第27話 小さな綻びと小さな幸せ
フォルディス家の会談室には、奇妙な静けさがあった。
ヴァルターは帰還した次男の顔を見つめていた。アルトは視線を逸らさないが、表情は硬い。傍らには専属研究者セリア・ヴェルネと、見知らぬ銀紫色の髪の女性がいる。
最初に口を開いたのは、その女性だった。
「初めまして。フィルガ・ノルゼリスと申します。セリア様から、何やら息子様の病気を治したいということで、お手紙をいただきましたわ」
場の緊張など気にも留めていないような声だった。
ヴァルターは一瞬、言葉を失った。セリアが送った書簡。それを携えて現れた謎の人物。アルトの異変について、何らかの手がかりを持っているのだろうと思った。
「……そういうことでしたか。私はアルトの父、ヴァルター・フォルディスと申します」
「まあ。お父様でしたのね」
「遠路、よくお越しくださいました。ただ、その前に息子と二人だけで話したいことがあります。少し席を外していただけますか」
セリアがアルトを見た。研究者として確かめたいことがあるのは、その表情からも分かる。それでも、ヴァルターの頼みを聞いて立ち上がった。
「承知しました。外でお待ちしています」
「ええ、わたくしも構いませんわ」
フィルガはあっさりうなずき、セリアとともに部屋を出た。
扉が閉まる。
ヴァルターはしばらく動かなかった。久しぶりに向き合う息子へ、何から話すべきか迷っていた。
「父上。兄上の捜索についてでしたら……」
「その前に、これを見ろ」
ヴァルターは胸元から手紙を取り出した。
アランから届いたものだ。
本来、王女の生存を知らせる相手はレオルド国王だけにしてほしいと記されていた。その願いを、今から自分は破ろうとしている。父として、そして国防を担う者として、軽々しくしてよいことではない。
だが、アルトの報告には確かめなければならないことがある。
「読んでみろ」
アルトが手紙を受け取った。最初は何気なく目を落としたが、数行読んだところで手が止まった。
「……兄上から?」
「ああ」
「これは、いつ……」
「最近届いた。書かれていることを、どう思う」
アルトは黙って読み続けた。
そこにはアラン自身が無事であること、エレナ王女も生きていること、命に代えても王女を守り抜くという決意が短く記されていた。居場所も帰還時期もない。国王以外には知らせないでほしいという願いだけが、重く残っている。
「お前は、王女が亡くなったと報告したな」
ヴァルターの声は低かった。
「はい」
「アランは行方不明だとも言った」
「……はい」
「だが、二人は生きている。なぜあの報告になった」
アルトは手紙を見つめたまま答えなかった。
「お前は、二人の最期を見たのか」
「……いいえ」
「ならば、何を根拠に死亡したと判断した」
アルトの喉が動いた。
「あの日は、山賊の数があまりにも多かったのです。戦闘は激しく、兄上も自分も、王女を守るために必死でした。周囲の状況をすべて確認する余裕などありませんでした」
「それは分かる。だが、見ていないのなら、なぜ死んだと言い切れた」
「……あの状況では、助かるとは思えなかったからです」
ヴァルターは息子の顔を見た。
戦場で、確証を得られないまま判断を迫られることはある。敵が多く、味方の姿を見失い、生死の確認もできない。そういう状況そのものは理解できる。
しかし、理解できることと納得できることは違う。
「アランはお前の兄だ。あいつの性格を、お前も知っているだろう」
「はい」
「そのアランが王女を危険にさらしたとされ、重罪容疑で全国手配されている。だが、本人は王女を守り抜くと書いている。お前はどう考える」
アルトは答えを探すように視線を落とした。
ヴァルターは手紙の端を見つめた。息子の筆跡だった。無事だと知ったとき、胸の奥に小さな安堵が生まれた。それでも、なぜ戻らないのか分からない。何が二人を帰還させないのか。父として知りたいことは増えるばかりだった。
「アルト。もう一度聞く。あの日、兄と何かあったのか」
「父上……」
「責めたいのではない。真実を知りたいんだ」
アルトの表情がわずかに変わった。
「……兄上は、王女を守ろうとしていました」
「それは手紙にもある」
「はい。ですが……」
アルトは言葉を切った。
父の目を見返す。その瞳の奥に、ヴァルターは何かを感じた。怒りか、恐れか。それとも、言葉にできない別のものか。
「実は、エレナ王女は……」
そこまでだった。
アルトが突然、胸を押さえた。
「……っ!」
「アルト?」
息子の身体が大きく揺れた。手紙が床へ落ちる。アルトは椅子の背をつかもうとしたが、指が滑り、膝をついた。
「どうした!」
「あ……ああ……!」
声が途切れ、荒い息に変わる。
「アルト、しっかりしろ!」
「ああああああっ!」
叫び声が部屋に響いた。
ヴァルターは息子の肩を支えようとした。しかし、アルトは目の前の父さえ見えていないかのように身をよじった。何かを振り払うように腕を動かし、呼吸を乱している。
「アルト! 私の声が聞こえるか!」
返事はない。
ヴァルターの脳裏に、以前の異変がよみがえった。病のことをセリアに確かめさせた。だが、何が起きているのか、まだ十分に分かっていない。
それでも、つい先ほどまで普通に話していた息子が、こんな姿になるとは。
「誰か! セリアを……!」
扉へ向かおうとしたとき、先に戸が開いた。
「あら」
フィルガが顔をのぞかせた。
「ずいぶん賑やかですのね」
ヴァルターは信じられない思いで彼女を見た。
「アルトが急に苦しみ始めた。セリアを呼んでくれ!」
フィルガは床にうずくまるアルトへ目を向けた。
「これは病気ですの?」
「病気でなくて、何だと言うんですか!」
声を荒げてから、ヴァルターは自分を抑えた。相手は治療を求めた書簡を受けて訪れた人物だ。だが、息子の苦しみを前に、落ち着いてはいられなかった。
フィルガは首を傾げた。
「それで、何をお望みですの?」
「この苦しみを止めてほしい。錯乱しているのも、どうにかしてくれ!」
「そうですのね」
まるで簡単な用事を頼まれたかのような返事だった。
フィルガはヴァルターへ歩み寄り、その腕を片手でつかんだ。
「な、何を……」
「少し外でお待ちくださいまし」
抵抗する間もなく、ヴァルターは廊下へ押し出された。乱暴に投げられたわけではない。だが、身体が動くのを止められなかった。
「待て! アルトが!」
「大丈夫ですわ。今はお静かに」
扉が閉まった。
廊下にはセリアが立っていた。室内からはまだアルトの苦しげな声が聞こえる。
「公爵様、いったい何が……」
「私にも分からん。突然、あの状態になった」
ヴァルターは扉を見つめた。
中で何をしているのか分からない。それが何より恐ろしかった。
◇
扉の内側で、フィルガはアルトを見下ろしていた。
「まったく、厄介な親子ですわ」
声に苛立ちはなかった。アルトは床に片手をつき、息を荒くしている。何かに追われるように身体を震わせ、視線も定まらない。
フィルガはしゃがみ込み、その胸に手を当てた。
「……少し、お静かになさって」
次の瞬間、アルトの身体から力が抜けた。
叫び声が途切れる。乱れていた呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。つい先ほどまで床をつかんでいた指が緩み、瞼が閉じた。
フィルガはしばらくその顔を眺めた。
「これでよろしいですのね」
返事はない。アルトは眠っていた。
扉を開けると、ヴァルターがすぐに近づいた。
「アルトは!」
「静かになりましたわ」
「本当か」
「ええ。眠っていらっしゃいますわ」
ヴァルターが中へ入ろうとすると、フィルガはアルトを軽々と抱え上げた。
「セリア様。研究室はどちらですの?」
「……こちらです」
セリアは驚きを隠せないまま先に立った。ヴァルターは後を追おうとしたが、フィルガの腕に抱えられたアルトが静かに呼吸しているのを見て、ひとまず足を止めた。
どうやって、あの苦しみを止めたのか。
そして、なぜあの女性は少しも驚かなかったのか。
◇
セリアの研究室に運ばれたアルトは、寝かされたあとも目を覚まさなかった。
セリアは呼吸を確かめ、慎重に顔色を見た。先ほどの発作が嘘だったかのように穏やかだ。
「……どうやって鎮めたのですか?」
フィルガはセリアを見た。
「ゼルヴァに干渉して、理性の限界を引き上げてあげました」
「理性の……限界?」
「ええ。自分より魔力量が低ければ、同じ魔力同士で干渉できますわ」
セリアは返事を忘れた。
「魔力……。それに、ゼルヴァ……」
調べ続けてきた異変。その正体を疑い、確かめようとし、ついには異国の皇帝へ手紙を送った。それが今、目の前で当たり前のものとして語られている。
「本当に、存在していたのですね……」
「何をそんなに驚いていらっしゃいますの?」
フィルガは不思議そうだった。
「それは……私にとって、まだ確かめきれていなかったことですから」
「そうでしたのね」
あまりに軽い返事に、セリアは言葉を失った。
フィルガの説明は、アルトの異変を一時的に鎮めたことを示していた。しかし、それが何を意味するのか、セリアにはまだ分からない。理性の限界を引き上げることと、病を治すことが同じなのかさえ、確かめられていなかった。
「では、先生。今後の治療について……」
セリアがそう言いかけると、フィルガは小さく首を振った。
「わたくしは先生ではありませんわ」
「……失礼しました」
「先生は、ヴェルネシアの陛下、ただおひとりですの」
その言い方には、訂正を求める以上の強い感情は見えなかった。ただ、譲るつもりのない事実を述べたようだった。
セリアは眠るアルトへ目を戻した。
苦しみは止まった。だが、これで治ったと言えるのだろうか。
質問は尽きない。けれど、今の自分には何を確かめるべきかさえ、まだ整理できていなかった。
控えめな足音が近づき、戸が開いた。
「アルトは……」
ヴァルターだった。
寝台に横たわる息子を見て、肩からわずかに力が抜ける。
「眠っております。先ほどのような錯乱は、今はありません」
セリアが伝えると、ヴァルターはうなずいた。
「そうか……」
息子の傍らに立ち、顔を見つめる。
先ほどまで、あと少しで何かを聞けると思っていた。
『実は、エレナ王女は……』
その先は分からない。
アランの手紙には、王女が生きていると書かれていた。ならば、アルトは何を語ろうとしたのか。兄弟の間で何が起きたのか。
問いただせば答えが得られると思っていた自分が、甘かったのかもしれない。
ヴァルターは眠るアルトの手を見た。かつては小さかったその手が、今は大人の男のものになっている。国を守る立場にある父であっても、息子の苦しみ一つ止められなかった。
「セリア。アルトを頼む」
「はい。引き続き、状態を確かめます」
ヴァルターはしばらくその場を離れられなかった。
国王へアランの手紙を伝えるべきことは分かっている。しかし、アルトの説明に疑いが残るままでは、何をどう報告すべきか判断できない。手紙を見せたことで、息子の異変を引き起こしたのではないかという思いも胸を離れなかった。
(アラン。アルト。お前たちに何があった……)
結局、真実は聞けなかった。
ヴァルターは手紙を自分の手元へ戻し、レオルドへの伝達を当面見送ることにした。帰還を延ばして待ったアルトとの会話も、答えを得ないまま終わった。
ヴァルゼディアへ戻る支度を整えながらも、眠る次男の顔と、遠くにいる長男の筆跡が頭から離れなかった。
◇
ヴァレスタの港の昼の食事処には、いつものように港から人が流れ込んできた。
「エレナ、奥の卓を頼む!」
「はい、ただいま!」
エレナは皿を両手に持ち、卓の間を抜けた。最初の頃は、料理を落とさないことだけで頭がいっぱいだった。今は、どの客が先に注文したか、どの卓に空いた器があるか、目を配る余裕が少しできた。
もちろん、失敗がなくなったわけではない。
「そっちじゃない。先にあの客だ」
「あっ、申し訳ありません」
「謝るのはいいから、冷める前に運んでやれ」
「はい!」
店主に促され、エレナは足を速めた。厨房の熱気、食器の触れ合う音、戸口から入り込む潮風。忙しい昼の店にも、ようやく馴染んできた。
そこへ常連の港湾労働者が一人で入ってきた。いつもは仲間と賑やかに食事をする男だが、今日は席につくなり外を気にしている。
「いらっしゃいませ。今日はお一人なんですね」
「おう。ほかの連中はまだ仕事でな。俺だけ先に休憩をもらった」
「いつものお料理でよろしいですか?」
「ああ、頼む」
エレナは注文を伝えた。料理が運ばれてきても、男は落ち着かなかった。熱い料理を急いで口へ運び、ときどき戸口を見やる。
「お急ぎですか?」
「ああ。今日は荷が立て込んでてな。戻りが遅いと仲間に迷惑がかかる」
「そうでしたか」
「飯くらいゆっくり食いたいんだが、そうもいかねえ」
男は笑ってみせた。
エレナは、卓の端に置かれた小銭入れに目を留めた。食べ終わってから会計をするより、今のうちに済ませておけば、少しは落ち着いて食事ができるかもしれない。
「あの、お会計を先に済ませておきましょうか?」
「先に?」
「はい。お食事が終わったら、そのままお仕事へ戻れるように」
「そりゃ助かる。できるのか?」
「店主に確認してまいります」
厨房で事情を話すと、店主はうなずいた。
「いつもの客だろ。いいぞ。ただし、ほかの注文を忘れるなよ」
「もちろんです」
「その『もちろん』が、たまに怪しいんだがな」
「もう……気をつけています」
エレナが困った顔をすると、店主は笑った。
会計を済ませると、男は少し肩の力を抜いたようだった。
「これで食い終わったらすぐ戻れるな」
「どうぞ、ごゆっくり」
「ははっ、できるだけな」
その後も店は忙しかった。エレナは別の卓へ料理を運び、空いた皿を下げ、注文を聞いた。先ほどの客だけを特別扱いするわけにはいかない。
やがて男が席を立った。
「ごちそうさん。ありがとな、エレナ。おかげで少しゆっくり食えたよ」
「いえ。お仕事、頑張ってくださいね」
「おう。また来る!」
男が出ていく。戸が閉まると、店内の喧騒が少し遠くなった気がした。
(よかった……)
何か大きなことをしたわけではない。ただ、相手が困らないように順番を少し変えただけ。それでも、あの人は嬉しそうだった。
「何だ、嬉しそうな顔して」
店主が声をかけてきた。
「そんな顔をしていましたか?」
「してたぞ。さっきの客、助かったみたいだな」
「はい。お急ぎのようでしたので」
「ちゃんと見てたんだな」
店主は空の器を棚へ戻した。
「最初は注文を覚えるだけで精一杯だったのにな」
「店主さん、また昔の失敗を……」
「まだそんなに昔じゃないだろうが」
「それは、そうですけれど」
エレナが口を尖らせると、店主は声を立てて笑った。
「でもな、仕事に慣れるってのは、手が速くなることだけじゃない。客が何をしてほしいか、自分で気づけるようになることだ。今のお前は、それが少しずつできてきた」
エレナは手にしていた布巾を見つめた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。次の皿を頼むぞ」
「はい!」
王城にいた頃も、褒められたことは何度もあった。けれど、今の言葉は少し違う。王女としてではなく、働く一人として、自分の行動を認めてもらえたのだ。
次の料理を受け取るとき、エレナの返事はいつもより明るかった。
◇
一方、港の作業場では、アランが荷車の通り道を確かめていた。
船から降ろされた荷は、倉庫へ運ぶものと別の荷車へ積み替えるものに分かれる。荷を持ち上げるだけなら、鍛えた身体で何とかなる。だが、誰が次に動くかを考えずに置けば、かえって仕事を遅らせてしまう。
「アラン、こっちを頼む!」
「分かった!」
仲間と荷を運び、所定の場所へ下ろす。ひと息ついたところで、鋭い声が飛んだ。
「おい! そこへ置いたら荷車が通れねえぞ!」
若い作業員が慌てていた。荷を通路の真ん中へ置きかけ、注意されて一人で持ち直そうとしている。焦っているせいか、手元が安定しない。
「待って。一人で動かそうとしなくていい」
アランが近づくと、若者は青ざめた。
「でも、邪魔になってて……」
「だからこそ落ち着こう。俺も手伝うよ」
近づいてくる荷車との距離を確認し、二人で荷の端を持つ。
「足元を見て。そっちへ運ぼう」
「はい!」
荷を移すと、荷車は何事もなく通り過ぎた。若者は大きく息を吐いた。
「すみません。余計な仕事を増やしてしまって」
「大丈夫。次は気をつければいい」
「でも、みんなに迷惑を……」
「俺も最初は何度も注意されたよ」
若者が顔を上げた。
「アランさんもですか?」
「ああ。運ぶことばかり考えて、周りが見えていなかった」
「今は何でも分かってるように見えますけど」
「そんなことない。まだ教わることばかりだ」
アランは通路を指さした。
「荷を置く前に、次の人がどこを通るか考えてみるといい。自分が運び終わっても、その荷は誰かの仕事につながっているから」
「なるほど……」
「俺も先輩に教えてもらったことだけどね」
若者は真剣にうなずいた。
作業が再開される。しばらくして、アランは若者が荷を運ぶ姿を見かけた。今度は一度立ち止まり、通路を見渡してから荷を置く。次の作業員がその横を通り、滞りなく仕事を続けた。
「アランさん!」
「どうした?」
「さっき教えてもらったこと、やってみました。今度はうまくできました!」
若者の顔は誇らしげだった。
「ありがとうございます。助かりました」
アランは少し驚き、それから笑った。
「よかった。こちらこそ、明日もよろしく」
「はい!」
若者は元気よく次の荷へ向かった。
かつてアランは、多くの部下に指示を出す立場だった。だが、港では自分も学ぶ側にいる。教わったことを誰かへ伝え、その相手が仕事を覚える。肩書も命令も必要ない、小さな信頼だった。
港に来たばかりの自分を思い出す。知らないことを教えてくれた仲間たちがいた。今度は自分が誰かの力になれた。
(こういうのも、いいものだな)
「おい、アラン! 何笑ってる。まだ仕事はあるぞ!」
「分かってるよ!」
呼び声に返事をし、アランは荷の方へ歩き出した。
◇
そして、ヴァレスタの夕暮れは、港の音が少しずつ変わる時間だった。
昼間の掛け声が遠のき、荷車の数も減っていく。仕事を終えた人々が家路につき、食事処の明かりが通りへ漏れ始める。
エレナが賃貸部屋へ戻ると、アランもほどなく帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい、アラン」
「エレナも今帰ったところ?」
「ええ。今日は少し忙しかった」
「俺の方もだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
質素な部屋には、まだ欲しい家具が揃っていない。仕事を始めて給金を得られるようになったとはいえ、家賃と食費を考えれば、気軽に何でも買えるわけではなかった。
それでも、以前より少しずつ、この部屋は二人の暮らしに馴染んできた。
食事を用意し、向かい合って座る。アランは働き疲れた手を一度見つめてから、器を取った。
「今日は何だか嬉しそうだね」
「分かる?」
「うん。帰ってきたときから、ずっと笑ってる」
エレナは少し照れた。
「今日ね、お客様にありがとうって言っていただけたの」
「そうなんだ。何があったの?」
「お急ぎのお客様がいらして、お会計を先に済ませておいたの。そうしたら、少しゆっくり食べられたって」
アランはうなずいた。
「それは助かっただろうね」
「でも、本当に小さなことなのよ。お会計の順番を変えただけだから」
「その小さなことに気づけたのが、よかったんじゃないかな」
「店主さんにも似たようなことを言われたわ」
「何て?」
「仕事に慣れるって、ただ速く動けるようになることじゃないって。お客様が何をしてほしいか、自分で気づけるようになることだって」
アランは微笑んだ。
「エレナらしい!」
「そうかしら?」
「ああ。相手のことをよく見ているから」
エレナは目を伏せ、嬉しそうに笑った。
「……ありがとう」
しばらく食事を続けてから、エレナが尋ねた。
「アランは? 今日はどんな一日だった?」
「俺も、ちょっと嬉しいことがあったんだ」
「まあ。聞かせて」
アランは港の若い作業員のことを話した。荷を置く場所を間違え、焦っていたこと。一緒に荷を移し、先輩から教わった段取りを伝えたこと。その若者が自分で考えて仕事をやり直し、礼を言ってくれたこと。
「俺が教えたというより、前に教えてもらったことを伝えただけなんだけどね」
「それでも、その方は嬉しかったと思うわ」
「うん。俺も嬉しかった」
エレナはアランの顔を見た。
王城にいた頃、彼は騎士団長だった。多くの兵を率い、王女を守るために働いていた。今は港で荷を運び、仲間から仕事を教わっている。
その違いを、エレナは寂しいと思ったこともあった。
けれど、アランが今日の出来事を話す顔は、とても穏やかだった。
「ねえ、アラン」
「うん?」
「私たち、少しずつ変わっているのかもしれないわね」
「そうかもしれない」
「最初は、何も分からなかったもの。お金を稼ぐことも、毎日働くことも」
「俺も、港の仕事を簡単に考えていたわけじゃないけど、知らないことばかりだったよ」
「今だって、まだ知らないことがたくさんあるわ」
「うん。それはきっと、これからも同じだね」
エレナは食卓の上の器を見た。豪華な料理ではない。王城にいた頃なら、何気なく口にしていたものよりずっと質素だろう。
けれど、二人で働き、帰ってきて、こうして食べている。
「私ね……最近、こういう時間がとても好きなの」
「こういう時間?」
「お仕事をして、帰ってきて、今日あったことを話して。一緒にご飯を食べて……」
エレナは言葉を探した。
「何でもない一日なのに、幸せだなって思うの」
アランはしばらく黙って彼女を見ていた。
「俺もだよ」
「本当?」
「ああ。こうしてエレナと暮らせることが、嬉しい」
エレナは小さく笑った。
「……私も」
窓の外から、遠くで人の声が聞こえた。まだ仕事をしている者もいるのだろう。港町の一日は、二人が部屋に戻ったからといって終わるわけではない。
エレナはアランの手に目を向けた。働いてきた手だった。自分の手にも、皿を運び続けた疲れが残っている。
「明日も忙しいかしら」
「きっとね」
「また失敗するかもしれないわ」
「俺もだよ」
「ふふっ。じゃあ、また帰ってきたら話しましょう」
「うん。そうしよう」
アランが笑い、エレナも笑った。
遠い王都のことを忘れたわけではない。帰る場所を失ったわけでもない。二人にはまだ、考えなければならないことがたくさんあった。
それでも今夜は、今日も無事に帰ってこられたことが嬉しかった。
誰かに感謝され、自分たちも誰かに感謝する。
食卓に残る温もりは、決して大きなものではない。
エレナはその小さな幸せを、もう少しだけ味わっていたかった。
◇
一方、その頃。
王都やヴァレスタから遠く離れたルベルでは、ラヴィナたちがいつもと変わらない朝を迎えていた。
花屋には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
早朝の花摘みと運搬を終えたミレイは、届いた花を選り分けていた。ロイが運んだ束をほどき、ラヴィナが机の上へ並べる。店内には土の匂いと花の香りが混ざっている。
「おい、これ、どこに置けばいい?」
ロイが大きな束を抱えて尋ねた。
「そっちじゃなくて、窓の近くにお願い」
「こっちか?」
「もう少し奥。そう、その辺」
「最初からそう言ってくれよ」
「言ったでしょう?」
ミレイが笑うと、ロイは肩をすくめた。
「花ってのは、見た目より手間がかかるな」
「だから二人が手伝ってくれて助かってるの」
「俺は運ぶのは慣れてるけど、並べ方はさっぱりだ」
「そのうち覚えるわ」
ラヴィナは隣で花の向きを直していた。
「ロイ、あんたは花より荷車の方が似合うな」
「何だと。お前だって最初はどれが売り物か分かってなかっただろ」
「俺は覚えるのが早いんだよ」
「よく言うぜ」
二人の言い合いを聞きながら、ミレイは笑った。
店を開いてから、忙しい日が続いている。花を摘むだけでなく、傷み具合を見て、並べ、客の希望を聞き、売れ残りも考えなければならない。好きで始めた仕事でも、楽なことばかりではなかった。
それでも、こうして二人がいる朝は心強い。
「そうだ、ミレイ!」
ラヴィナが何かを思い出したように、嬉しそうな声を上げた。
「何?」
「この前、エレナから手紙が来たんだよ!」
「本当? エレナ、元気にしてた?」
「ああ! 海を見たんだってさ。すっげえ綺麗だったって書いてあった!」
ラヴィナは嬉しそうに笑った。
そのやり取りを聞いていたロイが、首を傾げる。
「なあ、そのエレナって誰だ?」
「俺の友達だよ」
「へえ。どこで知り合ったんだ?」
「まあ、いろいろあってな」
「何だよ、いろいろって」
ロイが不満そうに眉を寄せると、ラヴィナは得意げに笑った。
「へへっ。お前の知らないところで、俺にも友達ができたんだよ」
「いや、友達ができたのは分かったけどさ。何でそんなに得意げなんだよ」
ミレイは二人のやり取りを聞きながら、くすくすと笑っていた。
「今はヴァレスタに住んでるんだ。海を見たって書いてあった」
「ヴァレスタ? 随分遠いな」
「そうなんだよ。俺も行ってみたくてさ」
ミレイは手元の花を整えながら、ラヴィナをちらりと見た。
「その話、あまり大きな声でしないでね」
「分かってるって」
だが、ロイはもう興味津々だった。
「なあ、そのエレナって子、何者なんだ?」
ラヴィナは少しだけ考え、声を落とした。
「……エレナ王女だよ」
ロイの手から、花を包んでいた布が滑り落ちた。
「は? 王女って、あの王女様か?」
「そうだって」
「ちょっと待てよ。王女様は山賊に襲われて亡くなったって……」
「生きてるんだよ」
「生きてる!?」
「シーッ!」
ラヴィナとミレイの声が重なった。
ミレイは慌てて戸口を見た。幸い、まだ客の姿はない。
「ロイ、声が大きい」
「だ、だって……」
「事情があるんだよ。誰にも言うなよ、絶対に」
ラヴィナは笑みを消していた。
ロイもその顔を見て、ようやく声を落とした。
「……本当なのか?」
「こんなことで嘘ついてどうすんだ」
「でも、王女様が何でお前と友達なんだよ」
「それは秘密」
「秘密って……」
「言えないこともあるんだよ」
ミレイが静かに続けた。
「ロイ、お願い。今の話は外でしないで。エレナには事情があるの」
「分かった。言わない」
「本当に?」
「本当だって。俺だって、まずい話だってことくらい分かる」
ロイは真剣にうなずいた。
その顔を見て、ラヴィナはようやく肩の力を抜いた。
「なら、いい」
「でもさ、一つだけ聞いていいか?」
「何だよ」
「王女様って、どんな人なんだ?」
ラヴィナは少し目を細めた。
「……いいやつだよ」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」
ミレイが微笑んだ。ロイは納得できない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「ま、そんなことよりさ」
ラヴィナは再び笑顔になると、懐から丁寧に折り畳まれた手紙を取り出した。
「せっかくだから、三人で読もうぜ!」
「いいの? 私も読んでみたいわ」
ミレイが嬉しそうに手を止めた。
「おい、俺もいいのか?」
「いいぜ。ただし、さっきの約束は忘れんなよ」
「分かってるって。誰にも言わねえよ」
ロイが真面目な顔で答えると、ラヴィナは満足そうにうなずいた。
三人は花を並べていた作業台の端を空け、そこへ集まった。
ミレイが手紙を広げる。
「まあ……エレナ、海を見たのね」
「そうなんだよ! すっげえ綺麗だったって書いてあるだろ?」
「ちょっと、ラヴィナ。今読んでるんだから」
「へへっ、悪い悪い」
ラヴィナは口では謝りながらも、嬉しそうに手紙を覗き込んでいる。
手紙には、エレナが初めて海を見たときの驚きや、ヴァレスタで新しい暮らしを始めたことが綴られていた。
「海って、そんなにすごいのか?」
ロイが興味深そうに尋ねる。
「俺も見たことねえから分かんねえけど、エレナがあんなに喜んでるんだから、相当綺麗なんだろうな」
「ふふっ。エレナらしいわね」
ミレイは手紙を読みながら微笑んだ。
「きっと、目を輝かせて眺めていたんでしょうね」
「ああ! あいつ、知らないものを見るとすぐ夢中になるからな」
ラヴィナは楽しそうに笑った。
ロイはそんな二人を見比べた。
「へえ……王女様って、そんな人なのか」
「何だよ。もっと偉そうなやつだと思ってたのか?」
「まあ、ちょっとな。王女様なんて、俺たちとは住む世界が違うだろ」
「ははっ、確かに世間知らずなところはあるけどな。でも、偉そうにしたりしねえよ」
「そうね。とても優しくて、話していると楽しい人よ」
ミレイも懐かしそうにうなずいた。
「ふうん……」
ロイはもう一度、手紙へ目を落とした。
王女と聞けば、立派な城に住み、大勢の人間に囲まれて暮らしている姿しか思い浮かばない。
けれど、二人が話すエレナは、初めて海を見て喜び、遠くの友人へ手紙を書く、ごく普通の少女のようだった。
「何か、会ってみたくなってきたな」
「おっ、ロイもか?」
「ああ。お前らがそんなに楽しそうに話すんだから、どんな子なのか気になるだろ」
ラヴィナは得意げに笑った。
「へへっ。会ったらきっと驚くぜ」
「だから、何に驚くんだよ」
「それは会ってからのお楽しみだな!」
「お前、さっきからそればっかりじゃねえか」
ミレイがくすくすと笑った。
やがて手紙を読み進めるうちに、その表情が少しだけ真剣になる。
「でも……新しい暮らしって、やっぱり大変そうね」
「ああ。慣れない仕事も始めたみたいだしな」
「アラン様も一緒に頑張っているんでしょうけど、二人とも無理していないといいわね」
ラヴィナはうなずいた。
「俺もさ、エレナに会いに行きたいんだよな」
「ヴァレスタへ?」
「そう。海も見てみたいし、久しぶりに顔も見たいしな」
「いいなあ。私も行きたいわ」
ミレイが羨ましそうに言うと、ラヴィナは笑った。
「ミレイは店があるだろ」
「分かってるわよ。でも、行きたいって思うくらいいいでしょう?」
「ははっ、そりゃそうだな」
ロイが二人の顔を見比べた。
「だったら、行けばいいじゃねえか。ルベルから馬車も出てるんだろ?」
「ああ。でも、今すぐはやめとく」
「何でだよ?」
「エレナたち、やっと新しい暮らしを始めたところだろ。仕事にも慣れなきゃいけねえし、いろいろ大変だと思うんだよ」
ラヴィナは手紙へ目を落とした。
「俺が突然押しかけたら、あいつ、きっと無理してでも相手してくれるだろうしな」
ミレイは少し驚いたようにラヴィナを見た。
「……そうね。エレナなら、きっとそうするでしょうね」
「だろ? だから、もう少し落ち着いてからにする」
「ラヴィナも、ちゃんと考えてるのね」
「何だよ、それ。俺がいつも何も考えてねえみたいじゃねえか」
「ふふっ、そんなこと言ってないわ」
ロイが横から口を挟む。
「いや、俺はちょっと思った」
「お前まで何だよ!」
三人の笑い声が店内に広がった。
ひとしきり笑ったあと、ロイがぽつりと言った。
「でもさ、いつか俺も会ってみたいな。そのエレナって子に」
「おう! そのときは紹介してやるよ」
「本当か?」
「ああ。ただし、今日のことは絶対に秘密だからな」
「分かってるよ。何度も言わせんなって」
ロイは笑いながら答えたが、その目は真剣だった。
ミレイは手紙を丁寧に畳み、ラヴィナへ返した。
「いつか、みんなで会えるといいわね」
「ああ!」
ラヴィナは大切そうに手紙を懐へしまった。
(エレナ、元気でやってろよ。また会えるの、楽しみにしてるぜ)
そのとき、店の戸が開いた。
「いらっしゃいませ!」
ミレイがすぐに声をかける。
入ってきた客は、並んだ花を眺めながら、明るい色の花を探していると告げた。
「それでしたら、こちらはいかがでしょう?」
ミレイは棚から何本か花を取り、客の好みを聞きながら組み合わせていく。
ロイは包み布を用意し、ラヴィナも頼まれた花を手渡した。
「こっちの花も綺麗だぜ!」
ラヴィナが別の花を差し出すと、ミレイは笑った。
「それもいいけど、まずはお客様のお好みを聞かないと」
「あ、そうか」
客もつられて笑った。
「ふふっ、賑やかなお店ね」
「すみません。いつもこんな感じで」
「いいえ。楽しそうで、こっちまで元気になるわ」
ミレイは嬉しそうに礼を言った。
花束が売れると、ロイが包みを渡し、ラヴィナが戸を開けた。
「ありがとうございました!」
客を見送ったあと、ミレイは二人を振り返った。
「ありがとう。二人とも助かったわ」
「どういたしまして!」
「俺だって、ちゃんと働いてるだろ?」
ロイが得意げに胸を張る。
「ええ。二人がいてくれるから、本当に助かってる」
ミレイの言葉に、ラヴィナは照れくさそうに笑った。
「ま、明日も花を運んでやるよ」
「お前、さっきから偉そうだな」
「何だよ、ロイ。文句あんのか?」
「別に。明日も寝坊するなよって話だ」
「俺がいつ寝坊したんだよ!」
「この前、俺が起こしに行っただろ」
「あれはちょっと寝過ごしただけだ!」
「それを寝坊って言うんだよ」
ミレイは二人の言い合いを聞きながら、声を立てて笑った。
店内には、朝摘んできた花の香りが満ちている。
ラヴィナは懐にしまった手紙を、服の上からそっと押さえた。
遠い海の町で、エレナも今頃、忙しく働いているのだろう。
いつかまた会えたら、聞きたいことが山ほどある。
それまでは、自分もここで毎日を楽しもう。
「おい、ラヴィナ。次の花、並べるぞ」
「おう!」
ロイの声に元気よく答え、ラヴィナは花束を持ち上げた。
ルベルの小さな花屋には、三人の楽しそうな声が響いていた。




