第24話 王女のいない王国
食事処の昼は、いつも騒がしい。
港から戻った男たちの靴音。卓に置かれる杯。魚を焼く香りと、扉の隙間から入り込む潮風。エレナは皿を二枚持って、客の間をすり抜けた。
「お待たせしました。こちらが魚料理で、こちらが煮込みね」
「おう、ありがとう。ずいぶん手際がよくなったじゃねえか」
「ありがとうございます。まだ間違えることもありますが」
「最初の頃は、皿を置くにも緊張してたもんな」
笑われても、今は一緒に笑える。
初めてこの店を訪ねたとき、彼女は働くということをほとんど知らなかった。料理を食べる側と運ぶ側では、同じ食事でも見えるものがまるで違う。客の休憩は短い。注文を一つ取り違えれば、その人の貴重な時間を奪ってしまう。
初めて給金を受け取った日の喜びは、まだ手のひらに残っていた。
同時に、アランと家賃や食費を数えた夜のことも忘れていない。二人で働いても、暮らしに余裕ができるわけではなかった。
「こっち、水を頼む」
「ええ、すぐに」
エレナが水差しを持って近づくと、男たちが卓に硬貨を並べていた。
「今日の稼ぎから昼飯代を引いて、家に持って帰るのはこれだけだ」
「おまえ、毎日同じことを言ってるな」
「毎日同じだけ苦しいからだよ」
向かいの男が笑った。
「子どもの靴も買い替えなきゃならねえ。こっちはいつまでたっても余裕がない」
「働ける日はまだいいさ。荷が少なけりゃ仕事だって減る」
「だからって、腹が減らなくなるわけじゃねえだろ」
エレナは庶民の生活の大変さを感じながら静かに水を注いだ。
(この人たちは、ずっとこんなふうに暮らしてきたのね)
自分が初めて家賃を計算したとき、あんなに驚いたのに。彼らにとっては、毎日の当たり前なのだ。
少し離れた卓では、商人らしい男がパンをちぎりながら話していた。
「荷を運ぶほうも大変だろうが、仕入れるほうだって楽じゃねえ。売れる前に金が出ていくんだ。税のことまで考えると、帳面を開くのが嫌になる」
「商売が当たれば儲かるんだろ?」
「当たればな。売れなかったら、何を食って暮らす?」
誰かがため息をついた。
「結局、誰が楽してるんだろうな」
「王都のお偉いさんじゃねえのか」
エレナの手が、ほんの少し止まった。
「俺たちがいくら稼いで、何を食ってるかなんて、知らねえだろうよ」
「王様だって国を治める仕事があるだろ。何もしてねえみたいに言うな」
年配の客が口を挟んだ。
「国がなけりゃ、港で安心して商売もできん。騎士団だって必要だ」
「必要なのは分かってる。けど、困ってるときに助けてくれなきゃ、何のための騎士団だって思うこともあるさ」
「国中の人間を一度に守れるわけじゃないだろう」
「それも分かる。だからって、俺たちの苦労が消えるわけじゃねえ」
どちらの男も、相手を黙らせようとしているわけではなかった。ただ、自分が毎日感じていることを口にしている。
エレナは父レオルドの姿を思い浮かべた。
政務の書類に目を通す父。夜遅くまで会議を続ける父。王国のことを真剣に考えていると、エレナは知っている。
(お父様は、何も考えていないわけじゃない)
そう言いたかった。
しかし、王城で暮らしていた頃の自分は、明日の食費を心配したことがあっただろうか。店で働く人がどれほど急いで料理を運ぶか、港で荷を運ぶ人が一日を終えたときどれほど疲れているか、知っていただろうか。
「王女様だってそうだろ。何不自由なく育って、俺たちがどんな暮らしをしてるかなんて知らねえさ」
エレナは皿を重ねた。
否定したいのに、言葉が出てこなかった。
「そういや、王女様は山賊に襲われて亡くなったんだったな」
「若かったんだろ。気の毒にな」
「そういや、王女様ってどんな顔をしてたんだ? 俺は一度も見たことがねえな」
「俺だってねえよ。王族なんて、俺たち庶民がそう簡単にお目にかかれるもんじゃねえだろ」
「気の毒、ねえ。王城で好きなものを食って、何不自由なく暮らしてたんだろ?」
男が鼻を鳴らした。
「亡くなった王女様は、何か天罰でも下ったんじゃねえのか」
エレナの指が皿の縁を強くつかんだ。
天罰。
その言葉だけが、店の騒がしさから切り離されて耳に残った。
山道で聞いた剣の音。逃げることもできず、アランの名を呼んだ瞬間。アルトの変貌。あの恐怖が、自分の受けるべき罰だったというのだろうか。
「おい。いくら何でも、亡くなった娘に言うことじゃねえ」
年配の客が厳しい声を出した。
「王族に文句があるのと、人の死を笑うのは違うだろ」
「別に本気で天罰だと思ってるわけじゃねえよ」
「だったら、なおさら言うな」
男は肩をすくめ、杯を持ち上げた。
エレナは、ようやく息を吐いた。
自分が庶民の暮らしを知らなかったことは事実だ。知らなかったことを、これから学ばなければならないとも思う。
けれど、あの日の恐怖まで笑われてよいわけではない。
「お嬢さん、こっちの皿も下げてくれるかい」
「……ええ。すぐに」
エレナは顔を上げ、仕事を続けた。
目の前で働く娘が、いま死を語られた王女本人だとは、誰も知らなかった。
◇
シャルネ村の朝は、山の空気がまだ冷たかった。
「おい、ロイ。そっちの籠、まだ入るだろ」
「入るけど、押し込んだら花が傷むってミレイに怒られるぞ」
「俺がそんな乱暴に入れると思うか?」
「思う」
「即答すんなよ!」
ラヴィナが睨むと、ロイは声を立てて笑った。
花畑には、二人の籠に収まりきらないほどの花が咲いていた。ミレイがルベルで花屋を開いてから、朝の花摘みはすっかり日課になっている。
ロイは鉱山から帰郷し、いまは店の手伝いをしている。ラヴィナも花を摘み、運搬を手伝った。山賊狩りをしてきた身としては、道中の警戒もできる。もっとも、花を運ぶ二人をわざわざ襲う山賊がいるとは思えない。
「花なんか奪って、山賊はどうするんだろうな」
「売るんじゃないか?」
「だったら最初から花屋で働けばいいだろ」
「おまえ、山賊にまで仕事を紹介するつもりか?」
ラヴィナは笑った。
ロイとこうしてくだらない話をしながら歩くのは楽しい。昔と違って、二人には運ぶべき花があり、待っているミレイがいる。遊びではないのに、同じ時間を過ごせるのが嬉しかった。
ルベルの花屋へ着くと、ミレイは店先の花を整えていた。
「あ、二人とも! ありがとう。今日は早かったね」
「ロイが珍しく道草しなかったからな」
「おい、俺のせいにするなよ」
ミレイは笑いながら籠を覗いた。
「きれい。でも、こっちの花は少し傷んでるね」
「ほら、言っただろ」
「何だよ、ロイ。おまえだって途中で一本落としたじゃねえか」
「それは拾っただろ!」
「もう、二人とも。花が潰れちゃうから、先に置いて」
ミレイの声に、二人は顔を見合わせた。
店には花を見に来る人がいる。売れた花の分を補い、残ったものの状態を確かめ、次に運ぶ量を考えなければならない。ミレイは笑顔を絶やさないが、休む暇がない日もあるらしい。
「毎日大変だろ、ミレイ」
「うん。でも、好きで始めたことだもの。それに、二人が手伝ってくれるから」
「俺たちがいなきゃ、どうするつもりだったんだ?」
「自分で運ぶしかないでしょう?」
「そりゃそうか」
ロイが肩をすくめる。
「だから、これからも頼りにしてるね」
ミレイはそう言ってから、ラヴィナに微笑みかけた。
「そういえば、リゼアおばあちゃんも喜んでたよ。ラヴィナが山賊狩りに出かけるより、こうして花屋の仕事を手伝ってくれる方が安心だって」
「……ばあちゃん、そんなこと言ってたのか?」
「うん。危ない目に遭わずに済むなら、それが一番だって」
「まったく、心配しすぎなんだよ、ばあちゃんは」
そう言いながらも、ラヴィナの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「言われなくても手伝うって」
花の香りが店内に広がっていた。
◇
花屋の手伝いを終えたあと、ラヴィナは山奥の人目につかない場所へ向かった。
手には水の精霊花フィレナがある。
剣の稽古をするだけなら、身体の動きはよく分かる。踏み込むときの足の位置、相手の力を受け流す感覚、振り抜いたあとに残る重さ。
しかし、精霊力は違った。
ラヴィナの脳裏に、あの日の戦いがよみがえる。
アルトとの戦い。
自分なりに全力を尽くした。それでも、アルトには勝てなかった。
あのとき感じた力の差は、今も忘れられない。
(……くそっ。思い出すだけで腹が立つ)
ラヴィナは唇を噛んだ。
そして、もう一人。
ディルク・ハイゼン。
彼が見せた精霊力も、強く印象に残っていた。
力任せに振るうのではなく、精霊力を自分のもののように扱う。その姿を目にしたとき、自分がまだ知らない強さがあるのだと思い知らされた。
(あいつらにできて、俺にできねえなんて……)
ラヴィナは手の中のフィレナへ視線を落とした。
「……フィレナ」
身体に花を密着させ、静かに呼吸を整える。
力が身体へ流れ込むような感覚があった。
いつもなら、その力を使って身体を動かす。だが、今日は違う。
流れ込んできた精霊力を急いで使わず、少しでも長く身体の中に留めようと意識する。
(今度こそ、もう少し……)
だが、うまくいかない。
意識を強めるほど、力を使おうとする身体が先に反応する。わずかに足を動かしただけで、思っていた感覚が崩れた。
「くそっ。またかよ」
ラヴィナはしゃがみ込み、息を整えた。
精霊花は使えば消耗する。自分の身体にも疲れが残る。何度も無理に繰り返せば、花も自分ももたない。
手の中のフィレナを見つめる。
「……まだまだってことか」
アルトに負けた悔しさは消えていない。
ディルクが見せた精霊力も、忘れてはいない。
けれど、ただ力を強めるだけでは、あの二人との差は埋まらない気がした。
もっと上手く扱えるようになりたい。
必要なときに、必要なだけ力を引き出せるようになりたい。
(次に戦うときは、あんな負け方はしねえ)
ラヴィナはゆっくりと立ち上がった。
できないなら、明日また試せばいい。
花屋を始めたミレイも、帰ってきたロイも、自分の仕事を少しずつ覚えている。ラヴィナだって同じだ。
「ま、簡単にできたら苦労しねえよな」
そう言ってフィレナを大切に持ち直すと、山道を下り始めた。
◇
ヴァレスタの食事処では、昼の忙しさがようやく落ち着いていた。
エレナは空になった皿を重ね、客の去った卓を拭いていた。
先ほど聞いた言葉が、まだ胸に残っている。
(天罰だなんて……)
考えまいとしても、ふとした拍子によみがえる。
そのとき、店の外から馬の足音が聞こえた。
港では荷馬車も馬も珍しくない。普段なら気に留めなかっただろう。しかし、続いて聞こえた声に、エレナは顔を上げた。
「王国騎士団だ。少し尋ねたいことがある」
店の前を通る人々の足が止まる。
エレナは窓の外へ目を向けた。
騎士たちの間に、一人の青年がいた。
アルト。
息が止まりそうになった。
山道で剣を向けられたときの光景が、一瞬でよみがえる。アランの姿、逃げ場のない斜面、耳に残る声。
アルトは住民へ向かって話していた。
「アラン・フォルディスという男を探している。見かけた者はいないか」
「アランって、前の騎士団長じゃないのか?」
「そうだ。現在、国家重大犯罪の容疑で全国手配されている」
住民がざわめいた。
「重罪人ってことか?」
「重大な容疑がかけられている。見かけた者は騎士団へ知らせろ」
エレナは卓の縁に手を添えた。
(アランが……重罪人?)
王都を離れてから、アランが戻れない事情は分かっていた。だが、国家重大犯罪の容疑で全国手配されているとは知らなかった。
アルトはエレナの名を出さない。
当然だった。王国はエレナ王女が死亡したと発表している。生きている自分を公然と探せば、その発表との矛盾が生まれる。
アルトがこの港まで来た理由を、エレナは知らない。
ただ、目の前にいるのは、あの日アランへ剣を向けた男だ。
(ここにいてはいけない)
胸の鼓動が速くなる。
叫びたくなる気持ちを抑え、エレナはそっと視線を外した。アルトのほうを見続けていれば、かえって不自然になる。
◇
アルトには、どうしても確かめたいことがあった。
エレナの誕生日旅行。その道筋を、彼は知っていた。
もし兄が王女とともに逃げ延びているのなら、当初の旅で目指していた場所へ向かう可能性はある。ルベルを越え、海の見えるヴァレスタへ。もちろん確証はない。だが、手掛かりのない場所を闇雲に探すよりはよかった。
彼は通りの向こうへ目を向けた。
「この辺りで、アラン・フォルディスに似た男を見かけなかったか」
「騎士団長って、あの騎士団長かい? こんな港町に来るとは思えねえけど」
「見たことがあるか、ないかを聞いている」
男は首を振った。
「知らねえな」
アルトは次の住民へ視線を移した。兵士たちも周囲で聞き込みを続けている。
人が多い街だ。似た背格好の男などいくらでもいる。港で働く者、船で出入りする者、行商人。誰もが自分の用事に忙しく、見知らぬ男の顔をいちいち覚えているとは限らない。
(兄上がここにいるなら、どこかに痕跡があるはずだ)
そう考えると、胸の奥にあの不快な熱がかすかによみがえった。
アルトは呼吸を整えた。
いま必要なのは、感情を表に出すことではない。
「次の通りも調べる。行くぞ」
兵士たちが従った。
食事処の窓には、もう目を向けなかった。
◇
「……少し、休ませてもらってもいいかしら」
エレナは店主のそばへ行き、小さな声で尋ねた。
店主は手を止め、彼女の顔を見た。
「どうした? 顔色がよくないぞ」
「少し気分が悪くなってしまって」
「無理するな。奥で休んでこい。今日はもう落ち着いてるから」
「ありがとう。ごめんなさい」
「謝ることじゃない。倒れられたら困るからな」
いつもなら笑って返せる言葉だった。
エレナは軽く頭を下げ、店の奥へ移った。
背後では、客たちが騎士団の話をしている。
「前の団長が重罪人だって?」
「何があったんだろうな」
「王女様の事件だろ。そりゃただじゃ済まねえよ」
聞き慣れた名前が、知らない誰かの噂話に変わっていく。
アランは、あの日自分を守ろうとしてくれた。いまも一緒に働き、狭い部屋で暮らしている。その人が、街では重罪人と呼ばれている。
(アランに知らせなきゃ)
エレナは奥で一度立ち止まり、息を整えた。
慌てて表へ飛び出してはいけない。騎士たちがいるのは表の通りだ。自分が見つかれば、アランのことまで知られてしまうかもしれない。
裏口へ向かい、外の物音に耳を澄ませる。
人の声はあるが、騎士たちの声は聞こえない。
扉を少しだけ開け、周囲を確かめてから外へ出た。
店の裏手にも港町の生活は続いている。遠くで荷車が軋み、誰かが荷を運ぶ声がした。エレナは人の流れに紛れるように歩き始めた。
しばらく進んでから、ようやく大きく息を吐いた。
怖くないわけではない。
それでも、アランと二人で暮らす場所を、簡単に失いたくなかった。
◇
ヴァレスタの港を取りまとめるディルクの事務所に、騎馬急使が訪れた。
「王都からの正式な伝令です」
差し出された文書を受け取り、ディルクは封を確認した。
「ご苦労だった」
騎馬急使が下がると、ディルクは文書を開いた。
そこには王都会議の決議に基づく、アラン・フォルディスの手配区分の変更が記されていた。
王女護衛責任者だったアランは、国家重大犯罪の容疑による全国手配の対象となった。以前から出ていた身柄確保の命令よりも、さらに厳しい扱いになる。
ディルクは文面を最後まで読んだ。
アランは、いまこの港で働いている。
ルベルで会ったときのことも、シャルネ村で聞いた話も覚えている。王女とともにいた姿と、港で仕事を覚えようとする男の姿は、彼の中では別々のものではなかった。
文書を置く。
窓の外からは、荷を運ぶ男たちの掛け声が聞こえてきた。今日も港は忙しい。誰も、王都で下された決議の重みなど知らずに働いている。
ディルクはもう一度文書へ目を落とした。
「……いったい王都の議会は何を考えているのか?」
返事をする者はいなかった。
◇
夜、エレナはいつもより早く部屋へ戻っていた。
窓の外が暗くなり、街の声が少しずつ遠ざかる。小さな部屋には、まだ二人が欲しいと話した食卓も、揃いの椅子もない。置いてあるものはわずかだったが、ここはようやく手に入れた二人の居場所だった。
アランが戻ると、エレナはすぐに顔を上げた。
「おかえりなさい、アラン」
「ただいま。……どうしたの? 今日は早かったんだね」
「ええ。少し、いろいろあって」
アランは荷物を置き、彼女の顔を見た。
「何かあった?」
エレナは答えようとして、言葉を探した。
昼間の食事処のことを、どこから話せばいいのだろう。客の暮らしのこと。王族への不満。自分の死を天罰と呼んだ言葉。それから、アルト。
「今日ね、お店で王族の話をしている人たちがいたの」
「どんな話だった?」
「暮らしが苦しいことも、騎士団が十分に守ってくれないことも……王城にいる人には分からないんだろうって」
アランは腰を下ろし、彼女の話を聞いた。
「商人の人もいたわ。品物を売る前にお金を払わなければならないから、仕事があっても大変なんですって」
「そうだな。俺たちも、収入があって初めて分かったことがある」
「ええ……」
エレナは膝の上で手を重ねた。
「私、お父様が国のことを一生懸命考えているのを知っているわ。だから、何も知らないなんて、そんなことはないって言いたかったの」
「……言わなかったんだね」
「ええ。だって、私も知らなかったんだもの」
しばらく沈黙が続いた。
「王城にいた頃は、食事が運ばれてくるのが当たり前だったわ。お洋服だって、誰かが用意してくれた。毎日働いて、いただいたお金から家賃を払うことが、どれだけ大変かなんて……」
エレナは途中で口を閉じた。
アランが静かにうなずく。
「俺も、港で働き始めてから知ったことは多いよ。力があれば荷物を運べると思ってた。でも、順番や仲間との声の掛け方を間違えれば、かえって迷惑になる」
「アランでも、そうなのね」
「ああ。今までの経験が、そのまま全部役に立つわけじゃないんだ」
その言葉に、エレナは少しだけ表情を緩めた。
アランは何でも知っている人ではない。自分と同じように、知らないことを覚えながら暮らしている。
「でもね、もっと悲しいことを言われたの」
エレナの声が小さくなった。
「亡くなった王女様は、天罰が下ったんじゃないかって」
アランの表情が変わった。
「……そんなことを?」
「ええ。でも、別の人が叱ってくれたわ。亡くなった娘に言うことじゃないって」
エレナは視線を落とした。
「王族が暮らしを知らないっていうのは、私には否定できないところもあるの。でも、あの日のことまで……」
最後まで言えなかった。
アランは急いで励まさず、彼女の隣に座った。
「つらかったね」
「……うん」
「人々が暮らしに不満を持つのと、エレナが傷ついていいのとは別の話だよ」
エレナはアランを見た。
「そう、よね」
「それに、今日聞いたことは、大事な話だと思う。でも、何もかも一人で受け止めなくていい」
その言葉に、エレナはゆっくり息を吐いた。
「ねえ、アラン。私、王女だった頃は何を見ていたのかしら」
アランはすぐには答えなかった。
「王城から見えていたものも、確かにあったと思うよ。ただ、ここでしか見えないものもあるんじゃないかな?」
「ここでしか見えないもの……」
「今日の話も、もう少し聞かせてほしい。俺も知りたいから」
エレナはうなずいた。
父が大切にしてきた王国と、今日客たちが語った王国。その二つを、簡単にどちらか一方だけが正しいとは決められない。
けれど、自分の目で確かめることはできる。
彼女はその思いを胸に置いたまま、もう一つの話を切り出した。
「それから……アラン。今日、アルトを見たの」
アランが顔を上げた。
「アルトを?」
「ええ。騎士団の人たちと一緒に、店の近くへ来ていたわ」
「エレナは見つからなかった?」
「大丈夫。気づかれる前に裏口から出たから」
アランは少し息を吐いた。
「よかった。無事で」
「でも、アルトはあなたを探していたの。王女のことは何も言わなかった」
エレナは言葉を選んだ。
「それに……アランが、国家重大犯罪の容疑で全国手配されているって」
アランは黙った。
エレナはその沈黙を見つめた。
「そんなことになっているなんて、知らなかったわ」
「俺も、そこまで進んでいるとは知らなかった」
「ごめんなさい。私と一緒にいるから……」
「エレナ」
アランは彼女の言葉を遮ったが、声は穏やかだった。
「一緒にいるのは、俺が選んだことだよ」
「……でも」
「心配してくれてありがとう。けど、自分を責めないで」
エレナはうつむいたまま、しばらく黙っていた。
アランがそっと手を差し出す。エレナはその手を握った。
「アルトは、私たちがここにいると知っているのかしら」
「まだ分からない。今日の話だけで決めつけるのは危険だね」
「そうね……」
「しばらくは、今まで以上に周囲に気をつけよう。無理に動けば、かえって目立つかもしれない」
「ええ。私も気をつけるわ」
二人はそれ以上、すぐに結論を出そうとはしなかった。
外からは、遅くまで働く人々の声が聞こえる。
昼間、王族を批判していた人たちも、今頃はそれぞれの家に戻っているのだろう。食事を取り、明日の仕事を考え、家族と話しているのかもしれない。
エレナは窓のほうへ目を向けた。
(私は、この国のことを、まだほんの少ししか知らない)
王城にいた頃は、カルゼリア王国は平和で、人々は幸せに暮らしているのだと思っていた。
けれど、働き始めてから見えてきた暮らしは、それほど単純ではなかった。
だからこそ、知りたい。
誰かに教えられた王国ではなく、自分の目で見た王国を。
エレナは握った手に、そっと力を込めた。
アランも握り返してくれた。
◇
次の王都会議が近づいていた。
フォルディス家でユリウス・クロイツを迎えたヴァルターは、相手が椅子へ腰を下ろすまで、一言も発しなかった。
先の会議で、アランを国家重大犯罪の容疑者として全国手配する議案が可決された。反対したのは自分だけだった。
王は、アランの無実を信じながらも、娘を探すために必要だと考えて賛成した。あの決断を責めることは、ヴァルターにもできない。
それでも、息子の名が重罪の疑いとともに国中へ広まることを思えば、胸の奥に重いものが残った。
向かいに座るユリウスは、いつもと変わらない表情をしている。
「公爵閣下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「用件を聞こう」
「次の王都会議の件です」
ヴァルターは眉を寄せた。
「王妃候補の募集か」
「はい。前回は採決を延期しました。しかし、いつまでも先送りできる議題ではないでしょう」
「エレナ殿下の生死さえ、まだ明らかになっていない」
「おっしゃるとおりです」
ユリウスは否定しなかった。
「だからこそ、陛下にとっても、公爵閣下にとっても、難しい判断になると存じます」
「難しくしたのは、お前ではないのか」
「議題を提出したのは私です。ですが、判断するのは会議に出席する方々です」
穏やかな返答だった。
ヴァルターは腕を組んだ。
「他家は王家との縁組を望んでいる。自分の家から王妃が出れば、それだけ発言力も増す。そんなことは私にも分かる」
「ええ。娘を候補に出せる家にとっては、得がたい機会です」
「だが、フォルディス家にはそのような娘はいない。クロイツ家も同じだろう」
「その点では、私たちは似た立場にあります」
ヴァルターはユリウスを見据えた。
「似ているのは、そこだけだ」
ユリウスの口元がわずかに緩んだ。
「では、もう一つ、共通する利益を作れないでしょうか」
「……何?」
ヴァルターは背を起こした。
以前も、この男は取引を持ちかけた。王妃候補募集への反対と、アランの手配強化への賛同。こちらが拒んでも、会議の流れはユリウスの望む方向へ進んだ。
「先に言っておく。アランの件を持ち出して、再び私を脅すつもりなら無駄だ」
「脅すなど、とんでもありません」
「では何の話だ」
「王妃候補募集には、私も反対いたしましょう」
ヴァルターは答えなかった。
ユリウスは続けた。
「陛下がまだ王女殿下を思っておられることは、私も理解しております。国の将来を考える必要はございますが、急いで新たな縁組を求めることだけが道ではありません」
「……その言葉を、素直に受け取れと?」
「条件をお聞きになってからでも遅くはありません」
ヴァルターは短く息を吐いた。
「やはり条件があるのか」
「はい」
ユリウスは少し間を置いた。
「もし、エレナ王女殿下が生きておられたなら、私は以前のお約束どおり、貴族の地位を退きます」
「それはもう聞いた。お前が自分で言い出したことだ」
「ええ。約束は守ります」
「それで?」
「その後、私を王国騎士団の情報指揮官として迎えていただきたいのです」
ヴァルターは目を細めた。
「……何だと?」
「貴族としてではなく、軍の一員として情報を扱う役目をいただきたい」
「お前はクロイツ家の情報部門を預かる立場だ。なぜ軍に入りたい」
「戦争に勝つためには、兵の数だけでは足りません。情報が必要です」
ユリウスは机上へ視線を落とした。
「情報が届くのが一日遅れれば、その一日で失われるものがあります。どれほど優れた指揮官でも、知らない事実をもとに判断することはできません」
「そんなことは分かっている」
「でしたら、情報を集める者と軍を動かす者が、より密接に連携することの意味もお分かりでしょう」
ヴァルターは返答を急がなかった。
国境の緊張は続いている。軍の判断に情報が不可欠なのは事実だった。相手の動きが早く伝われば、それだけ対応の選択肢は増える。
しかし、情報を握る者は、何を知らせるかによって判断そのものに影響を及ぼせる。
「つまり、お前は軍の判断にも関わりたいのか」
「正確な情報を届け、適切な判断を支えたいのです」
「同じことだ」
ユリウスは言い返さなかった。
「軍の指揮権を望んでいるわけではありません」
「情報を統括すれば、指揮官が何を知るかを決められる。結果として軍の判断に影響することになるだろう」
「その危険を懸念されるのは当然です」
「ならば、なぜ私が承知すると思う」
「承知いただけると決めつけてはおりません。まずは、ご検討いただきたいのです」
ヴァルターは椅子の肘掛けに手を置いた。
この男は、断られることさえ計算に入れているのではないか。
エレナが生きていれば、ユリウスは貴族を辞めるという約束を果たす。その先に軍の情報を扱う立場を得られれば、失った地位を別の力に変えられる。
もしエレナが亡くなっていれば、約束を果たす必要はなくなる。王妃候補募集をめぐる各家の思惑は残り、アランの手配によってフォルディス家の立場は揺らいだままだ。
(どちらに転んでも、次の手を用意しているということか)
ヴァルターはその考えを口にしなかった。
「貴族を辞めることと、軍の要職に就くことは別問題だ。私一人の返事で決まるものでもない」
「承知しております」
「そもそも、そんな役職をどのような権限で置くつもりだ」
「その点も含め、正式な手続きが必要になるでしょう」
「随分と都合のいい話だな」
「ご判断のために必要なことは、今後もご説明いたします」
ヴァルターはユリウスを見た。
この男の手元には、王都の情報が集まる。騎馬急使による伝令も、情報を扱うクロイツ家の管轄と関わっている。その流れを軍へ近づければ、軍の動きを知るだけでなく、軍が何を優先するかにまで影響を及ぼすかもしれない。
それが国防に役立つ可能性を、ヴァルターは否定できなかった。
だが、役立つことと、信用できることは違う。
「ユリウス。お前は、私が何を守ろうとしているのか分かっているのか」
「フォルディス家の名誉と、王国の軍。そして、お二人のご子息でしょう」
ヴァルターの指が、肘掛けの上で止まった。
「分かっているなら、軽々しく息子たちを取引の材料にするな」
「そのつもりはございません」
「お前にそのつもりがなくとも、現にアランは国中で追われている」
ユリウスはわずかに目を伏せた。
「王女殿下の事件を明らかにするための手続きです。有罪かどうかを決めるのは司法であり、私はその結果を先取りするつもりはありません」
「……その言い方は、前にも聞いた」
「事実は変わりませんので」
ヴァルターは声を荒らげなかった。
怒りをぶつければ、かえってこの男に会話の主導権を渡す。そう分かっていた。
「今日の話は聞いた。だが、返事は出せん」
「はい」
「王妃候補募集に反対するかどうかも、お前自身で判断することだ。私の約束と引き換えに決めるな」
「ご意向は理解いたしました」
ユリウスは立ち上がり、静かに礼をした。
「お時間をいただき、ありがとうございました。次の会議まで、まだ考える余地はございます」
ヴァルターは立ち上がらず、その姿を見送った。
扉が閉まる。
部屋には、先ほどまでの会話が残っているようだった。
ユリウスの申し出を受ければ、軍に新たな情報の力を取り込めるかもしれない。拒めば、王妃候補募集をめぐる議場で、また別の駆け引きが始まるだろう。
何より、アランの名誉を取り戻す道は、まだ見えていない。
ヴァルターは深く息を吐いた。
(息子たちを守りたい。それだけのことが、なぜこうも難しい)
答えは出なかった。
屋敷を離れたユリウスは、振り返らなかった。
今日の交渉で約束は得られていない。それでも、ヴァルターが自分の要求を簡単には忘れられないことだけは、言葉を交わした感触から読み取れた。
彼は表情を変えず、歩みを進めた。
次の王都会議は、まだ始まっていない。




