、ざわめきは残った。


 貴族たちは小声で言葉を交わし、互いの顔を見ては話を切り上げた。継承の先行きを憂える者。婚姻の機会を失ったことに納得できない者。国王が何かを隠しているのではないかと疑う者。


 レオルドはそのすべてを見届けた。


 理解を得られたとは思わない。

 むしろ今日の宣言によって、新しい不信を生んだのかもしれなかった。


 それでも、レオルドは撤回するつもりはなかった。


 娘は十年後に帰ると告げた。

 父は、その言葉を信じて待つことを選んだ。


 王国のために必要なことは、これからも考え続ける。だが、娘が帰るための道を、自分の手で閉ざすことだけはしたくなかった。


 人の減った議場に、まだ幾つかの声が残っている。


 レオルドは振り返らずに歩き出した。


 王としての決断を告げたその日、父親としての孤独が軽くなることはなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。