第28話 フォルディス家とクロイツ家
アルトが目を開けたとき、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
身体を起こそうとして、胸の奥に鈍い重さを覚える。
「無理をしないで」
セリア・ヴェルネが机から顔を上げた。積まれた書物、薬品の匂い。ここは彼女の研究室だった。
「……父上は?」
「もうお帰りになったわ」
記憶を探る。父ヴァルターがアランからの手紙を見せた。兄とエレナは生きている。なぜ王女が死んだと報告したのかと問われた。
(実は、エレナ王女は……)
その先が思い出せない。
「俺は何か話しましたか」
「私にはわからない。突然発作が始まったみたいで、知っているのはヴァルター様が少し慌ててたところからです」
セリアは今までの記録へ目を落とした。
「治ったんですか」
「今は落ち着いている。でも、治ったとは言えないわ」
「まあ、お目覚めですのね」
扉の近くにフィルガが立っていた。淡い銀紫の髪、穏やかな声。アルトはセレヴィアで彼女が兵士を傷つけた光景を忘れていない。
「お前が俺を止めたのか?」
「ええ。お苦しそうでしたので、少々」
「何をした」
「ゼルヴァに干渉いたしましたの」
セリアが顔を上げる。
「その『干渉』が何を意味するのか、もっと知りたいわ」
「まあ。研究熱心でいらっしゃいますのね」
フィルガは笑った。アルトには、その笑顔がかえって恐ろしかった。
◇
「では、ヴェルネシアへ参りましょう」
フィルガは散歩に誘うように言った。
「……何?どういうことだ?」
アルトは思わず聞き返した。
フィルガはそんな彼の驚きを気にする様子もなく、にこやかに続けた。
「先生にお会いになれば、何か分かるかもしれませんわ」
「先生? いったい誰のことだ?」
アルトが怪訝そうに眉を寄せると、フィルガは当然のことのように答えた。
「ヴェルネシアで先生とお呼びするのは、陛下ただおひとりですの」
「……皇帝のことか?」
「ええ、そうですわ」
アルトはセリアを見た。
「治療のために呼んだのでは?」
「そのつもりよ。けれど、皇帝に会うことまで私が決めたわけではないわ」
「何故、俺がそんなところへ?行くわけないだろ」
「あら」
「騎士団長代理としての責任がある。兄上の捜索も終わっていない。異国へ行くわけにはいかない」
「お忙しいのですわね」
「それに、俺はおまえを信用していない」
フィルガの表情は変わらない。
「セレヴィアのことを忘れたわけじゃない」
「覚えていてくださったのですね」
「褒めているんじゃない!」
思わず声を荒らげた。だが、彼女は静かに頷いた。
「では、無理にはお誘いいたしませんわ」
「……それだけか?」
「ご本人がお嫌なのでしょう?」
アルトは言葉を失った。力ずくで連れていくのではないかと警戒していたのに、あまりにあっさりしている。
フィルガは窓際へ移動した。
「少し報告をいたしますわ」
「誰に?」
「陛下に」
彼女は人差し指をこめかみに当てた。
「響信――エコーリア」
光も魔法陣も現れない。ただ、彼女の視線が遠くへ向いた。
「陛下。フィルガでございます。目的の方を見つけましたわ。ゼルヴァの発現者ですの」
沈黙。アルトには相手の声が聞こえない。
「ええ。ヴェルネシアへお連れしようとしましたけれど、お断りされましたの。いいえ、強制するつもりはございませんわ」
再び沈黙。
「それで陛下。わたくし、有給が百年ほど残っておりまして。そのうち三十年ほど使わせていただきたいのですわ」
「……百年?」
アルトの呟きには答えず、フィルガは少し待った。
「まあ。ありがとうございます。では、そういたしますわ」
指を離す。
「今のは何?」
セリアが尋ねた。
「エコーリアですわ。魔力使い同士の脳波を調和させて、お話しするのです。精霊使いや魔力を使えない方とは通話できませんの」
「相手の声はあなたにだけですか?」
「ええ」
アルトは話に割って入った。
「三十年とは、どういうことだ?」
「お休みをいただきましたの。陛下は『好きにしろ』と」
「三十年も?」
「はい、わたし、百年ほど有給休暇が残っておりますから」
「それで、国へ帰るのか」
「いいえ。あなたを連れて帰りますわ」
「そんなことを言われても、良く筋合いはない」
「承知しております」
「なら、どうして」
「あなたを来たいと思うまで、わたくしがついていくだけですわ」
セリアは口元へ手を添えた。アルトは頭を抱えたくなった。
◇
王都のフォルディス家屋敷では、帰還の支度が進んでいた。
ヴァルターは机に積まれた報告書を確認していた。王都の屋敷は王都会議や政治のために使う。本拠地ヴァルゼディアでは、領地と国境防衛の仕事が待っている。
騎士団の仕事はアランやエレナの捜索だけではない。もっとも重要なのは国の防衛だった。
中でも、オルディネアとの境界を守るために、多くのリソースが使われていた。国境を薄くすれば、そこで暮らす民が危険に晒される。
「警備は維持しろ。捜索も止めるな。どんな小さな報告でもアルトに渡せ」
「はっ」
部下が退くと、ヴァルターは胸元の手紙に触れた。
アランからの手紙。兄と王女が生きていると知った安堵と、なぜ二人が戻らないのかという疑問。アルトに確かめようとした途端、息子は発作を起こした。
(何を言おうとした、アルト)
国王への報告は見送った。アランが望んだ宛先を知りながら、先に次男へ見せたことも気にかかる。だが今は、問いを解くために国境を空けるわけにはいかなかった。
◇
ヴァルゼディアに戻ったヴァルターを待っていたのは、途切れることのない軍務だった。
執務の場に入ると、部下が国境の報告を読み上げる。
「警戒態勢は維持しております。配置の変更について確認を」
「補給は足りているか」
「現状は維持できますが、長く続く場合には再調整が必要です」
「兵を動かすなら、先に食糧と装備を考えろ。人数だけ揃えても守りにはならん」
オルディネアとの境界は、ただ線を引いて終わる場所ではない。そこに兵を置き、交代させ、食べさせ、必要な装備を届ける。戦いが起きていない日にも、国防は続いている。
「オルディネアの動きは?」
「目立った変化はありません。ただ、警戒を緩める理由もございません」
「それでいい。変化がないことも報告しろ」
ヴァルターは書類に目を落とした。アランの捜索へ兵を増やしたい。しかし、国境を守る責任も自分にある。
父としての願いと、公爵としての判断は、いつも同じ方向を向くとは限らなかった。
続いてゼルグラード鉱山の管理報告が運ばれた。
「ミスリアの管理について確認をお願いします」
「王家への報告は?」
「準備しております」
「忘れるな。鉱山は王家の所有だ。我々は管理を任されているにすぎん」
ミスリアは希少な精霊鉱だった。精霊力の伝導と同調に関わる性質を持ち、男子王族に授けられる剣の材料にもなる。だが、それだけのために存在する鉱石ではない。
「オルディネアからの輸出の要望は?」
「変わらずございます」
「王国の方針も変わらん。輸出はしない」
部下は頷いた。
「欲しがる理由は理解できる。だが、欲しいと言われて渡せるものではない」
ヴァルターは報告書を閉じた。王家の所有物を管理するということは、利益を自由に決める権利を持つことではない。鉱山を守る責任と、王命に従う責任を同時に負うことだった。
「警備と管理の報告は別にまとめろ。問題が起きてからでは遅い」
「承知しました」
書類が片づいても、ヴァルターの仕事は終わらなかった。
西方の捜索報告が届いている。
――発見できず。
その短い文字を見つめる。
アランは生きている。少なくとも、手紙にはそう書かれていた。だが居場所は分からない。アルトは王都にいる。身体の異変も分からないままだ。
ヴァルターは息を吐き、次の軍務の書類を開いた。
◇
南部国境の都市クロイゼンベルクでは、別の種類の報告が集まっていた。
ユリウス・クロイツは屋敷の机に並ぶ書類を順に確認していた。王都の屋敷で扱う政治と記録の仕事とは異なり、ここでは交易と地方の実情が直接数字や人の言葉になって届く。
「こちらはクレザンディルからの品についてです」
差し出された書類には、繊維と染色品の取引、輸送に関する報告が記されていた。
「品そのものより、取引が継続する条件を見たい」
「価格でしょうか」
「価格だけではありません。約束した品が届くか。品質が保たれるか。相手が次も同じ商人と取引したいと思うか」
クレザンディル商業共和国では、信用と職人の技術が商いを支えている。異なる土地から人と品が集まり、技術も習慣も交わる。カルゼリアとは友好的な交易相手だった。
しかし、友好と競争は矛盾しない。
「こちらの職人も、向こうの染色品を見て考えることがあるでしょう」
「技術の競争ですか」
「ええ。良い品が入ることを喜ぶ者もいれば、商売を奪われると考える者もいる。どちらも無視できません」
ユリウスは書類の端を揃えた。
「外交で『友好的』と言えば、誰もが同じ利益を得るわけではありません。現場の商人が何を困っているか、そこまで見なければ」
王都では、南部の交易が一行の報告に収まることがある。だがその一行の向こうには、荷を運ぶ人間、品を作る職人、買い手を探す商人がいる。
彼らが動けば、王国の財政にも外交にも影響する。
「次の報告は?」
「騎馬急使で届いた公的な書簡です」
ユリウスは受け取った。
騎馬急使は、命令や報告を届けるための伝達網だ。届ける速さと確実さが求められる。だが、運ばれてくる文書に、書かれていないことまで載っているわけではない。
「これだけですか」
「はい。正式な報告としては」
ユリウスは小さく頷いた。
「正式な報告は正式な報告として扱いましょう」
彼は別の書類へ手を伸ばした。
公の道を走る使者と、表に出せない事実を探る者。二つの仕事を混同すれば、どちらの信用も失う。
フォルディス家が国境を守る盾なら、クロイツ家が扱うのは、判断の前に必要となる情報だった。だが情報を集めることと、それをどのように使うかは別の問題である。
ユリウスは、その違いを誰より意識していた。
◇
通常の報告が終わると、ユリウスは部屋に残された書類を閉じた。
扉が叩かれる。
「入りなさい」
二人が入ってきた。
カイゼル・リューデンと、イリシア・フェルゼン。
彼らはクロイツ家が持つ、正式だが公には存在を明かしていない諜報組織に属している。騎馬急使のように書簡を運ぶ者ではない。国内外の情報を、表に出ない方法で調べる仕事を担っていた。
「報告を」
ユリウスは席を勧める前に言った。
「アラン・フォルディス卿について、進展は?」
「確かな所在はつかめておりません」
カイゼルが答えた。
「エレナ王女殿下については?」
「生存を裏づける確証はありません」
イリシアの答えも慎重だった。
ユリウスは二人を見比べた。
「可能性を否定する情報は?」
「それも、決定的なものはございません」
それでいい、とユリウスは思った。いや、よくはない。情報が不足していることを不足しているまま認めなければならないだけだ。
「騎士団の捜索と重なっている場所は?」
「あります。ただ、我々は騎士団の指揮下では動いておりません」
「当然です。騎士団には騎士団の任務がある。我々には別の任務がある」
ユリウスは机の上に指を置いた。
「アラン卿は全国で手配されている。しかし、罪が確定したわけではありません。報告書では、その違いを失わないように」
「承知しております」
イリシアが頷く。
「王女殿下についても同じです。公的には死亡とされている。だが、それで生存の可能性が消えるわけではない」
ユリウス自身が死亡という情報を政治に利用してきた。それでも、調査に携わる者まで結論を先に決めてしまえば、真実にたどり着けなくなる。
「二人が一緒にいるという確証もないのですね」
「はい」
「では、そう記録することです。推測を事実の欄へ移さないように」
カイゼルは静かに頭を下げた。
「国内の調査は継続します。必要であれば国外も」
「ええ。ただし、騒ぎを起こす必要はありません。潜入も偵察も、相手に気づかれてしまえば得られる情報が変わる」
ユリウスは二人の顔を見た。
「私は、誰かが聞きたい答えを持ってくることを望んでいません。確認できたことを持ってきてください」
「承知しました」
二人が退出すると、室内には紙をめくる音だけが残った。
エレナ王女は生きているのか。
アランはどこへ消えたのか。
王都の会議では、答えのない問いにも判断が必要になる。だが、その判断が正しかったと証明するものは、まだここにはない。
ユリウスは空白の残る報告書を閉じた。
情報がない場所に、願望を書き込むことはできない。
少なくとも、まだ。
◇
「離れろ」
アルトが言った。
「まあ。どうしてですの?」
「仕事中だからだ」
「存じておりますわ」
「なら分かるだろ」
「お邪魔はしておりませんもの」
王都に戻ったアルトは、騎士団長代理としての業務を再開していた。だが、報告書を受け取り、次の指示を出そうとするたび、少し離れたところにフィルガがいる。
彼女は命令を邪魔しない。書類を奪わない。アルトが向かう先を勝手に決めることもない。
ただ、ついてくる。
「そこに立っていられると気になる」
「それは申し訳ございませんわ」
フィルガは一歩だけ離れた。
「そういう意味ではない!」
「あら。距離が足りませんでした?」
アルトは返事を諦め、書類へ目を戻した。
アランの捜索は続いている。報告は相変わらず芳しくない。ヴァルゼディアの国境防衛に兵力を割かなければならないことも、アルトには分かっていた。国を守る騎士団が、兄一人を探すためだけに存在するわけではない。
それでも、報告にある『発見できず』という文字を見るたび、胸の奥がざわついた。
「お兄様のことですの?」
フィルガが覗き込もうとした。
「見るな」
「失礼いたしました」
彼女は素直に引いた。だが去らない。
アルトは彼女を見た。
セレヴィアで兵士を傷つけた相手だ。自分の発作を鎮めた相手でもある。危険でありながら、今は自分の身体について誰より多くを知っているかもしれない。
アルトはさっきまでの苛立ちを鎮めた。
「……俺に何が起きたかわかるのか?」
「お苦しそうでしたわ」
「それは知っている」
「では、何をお聞きになりたいのです?」
アルトは答えに詰まった。
何が起きたのか知りたい。だが、知らされることも怖い。
「ゼルヴァは、もう暴走しないのか?」
「それは分かりませんわ」
「おまえが止めたのだろ?」
「ええ。あの時は」
その限定した言い方が、アルトの胸に残った。
「あの時だけ?」
「今、お静かでいらっしゃるでしょう?」
「……それでは答えになってない」
フィルガは微笑んだ。
「フフ、可愛い」
アルトは顔を背けた。
この女は自分を治したのではない。少なくとも、そう断言できる者はいない。今も胸の奥にある熱が、そのことを思い出させる。
セリアの研究室で、父に何を言おうとしたのか。
兄の手紙を見た瞬間、なぜあれほど心が乱れたのか。
記憶の空白を埋めようとすると、胸の内側がわずかに軋んだ。
アルトは息を整えた。
「これから、どこへ行くつもりだ?」
「あなたのお出かけ先へ」
「俺はお前のこれからの予定を聞いているんだ」
「ですから、あなたと同じところですわ」
アルトは額に手を当てた。調子が狂って再び苛立ちを見せ始める。
「いつまでついてくるだ」
「そうですわね。三十年のお休みをいただきましたから」
「三十年も?」
「もちろん、お休みをすべて使い切ると決めたわけではございませんけれど」
「冗談だろ?」
フィルガは不思議そうに首を傾げた。
「お嫌ですの?」
「俺はおまえに用はない」
「まあ。では、あまりお気になさらないでくださいませ」
「気にしないで済むなら、最初からそうする!」
フィルガは小さく笑った。
その声だけを聞けば、他愛のないやり取りだった。
だがアルトは知っている。
この女は、穏やかに笑いながら人を傷つけることができる。そして今、自分の後ろを歩いている。
アルトは書類を抱え直し、歩き出した。
足音が続く。
一人分。
少し離れて、同じ速さで。
「……離れろ」
「はい。少し離れますわ」
足音の間隔が、わずかに広がった。
それだけだった。
アルトは振り返らなかった。
振り返らなくても、彼女がついてきていることは分かっていた。
ただ、今のアルトに言えることはフィルガが邪魔だった。




