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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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23/40

第23話 それぞれに届くもの

 エレナが客の足音で振り向けるようになってから、どれほど経っただろう。


 初めの頃は、扉が開くたびに慌てて顔を上げていた。今では料理を運びながらでも新しい客に気づく。卓が空けば食器を下げ、次の客が座る前に拭く。厨房から呼ばれたときは、何を先に運ぶべきかを確かめる。


 それでも、全部がうまくいくわけではなかった。


「エレナ、そっちじゃないよ。奥の卓が先!」

「あっ、はい!」


 店主の声に、エレナは持ち上げかけた皿を戻した。湯気の立つ料理を受け取り直し、客の間を抜けていく。


「お待たせしました」

「おう、ありがとう。今日は間違えなかったな」

「……前は申し訳ありませんでした」

「冗談だよ。そんな顔しなくていいって」


 港で働く男は笑い、すぐに料理へ手を伸ばした。


 エレナもつられて笑ったが、厨房へ戻るときには足を速めた。客の休憩時間は限られている。長く立ち話をするより、次の料理を運んだ方が喜ばれることを、この一か月で覚えた。


 以前は、相手の言葉が終わるまで丁寧に待つことが礼儀だと思っていた。今は、忙しい相手が何を求めているか早く気づくことも大切なのだと感じている。


「水、お願いできる?」

「はい。すぐに」


 そう返してから、別の卓で空になった杯にも気づいた。


 頼まれた水を届け、それからもう一方の客へ声を掛ける。


「お水もお持ちしましょうか?」

「ああ、頼むよ」


 小さなやり取りだった。けれど、初日に何度も立ち尽くした自分を思い出すと、嬉しかった。


 店主は厨房からその様子を見ていたが、何も言わず次の皿を差し出した。


「これも頼むよ」

「はい!」


 エレナは皿を受け取り、今度は迷わず歩き出した。


 ◇


 同じ頃、港の倉庫ではアランが二人の作業員と木箱を運んでいた。


「そっち、もう少し寄せてくれ」

「このくらいですか?」

「そうだ。下ろすぞ。せえの」


 三人の動きが揃い、木箱が床へ収まった。


 初めてここへ来た日、アランは持ち上げられる重さばかりを考えていた。だが、箱には積む順番があり、運ぶ道筋があり、先に置いてはいけない荷物もある。


 力任せに運べば次の作業の邪魔になる。急ぎすぎれば狭い通路で人とぶつかる。それを教えてくれたのは、隣で働く人々だった。


「もう慣れたな」

「まだ教わることばかりですよ」

「最初に比べりゃずっといい。あのときは置き場所を三度も聞いたからな」

「四度だったと思います」

「お前、そういうところは正直だな」


 作業員が笑い、アランも笑った。


 かつては部下から報告を受けることが多かった。今は自分が尋ね、教わり、間違えればやり直す。そのことを恥ずかしいとは思わなかった。


 むしろ、仕事を知り尽くした人々の手際には毎日のように感心させられている。


 休憩では皆が同じように腰を下ろした。年齢も体格も違う男たちが、食べ物を取り出し、家のことや港の忙しさを話している。


「今日は帰ったら何をするんだ?」


 隣の男に聞かれ、アランは少し考えた。


「連れと夕食を取ります。それから、今月の支払いを相談しようかと」

「堅実だな。俺なんか給金の日には先に何を食うか考えるぞ」

「それも楽しそうですね」

「楽しいぞ。財布が軽くなるのも早いけどな」


 周囲に笑いが起きた。


 給金の日。その言葉を聞くたび、アランは胸の内で数えていた日々を思い返す。


 働き始めて、ほぼ一か月になる。


 ◇


 食事処の昼の忙しさが過ぎ、最後の食器を片付けた頃だった。


「エレナ、ちょっとおいで」


 店主に呼ばれ、エレナは手を拭いて近づいた。


「何でしょうか?」

「これ。今月の分だよ」


 店主が差し出したのは、硬貨の入った小さな包みだった。


 エレナはすぐには手を伸ばせなかった。


「……私の、ですか?」

「ほかに誰の給金だと思うんだい」

「あ……そうですよね」


 受け取った包みは、思っていたよりずっしりと感じられた。


 王城にいた頃、金銭の計算を学ぶことはあった。国の収支や税についても、書物の中で数字を追った。だが、こうして一日ずつ働いた時間が、自分の手の中の硬貨になるのは初めてだった。


「ありがとうございます」


 エレナは両手で包みを持ち、深く頭を下げた。


「まだまだ覚えることは多いよ」

「はい」

「でも、最初の日よりはずっと動けるようになったね」


 その言葉に、エレナは顔を上げた。


「……本当ですか?」

「おや。自分じゃ分からないのかい?」

「少しは慣れたつもりでしたけれど、今日も間違えてしまいましたから」

「間違えない日なんて、そうそうないよ。大事なのは、そのあとどうするかさ」


 店主は空になった卓を顎で示した。


「ほら。まだ片付けが残ってる」

「はい。すぐに戻ります」


 エレナは笑って答えた。


 包みを大切にしまうと、いつもと同じように食器を運んだ。給金をもらったからといって、仕事が終わるまでの時間が短くなるわけではない。


 それも今では、よく分かっていた。


 帰る支度を整えたとき、店主が声を掛けた。


「また明日も頼むよ」

「ええ。明日もよろしくお願いします」


 扉を出ると、港の方から潮風が流れてきた。


 エレナは歩きながら、服の内側にしまった包みをそっと確かめた。


 何度も皿を運び、注文を聞き直し、叱られ、覚え直した一か月。その全部が、小さな重みになってそこにあった。


 早くアランに見せたい。


 そう思うと、疲れた足が少し軽くなった。


 ◇


 アランも、その日の仕事を終えて給金を受け取った。


 手の中の硬貨を見つめたとき、最初に浮かんだのは、家賃を支払わなければならないという考えだった。


 次に、エレナの顔が浮かんだ。


 彼女はきっと喜ぶだろう。ただ金が手に入ったからではない。自分の力で働き、暮らしを支えられるようになったことを、あの少女は誰よりも喜ぶに違いない。


 荷物をまとめていると、作業員の一人が声を掛けた。


「初めての給金か?」

「ええ」

「使いすぎるなよ」

「気をつけます」

「いや、少しは使え。働いた楽しみもないと続かんぞ」


 アランは笑った。


「それも、連れと相談します」

「そうしな。じゃあ、またな」

「お疲れさまでした」


 外へ出ると、空はまだ明るかった。


 港には夕方の仕事を続ける人々がいる。朝から動き続けた荷車も、まだ完全には止まらない。


 自分が帰ったあとにも、ここで働く人がいる。


 アランはその姿を一度振り返り、家へ向かった。


 ◇


「アラン、見て!」


 部屋に戻るなり、エレナは包みを両手で差し出した。


「どうした?」

「今日、いただいたの。初めてのお給金よ」


 言い終える前から頬が緩んでいる。


 アランは包みを見て、それから彼女を見た。


「おめでとう、エレナ」

「ありがとう。あのね、店主さんにも、最初の頃より上手になったって言ってもらえたの」

「それは嬉しいね」

「ええ。まだ失敗もするけれど……ちゃんと見ていてくださったのね」


 エレナは包みを開き、硬貨を一枚ずつ並べた。


「こんなふうに受け取ると、何だか不思議ね」

「何が?」

「一か月、毎日働いたでしょう? それが今、ここにあるんだと思うと……」


 彼女は言葉を探して、結局小さく笑った。


「とっても嬉しいの」


 アランは自分の給金も取り出した。


「俺も今日、もらったよ」

「まあ、本当に?」

「ああ。ちょうど同じ頃になったみたいだ」


 エレナは彼の前に身を寄せた。


「アランも、お疲れさま。毎日、重い荷物を運んでいたものね」

「エレナだって、ずっと立ち仕事だっただろう」

「そうだけど、アランのお仕事とは違うわ」

「違っていても、疲れるのは同じだよ」


 その言い方がおかしくて、エレナは笑った。


 二人は並べた硬貨を眺めた。


 部屋には立派な机もない。広げた紙の端を押さえながら、エレナは数を確かめる。


「ねえ、アラン。これなら、小さな食卓を買えるかしら」

「食卓?」

「ええ。前に話したでしょう? 二人で向かい合って食事のできるもの」

「覚えてるよ」

「それから椅子も。二つあれば、毎日ここで食べられるわ」


 エレナは何も置かれていない場所を見た。


 そこに食卓があって、温かな料理が並んでいる。アランが仕事から戻り、自分も食事を運ぶ。想像するだけで、部屋が少し明るくなるようだった。


「……まずは、必要なお金を分けてから考えようか」


 アランの声は穏やかだった。


 エレナは振り返り、すぐにうなずいた。


「そうね。家賃もあるもの」


 ◇


 二人は給金を合わせ、これから必要になる支出を一つずつ数え始めた。


 家賃。毎日の食事。仕事に必要な衣類や、暮らしの中で使うもの。急に何かが必要になったときのためにも、少しは残しておかなければならない。


 以前借りたこの部屋は、ほかに借り手が見つからなかった二人にとって、決して有利な条件ではなかった。


 家賃のことを考えると、せっかく並べた硬貨のかなりの部分を、最初から別にしておく必要がある。


「……あら」


 エレナが小さく声を漏らした。


「どうしたの?」

「思っていたより、残らないのね」


 アランは紙に書かれた数字を見た。


「そうだな。食事は毎日必要だし、次の家賃も考えないといけない」

「お仕事をしていれば、もう少し余裕ができると思っていたの」

「俺も、実際に並べると厳しいなと思う」


 エレナはもう一度数えた。足し算も引き算も間違っていない。金銭の扱いを学んだ経験は役に立っている。


 それでも、数字が正しいからといって、使える金が増えるわけではなかった。


「一日のお食事に使う分は、少しずつでも積み重なるのね」

「ああ。買うときは小さな金額でも、一か月分となると違う」

「お洗濯に使うものも必要でしょう? それに、仕事着が傷んだら……」

「買い替えも考えないとね」


 エレナは紙の余白に、思いついたものを書き足した。


 しばらくして、筆を置く。


「……食卓は、まだ先になりそうね」

「残念?」

「少しだけ。でも、仕方がないわ」


 彼女は食卓を置きたかった場所を見た。


「最初のお給金で何か買えたら、嬉しいと思ったの。でも、毎日暮らすためのお金を先に考えないといけないのね」


 アランはうなずいた。


「それが分かっただけでも、今月は大きかったと思う」

「ええ。来月は、もっと上手に考えられるかしら」

「一緒にやってみよう」


 エレナは彼の顔を見た。


「……アランは、がっかりしていない?」

「何に?」

「頑張って働いても、まだこんなに足りないものがあること」


 アランは少し考えた。


「正直に言えば、もう少し楽に暮らせたらと思うよ。エレナにも無理をさせたくないし」

「私、無理なんてしていないわ」

「そう言うと思った」


 アランが笑うと、エレナも少し笑った。


「でも、足りないものを一つずつ数えられるようになったのは、悪いことじゃないと思う。今までは、何が必要なのかもよく分からなかったから」

「……そうね」

「今月は二人とも働けた。来月も続けられれば、少しずつ先のことを考えられる」


 エレナは紙に視線を戻した。


 家賃の横に書いた数字は、何度見ても変わらない。けれど、その隣には二人が働いて得た金がある。


「ねえ、アラン。私、少しだけ勘違いしていたのかもしれない」

「どんな?」

「お仕事が決まれば、暮らしもすぐに落ち着くと思っていたの。でも、働くことと、暮らしていけることは、同じじゃないのね」


 アランは静かにうなずいた。


「確かに。続けていくことが大事なんだと思う」

「じゃあ、明日も頑張らないと」

「俺もだな」


 エレナは残った硬貨を丁寧に寄せた。


「食卓は、来月も買えないかもしれないわね」

「その次の月かもしれない」

「もっと先かもしれないわ」

「それでも、いつか買おう」


 エレナは顔を上げた。


「ええ。約束ね」


 ◇


 翌日、二人は仕事の帰りに商店の前で足を止めた。


 並んでいる食べ物の値段を見比べながら、エレナはしばらく考え込んでいた。


「こっちは少し高いのね」

「そうだね」

「でも、今日は……いいかしら」

「初めての給金のお祝いだからね」

「ほんの少しだけ、贅沢してもいい?」

「もちろん。今月の分はちゃんと分けてあるし」


 アランが答えると、エレナは嬉しそうに笑った。


 選んだのは、普段より少しだけ良い食べ物だった。王城で並んでいた料理と比べれば、決して豪華ではない。それでも、自分たちで値段を確かめ、相談して買ったものだった。


 部屋に戻り、二人で分け合う。


「おいしい……」

「よかった」

「でも、少しずつ食べたいわ。すぐになくなってしまうもの」

「そんなに惜しんでいたら、冷めるよ」

「もう。昨日の食事処の店主さんみたい」


 エレナは笑い、もう一口食べた。


 食卓はまだない。椅子も揃っていない。二人が向かい合って食事をするには、今ある場所を工夫するしかなかった。


 けれど、エレナは目の前のアランを見て思った。


 自分で働いて、初めて給金を受け取り、二人で買った食べ物を一緒に食べている。


 王城にいた頃、こんな夕食を想像したことがあっただろうか。


「ねえ、アラン」

「うん?」

「来月のお給金をいただいたら、また一緒に計算しましょうね」

「ああ。今度は今日より手際よくできるかな」

「私、計算なら負けないわよ」

「頼もしいな」

「でも、お買い物の値段は、まだアランの方が詳しいかもしれない」

「それも一緒に覚えればいいよ」


 エレナは頷き、最後の一口を大切に味わった。


 窓の外では港町の人々が帰り道を急いでいる。


 ここにはまだ、二人の望むものがすべて揃っているわけではない。それでも、今日の夕食は、どんな豪華な食卓にも代えがたい気がした。


 ◇


 シャルネ村には、いつもと変わらない時間が流れていた。


 ラヴィナは家へ戻ると、届けられた書簡を見つけた。


「……手紙?」


 差出人を確かめた瞬間、指が止まる。


「エレナ……?」


 もう一度、確かめる。見間違いではない。


「ほんとに、あいつからだ」


 思わず声が大きくなった。


 王都へ向かうはずだったあの日から、ずっと気に掛かっていた。無事でいるだろうか。あの大変な出来事のあと、ちゃんと笑えているだろうか。何か知らせがあればと思いながらも、簡単に会いに行ける距離ではない。


 ラヴィナは急いで封を開いた。


 書かれていたのは、二人が無事でいるという知らせだった。


 エレナは、ずっと見たがっていた海を初めて見たことを書いていた。どこまでも続く青い水、船、潮風。読んでいるうちに、あの少女が目を輝かせて話している姿が浮かんでくる。


「……へえ。ほんとに海まで行ったんだ」


 ラヴィナは笑った。


「見たい見たいって言ってたもんな」


 読み進めると、今度は新しい暮らしのことが書かれていた。二人で住む場所を得たこと。これからの生活を、自分たちの力で築こうとしていること。


 ラヴィナはそこで少し読む速度を落とした。


 王女として育ったエレナが、慣れない暮らしに飛び込んでいる。


 あの子は何でも一生懸命に考える。人の話も、最後まで聞こうとする。だからこそ、無理をしていないかと気になった。


「……大丈夫かな」


 つぶやいてから、ラヴィナは首を振った。


「いや、アランもいるし。あいつだって、いつまでも守られてるだけじゃないか」


 自分で言って、少し笑う。


 山道で会った頃のエレナは、知らないことに驚きながらも、知ろうとすることをやめなかった。怖い思いをしたあとでも、相手のことを気遣う少女だった。


 そんな彼女が、今度は海のある街で暮らしている。


 手紙の紙面に視線を戻すと、胸のあたりが温かくなった。


「……会いたいな」


 口に出してから、ラヴィナは少し照れたように唇を結んだ。


 もし会えたら、海の話を直接聞きたい。どんな色なのか、どんな匂いなのか。エレナが言葉を尽くして説明しても、きっと自分の目で見たくなるだろう。


「へえ、そんなにすごいのか。俺も一度見てみたいな」


 ラヴィナは手紙をもう一度最初から読み返した。


 エレナが笑っている様子を想像するたびに、自然と口元が緩む。


 いつか、また会おう。


 そのときは、海の話だけじゃなく、ここであったこともたくさん話してやろう。


 ラヴィナは手紙を丁寧に畳んだ。


 遠く離れていても、あのとき交わした言葉まで消えたわけではない。エレナが約束を覚えていることも、ラヴィナには分かっていた。


 ただ今は、元気でいると知れたことが何より嬉しかった。


 ◇


 書簡便はヴァレスタの町から海を挟んだヴェルネシア魔工国にも届く。


 皇帝オルゼディウス・ヴァルクレインのもとへ、一通の書簡が届けられた。


 それを携えてきたのは、フィルガ・ノルゼリスだった。


 淡い灰紫を帯びた銀色の髪は、首筋に収まる短いボブ。氷を思わせる薄い青の瞳は、手元の書簡にも、室内のわずかな動きにも静かに向けられる。黒銀の装備と灰紫の布をまとった細身の姿には、無駄な動きがなかった。


 彼女は皇帝直属の五人の魔剣士の一人。


 手紙を差し出して一礼した。


「陛下。お手紙が届いておりますの」


 オルゼディウスは差出人の名を確かめた。


「……セリア・ヴェルネ」


 聞き覚えのない名だった。


「フィルガ。この者を知っているか」

「いいえ。わたくしには心当たりがございませんの」

「そうか」


 皇帝は手紙を裏返し、もう一度名を見た。


 知らぬ相手から皇帝へ届いた書状。何を求めるものなのか、まだ分からない。


 オルゼディウスは封を開き、紙を広げた。


 フィルガはその場に立ち、言葉を待った。


 皇帝の視線が、書かれた行をゆっくりと進んでいく。


 途中で、その動きが止まった。


「……なるほど」


 それだけを口にし、最後まで読み進める。


 手紙には、カルゼリア王国で起きている一人の男の異変が記されていた。


 胸の奥に生じる熱。抑えがたい感情。突然の苦痛と、そのあとに訪れる不自然な静けさ。差出人は書物と観察を重ね、ある魔力の発現を疑うに至ったという。


 そして、その人物を治療してほしいと求めていた。


 オルゼディウスは紙を下ろした。


「フィルガ」

「はい、陛下」

「カルゼリアに、ゼルヴァの発現者がいるそうだ」


 フィルガの視線が、わずかに手紙へ移る。


「……ゼルヴァ、ですの?」

「ああ。差出人は、その者の治療を求めている」

「治療……? ゼルヴァを治療?、ですの?」


 問い返す声は柔らかかったが、その内容には不思議そうな響きがあった。


「そう書いてある」


 オルゼディウスは手紙を彼女に渡した。


 フィルガは受け取り、目を通す。


 差出人の名はやはり知らない。書かれている男についても、会ったことはない。けれど、ゼルヴァという名は、単なる病の名ではなかった。


「この方は、発現者を治したいとお考えなのですわね」

「そのようだ」

「それ、治すものですの?陛下は、いかがなさいますの?」


 オルゼディウスはすぐには答えなかった。


 フィルガも、それ以上は尋ねない。


 やがて皇帝は口を開いた。


「とにかく、カルゼリアへ行ってくれ」

「カルゼリアへ、ですの?」

「ああ。その発現者を見つけ、ここへ連れてきてほしい」


 フィルガは手紙を見下ろした。


「承知いたしました。ただ……」

「どうした」

「このお手紙には、発現者の詳しい居場所が書かれておりませんの」


 オルゼディウスは頷いた。


「それでも探せるか」


 フィルガは少しだけ目を細めた。


「ゼルヴァが発現しているのであれば、魔力として感知できるはずですの。現地で探してみますわ」


 その言葉は、居場所をすでに知っているという意味ではなかった。どこを探せばよいのか、どれほど時間がかかるのかも、今は分からない。


「ただ、捜索には少々お時間をいただくことになるかと存じます」

「構わない」


 皇帝は短く答えた。


「見つけたら、とりあえず連れてくるだけでいい」

「かしこまりました、陛下」


 フィルガは手紙を折り、丁寧に持ち直した。


 そこには、知らない差出人の名と、まだ見ぬ発現者についての記述がある。


 彼女は一礼し、皇帝のもとを辞した。


 その手には、セリア・ヴェルネから届いた一通の手紙が残されていた。


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