第26話 差し伸べる手
あの親子は、今日もちゃんと食事を取れているだろうか。
エレナは食事処の戸口へ、つい視線を向けてしまった。
数日前、マリエッタとノエルに食事を振る舞った。少年は母親の顔を確かめてから、嬉しそうに料理を口にした。あの笑顔は今も覚えている。けれど、母親がこれ以上の援助を遠慮したときの表情も忘れられなかった。
その日の空腹を満たすことはできた。では、次の日は。その次の日は。
(私に、ほかにできることはないのかしら)
考えても答えは出ない。少なくとも、今のエレナは、親子がどんな仕事なら続けられるのかさえ知らなかった。
エレナは空になった皿を重ね、食事処の奥へ運んだ。昼の混雑がようやく引き始めている。客の残したパン屑を払い、卓を拭き、次の客のために椅子を戻す。初めてここへ来た日のように、一枚の皿を運ぶだけで足がすくむことはなくなった。それでも忙しいときには、まだ店主の声が飛ぶ。
「そっちの皿は先だ。冷めちまうぞ」
「はい、すぐに!」
返事をして、運ぶ順番を入れ替える。店主は一度うなずくと、もう次の鍋を見ていた。
働き始めてから、エレナは客の手元を見るようになった。食器を持つ指。硬貨を数える指。仕事で傷ついた節の太い指。王城にいたころは、働く人の手をこれほど近くで見ることなどなかった。
ふと、もう一度ノエルの顔が浮かんだ。
食事を前にしたときの、遠慮がちな笑顔。母親の顔を確かめてから、ようやく嬉しそうに口を開いたこと。マリエッタが二度目の援助を断ったときの、静かだが揺るがない声。
(あの人は、助けてもらいたくないわけではないのよね)
困っていないはずがない。けれど、誰かの親切が途切れた途端に立ちゆかなくなる暮らしを、マリエッタは望んでいなかった。
エレナ自身、アランとともに給金を受け取って初めて、働いて得る金の重さを知った。あのときの喜びは、誰かに硬貨を渡されるだけでは得られなかったものだ。
「どうした。手が止まってるぞ」
店主の声に顔を上げる。
「申し訳ありません。少し考え事をしていました」
「考え事は皿を落とさない程度にな」
からかうような口調だった。エレナが「気をつけます」と答えると、店主は鼻で笑った。
仕事を終えたら、もう一度親子を訪ねよう。
今度は何かを渡すためではない。何ができるか、一緒に考えるために。
◇
マリエッタは、戸口に立つエレナを見て驚いた顔をした。
「まあ。今日はどうなさったんですか」
「突然お訪ねしてすみません。少し、お話をしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ」
質素な部屋は、以前と変わらずきちんと片づけられていた。新しい家具が増えたわけでもない。窓から差す光が、使い込まれた布の端を明るく照らしている。
「お姉さん!」
ノエルが母親の陰から顔を出した。すぐに近寄ってきたものの、目の前まで来ると少し照れたように足を止める。
「こんにちは、ノエル」
「こんにちは。……今日はごはんじゃないの?」
「ふふ。今日はお母様とお話をしに来たの」
ノエルは少し考えてから、「そっか」とうなずいた。
エレナはマリエッタと向かい合った。
「この前のことを、ずっと考えていたんです」
「この前?」
「お食事と、お金をお渡ししたことです。あの日は少しでもお役に立てればと思ったのですが……それだけでは、これからの暮らしを変えられませんでした」
マリエッタはすぐに首を振った。
「そんなことはありません。本当に助かりました。あの子にも、久しぶりにお腹いっぱい食べさせてあげられましたから」
「でも、次の日も、その次の日も、同じ心配が続くのですよね」
返事までに間があった。
「……ええ」
マリエッタは膝の上で手を重ねた。
「仕事がない日には、どうしても先のことを考えてしまいます。ノエルには、そんな顔を見せたくないんですけれど」
「お母さん、そんな顔してないよ」
傍らで聞いていたノエルが口を挟む。
「本当に?」
「うん。……ちょっとだけ、してるときあるけど」
マリエッタが困ったように笑った。エレナもつられて微笑む。ノエルは自分が何かおかしなことを言ったのかと二人を見比べた。
そのとき、エレナは少年の膝に目を留めた。
焦げ茶色のズボンに、丁寧な補修跡があった。色の違う布を当ててあるが、端は細かく縫われ、余計な糸も出ていない。使い古された服なのに、そこだけは不思議と整って見えた。
「ノエル、そのお洋服……」
少年は慌てて膝を押さえた。
「破れたけど、お母さんが直してくれたんだ」
「そうなのね。とても綺麗に直っているわ」
エレナがマリエッタを見る。
「ご自分で?」
「ええ。買い替える余裕がありませんから。繕えるものは繕って、できるだけ長く着せているんです」
「ここは、布を重ねてあるのですね」
「薄くなったところに、そのまま糸を通してもまた破れてしまいますから」
マリエッタは何でもないことのように説明した。
エレナはもう一度、縫い目を見た。小さな手仕事に、長く着せたいという気持ちが残っている。
「ほかのお洋服も直されるのですか」
「できる範囲なら。縫い目がほどけたり、袖が破れたりしたものは直します。ただ、難しい仕立てができるわけではありませんよ」
誇張のない返事だった。
(この人には、もうできることがある)
エレナは顔を上げた。
「マリエッタさん。そのお仕事を、ほかの方のためにもできませんか?」
「……お仕事、ですか?」
「はい。衣服を直して、その対価をいただくんです」
マリエッタは驚いたまま、しばらく黙っていた。
「でも、私に頼んでくださる方がいるでしょうか」
「それは、これから探してみないと分かりません」
「針や糸だって、たくさん必要になるかもしれません。何より、ノエルを一人にして遠くへ働きに行くのは……」
言いかけて、マリエッタは口を閉じた。
「すみません。せっかく考えてくださっているのに、できない理由ばかり」
「いいえ。大切なことです」
エレナはゆっくり答えた。
「私、前はそこまで考えていませんでした。困っている方に何かを差し上げれば、少しは良くなると思っていたんです。でも、お仕事をするなら、続けられなければ意味がありませんものね」
マリエッタの指が、膝の上でほどけた。
「……そうですね」
「ですから、まず必要としている方がいるか、私に調べさせてください。お仕事が見つかるとは、まだお約束できません。でも、探してみたいんです」
ノエルが二人の顔を見比べた。
「お母さん、お仕事するの?」
「まだ決まったわけじゃないのよ」
「じゃあ、決まったら教えて」
「ええ。一番にね」
エレナはその約束を聞きながら、胸の奥に小さな責任を感じた。
帰り際、ノエルは戸口までついてきた。
「お姉ちゃん、また来る?」
「ええ。お母様にお話ししたいことが見つかったら」
「じゃあ、ぼく、待ってる」
何の疑いもない声に、エレナは少しだけ返事をためらった。仕事を探してくると約束したわけではない。それでも少年には、何か良い知らせが届くように聞こえたのかもしれない。
「ノエル。お母様のお手伝いもしてね」
「うん。ぼく、できることする」
小さな手が握られた。エレナはうなずき、部屋を後にした。
通りを歩きながら考えたのは、仕事の名前ではなかった。あの母親が何をできて、何なら無理なく続けられるのか。ノエルが安心して母親の帰りを待てるか。まだ分からないことばかりだ。
それでも、聞くべきことが分かっただけ、昨日よりは一歩進めた気がした。
自分が持ちかけた話だ。期待だけを残して去るわけにはいかない。
◇
「服を直してくれる人がいたら、か?」
翌日、食事処の常連客はエレナの質問に目を丸くした。
「ええ。港のお仕事では、お洋服が傷むことも多いのでしょう?」
「そりゃあな。木箱の角に引っかけりゃ袖なんてすぐだ」
男は肘のあたりを持ち上げて見せた。縫い目がほつれ、布の端が少し浮いている。
「それも、お直しされるんですか?」
「暇がありゃな。けど、仕事が終わると飯食って寝るだけだ。針なんぞ持ちたくもねえ」
「お前は持ったところで指を刺すだけだろ」
隣の男が笑う。
「うるせえな。お前だって洗濯した服を雨に濡らしただろうが」
「ありゃ天気が悪かったんだ!」
卓が笑いに包まれた。
エレナも微笑んだが、笑いの中に困り事がいくつも隠れていると分かった。破れた服を直す時間。汚れた服を洗う手間。替えを用意できない者の不便さ。
「そうしたお仕事を、まとめて引き受ける方がいたら、助かりますか?」
「助かるさ。ただ、誰が金を出すんだ?」
その問いに、エレナは答えられなかった。
「俺たちが毎回払うなら、結局自分でやるってやつもいるだろうな」
「でも、仕事場でまとめて頼めるなら悪くねえ」
「どうせなら洗って返してくれりゃ、なおいい」
客たちはそれぞれ違うことを言った。必要だという声があっても、誰もが同じ条件で頼むわけではない。
エレナは注文を取りながら、その違いを覚えておこうとした。
(必要な人がいるだけでは、仕事にはならないのね)
では、誰に相談すればいいのか。
港の仕事を取りまとめる人物を思い浮かべたとき、エレナは顔を上げた。
ディルク・ハイゼン。
アランを採用し、港の警備責任者だ。
相談するなら、あの人だと思った。
◇
港湾管理区域へ向かう道は、今日も忙しかった。
樽を積んだ荷車が通り、倉庫の前では男たちが声を掛け合っている。船から降ろされた荷が一つずつ運ばれていく。以前はただ大きく見えた港が、今のエレナには無数の仕事がつながって動く場所に見えた。
ディルクの事務所を訪ねると、彼は書類から顔を上げた。
「おう。どうした、今日は一人か」
「はい。少し、ご相談したいことがありまして」
「そうか。まあ、座れ。急ぎの話か?」
「急ぎというほどではないのですが……私には大切なお話なんです」
ディルクは大きな身体を椅子に預け、笑った。
「ははっ。そいつはちゃんと聞かんとな」
エレナはマリエッタ親子の事情を必要な範囲で説明した。母親が自分の力で働きたいと望んでいること。ノエルの服を丁寧に繕っていたこと。港の客に聞くと、作業服の修繕や洗濯に困っている人がいたこと。
話し終えるまで、ディルクは遮らなかった。
「作業服の修繕か……」
大きな手で顎をさする。
「ははっ、そいつはいいところに目をつけたな。実は俺も前から何とかしたいと思ってたんだ」
「本当ですか?」
「ああ。港の連中は毎日、荷を運んでるだろう。服なんざすぐに傷む。男ばかりの現場で、針仕事を専門に引き受けるやつもいなくてな」
「それでしたら、その方にお願いできないでしょうか」
「腕が確かなら、こっちとしてもありがたい。洗濯までやってもらえりゃ、連中も助かるだろうな」
エレナは思わず身を乗り出した。
「では……!」
「おっと、まだ決まりじゃないぞ」
ディルクは笑ったまま、片手を軽く上げた。
「本人の腕も見たいし、何より金の問題がある」
「お金、ですか」
「ああ。荷役の仕事なら、もともと予算がある。新しい仕事を増やすとなると、俺の一存で勝手に金を出すわけにはいかん」
「では、どうすれば……」
「王都に申請するんだ」
エレナは瞬いた。
「王都に?」
「そうだ。この港は王家の管理下にあるからな」
その言葉は、思いがけず胸に残った。
「……王家の?」
「なんだ、知らなかったのか」
「はい。港のことは、ここで働く方々が決めているものだと……」
ディルクは責めるでもなく、うなずいた。
「現場で決めることも多いさ。俺にも人を雇う権限は任されてる。だが、港を動かす金まで自由にできるわけじゃない。船も荷も、人も集まる。王国にとっちゃ大事な出入り口だからな」
エレナは窓の外を見た。
あの荷車を押す人々も、倉庫で汗を流すアランも、自分が生まれ育った王家の管理する港で働いている。
王城では、港という言葉を地図や記録の中で見たことがあった。けれど、その仕事の一つを増やすために、王都へ申請しなければならないことは、目の前で聞くまで考えもしなかった。
(私は、何を知っていたのかしら)
法律の条文を覚え、政治の仕組みを学んだ。教えられたことに疑問を持たず、知識が増えるほど王国を理解したつもりになっていた。
だが、今ここで必要なのは、誰が何を決めるのか、誰が金を出すのか、その仕事が本当に必要なのかという、ごく具体的な問いだった。
「王都へお願いすれば、必ず認めてもらえるのでしょうか」
「いや。必要だってことを説明しなきゃならん。金には限りがあるからな」
「それでは、難しいでしょうか」
「難しいかどうかは、理由次第だ」
ディルクは机に置かれた書類を軽くたたいた。
「破れた服を放っておけば、作業中に引っかかることもある。汚れたままじゃ気持ちよく働けん。直して、洗って、持ち主へきちんと返す。こいつは単なる親切じゃない。現場に必要な仕事だ」
「……必要な仕事」
「ああ。将来は制服を揃えて、管理することも考えてる。誰がどの持ち場にいるか、見分けがつきやすくなるからな。ただ、そいつはまだ先の話だ。まずは今ある服を何とかする」
エレナは静かにうなずいた。
マリエッタのために仕事を作ってほしい。それだけを言いに来たはずだった。
けれどディルクは、港のために必要な仕事があり、それをできる人がいるなら結びつければよいのだと教えてくれた。
「その方を、一度連れてきてもいいでしょうか」
「もちろんだ。本人に話を聞かせてもらおう。無理にできると言われても困るしな」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いぞ。まずは腕を見せてもらって、それからだ」
大きな笑い声に、エレナも少し笑った。
事務所を出たとき、港の喧騒はさっきと変わらなかった。それなのに、耳へ届く掛け声の一つ一つが、少し違って聞こえた。
◇
マリエッタがディルクの前に座ったとき、最初に目を向けたのは机ではなく、自分の手だった。
働きたいと願ってきた。けれど、働けるかもしれない場所に来ると、胸が苦しくなる。
断られたらどうしよう。技術が足りないと言われたら。ノエルを一人にしてまで続けなければならない仕事だったら。
隣にはエレナがいる。だが、話すのは自分だ。
「緊張することはないぞ」
ディルクが笑った。
「……はい」
「まず、どんな繕いができる?」
「破れたところを当て布で補強したり、縫い目のほつれを直したりすることならできます。ですが、立派な服を仕立てた経験はありません」
「立派な服は要らんさ。ここの連中が着るのは、泥や汗で汚れる作業服だ。丈夫に直せるかが大事なんだ」
マリエッタはようやく顔を上げた。
「それでしたら、できる限りのことは……」
「洗濯はどうだ? 数が増えりゃ、家でやるのとは勝手が違う」
「一度に多くの服を扱ったことはありません。やり方を覚える時間をいただければ、少しずつ……」
「よし。最初から全部任せるつもりはない。無理して倒れられたら、こっちも困るからな」
ディルクはそこでノエルのことを尋ねた。
「息子さんがいるんだってな。仕事の時間は大丈夫か?」
「長く家を空けるのは難しいんです。できれば、あの子の様子を見られる時間を残したくて」
「そりゃ大事だ。仕事を増やして暮らしが回らなくなったら意味がない」
マリエッタは驚いた。
働き口を求める側が、子供の事情を口にするのはわがままなのではないかと思っていた。だがディルクは、何も不自然なことを聞いていないような顔をしている。
「まずは試しに一着、直してみてくれ。道具も材料もこっちで用意する。仕上がりを見てから、先のことを考えよう」
マリエッタは深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
エレナはその横顔を見ていた。
自分が答えを言う必要はなかった。マリエッタは、自分の言葉でできることとできないことを伝えていた。
◇
試しに渡された作業服は、袖の付け根が大きくほつれていた。
マリエッタはまず、破れたところを指先で確かめた。布の端だけを寄せても、力がかかればまた開いてしまう。どこに負担がかかるかを考え、当て布を合わせる。
ディルクが用意した糸と針を手に取ると、最初の緊張が少し和らいだ。
針を通し、糸を引く。布を裏返して確かめる。細かな仕事の一つ一つは、ノエルの服を直してきたときと変わらない。
違うのは、これが誰かの仕事を支えるための一着だということだった。
エレナは傍らで見守っていた。何度か声をかけようとして、やめた。マリエッタの指が止まったのは迷っているからではなく、縫い目を確かめているからだと分かったからだ。
しばらくして、マリエッタが服を広げた。
「……できました」
ディルクは縫い目を見て、持ち主の作業員にも確かめさせた。
「どうだ。動かしてみろ」
男は腕を上げ、前へ伸ばした。袖の付け根を何度か引いてから、驚いたように笑う。
「おお。前よりしっかりしてる」
「また破れそうなところはあるか?」
「いや、これなら使える。助かるよ」
マリエッタは、両手を胸の前で握り合わせた。
「よかった……」
ディルクは満足そうにうなずいた。
「いい仕事だ。これなら申請する理由が一つ増えたな」
「……採用していただけるのでしょうか」
「まだ予算の返事を待たなきゃならん。そこは正直に言っとく。だが、俺は必要だと思ってるし、腕も見せてもらった。王都にはそう伝えるさ」
マリエッタは再び頭を下げた。
エレナも嬉しかった。けれど、今すぐ仕事が決まったわけではないことを忘れなかった。
作業員は修繕した袖を見ながら、照れくさそうに笑った。
「実はこれ、もう捨てるしかないと思ってたんだ。新しいのを買うのも面倒でな」
「傷んだところを早く直せば、まだ使えると思います」
「そうか。じゃあ次からは、ひどくなる前に持ってくるよ」
マリエッタはその言葉にうなずいた。仕事を頼まれるということが、ほんの少し現実味を帯びた。
ディルクは服を返すと、エレナへ向き直った。
「お前さんが気づいたのはいいことだ。ただ、ここから先は仕事の話になる。情だけで決めちゃいかん」
「はい」
「働く人に無理をさせず、頼む側もきちんと対価を払う。そいつが続かなきゃ、最初だけ喜んでも仕方がない」
エレナは頷きかけ、ふと顔を上げた。
「では、申請が認められたあとも、マリエッタさんが続けられるか確かめる必要がありますね」
「そういうことだ。最初から何十着も任せたら、腕がよくても参っちまうだろう?」
マリエッタが小さく笑った。
「ええ。さすがに一度にそんなには……」
「ははっ、分かってる。まずは直せる数から始めよう。洗濯だって、いきなり全部じゃない」
エレナは二人のやり取りを見つめた。
以前なら、仕事が決まったと聞くだけで安心しただろう。けれど、働く側が困らないことも、依頼する側が困らないことも、同じくらい大切なのだと今は思う。
マリエッタがノエルを育てながら働く。そのためには、頑張れば何とかなるという言葉では足りない。毎日何時に出て、どれほどの作業をし、どこで洗い、いつ息子のもとへ帰れるか。そんな細かなことを積み重ねて初めて、暮らしは続いていく。
ディルクは最後に、修繕した袖を指で軽く引いた。
「よし。あとは俺の仕事だな。王都に、必要な金だと分かってもらうさ」
マリエッタは何か言いかけたが、うまく言葉にならなかった。代わりに深く頭を下げる。
エレナはその姿を見て、初めてこの仕事の話を持ちかけたときよりも、ずっと慎重な気持ちになっていた。
試しの一着を手にした男が、もう一度袖を動かしている。
それを見たマリエッタが、少しだけ背筋を伸ばした。
その変化が、エレナには何より嬉しかった。
◇
王都会議が終わってから、ヴァルターは落ち着かない日々を過ごしていた。
王妃候補募集の議案は否決された。反対十九票、賛成十八票。わずかな差で、王国の行方を左右する議案が退けられた。
会議の間、幾度も交わされた言葉が耳に残っている。王家の安定。国の将来。失われた王女。誰もが国のために語っているようで、その言葉の向こうにある思惑まで同じとは限らなかった。
ユリウスとの取引も、完全に片づいたわけではない。
クロイツ家の情報網が軍に役立つことは認める。だが、それを理由に情報指揮官の地位を与えるかどうかは別の問題だ。前向きに検討するとは伝えたものの、任命が決まったわけではなかった。
それでも、王都に長くとどまるわけにはいかない。ヴァルゼディアには守るべき国境がある。
帰還を控え、ヴァルターは手元の書類を整理していた。
そこへ一通の手紙が届けられた。
差出人を見た瞬間、指が止まる。
アラン・フォルディス。
見間違いではないかと、もう一度確かめた。
(アラン……?)
王国から追われている息子。生死さえ確かめられずにいた長男からの手紙だった。
封を切る手つきは、いつもより遅かった。
文面は短い。
自分は無事であること。エレナ王女も生きていること。王女を守り続けること。そして、その生存を伝える相手は国王レオルドだけにしてほしいという願い。
命に代えても王女を守る。
その決意が、飾りのない言葉で記されていた。
ヴァルターは一度、手紙を机に置いた。
目を閉じ、深く息を吐く。
無事だった。
アランが生きている。王女も生きている。
その二つの事実だけで、胸の奥を締めつけていたものが、わずかに緩んだ。
だが、手紙を読み直すうちに、別の重さが残った。
どこにいるのか。いつ帰るのか。なぜ帰れないのか。
知りたいことは、何一つ書かれていない。
ヴァルターは一度手紙を伏せ、窓の向こうに目を向けた。
国境の要塞では、命令を出せば報告が返ってくる。兵がどこに配置され、どの道を守り、何が足りないのか。遅れることはあっても、確かめる方法がある。
だが、自分の息子がどこで何をしているのかについては、誰も確かなことを教えてくれなかった。
アランは無事だと書いている。エレナ王女も無事だという。その一文だけで、胸を押さえつけていた重みがわずかに緩んだ。
しかし、なぜ帰れないのか。なぜ居場所を伏せるのか。王女を命に代えても守るという言葉の背後には、どれほどの危険があるのか。
(お前は昔から、できもしないことを軽々しく口にする男ではなかった)
ヴァルターは唇を結んだ。信じたいのはアランだけではない。アルトもまた、自分の息子なのだ。報告が食い違うからといって、片方をすぐに嘘つきと決めつけることはできなかった。
父としての思いと、公爵としての責務。そのどちらも、今は答えを出してくれない。
ヴァルターは文字を指先でなぞりかけ、手を引いた。
(お前は、そこまでして何を守ろうとしている)
騎士団長としてのアランを知っている。責任から逃げるような男ではなかった。少なくとも、父である自分はそう信じてきた。
しかし王都では、アランは王女を危険にさらした重罪容疑者として全国手配されている。
その判断のもとになった報告には、アルトの言葉がある。
ヴァルターは眉間に皺を寄せた。
アルトもまた自分の息子だ。次男の話を疑うことは、父として容易ではない。だが、アランの手紙を手にした今、聞かずに済ませることもできなかった。
あの事件で何があったのか。
王女はどうして死んだことになったのか。
アランが命をかけて守ると記した相手が生きているなら、騎士団の報告は何を意味するのか。
手紙は、真相を教えてはくれない。むしろ問いを増やした。
それでも、息子が無事であると知れた喜びを、ヴァルターは否定できなかった。
「……馬鹿者が」
声に出してから、何を責めたかったのか分からなくなった。
帰る時期を書かないことか。父を頼らないことか。それとも、命に代えても守るなどと、あまりに重い約束をしていることか。
ヴァルターは手紙を折り直した。
国王だけに伝えてほしいという願いも、忘れてはいない。だが、その前に確かめなければならないことがある。
アルトはまだ戻っていない。
戻ったら、もう一度聞こう。曖昧な報告ではなく、何を見て、何を知り、何を王都へ伝えたのか。
ヴァルターは帰還を急がず、息子を待つことにした。
窓の外では王都の人々が普段どおりに行き交っている。
その穏やかな眺めと、手の中の手紙が告げる現実との隔たりは、あまりにも大きかった。
◇
騎士団一行はヴァレスタを離れ、西にあるリゾート都市セレヴィアへと足を進めていた。
ここは、エレナの誕生日パーティーが開かれるはずだった最終目的地の場所だ。
アルトは街路を進みながら、かつて計画されていた旅行のことを思い返していた。
エレナがアランとともに旅を続けているのなら、当初の目的地だったセレヴィアを訪れる可能性は十分にある。
ルベルを越え、ヴァレスタで海を眺め、その先のセレヴィアへ。
少なくとも、ここまでの二人の足取りは、かつての旅行計画と重なっていた。
(エレナ王女……兄上、ここまで来たのか?)
アルトは行き交う人々に目を向けながら、捜索を続けた。
兵士たちには、アラン・フォルディスを捜すよう命じている。王女の生存については口にしない。王国が発表した事実は、エレナ王女の死だった。
その名を胸の内で呼ぶたび、アルトの感情はわずかに乱れた。
兄上はどこにいる。
エレナ様は、今どこで何をしている。
答えのない問いを繰り返しても、捜索は進まない。
アルトは呼吸を整えた。
以前なら、兄の名を思い浮かべるだけで身体の内側に熱が広がり、抑えきれなくなることがあった。今はその兆しをある程度感じ取れる。完全に静められるわけではないが、力に呑まれるまでのわずかな間を、自分の意思でつかめるようになっていた。
(落ち着け)
そう言い聞かせたときだった。
「うわああっ!」
悲鳴が響いた。
アルトは振り向き、走った。
声のした先には兵士たちが集まりかけていた。一人が地面に膝をつき、左腕を押さえている。肘から先が不自然な角度になっていた。
「何があった!」
兵士たちが道を開ける。
負傷した男の向こうに、一人の女性が立っていた。
淡い銀紫色の短い髪。静かな目元。少女と見紛うほど軽やかな佇まいだったが、落ち着きすぎたその姿には年齢を測れないものがあった。
フィルガ・ノルゼリス。
ヴェルネシア魔工国から来た彼女は、周囲の騒ぎなど気にも留めていないように見えた。
「貴様がやったのか」
アルトが問う。
フィルガは小さく首を傾げた。
「正当防衛ですわ」
あまりに自然な返事だった。
アルトは負傷した兵士を見た。自分よりひと回り大きな男が、痛みに顔を歪めている。相手は武器を構えてすらいない。
「正当防衛だと?」
「ええ。そう申し上げましたの」
フィルガは微笑んだ。
その表情が、かえってアルトの背筋を冷やした。
「まず、その者の手当てをしろ」
アルトが兵士たちへ指示すると、二人が負傷者のそばにしゃがんだ。
フィルガはその様子を眺めていたが、やがてアルトへ目を向けた。
「ところで、御病気というのはあなたですの?」
アルトの思考が止まった。
「……何?」
「探していた方に、ようやくお会いできたようですわ」
周囲の兵士たちが顔を見合わせた。病気という言葉が、騎士団長代理に向けられたことを理解できず、何人かはアルトの顔を見た。
その視線が不快だった。
「何の話をしている」
「ふふっ。守秘義務とかありますの?」
フィルガは周囲へ視線を巡らせた。
「なら、わたくしが人払いをして差し上げますわ」
アルトは眉をひそめた。
「待て。何を――」
フィルガが歩き始めた。
急いでいるようには見えなかった。むしろ、食事の席で誰かへ声をかけるときのように、ゆったりとした足取りだった。
近くの兵士が戸惑い、半歩下がる。
「近づくな」
アルトの声が鋭くなった。
フィルガは止まらなかった。
彼女の指先が、兵士の腕へ伸びる。
次の瞬間、布の上から指が沈み込んだ。
刃物は見えなかった。
それなのに、指先は肉を貫き、腕の反対側へ抜けていた。
「ぎゃああっ!」
兵士が身体をよじる。
アルトは息を呑んだ。
見間違いかと思った。人の指が、そんなふうに腕を貫くはずがない。だが、血がにじみ、男が痛みに声を上げている。
フィルガの顔には怒りがなかった。
怯えも、興奮も、ためらいも見えない。
まるで誰かの肩に軽く触れた程度の出来事だったかのように、彼女は兵士を見ていた。
「やめろ!」
アルトは踏み出した。
すでに、一人の兵士が腕を折られた。そして今、別の部下が目の前で傷つけられている。
このままでは殺されるかもしれない。
(こんな……こんな女に、部下を!)
怒りが胸の奥で燃え上がった。
同時に、別の感情が混じる。
恐怖だった。
相手は、剣を抜いたわけでもない。大声で脅したわけでもない。なのに、二人の兵士が一瞬で傷つけられた。
何より恐ろしいのは、その行為をした本人が、何一つ変わらぬ顔をしていることだった。
アルトの身体の内側で、熱が膨れ上がる。
ゼルヴァ。
抑えていたものが、怒りに応じて動き始めた。
以前のように、ただ呑まれるわけにはいかない。アルトは意識を一点へ集めた。目の前の相手を止める。部下をこれ以上傷つけさせない。
踏み込もうとした瞬間だった。
フィルガの姿が、視界から消えたように感じた。
「……っ!」
次に見えたときには、彼女はもうアルトの胸元にいた。
剣を振る間合いより内側。腕を伸ばせば届くほど近い。
自分が動き始めたはずなのに、距離を奪われている。
アルトは反射的に身体を引きかけた。
フィルガは攻撃してこなかった。
「あら」
彼女の瞳が、アルトを静かに見上げる。
「なるほど。あなたですのね」
その一言に、アルトはさらに警戒を強めた。
「何者だ」
「わたくしのことより、こちらをご覧になったほうが早いですわ」
フィルガは懐から手紙を取り出した。
アルトの視線が、差出人の名に止まる。
セリア・ヴェルネ。
「……セリア先生?」
思わず声が漏れた。
「ご存じですのね。では、その方に会わせてくださいまし」
アルトは手紙とフィルガを交互に見た。
セリアが、自分の症状について調べていることは知っている。だが、なぜその手紙を、異国から来た見知らぬ女が持っているのか。
何より、彼女は自分のゼルヴァを知っている。
「その手紙を、どこで手に入れた」
「書かれた方にお会いすれば、お分かりになることもあるでしょう?」
問いへの直接の答えにはなっていない。
アルトは周囲を見た。負傷した兵士たちは仲間に支えられている。血を流した男も意識はある。だが、今ここで再び争えば、何が起こるか分からなかった。
フィルガは手紙を持ったまま、静かに待っている。
「……王都へ戻る」
アルトは低く告げた。
「セリア先生に会わせる。ただし、これ以上、部下に手を出すな」
フィルガは小さく微笑んだ。
「ええ。お話ができるなら、それで結構ですわ」
その返事を聞いても、アルトは安心できなかった。
何を考えているのか分からない相手と、ともに王都へ向かう。
手紙の名がセリアでなければ、決して選ばなかった道だった。
◇
王都からの返事が来るまで、エレナは何度も港の方角を見た。
食事処の仕事は変わらない。客の注文を聞き、皿を運び、片づける。けれど、胸の片隅ではいつもマリエッタのことを考えていた。
ある日、親子を訪ねると、マリエッタはいつもどおりノエルの服を繕っていた。
「まだ、お返事が来なくて……」
「謝らないでください。お仕事を探していただいただけでも、ありがたいんです」
「でも、期待させてしまいました」
「期待はしています。でも、返事が来るまで、今できることを続けていきます」
その言葉に、エレナは救われた。
自分は、早く結果を出したいと焦っていた。けれどマリエッタは今日も暮らしを続けている。ノエルを育て、衣服を繕い、明日の食事を考えている。
「お姉さん、また来てくれたんだね」
「ええ。お母様のお仕事が決まったら、あなたにもお知らせしなくてはね」
「お母さんが一番に教えてくれるって言ったよ」
「そうだったわね」
三人は笑った。
エレナは思った。誰かを助けたいからといって、その人が自分の助けを待っているだけの存在だと考えてはいけない。
◇
やがて、王都から返事が届いた。
ディルクは書類を読み終えると、満足そうにうなずいた。
「よし。通ったぞ」
呼ばれたエレナとマリエッタは、机の前で顔を見合わせた。
「予算が認められた。修繕と洗濯、それから返却の管理まで、必要な仕事として進めていいそうだ」
「……本当ですか?」
マリエッタの声が震えた。
「ああ。もっとも、最初から何もかも任せるつもりはない。修繕から始めて、慣れたら洗濯も増やす。道具と材料はこっちで用意するし、洗濯に使える場所も既存の設備を見て調整する」
ディルクは続けた。
「息子さんのこともあるだろう。働ける時間を無理のないように決めよう。こっちは継続して頼みたい。どうだ、引き受けてくれるか?」
マリエッタはすぐには答えられなかった。
これまで何度も、仕事を探しては断られた。たとえ一日働けても、翌日も仕事があるとは限らなかった。
それが今、目の前の男は、継続して任せたいと言っている。
ノエルの顔が浮かぶ。
毎日の食事を心配しなくて済むだろうか。家賃を払う日が来るたび、眠れなくなることはなくなるだろうか。
すべてが急に解決するわけではない。それでも、道が見えた。
「……お願いします。私にできることを、精いっぱい務めます」
ディルクは大きく笑った。
「ははっ、よし。じゃあ、頼んだぞ」
エレナは隣に立つマリエッタを見た。
仕事を引き受けたのは彼女自身だった。自分はその言葉を代わりに言わなかった。
それが、何より嬉しかった。
◇
仕事が始まると、マリエッタの一日は少しずつ変わった。
最初は傷んだ作業服を修繕する。袖の付け根がほつれたもの、裾が破れたもの、当て布が必要なもの。一着ずつ傷み方が違う。
家でノエルの服を繕うときと同じように、まず布を確かめる。無理に糸を引けば、薄くなった部分がまた破れる。丈夫に使えることを第一に、針を動かした。
やがて洗濯と返却の仕事も少しずつ任されるようになった。誰から預かった服なのか。直す必要があるのか。洗い終えたものはどれか。返すときには、持ち主と一緒に確かめる。
覚えることは多かった。
初めて扱う数に戸惑う日もあったが、無理に全部を引き受けることはしなかった。ディルクも作業量を見ながら任せる範囲を調整した。
「おお、こいつは助かった」
修繕した袖を動かした作業員が笑った。
「前よりしっかりしてるじゃねえか」
「また傷みが出たら、教えてください」
「ああ。頼むよ」
その短いやり取りが、マリエッタには嬉しかった。
自分の仕事を必要としてくれる人がいる。
継続して頼まれる仕事がある。
そして、初めてその仕事の対価を受け取った日。
マリエッタは、手のひらの硬貨をしばらく見つめていた。
以前エレナから受け取った硬貨も、確かに親子を救ってくれた。あの日の感謝が消えることはない。
けれど、今日の硬貨は自分で働いて得たものだった。
家へ戻ると、ノエルが駆け寄ってきた。
「お母さん、お仕事どうだった?」
「今日もちゃんとできたわ」
「ほんと?」
「ええ。それにね、お仕事のお金をいただいたのよ」
ノエルは目を大きく開いた。
「じゃあ、明日もお仕事?」
「明日も、その先もね」
「よかった!」
少年は母親に抱きついた。
マリエッタはしゃがみ、その背中を抱き返した。
「お母さん、泣いてる?」
「……少しだけ」
「痛いの?」
「違うの。嬉しいのよ」
声が震えた。
収入の見通しが立ち、家賃と食費を賄える継続した仕事を得た。暮らしはこれからも楽なことばかりではないだろう。それでも、親子は自分たちの力で明日を迎えるための足場を手に入れた。
仕事が始まってから、マリエッタの一日は少し変わった。
朝はノエルの支度を確かめてから、預かった作業服の状態を見直す。傷みのひどいものと、短い時間で直せるものを分ける。洗濯が必要なものは、確認した場所で順に扱う。返却のときには持ち主を間違えないよう、一着ずつ確かめる。
最初は慣れず、同じ服を何度も広げ直すこともあった。汚れの落ちにくい部分を見つけて困り、縫い終えたあとで別のほつれに気づくこともある。
それでも、できることは少しずつ増えていった。
「お母さん、今日は何着直したの?」
ノエルが尋ねると、マリエッタは指を折って数えた。
「今日はね、昨日より一着多かったの」
「すごい!」
「でも、まだ時間がかかるのよ。急ぐと縫い目が乱れるから」
「ぼく、お母さんが縫ってるとこ見るの好き」
「どうして?」
「破れた服が、また着られるようになるから」
マリエッタは息子の髪を撫でた。
今までも、破れた服を繕うことはあった。けれど、それは暮らしを守るために必要な、終わりのない家事の一つだった。今は同じ手仕事を必要とする人がいて、直した服を受け取ると礼を言ってくれる。
誰かの役に立ったと実感することが、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
エレナが訪ねたとき、マリエッタは仕事の話を自分からするようになっていた。
「今日は、昨日より少し早く終わったんです」
「そうなのですね」
「まだ覚えることは多いですけれど……続けられそうです」
エレナはその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かに助けられたことを喜ぶ声ではなかった。自分の力で、明日も働けると確かめた人の声だった。
マリエッタは硬貨をしまう前に、もう一度手のひらへ載せた。
小さな重さだった。
けれど、そこには確かに、自分の働いた時間があった。
◇
その夜、エレナはアランに報告した。
「マリエッタさん、お仕事を続けていただけることになったんです」
「そうか。それはよかったな」
アランは嬉しそうにうなずいた。
「最初は、私が何か差し上げなければと思っていました。でも、違ったんです。あの方には、もうできることがあったんです」
「裁縫のことか」
「はい。それを必要としている人たちがいて、ディルクさんが協力してくださって……でも、紹介しただけでは仕事にはならなかったんです」
エレナは港が王家の管理下にあること、新しい仕事の予算は王都へ申請しなければならないことを話した。
「私、そんなことも知りませんでした。王女として政治を学んできたのに」
「知識と、実際に見ることは違うからな」
「アランにも、そういうことがあるの?」
「ああ。騎士団にいたころは、荷を運ぶ仕事を分かったつもりでいた。今じゃ、荷の置き方一つで注意されることもある」
エレナは思わず笑った。
「アランが怒られる?」
「当然だ。知らないことを勝手にやれば、仲間が危ない」
アランも少し笑った。
「エレナが見つけたのは、あの親子が働ける道だろう。簡単なことじゃない」
「でも、私一人では何もできませんでした」
「一人でやる必要はないさ」
その言葉に、エレナは顔を上げた。
「人にはそれぞれできることがある。エレナが話を聞いて、ディルクさんが現場を考えて、マリエッタさんが自分の腕で働いた。そうやって暮らしが変わったんだろう」
エレナはしばらく黙っていた。
以前、食事処で耳にした王族への批判が、今も心に残っている。あのときは、知らないと言われたことが痛かった。
けれど今は、知らなかったことを一つずつ知るのが、少し楽しみでもあった。
「……私、もっと知りたい。この国のことを。そこで暮らす人たちのことを」
「そうだな。俺も一緒に学ぶよ」
窓の外から、港へ向かう荷車の音が聞こえた。
エレナは耳を澄ませた。
明日も食事処へ行く。アランも港へ行く。マリエッタも、自分の仕事へ向かう。
誰かの暮らしを変えるということは、特別な一日を与えることではなく、そんな明日を続けられるようにすることなのかもしれなかった。
◇
夜が更け、エレナは小さな部屋の明かりを落とした。
明日になれば、また忙しい食事処の一日が始まる。港では作業服が汚れ、破れ、誰かがそれを直す。マリエッタは針を持ち、ノエルは母親の仕事が終わるのを待つだろう。
その一つ一つは、王城の書物に大きく記されるような出来事ではない。
それでも、エレナには今日のことを忘れられない気がした。
自分が差し出した手を、相手が取ってくれるとは限らない。相手には相手の望みがあり、できることがあり、譲れない暮らしがある。
助けるために必要だったのは、手を伸ばす勇気だけではなかった。相手の声を聞き、他の人の力を借り、時間をかけて形にすることだった。
エレナは窓の外の暗い港へ、もう一度目を向けた。
◇
数日後、フォルディス家の会談の場で、ヴァルターは帰還した次男を見つめていた。
アルトは王都へ戻っていた。
その傍らには、見慣れない銀紫色の髪の女性が立っている。
フィルガ・ノルゼリス。
そして、フォルディス家の専属研究者セリア・ヴェルネも、その場にいた。
ヴァルターの胸元には、アランから届いた手紙がある。
息子と王女が無事であると知った。だが、その手紙だけでは分からないことが多すぎた。
アルトへ聞かなければならない。
あの日、何が起きたのか。
そのために、ヴァルターはヴァルゼディアへの帰還を延ばして待っていたのだ。
一方、アルトはフィルガがセリアに会うことを求めている理由を、まだ十分に理解できていなかった。
セリアはフィルガの手にある書簡へ目を向けた。
フィルガは、三人の顔を順に眺め、穏やかに微笑んだ。
「あら。皆様、お揃いですのね」
その柔らかな声とは裏腹に、アルトの脳裏にはセレヴィアで聞いた兵士の悲鳴が残っていた。
ヴァルターは静かに口を開こうとした。
父として確かめたいことと、研究者に向けられた異国の書簡。
二つの問いが、今、同じ部屋に持ち込まれていた。
誰もまだ、その先に何が待っているのかを知らなかった。




