第25話 優しさと手紙、見えない刃
食事処の前で足を止めた少年は、何も欲しいとは言わなかった。
それが、かえってエレナの目に留まった。
昼の混雑が引いた店内には、片づけを待つ皿が残っていた。戸口から潮の匂いと荷車の音が入ってくる。エレナは皿を重ねながら、通りにいる親子を見た。
母親は栗茶色の髪を低くまとめ、古いが清潔な服を着ていた。隣の少年は十歳ほど。明るい栗茶色の短い髪と琥珀色の瞳を持ち、料理の匂いに小さく鼻を動かしている。
「いい匂いだね、お母さん」
「そうね。さあ、帰りましょう」
「……うん」
少年はねだらなかった。ただ、歩き出す前にもう一度店の中を見た。
その目がエレナの胸に残った。
王城にいたころ、食事は決まった時間に運ばれてきた。空腹の人が料理の前を通り過ぎる理由を考えたこともなかった。今は自分も給金を得て暮らしている。けれど、知っているつもりの暮らしと、目の前の親子の暮らしは同じではない。
「おい、そっちの皿はもういいぞ」
店主に呼ばれ、エレナは我に返った。
「はい。すぐ片づけます」
仕事を終えると、店主に声をかけた。
「あの、お願いがあるのですが」
「なんだ?」
「先ほど、店の前に親子がいたんです。食事をしたそうで……私のお金で料理を出していただけませんか」
店主は布巾を止めた。
「お前の金で?」
「はい。お店のものを勝手に差し上げるつもりはありません」
「そりゃ当然だ。だが、お前だって家賃があるだろう。初めての給金をもらったばかりじゃないか」
「……分かっています」
「本当に分かってるのか?」
エレナは答えるまでに少し時間を要した。自分たちの生活に余裕がないことは、よく知っている。それでも、少年の目を思い出すと通り過ぎることはできなかった。
「払える範囲でお願いしたいんです」
「……好きにしろ。ただし、代金はもらうぞ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。金を出すのはお前だ」
エレナは通りへ出た。親子はまだ遠くへ行っていなかった。
「あの、少しよろしいですか」
母親が振り向き、少年がその背後に半歩隠れた。
「何か……?」
「もしよろしければ、お食事をしていきませんか。代金は私が払います」
「そんな。見ず知らずの方に……」
エレナは自分の言い方が唐突だったと気づいた。
「ごめんなさい。勝手なことを言って。でも、私もあのお店で働いていて……」
少年が母親を見上げた。
「お母さん、ぼく、いいよ。そんなにお腹すいてないから」
母親は少年の肩に手を置いた。
「お気持ちはありがたいのですが、働いて得たお金でしょう。大切になさってください」
「大切です。だから、私が使いたいことに使わせてください」
母親の目が揺れた。少年は何も言わず、母親の手を握り直した。
「……本当に、よろしいのですか」
「はい」
「では、お言葉に甘えます」
空いた卓へ案内すると、少年は母親がうなずくのを待って椅子に腰を下ろした。
「お名前を聞いてもいいですか」
「マリエッタ・ロッセルと申します。息子はノエルです」
「ノエル。素敵なお名前ですね」
少年が顔を上げる。
「お姉ちゃんは?」
エレナは一瞬だけ息を止めた。自分の名を聞かれることには、まだ慣れない。王女が亡くなったことは国中で知られていても、顔を知る庶民はほとんどいなかった。
「エレナよ」
「エレナお姉ちゃん」
「ええ」
自然に呼ばれ、思わず微笑んだ。
料理が運ばれてくると、ノエルは目を輝かせた。しかし、すぐには食べない。
「お母さんも食べる?」
「あなたからどうぞ」
「でも、お母さんもお腹すいてるでしょ」
「大丈夫よ」
「じゃあ、一緒に食べよう」
少年は皿を母親の方へ寄せた。マリエッタは一度唇を結び、それから微笑んだ。
「……そうね。一緒にいただきましょう」
エレナは給仕に戻ったが、親子の卓が気になって仕方がなかった。
「おいしい!」
ノエルの声が店に響き、本人が慌てて口を押さえる。
「そんなに急がなくてもいいのよ」
「うん。でも、すごくおいしい」
母親も少しずつ食べ始めた。エレナは皿を運びながら、その小さな食卓を何度も見た。
店主が厨房へ戻ったあとも、エレナは少しの間、親子のために出した皿を見つめていた。
料理を運ぶことには慣れたはずだった。だが、自分の金で用意した一皿には、いつもとは違う重さがある。店主に渡した硬貨は、朝から夕方まで立ち続け、何度も注文を聞き直し、失敗を叱られながら覚えた仕事の対価だった。
その一部が、いまノエルの前に置かれている。
食べ始めるまで、少年は何度も母親の方を見た。最初の一口を飲み込んだあとも、自分だけが夢中になってはいけないと思ったのか、母親の皿が減っているかを確かめている。
「お母さん、そっちもおいしい?」
「ええ。とても」
「よかった」
そのやり取りが、エレナには忘れられなかった。
王城で食卓を囲んだとき、誰かが食べられずにいることを心配した経験はなかった。相手が好きな料理を知りたいと思うことはあっても、相手が自分の分を残していないかと確かめる必要はなかったのだ。
少年の笑顔は明るい。けれど、笑顔の向こうには、日々の小さな我慢が積み重なっているのかもしれない。
エレナはそれを尋ねなかった。目の前の少年に、わざわざ苦しい暮らしを説明させたくなかった。
代わりに、水が減っていないか、料理が冷めていないかを確かめる。給仕としてできることは、いまの自分にも分かる。
ノエルが食べ終えるころ、マリエッタが小さな声で言った。
「こうして、落ち着いて二人で食事をするのは久しぶりです」
エレナはその言葉を聞き返しそうになったが、思いとどまった。
母親はそれ以上語らなかった。ただ、空になった皿を見て、静かに微笑んでいた。
食後、ノエルはエレナへ向かって頭を下げた。
「お姉ちゃん、ありがとう。おいしかったよ」
「よかった」
誰かに感謝されることは、王城でもあった。けれど、その感謝は王女という立場に向けられていたのかもしれない。いま目の前にいる少年は、ただ食事を用意したエレナに笑いかけている。
その違いが、胸に温かかった。
片づけをしながら話すうち、マリエッタの暮らしが少しずつ分かった。
「仕事がないわけではないんです。ただ、いつも働けるとは限らなくて」
「毎日、同じお仕事ではないのですか」
「ええ。頼まれても、当日になって仕事がなくなることもあります。それに、長く家を空けるわけにもいきません」
マリエッタはノエルを見た。
「ぼく、一人で待ってられるよ」
「ええ。分かってる。でも、あまり長く一人にするのは心配なの」
少年は口を結んだ。母親はそっと髪を撫でる。
「あなたが悪いわけじゃないのよ」
働く意思があっても、仕事が安定しない。長く働く機会があっても、子供を一人にできない。稼げる日が少なければ、生活費はさらに重くなる。
エレナは自分の金入れを思い出した。
親子が帰ろうとしたとき、もう一度声をかけた。
「あの……これを、生活の足しにしてください」
手の中には、給金から取り分けた硬貨があった。
「そんな。お食事までいただいたのに」
「ノエルに必要なものを買ってあげてください」
「でも……」
「無理にとは言いません。ただ、少しでもお役に立てたら」
マリエッタは長い間、硬貨を見つめていた。やがて両手を差し出す。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
金入れは軽くなった。それでも、親子が帰っていく姿を見送りながら、エレナは温かな気持ちでいた。
(少しでも、楽になってくれたらいい)
その願いは心からのものだった。
◇
数日後、ノエルがエレナを見つけた。
「エレナお姉ちゃん!」
食事処の前で呼ばれ、エレナは振り向いた。少年が嬉しそうに手を振っている。隣にはマリエッタがいた。
「ノエル。こんにちは」
「この前のごはん、すごくおいしかったよ。お母さんとも話したんだ」
「そう。何のお話をしたの?」
「また食べられたらいいねって」
ノエルは笑った。
エレナも笑おうとした。だが、マリエッタの顔に目を向けたところで、少しだけ言葉が止まる。疲れが残っていた。以前よりひどくなったとは言えない。けれど、安らいだ様子でもない。
「その後、お変わりありませんか」
「はい。おかげさまで、あの日は本当に助かりました」
マリエッタは丁寧に答えた。
「いただいたお金で食べ物も買えましたし、必要なものも揃えられました」
「それなら……」
エレナは言いかけた。
「ただ、また仕事のない日が続いてしまって」
マリエッタは申し訳なさそうに目を伏せた。
「いただいた分も、ほとんど使ってしまいました」
エレナは胸の内で何かが沈むのを感じた。
無駄にしたわけではない。食べ物を買い、必要なものを揃えた。そうすれば金が減るのは当然だった。自分たちだって同じなのだから。それなのに、どこかで、あの硬貨が親子の暮らしを変えてくれると期待していた。
「……そうだったんですね」
その先の言葉が出なかった。
ノエルは二人の顔を見比べている。エレナは少年を不安にさせまいと微笑んだ。
「少し、待っていてください」
金入れへ手を伸ばす。
「エレナさん」
マリエッタの声が静かに止めた。
「もう十分です」
「でも、このままでは……」
「この前は本当に助かりました。あの日、ノエルがあんなに嬉しそうに食事をしていたこと、きっと忘れません」
女性は一度、息を整えた。
「でも、いつまでもいただくわけにはいきません」
「……どうしてですか。必要なものがあるのでしょう?」
「あります。これからも、ずっと」
マリエッタはノエルの手を取った。
「だからこそ、私が働いて、この子と暮らしていきたいんです」
エレナは硬貨を握ったまま、動けなかった。
母親は援助を軽んじているのではない。むしろ、何度も礼を言っている。それでも、受け取り続けることを望んではいなかった。
「私の言い方が悪かったでしょうか」
「いいえ。そんなことはありません」
マリエッタは小さく首を振った。
「あなたの優しさは、本当にありがたかったです。ただ……明日も、その次の日も、ノエルと暮らしていくのは私ですから」
それは責める言葉ではなかった。だからこそ、エレナの胸に深く届いた。
ノエルが母親の手を握り直した。
「ぼくも、お母さんのお手伝いするよ」
「ええ。ありがとう」
マリエッタは少年に笑いかけた。その笑顔は疲れていても、弱々しくはなかった。
エレナは硬貨を金入れへ戻した。
「……分かりました」
本当は、まだ分かっていなかった。けれど、これ以上自分の望みを押しつけることはできないと思った。
「お仕事が見つかるといいですね」
「はい。ありがとうございます」
ノエルは帰り際、また手を振った。
「エレナお姉ちゃん、またね」
「ええ。また」
親子が通りの向こうへ消えてからも、エレナはしばらく動かなかった。
助けたかった。それだけは確かだ。
でも、自分が望んだのは何だったのだろう。親子がお腹いっぱいになることか。少し安心して笑うことか。それとも、これから先も困らずに暮らせることか。
同じことだと思っていた三つが、いまは別々のものに見えた。
数日後の再会から、エレナはときどき、働くということの意味を考えるようになった。
食事処で給仕をする。注文を間違えないように聞き、皿を運び、食器を片づける。忙しい日には足が痛み、夜には声を出すのも億劫になる。それでも、次の給金が来ると分かっているから働き続けられる。
マリエッタは違う。働く気持ちがあっても、仕事があるかどうかは分からない。仕事があっても、ノエルのことを考えなければならない。
自分が今日働けることは、当たり前ではないのだ。そして、生きていくためには稼ぎ続けるという現実が前提にあるのだ。
エレナは夕方、店主が残りの食材を確かめている姿を見た。余ったものをどう扱うか、翌日どれだけ用意するか。店主は一つ一つ考え、働く者たちの手を借りて店を続けている。
その背中を見ていると、店主が振り返った。
「なんだ。ぼんやりして」
「……すみません」
「まだ何か気になるのか、あの親子のことが」
「はい」
エレナはうなずいた。
「私、働けることがありがたいと思うようになりました」
「急にどうした」
「仕事がない日が続く人もいると聞いて。私は毎日ここに来れば、やることがありますから」
店主は少し意外そうな顔をした。
「そりゃ、仕事があるのはありがたいさ。だが、ここだっていつまでも同じとは限らんぞ」
「……そうですね」
「客が来なきゃ、料理も出せない。料理を出せなきゃ、給金だって払えなくなる。商売はそういうもんだ」
エレナは店内を見回した。
ここで働くようになってから、店主の言葉を何度も聞いてきた。最初は厳しい人だと思ったこともある。けれど、店を続けるために、誰よりも早く動き、最後まで働いている姿も見てきた。
「……私、もっと仕事を覚えます」
「それは助かる。だったらまず、そこの皿を片づけてくれ」
「はい」
エレナは思わず笑った。
誰かを救う方法は分からない。それでも、自分が働く場所を大切にすることはできる。
その小さな確かさを胸に、彼女は皿へ手を伸ばした。
店へ戻ると、店主が食器を片づけていた。
「さっきの親子か」
「はい」
「また何か渡したのか?」
「いいえ。受け取っていただけませんでした」
店主はエレナの手元をちらりと見た。
「そうか」
エレナは黙って皿を運んだ。
「……店主さん」
「なんだ」
「働きたいのに、働けない人は多いのでしょうか」
「さあな。仕事を探してる奴は珍しくない。だが、誰でも同じ時間に、同じ仕事ができるわけじゃない」
店主は布巾を置いた。
「お前だって、初めて来たときは何もできなかっただろ」
「……はい」
「今は少しできるようになった。でも、それまで待ってくれる相手がいるとは限らん」
エレナは、最初の仕事探しで何度も断られた日を思い出した。自分にはアランがいた。部屋を借りるための手持ちの金もあった。
マリエッタには、どんな助けがあるのだろう。
答えは見つからないまま、次の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
エレナは顔を上げた。いま自分にできる仕事を、止めるわけにはいかなかった。
◇
その夜、二人の部屋では、硬貨が小さな音を立てていた。
エレナは手元の金を数え直した。家賃、食費、次に必要になる日用品。紙に書いた支出の横へ、残りを置いていく。
以前より少なくなった金入れの重さは、指先にはっきり伝わった。
アランが帰ってきたとき、彼女はまだ紙を見つめていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、アラン」
「……どうしたの。何かあった?」
エレナは笑って首を振ろうとした。けれど、彼の顔を見ると、そのままではいられなかった。
「少し、聞いてほしいことがあるの」
アランは荷物を置き、彼女の向かいに座った。
エレナはマリエッタとノエルのことを、最初から話した。食事を喜んでくれたこと。自分の給金を渡したこと。数日後、再び会ったときにも生活は変わっていなかったこと。そして、もう一度の援助を断られたこと。
アランは途中で口を挟まなかった。
「……私、嬉しかったの」
エレナは硬貨を一枚、指先で転がした。
「あの子が笑ってくれて。私のお金で、誰かが喜んでくれたのが、本当に嬉しかった」
「うん」
「でも、何も変わらなかったわ」
アランはゆっくり首を振った。
「何も変わらなかったわけじゃないよ。食事ができたことも、必要なものを買えたことも、確かに助けになったんだと思う」
「……そうね」
「ただ、それだけで暮らしが続けられるようになるわけじゃない」
エレナはうなずいた。
「私、もう一度お金を渡そうとしたの。そうすれば、また少し楽になると思って」
「受け取らなかったんだね」
「ええ。自分で働いて、息子を育てたいって」
アランは紙の上の数字を見た。
「エレナ。俺たちにも家賃がある。食費もいる。君が誰かを助けたいと思う気持ちは大切だけど、俺たちの暮らしまで続かなくなったら、今度は君が困ってしまう」
「分かっているつもりだったの」
「うん。責めてるんじゃないよ」
アランの声は穏やかだった。
「俺だって、港で働き始めるまでは知らなかったことがたくさんある。仕事がある日とない日で、皆の表情が違うことも。体が丈夫でも、仕事のやり方を知らなければ周りの足を引っ張ることも」
エレナはアランの手を見た。以前とは違う荒れが、指先に少しずつ残っている。
「私、あの親子を助けたかったのに……何をしたらいいのか、分からなくなってしまった」
「すぐに答えが出なくてもいいんじゃないかな」
「でも、あの人たちは明日も暮らしていかなくちゃいけないのよ」
「そうだね」
アランはそこで言葉を止めた。簡単な解決策を口にしなかった。
沈黙の中、外を通る人の声が聞こえた。どこかで戸が閉まり、荷車の音が遠ざかる。
「……王城にいたころは」
エレナが口を開いた。
「困っている人がいれば、必要なものを渡せばいいと思っていたの。食事も、お金も、足りないものを届ければ、それで」
彼女は言いかけて、首を振った。
「でも、あの人が欲しいのは、私から何度もお金をもらうことじゃない。ノエルと安心して暮らせる毎日なのね」
「そうなんだろうね」
アランは彼女の手に自分の手を重ねた。
「君がしてあげたことを、間違いだったと思わなくていい。ただ、次に何ができるのかは、もう少し考えてみよう」
エレナは手元を見た。重ねられた指の温かさが伝わってくる。
「……ええ」
その夜、エレナは何度も、自分が最初に口にした言葉を思い返した。
食事をしていきませんか。代金は私が払います。
相手の気持ちを聞く前に、そう言ってしまった。
断られたらどうするつもりだったのだろう。助けたいという自分の気持ちが先に立ち、親子がどのような思いでその場にいたのか、考える余裕がなかった。
「ねえ、アラン」
「うん?」
「私、あの人に食事を勧めたとき、断られるなんて思っていなかったの」
アランは黙って聞いている。
「困っているなら、喜んでもらえると思っていた。でも、マリエッタは最初、何度も遠慮したわ。お金を渡したときもそう。きっと、私が思うほど簡単なことではなかったのね」
「誰かから助けてもらうのにも、いろいろな気持ちがあるんだろうね」
「ええ。受け取ってくれたとき、私ばかり嬉しくなってしまって」
エレナは紙の端をそっと押さえた。
「私が嬉しいことと、あの人たちが安心して暮らせることは、同じではないのね」
アランはしばらく考えた。
「でも、君が嬉しかったことまで否定しなくていいと思う。誰かが喜んでくれたら、自分も嬉しい。それは自然なことだよ」
「……ありがとう」
「ただ、次に会ったときは、何が必要なのかをもう少し聞いてみてもいいかもしれない」
エレナは顔を上げた。
「私が決めるんじゃなくて、相手の話を聞く……」
「そう。俺たちにも、できることとできないことがあるから」
港で働くアランは、誰かに指示を出す側から、指示を受ける側へ変わった。彼にも、分からないことを尋ねる難しさと大切さを知る時間があったのだろう。
「アランも、変わったのね」
「そうかな」
「ええ。前より、知らないことを知らないって言うようになった気がする」
アランは少し照れたように笑った。
「知らないことばかりだからね」
エレナも小さく笑う。
その笑いは、問題が解決したから生まれたものではなかった。答えがない夜を、二人で過ごしている。そのことが、少しだけ心を軽くした。
紙の上には、二人が暮らすための数字が並んでいる。その向こうに、マリエッタとノエルの顔が浮かんだ。
(明日も、その次の日も、安心して暮らすには……)
答えはまだない。
けれど、分からないまま目をそらすことだけはしたくなかった。
◇
王城の執務の合間、レオルドは届けられた書簡を前に手を止めた。
見覚えのある筆跡だった。
そのことに気づいた瞬間、周囲の音が遠くなった。
(……エレナ?)
封を確かめる。目の前にあるものが本当に娘の手によるものなのか、すぐには信じられなかった。
王国が告げたのは、王女の死だった。護衛の報告、捜索の進展のなさ、アランの行方不明。国王として受け取る情報は、いずれも娘が帰らない現実を重くするものばかりだった。
レオルドは封を開いた。
最初の数行を読み、息が止まる。
娘は生きていた。
アランと一緒にいる。無事である。その事実を伝える言葉が、そこにあった。
レオルドは椅子に深く腰を下ろした。指先に力が入らない。書簡を落とすまいと、両手で持ち直す。
「……生きていたのか」
声が漏れた。
何度も読んだ。初めの一行へ戻り、また次へ進む。筆跡は間違いなく娘のものだった。書き方の癖も、父へ向ける言葉の柔らかさも、覚えている。
会いたかった。
その思いが、国王として整えてきた表情の下から一気に押し寄せた。いまどこにいるのか。危険はないのか。なぜ帰ってこないのか。問いはいくつも浮かんだが、読み進める手を止めることはできなかった。
娘は王城の外で暮らしているという。
働き、金を得て、日々の食事や住まいのために考える生活。そこで見た人々の苦しさや、王族に向けられる不満。かつて自分が信じていた王国の姿と、実際に暮らす人々の声が同じではないことを、娘は自分の言葉で綴っていた。
レオルドは目を細めた。
その一つ一つを、国王として軽々しく受け流すことはできなかった。かといって、書かれたすべてをそのまま王国全体の姿と決めつけることもできない。娘が見たのは、王城の外の一部にすぎないかもしれない。
だが、王城の中では聞けなかった声であることは確かだった。
(あの子が、自分の目で……)
エレナは以前から人の痛みに心を寄せる娘だった。けれど、王女として教えられた知識と、働きながら知る生活とは違う。文章の端々に、その違いに戸惑いながらも考え続けようとする姿があった。
やがて、帰還について書かれた箇所にたどり着いた。
二十六歳。
正式な王位継承資格を得る年齢になったとき、王都へ帰る。
レオルドはその一文を、何度も読み返した。
十年という時間が、急に目の前へ現れた。
「……十年も、待てというのか」
父としては、いますぐ迎えに行きたかった。無事をこの目で確かめ、もう二度と危険な目に遭わせたくない。そう願うのは当然だった。
しかし、手紙はさらに続いていた。
自分が生きていることも、この手紙の内容も、公にはしないでほしい。
レオルドは目を閉じた。
娘の生存が知られれば、王妃候補募集をめぐる議論は一変するだろう。アランの手配をどう扱うかという問題も残る。誰が何を知っていたのか、王都の貴族たちは互いを問い詰めるに違いない。
だが、それだけが秘密を守る理由ではなかった。
エレナは、二十六歳で帰ると自分の意思で書いている。
王位継承資格を得る時期を選んでいるのなら、ただ王城の外で自由に暮らしたいというだけではないのかもしれない。
(あの子は、何を考えている……)
レオルドにも、まだ分からなかった。
娘が王国をどう変えたいのか。そもそも何かを変えようとしているのか。手紙の言葉だけで答えを決めることはできない。
それでも、何も知らないまま守られていた娘が、今は自分の足で歩き、自分の目で王国を見ようとしている。そのことだけは、手紙の言葉から確かに伝わってきた。
国王としては、危うい道だと思う。
父としては、心配でたまらない。
できることなら、今すぐにでも娘を迎えに行きたい。
だが、知らなかった世界に触れ、様々な経験を重ねながら成長している娘を、少しだけ誇らしくも思った。
(エレナ……お前が選んだ道なら、父は信じよう)
離れていても、娘を思う気持ちは変わらない。
レオルドは手紙をそっと胸元へ寄せた。
今はただ、娘が無事に帰る日を信じ、その成長を見守っていたかった。
手紙を閉じたあとも、レオルドはすぐに仕事へ戻れなかった。
国王としての一日は、待ってくれない。判断を求める書類も、確認すべき報告もある。それらは娘の安否とは関係なく、いつもどおり机に積まれている。
だが、いまは一枚の手紙が、そのどれよりも重かった。
王女が生きていると知れば、国中の人々はどう受け止めるだろう。喜ぶ者もいれば、これまでの発表に疑いを抱く者もいる。アランが護衛責任者として何をしたのかという問いも、避けては通れない。
何より、エレナは公表しないでほしいと頼んでいる。
(父親としては、皆に知らせたいくらいだというのに)
レオルドは苦く笑った。
娘が生きている。それだけで、失ったと思っていた未来が戻ってきた。声を聞きたい。食卓をともにしたい。いつものように、少し困った顔で自分の話を聞いてほしい。
しかし、その願いをかなえるために娘の意思を踏みにじれば、再び会えたとき、何を言えばいいのだろう。
エレナは十年後に帰ると書いた。十年という時間が何をもたらすのか、誰にも分からない。国王である自分に、その日まで何ができるのかも分からない。
それでも、いまは娘の言葉を信じるほかなかった。
手紙の中にあった庶民の暮らしについての記述へ、もう一度目を戻す。
娘が見た苦しさは、すぐに解消できるものばかりではないだろう。国全体の政策を決める立場にいるからこそ、一つの話だけで何かを断定する危険も知っている。
だが、その慎重さが、人々の声を遠ざける言い訳になってはいけない。
(あの子は、私が見落としていたものを見ているのかもしれん)
そう思ったとき、レオルドは娘の手紙をただの生存報告として読むことができなくなった。
王城を離れた娘が、王国について父に語っている。その事実が、静かに胸を打った。
レオルドは手紙を丁寧に折り直した。まだ誰にも、内容を告げるつもりはなかった。
王妃候補募集の議案が、次の会議で審議される。
娘が生きていると知ったいま、なおさら新たな王妃を迎える話を進めるわけにはいかない。とはいえ、反対の理由をそのまま語れば、手紙の存在を明かすことになる。
レオルドは静かに息を吐いた。
「……エレナ。お前の望みは、守ろう」
返事を届ける方法も、次に手紙が来る時期も、いまは分からない。
それでも、父としてできることが一つだけある。
娘が自分の足で帰ってくる日まで、その生存を守ることだった。
◇
王都会議が始まる前、ヴァルターはユリウスと向かい合っていた。
フォルディス家での会談で、ユリウスは一つの取引を持ちかけていた。
王妃候補募集の議案に反対する。その見返りとして、エレナ王女の生存が確認され、自らが貴族の地位を退くことになった場合には、王国騎士団の情報指揮官として迎えてほしいというものだった。
軍の内部に入り、情報を扱う立場を求めるその申し出は、ヴァルターにとって到底すぐに受け入れられるものではなかった。
そのため、前回は返答を保留していた。
だが、軍を預かる者として考えれば、クロイツ家の情報網を無視することもできなかった。
国境の変化が一日早く伝われば、兵を動かす判断も変わる。伝令の遅れが招く損害を、ヴァルターは軽く見ていない。騎馬急使を通じて各地の情報を扱うクロイツ家の情報伝達力が軍に加われば、守れるものは増えるだろう。
同時に、その情報を誰が選び、誰へ渡すのかという問題も生じる。
ユリウスは静かに待っていた。
「……前の話だ」
ヴァルターが口を開く。
「王妃候補募集の議案について、お前が反対するなら、情報指揮官の件は前向きに検討しよう」
ユリウスの表情は変わらなかった。
「ご検討いただけるのですね」
「勘違いするな。任命を約束したわけではない」
「承知しております」
「貴族を辞する話と、軍に入る話は別だ。役職の扱いも、権限も、正式に検討しなければならん」
「当然のことと存じます」
ヴァルターはその穏やかな返答が気に入らなかった。
「お前の情報網が軍にとって有益だということは認める。だが、軍の判断までお前一人に預けるつもりはない」
「私は軍の判断を奪いたいのではありません。必要な情報を、必要な時に届けたいのです」
「情報を選ぶ者は、判断にも影響する」
「その危険をご承知なら、監督の仕組みも検討されるべきでしょう」
ユリウスは反論しなかった。むしろ、ヴァルターの警戒を当然のものとして受け止めているようだった。
ヴァルターは目を細めた。
(どこまで計算している……)
アランが国中で追われている。アルトにも説明のつかない異変が起きた。フォルディス家の当主として、家族のことだけを考えていたい日もある。
だが、軍の責任を放棄するわけにはいかなかった。
「今日の議案について、お前自身の考えを聞いておこう」
「私は反対するつもりです」
「……そうか」
「陛下にも、議場にも、私なりの理由を申し上げます」
ヴァルターはその言い方を覚えておくことにした。
約束はまだ成立していない。それでも、政治の場で同じ側へ立つことはできる。そういう関係が、どこまで続くのか。
答えは会議が終わっても出ないだろう。
◇
王都会議の席には、前回とは違う緊張があった。
王妃候補を募るという議案は、ひと月前に結論を先送りしたものだ。その間に各家が何を考えてきたのか、レオルドには分からない。だが、出席者の視線が以前より鋭くなっていることは感じられた。
娘を王家へ迎えることができれば、家の立場は大きく変わる。候補を出せる家にとって、機会を逃す理由は少ない。
レオルドは席に着き、手元の資料へ視線を落とした。
エレナの手紙は、ここにはない。
手紙のことを知る者が増えれば、娘の願いを守ることは難しくなる。レオルドはそう考えていた。
「先送りとしていた王妃候補募集の件について、改めて審議を行う」
国王の声に、議場が静まる。
最初に賛成の意見が出た。王家の安定を考えるべきだという主張だった。別の貴族も、将来のために候補を広く募ることには意味があると述べた。
反対の声もあった。王女の件が十分に整理されないうちに新しい話を進めることは、国民にどう受け取られるか分からないというものだ。
レオルドは一つ一つの意見を聞いた。
自分が口を開けば、王の言葉には重みが生じる。娘が生きていることを知っているから反対するのだと、誰かに悟られてはならない。
「陛下は、いかがお考えでしょうか」
問われて、レオルドは顔を上げた。
「王家の将来を案じる諸卿の思いは理解している」
まず、その言葉を置いた。
「だが、王女の事件については、なお明らかになっていないことが多い。国民の心も落ち着いてはいまい。いま新たな候補を募ることが、王国の安定につながるとは、私は考えていない」
議場の一角で、誰かがわずかに身じろぎした。
「私は反対する」
短い言葉だった。
ヴァルターはレオルドを見た。前回、アランの重罪容疑手配をめぐって王と意見が分かれたことが、まだ胸に残っている。今回は、同じ反対に立つことになる。
その理由が完全に同じとは限らない。それでも、王の表情には決意があった。
ユリウスが発言を求めた。
「私からも、申し上げたいことがございます」
ヴァルターは自然に背筋を伸ばした。
「王家の安定を願う点では、私も皆様と同じでございます。候補を募ること自体を否定するつもりはありません」
その言葉に、賛成側の貴族たちが顔を上げた。
「しかし、議案には時機というものがございます。いま候補を募れば、王女殿下の事件が解決しないまま、新しい縁組だけが先へ進む。王国が国民へ示す順序として、それが適切かどうか」
ユリウスは一度、言葉を切った。
「私は、今回は反対いたします」
静かな声が、議場の空気を変えた。
ヴァルターはユリウスの横顔を見た。前の会談で聞いたとおりの立場だ。だが、ここまで自然に反対へ話を運ぶとは思っていなかった。
レオルドはユリウスの言葉を聞きながら、複雑な思いを抱いた。
自分は娘を守るために、王妃候補の募集に反対している。だが、ユリウスは何を守ろうとしているのか。議場で語られる理由だけでは、そのすべては分からなかった。
さらに、貴族たちの間で意見が交わされた。
「私は賛成だ。王家の将来を考えれば、いつまでも先延ばしにはできまい。今を逃せば、次の機会がいつになるか分からぬ」
するとヴァルターが口を開いた。
「私は反対する。エレナ王女殿下の消息すら明らかになっていないのだ。今、新たな王妃を迎える話を進めれば、かえって王家の威信を損なう恐れがある」
次に、ベルフォードが意見を言う。
「しかし、王国の安定を第一に考えるなら、候補を募るだけでも意味はあるはずだ。私は賛成する」
賛成と反対の声が交互に上がり、議場は次第に騒がしくなっていった。
やがて議論が一段落すると、再び静けさが戻った。
採決前の議場では、短い沈黙の中にも思惑が交錯していた。
王妃候補を出せる家にとって、今回の議案は単なる王家の安定策ではない。自分の家の未来に直接関わる。反対を表明した国王の言葉を尊重したいと言っても、好機を逃すまいとして賛成の意向は変わることはない。
ヴァルターは席の上で指を組んだ。
アランの重罪容疑手配が可決されたとき、彼は最後まで反対した。今回は、ユリウスが自分と同じ側に立っている。
それだけで安心できるなら、どれほど楽だろう。
「クロイツ卿」
賛成側の貴族が呼びかけた。
「王国の安定を重んじるなら、候補を募ることにも利があるはずです。なぜ、いま反対されるのですかな」
ユリウスは相手へ向き直った。
「おっしゃるとおり、利はございます。ただ、利益があるということと、いま決めるべきということは、必ずしも同じではありません」
「先延ばしにしても、王女殿下の事件が解決する保証はない」
「保証はございません。だからこそ、いま国民へ何を優先していると示すのかが重要なのです」
ユリウスの声は穏やかだった。
相手の主張を否定しない。利があることも、先の見通しが不確かであることも認める。そのうえで、話の中心を決議の時期へ戻していく。
ヴァルターは、その手法を以前にも見たことがあった。
(この男は、相手に自分の言葉を否定されたと思わせずに、結論だけを変えていく。したたかな奴)
だからこそ危うい。
しかし同時に、国防の情報を扱う者として、この判断の速さと話の整理は役に立つのではないか、とも思う。
ヴァルターは自分の考えにわずかな苦さを覚えた。
信頼できないと思う相手の力を、必要だと認め始めている。
ユリウスがこちらを見た。
ほんの一瞬だけ目が合い、すぐに視線が離れる。
何の合図でもない。ただそれだけのことだったが、ヴァルターには先ほど交わした条件付きの返答を思い出させるには十分だった。
レオルドは議決に移ることを告げた。
爵位と立場に応じた持ち票が集計される。国王の十票、フォルディス家の六票、クロイツ家の三票が反対に回った。ほかの四家は賛成だった。
反対十九票。賛成十八票。
有効票三十七票の過半数は十九票である。
王妃候補募集の議案は、否決された。
結果が示されると、議場には短い沈黙が落ちた。
レオルドは目を閉じず、出席者の顔を見渡した。国王として決議を受け止めなければならない。胸の奥に安堵はあったが、それを表へ出すことはしなかった。
ヴァルターもすぐには動かなかった。
ユリウスが反対したことで、結果が決まった。三票の重さが、これほど明確になるとは。
賛成した貴族の一人が、口元を硬くした。
「……クロイツ卿は、賛成の余地を残しているように話しておられたはずだが」
ユリウスはその方へ顔を向けた。
「募集そのものを否定しないことと、今回の議案に賛成することは別でございます」
丁寧な返答だった。
しかし、納得した表情は返ってこなかった。
別の貴族も、手元の資料を静かに閉じた。期待していた機会を失った不満は、言葉にされなくとも伝わってくる。
ヴァルターはそれを見ていた。
(ユリウスにも、敵ができるか)
政治の場で、誰もが同じ利益を得られるわけではない。これまでユリウスの話術に動かされていた者たちが、今日の結果をどう受け止めるか。
彼はふと、別のことを考えた。
クロイツ家の情報網は、軍にとって価値がある。だからこそ、ユリウス個人の判断に依存しない形で、その力を役立てる道を探さなければならない。
ただ迎え入れればよいわけではない。利用されることを恐れて拒むだけでも、国防の機会を失う。
ヴァルターはユリウスへ視線を戻した。
相手は勝ち誇ることもなく、淡々と次の議事へ耳を傾けていた。
その穏やかさが、かえって警戒を強くした。
◇
ヴァレスタの街並みを見上げ、フィルガは楽しそうに微笑んだ。
「フフフ、来ちゃいました。初めての海外旅行。あら、綺麗な町」
石造りの建物の間を人が行き交い、港からは船の仕事に従事する人々の声が聞こえる。潮の匂いを含んだ風が、銀紫色の短い髪を揺らした。
フィルガはゆっくりと通りを眺めた。
見知らぬ街、見知らぬ人々。皇帝から預かった手紙は手元にある。命じられたのは、カルゼリアにいるゼルヴァの発現者を見つけ、連れて帰ることだった。
本人の住所は書かれていない。
それでも、フィルガは困った様子を見せなかった。
「さて。どちらにいらっしゃるのかしら」
彼女は足を止めた。
「万象感知――オムニセンティア」
その言葉が静かに落ちる。
しばらく、フィルガは目を細めていた。通りの人々は誰も彼女の様子を気に留めない。荷物を抱えた者が横を通り、遠くで誰かが笑った。
やがて、フィルガの視線が西へ向いた。
「……あら」
小さく首を傾ける。
「すぐ近くですのね」
手紙に書かれていたゼルヴァの発現者。その存在を、彼女は感知した。
「対象者捕捉」
つぶやきには、先ほど街並みを眺めていたときの楽しげな調子がほとんどなかった。
けれど、すぐに歩き出すわけではない。フィルガは通りの向こうへ目を向けたまま、少しだけ口元を緩めた。
「……その前に、せっかくの街ですもの」
そうして再び、歩き始めた。
◇
その時、ディルクは事務所で書類に目を通していた。
港の仕事は、荷が動けばそれで終わるものではない。人の配置、作業の順序、安全の確認。細かな報告を積み重ねなければ、港全体の動きは保てなかった。
紙をめくったところで、手が止まる。
「……何だ?」
空気が変わったように感じた。
非常に大きな魔力。
思わず椅子から立ち上がる。窓へ向かい、通りを見下ろした。
人の流れは普段と変わらない。荷車が進み、商人が声を張り上げている。その中に、一人だけ目を引く少女のような姿があった。
淡い銀紫色の髪。落ち着いた足取り。
ディルクは眉を寄せた。
(あの者か……?少女?)
少女が、ふと顔を上げた。
視線が合う。
距離があるのに、こちらを見られていることがはっきり分かった。
フィルガも窓の人物へ目を向けていた。
「あら? 精霊騎士?」
その声は、通りのざわめきに紛れるほど小さかった。
ディルクには届かない。
フィルガは特に足を止めず、何事もなかったように視線を戻した。ディルクも窓から離れなかったが、呼び止めたり、追いかけたりはしなかった。
ただ、少女が人混みへ紛れていくまで見ていた。
窓の外の街は、いつもと変わらず動いている。
ディルクはゆっくり息を吐いた。
(あれほどの魔力を持つ者が、なぜここに……)
答えはない。
彼は机へ戻ったが、書類の文字は先ほどほど容易には頭に入ってこなかった。
◇
食事処の戸が開き、エレナは顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、淡い銀紫色の短い髪をした、見慣れない女性だった。
フィルガ・ノルゼリス。
ヴェルネシア魔工国からやってきた彼女は、店内を興味深そうに見渡していた。
透き通るような冷たい色の瞳とは対照的に、その表情は明るい。初めて訪れる異国の食事処が珍しいのか、楽しそうに口元を緩めている。
「あら、いい香りですのね」
「ありがとうございます。こちらへどうぞ」
エレナは空いた席へ案内した。
もちろん、目の前の女性が何者なのかなど知るはずもない。
フィルガは周囲を眺めながら席につき、料理を選ぶ間もどこか機嫌がよさそうだった。
「初めていらしたんですか」
「ええ。こちらの町も、初めてですの」
「それなら、港はご覧になりました?」
「少しだけ。とても賑やかで、素敵なところですわ」
エレナは微笑んだ。
初めてヴァレスタで海を見たとき、自分も同じような気持ちだった。どこまでも続く水面、行き交う船、人々の働く声。その美しさに心を奪われたことを、いまも覚えている。
「私も、初めて見たときは驚きました」
「あら。あなたも、こちらの生まれではないんですの?」
「……ええ。少し前から暮らし始めたんです」
答えながら、エレナはそれ以上を語らなかった。
女性も深く尋ねなかった。興味深そうに一度うなずき、料理へ視線を戻す。
エレナは注文を聞き、厨房へ伝えた。
戻ってきたとき、女性がふとエレナの手元に目を留めた。
その視線の先には、エレナが身につけている月のブレスレットがあった。
「……あら」
女性が小さくつぶやいた。
エレナは何か言われたのかと思い、少し身を寄せた。
「どうかなさいましたか?」
女性もまた、ブレスレットに興味を引かれたように、何気なく腕を近づけた。
その瞬間だった。
すっ、と。
何か鋭いものが通り過ぎたかのように、女性の腕の皮膚に細い筋が走った。
次の瞬間、その筋が赤く染まり、小さな血の粒が浮かび上がる。
「……えっ?」
エレナは思わず目を見開いた。
女性の腕は、ブレスレットにも、エレナの身体にも触れていない。
それなのに、まるで見えない刃で浅く切られたような傷が、そこにできていた。
「血が……!」
女性は自分の腕へ視線を落とした。
細い傷口から、赤い血が一筋、ゆっくりと流れ始めている。
「大丈夫ですか?」
エレナは慌てて一歩近づいた。
「どこか、お怪我を……」
「何でもありませんわ」
女性は落ち着いた声で答えた。
そして、何事もなかったかのように、エレナへ微笑みかけた。
女性は静かに答えた。
その落ち着きが、かえってエレナを戸惑わせた。
「でも、血が出ています」
「ええ。お気になさらないでくださいまし。すぐに止まります」
女性は大きく騒ぐこともなく、腕を引いた。すると、傷は一瞬で消えた
エレナは視線を落とした。自分の手元には、いつもと変わらない月のブレスレットがある。触れたわけでも、何かをしたわけでもない。ただ近づいただけだった。
(どうして……?血が出たかと思ったら一瞬で止まり、傷が消えた?)
女性はその理由を説明しなかった。エレナにも、尋ねる言葉が見つからない。
厨房から料理ができたと声がかかった。
「……お料理をお持ちしますね」
「ええ。楽しみですわ」
女性は何事もなかったように微笑んだ。
エレナは厨房へ向かいながら、もう一度だけ振り返った。女性は窓の外を眺めている。先ほどの出血を気にしているようには見えなかった。
女性の料理ができるまで、エレナは何度かその席を気にかけた。
出血があったのは確かだ。自分の目で見た。なのに、女性はまるで小さな汚れを見つけた程度にしか驚いていない。
エレナは厨房の手前で立ち止まり、自分の手首を見た。
月のブレスレットは静かにそこにある。
長く身につけてきたものだった。これまで、あのようなことが起きた覚えはない。けれど、何かの偶然だと決めてしまうにも、目の前で見た赤い血の色が鮮やかすぎた。
(私が近づいたから……?)
そう考えて、すぐに首を振る。
何の根拠もない。相手がどこかで怪我をしていた可能性だってある。自分に分からないことを、都合よく一つの理由へ結びつけるわけにはいかなかった。
料理を受け取ると、エレナは両手で皿を支えた。
今は給仕の仕事をしている。客が安心して食事をできるようにするのが、ここでの自分の役割だ。
席へ戻ると、女性は嬉しそうに顔を上げた。
「まあ。待っておりましたの」
その声があまりに明るかったので、エレナは思わず微笑んだ。
料理を運ぶと、その表情はさらに明るくなった。
「まあ、おいしそうですのね」
女性は食事を口にした。
「……あら!」
エレナは思わず足を止めた。
「いかがでしょうか」
「とてもおいしいですわ。こちらのお料理、素晴らしいですのね」
心から楽しんでいるような声だった。
エレナは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。店主も喜びます」
「ええ、ぜひお伝えくださいまし」
女性は料理を味わいながら、時折窓の外へ目を向けた。知らない街に来た旅人が、初めての食事を楽しんでいる。その姿だけを見れば、ほかの客と何も変わらない。
しかし、エレナの目には、先ほど腕からにじんだ血が焼きついていた。
食事が終わると、女性は丁寧に礼を述べた。
「ごちそうさまでした。とても楽しかったですわ」
「ありがとうございます。またお越しください」
「ええ。機会があれば、ぜひ」
女性は微笑み、店を出ていった。
エレナはその背中を見送った。
追いかける理由はなかった。怪我を心配して尋ねても、本人は何でもないと答えた。これ以上踏み込むことはできない。
それでも、胸の中に小さな違和感が残った。
自分の腕を見る。月のブレスレットは、いつもどおりそこにある。
(……あの人、どうして血が出たのかしら)
答えはなかった。
店主に呼ばれ、エレナは振り向く。
「次の客だ。頼むぞ」
「はい」
皿を運び、注文を聞き、食器を片づける。いつもの仕事が続いていく。
けれど、エレナの心には、いくつもの顔が残っていた。
食事を喜んだノエル。援助を断り、自分の力で暮らしたいと言ったマリエッタ。そして、血が出ているのに何事もなかったように食事を楽しんでいた、見知らぬ女性。
自分が知らないことは、まだこんなにもある。
王城にいたころは、学べば理解できると思っていた。書物に記されたことを覚え、教えられた制度を知れば、王国のことも分かるのだと。
だが、ここには書物の中では分からなかった人々がいる。
今日の食事を喜ぶ人。明日の暮らしを心配する人。何を抱えているのか、言葉だけでは分からない人。
エレナは戸口から差し込む光を見た。
(もっと、知りたい)
誰かのために何ができるのか。優しさだけでは届かないところへ、どうすれば手を伸ばせるのか。
いまの彼女には、答えがない。
それでも、答えがないからといって、目をそらしたくはなかった。
「お待たせいたしました」
エレナは新しい客の卓へ料理を運んだ。
窓の外では、港町の人々が今日もそれぞれの暮らしを続けていた。




