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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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22/40

第22話_働くということ

 朝になっても、部屋は広くならなかった。


 そんな当たり前のことを考えて、エレナは一人で小さく笑った。


 窓から差し込む光が、床に置いた荷物の輪郭を浮かび上がらせている。昨夜、二人で帰ってきたときには、何もない床さえ少し温かく感じられた。けれど、朝の明るさの中で見渡せば、足りないものは相変わらず足りない。食卓も、揃いの椅子も、花を飾る小さな台もない。


 外から荷車の音が聞こえた。誰かが声を張り上げ、それに別の誰かが短く答える。まだ日が高くないのに、ヴァレスタはもう動き始めている。


「起きた?」


 アランの声に振り向くと、彼は荷物のそばで上着を整えていた。


「ええ。おはよう、アラン」

「おはよう。よく眠れた?」

「うん。途中で外の音が聞こえたけれど……それも、この街らしいわね」

「港の朝は早いみたいだ」


 アランは窓の外を見てから、エレナへ笑いかけた。


「今日は仕事を探す日だね」

「ええ」


 返事はすぐに出た。けれど、そのあとエレナは部屋をもう一度見渡した。


 ここに住めるようになったことは嬉しい。昨日はラヴィナや父へ手紙を出すこともできた。それなのに、今日になればまた別の心配が待っている。


「……本当に、暮らすって毎日することがあるのね」

「そうだね。部屋が決まれば一安心、とはいかなかったな」

「でも、私たちで決めたお部屋だもの」


 エレナがそう言うと、アランはうなずいた。


 簡単な朝食を用意し、二人で並んで食べた。食卓はまだない。置ける場所を探して座り、パンを分け合う。王城で食事をしていた頃には考えもしなかった姿だったが、アランが向かいにいると、それほど不自由にも思えなかった。


 ただ、アランが手元の金を確かめる様子には、エレナも自然と目を向けた。


「昨日の部屋代、やっぱり高かったのね」

「相場より高い条件だったと思う。あれだけ断られたあとだったから、仕方ないところもあるけど」

「私たちにお仕事がなかったから……」

「貸す人からすれば、次も払えるか分からないからね。だから、早く収入を得られるようにしないと」


 アランは心配を隠そうとはしなかった。けれど、必要以上に深刻な顔もしない。


 エレナはパンを持つ手を止めた。


「私も、早く働きたいわ」

「焦らなくてもいいよ。初めてのことなんだから」

「でも、アランだけに頑張ってもらうのは嫌なの」

「嫌?」

「ええ。二人で暮らすんでしょう? だったら、二人でできることを探したいの」


 アランはしばらく彼女を見つめ、それから柔らかく笑った。


「分かった。一緒に探そう」

「うん」

「ただ、無理はしないで。断られたら、また別のところを探せばいい」

「アランもよ」

「俺も?」

「ええ。力仕事だからって、何でも一人で抱えないでね」


 彼が少し驚いたような顔をしたので、エレナは笑った。


「私だって、心配するんだから」

「……そうだね。気をつけるよ」


 朝食を終え、二人は戸締まりを確かめて外へ出た。


 鍵をかける音が小さく響く。エレナはその音を聞いてから、もう一度扉を見た。


 帰ってくる場所がある。


 そのことが、今日も歩いてみようと思える理由になっていた。


 ◇


 港へ向かう通りには、朝から荷車が列を作っていた。


 樽を積んだ車輪が石畳の継ぎ目で跳ね、荷を押さえる男が大声で注意を促す。肩に縄をかけた作業員たちが行き交い、遠くでは船の帆が風を受けて揺れていた。


「昨日は、あの船ばかり見ていたのに」


 エレナがつぶやく。


「今日は違う?」

「ええ。船の下で、こんなにたくさんの人が働いているのが気になるの」


 彼女は木箱を運ぶ男たちを見つめた。二人がかりで持ち上げた箱が、掛け声に合わせて荷車へ移される。一人が縄を締め、別の一人が荷の傾きを確かめた。


「一つ運ぶだけでも、みんなで力を合わせるのね」

「重い荷物ほど、そうなんだろうね」

「アランも、あんなお仕事をするの?」

「雇ってもらえればね」

「……気をつけてね」

「さっきも言われたよ」

「何度でも言うわ」


 アランが笑い、エレナもつられて笑った。


 やがて、商店が並ぶ道と、荷車が倉庫へ向かう道の分かれ目に来た。


「じゃあ、俺はこっちを聞いて回るよ」

「私は、お店を見てみるわ」

「夕方には戻ろう。先に帰った方は部屋で待っていればいい」

「ええ。……お仕事、見つかるといいわね」

「ああ。エレナも」


 人の往来を確かめてから手を離す。


 エレナは数歩進んで振り返った。アランもまだこちらを見ていた。


「アラン!」

「どうした?」

「頑張りましょうね!」


 彼は片手を上げた。


「うん。行ってらっしゃい」


 エレナは胸の奥が少し温かくなるのを感じ、商店の方へ歩き始めた。


 ◇


 仕事を探すのは、想像していたより難しかった。


 アランが最初に声をかけた作業場では、手が足りていないという話だった。ところが、荷役の経験を尋ねられ、ないと答えると、相手の表情が変わった。


「力はありそうだが、荷の扱いを知らないと危ない。今日は経験のある者が欲しいんだ」

「分かりました。お時間を取らせてすみません」


 次に訪ねたところでは、以前どこで働いていたのかと聞かれた。


 アランは答えを探して一瞬黙った。


 騎士団長だったと言えば、話は早いのかもしれない。けれど、その肩書はもう使えない。名乗ったところで信じてもらえるとも限らず、むしろ二人の居場所を知られる危険がある。


「こちらの仕事の経験はありません。ただ、身体を使う仕事なら覚えたいと思っています」

「そうか。悪いな、今は人が足りている」


 それ以上、相手を引き止めなかった。


 仕事がないと言われるたび、アランは礼を述べて次へ向かった。断った人々の態度は、必ずしも冷たいものではなかった。忙しい現場で、経験のない者に一から教える余裕がない。それだけのことも多い。


 ただ、理由が分かるからといって、仕事が見つかるわけではなかった。


 港の端を歩きながら、アランは自分の手を見た。


 剣を握ることには慣れている。人を守るために身体を動かし、部下を指揮することも知っている。


 けれど、あの箱をどこへ運べばいいのか、積み方を間違えると何が起きるのか、今の自分には分からない。


 力があることと、仕事ができることは違う。


 その違いを認めるのに、特別な悔しさはなかった。ただ、覚えなければならないことが多いのだと思った。


 一方、エレナも商店を何軒か訪ねていた。


「文字の読み書きはできるの?」

「はい。帳面を読むこともできます」

「それは助かるね。じゃあ、店番の経験は?」

「……ありません」


 相手は申し訳なさそうに首を振った。


「今は、すぐに店に立てる人が欲しいんだよ」

「そうですか。ありがとうございました」


 次の店でも似たようなことを聞かれた。客と話すのは好きか。品物を数えたことはあるか。混んでいるときに一人で対応できるか。


 客と話すことなら、できると思った。


 けれど、どれも仕事としてやったことはない。王城では、挨拶を交わす相手も、話す内容も、あらかじめ整えられていることが多かった。相手が今すぐ欲しいものを選び、金を受け取り、別の客の用件を聞く。そんな忙しさを経験したことはない。


 正直に答えるたび、相手は考え込んでしまう。


 何軒目かの店を出たとき、エレナはしばらく扉の前に立っていた。


 何もできないわけではない。


 そう言いたかった。でも、働いた経験がないのは本当だった。


「……できると思うだけでは、だめなのね」


 つぶやいてから、彼女は顔を上げた。


 店の前を、荷を担いだ男が通り過ぎていく。誰もが忙しく、自分の仕事へ向かっていた。


 エレナも、もう一軒だけ訪ねてみることにした。


 ◇


 アランがやっと仕事が見つかりそうと思ったのは、さらにいくつか働き口を尋ねたあとだった。


「港の仕事なら、あの人にも聞いてみな。人手のこともよく知っているから」


 そう教えられ、港の管理に関わる人々が出入りする一角へ向かった。


 そこでは作業員が荷の移動について報告し、別の男が倉庫の方を指して何かを伝えていた。話の中心に立っている大柄な人物を見た瞬間、アランは足を止めた。


 見覚えのある鋼灰色の短髪。広い肩。周囲の人々より頭一つ抜けるほどの体格。


「……あなたは、確かルベルで」


 男が振り向いた。


「おお。久しぶりだな」


 ディルク・ハイゼンだった。


 あの街で会ったときと同じ、穏やかな表情をしている。


「こんなところでお会いするとは思いませんでした」

「俺はここで働いているからな。君こそ、ヴァレスタに来ていたのか」

「はい。少し前に着きました」

「そうか。海は見たか?」

「ええ。連れが、ずいぶん喜んでいました」


 答えると、ディルクは目元をわずかに緩めた。


「それはよかった」


 すぐそばで作業員が声をかける。ディルクは話を聞き、荷車の通行を妨げないようにすることと、危ない場所には人を立たせないよう短く指示した。


 相手が離れてから、アランは尋ねた。


「港の警備をされているんですか?」

「ああ。ここは人も荷物も多いからな。何かあれば、あちこちから話が来る」

「大変そうですね」

「退屈はしないよ。それで、今日はどうした?」


 アランは仕事を探していることを伝えた。


 ディルクは意外そうな顔をするでもなく、しばらく彼を見た。


「荷運びか、倉庫の仕事を考えているのか?」

「はい。身体を使う仕事なら、力になれると思います」

「経験は?」

「ありません」


 アランが即答すると、ディルクはわずかに眉を上げた。


「ないのか」

「はい。ですから、できることから覚えたいと考えています」


 ディルクは近くの作業を一度見渡した。


「少し話そうか。こっちへ」


 ◇


 面談は、アランが思っていたほど堅苦しいものではなかった。


 ディルクは、いつから働けるか、重い荷を扱う仕事でも構わないか、仲間と作業することに抵抗はないかを順に尋ねた。


 アランは一つずつ答えた。分からないことは、分からないと言った。


「荷運びの経験はない。それで、ここで働きたいと?」

「はい。経験はありませんが、仕事は一つずつ覚えます」

「随分と正直だな」

「できないことを、できるとは言えませんから」


 ディルクは少し笑った。


「それで、教わった通りにやって失敗したら?」

「まず、何を間違えたのか確かめます。荷を傷めたり、人に危険が及んだりしたなら、すぐに伝えます」

「叱られるぞ」

「それでも、黙っているよりはいいと思います」

「なるほど」


 ディルクは落ち着いた姿勢でアランを見ていた。


「じゃあ、仲間が自分と違うやり方を言ってきたらどうする?」

「まず理由を聞きます。自分はこの仕事の新人ですから。危険だと思うことがあれば、その点は確かめたいです」

「言われたことを何でも黙ってやるわけじゃないんだな」

「安全に仕事を終えるために、必要なことは話すべきだと思います」


 しばらく、ディルクは何も言わなかった。


 アランは答えを間違えたのだろうかと考えた。仕事を探しに来た人間が、あまり理屈を言うべきではなかったかもしれない。


 しかし、ディルクは穏やかにうなずいた。


「いい答えだ。ここでは一人の無理が、隣で働く者の怪我につながることもある。分からないなら聞く。それができる人間の方がいい」


 アランは肩の力を少し抜いた。


「ありがとうございます」

「礼はまだ早いぞ」


 ディルクは立ち上がり、港の方へ視線を向けた。


「仕事は楽じゃない。荷が来れば忙しいし、思った通りに進まない日もある。体力だけで何とかなるものでもない」

「承知しています」

「……いいだろう。明日から来るといい」


 アランは一瞬、言葉を失った。


「本当に、いいんですか?」

「俺の質問にはちゃんと答えた。できることとできないことを分けて考えている。それなら、教える方も困らないだろう」


 ディルクは少しだけ笑った。


「ただし、覚えるまでは周りの者の言うことをよく聞けよ」

「はい。ありがとうございます」


 アランは深く頭を下げた。


 ディルクはそれを大げさに受け止めず、明日の仕事について必要なことを伝えた。


 港から出る頃、アランは何度も手を開いたり閉じたりした。仕事を得られた。自分の肩書を名乗らず、誰かの助けを当然と思うこともなく、これから働く場所が決まった。


 面談の最後にディルクが言った言葉を思い出す。


 分からないなら聞く。


 当たり前のようで、これからの自分には大切なことだった。


 ◇


 エレナが最後に訪ねたのは、港の近くにある食事処だった。


 扉の向こうから、器が触れ合う音と、魚を焼く香ばしい匂いが流れてきた。店の奥では誰かが忙しく動いている。客席にはまだ空きがあったが、昼が近づけば人が増えるのだろう。


「すみません。こちらで、お仕事を探しているのですが」


 声をかけると、店の主人らしい人物が振り向いた。


「仕事? 給仕かい?」

「はい。できれば、お手伝いをさせていただきたくて」

「経験はあるの?」


 また同じ質問だった。


 エレナは一度息を吸った。


「ありません。でも、文字の読み書きはできますし、教えていただいたことは覚えるつもりです」

「字が読めるのはいいね。けど、うちは昼が忙しいよ。船の仕事をしている人は、のんびり待ってくれない」

「……はい」

「本当にできる?」


 できる、と即答したかった。


 けれど、まだやったことがない。さっきまで何度も断られた理由も、そこにある。


「最初から上手にできるとは言えません。でも、やらせていただけるなら、最後まで頑張ります」


 店主は彼女の顔を見た。


「ずいぶん丁寧に話す子だね」

「……そうでしょうか」

「うん。まあ、丁寧なのは悪いことじゃない。忙しくなっても、その調子で落ち着いていられるかが問題だけど」


「そうだ、名前を聞いてなかったね。お嬢さん、何ていうんだい?」


 エレナは一瞬だけ言葉を止めた。


「……エレナです」

「エレナ?」


 店主が改めて顔を上げた。


「王女様と同じ名前じゃないか」

「ええ。そうですね」


 エレナは目を逸らさず、静かに答えた。


「今は、あまり気軽に口にできる名前じゃないねえ……」


 店主は言いかけて口をつぐんだ。王女の訃報は、この港町にも届いている。


 淡いプラチナブロンドの髪に、整った顔立ち。落ち着いた物腰も、この辺りで働く娘たちとは少し違う。店主は彼女をしげしげと眺めた。


「……どこかのお屋敷で働いていたのかい?」

「いいえ。お店で働くのは、これが初めてです」

「そうかい」

「知らないことは、きちんと教わりたいと思っています。どうか、よろしくお願いします」


 エレナは背筋を伸ばしたまま、まっすぐに店主を見た。


 店主はしばらく考え、それから小さく息をついた。


「まあ、名前が同じだからって、王女様なわけもないか。……それに、ここじゃ立派な挨拶より、料理を早く運べる方がありがたいよ」

「はい。精いっぱい頑張ります」


 店主は店内へ目をやった。


「じゃあ、今日の昼、手伝ってみるかい。向いているかどうか、やってみないと分からないしね」


 エレナは思わず顔を上げた。


「よろしいんですか?」

「ただし、楽な仕事だと思わないこと。間違えたらその場で言うよ」

「はい。ありがとうございます!」


 礼を述べたあと、エレナは少しだけ胸を押さえた。


 名を告げるだけで、あんなふうに見つめられる。危うさがないとは思わなかった。それでも、名前を偽ることなく、ここで一人の働き手として認められたかった。


 ようやく、やってみてもいいと言ってもらえた。


 それだけで、朝から歩き続けた疲れが少し軽くなった気がした。


 店主に教わりながら、器の置き場所や卓の位置を確かめる。使い終わった食器を下げる順番、料理を運ぶときの注意、注文を聞いたあとに伝える先。どれも難しい説明ではなかった。


 エレナは丁寧にうなずき、忘れないよう頭の中で繰り返した。


 けれど、店主は最後にこう言った。


「今は分かっても、忙しくなると違うからね」


 エレナはその意味を、まだ十分には理解していなかった。


 ◇


 昼の鐘が聞こえる頃には、店の様子がすっかり変わっていた。


 開いた扉から次々と人が入り、空いていた卓が埋まっていく。袖をまくった男たち、船から降りてきたらしい旅人、荷車を引いてきた商人。皆、席につくとすぐに料理を注文した。


「こっちは魚とパンを二つ!」

「温かいのを先に頼む!」

「お嬢ちゃん、こっちも聞いてくれ!」


 エレナは最初の卓へ向かい、笑顔で頭を下げた。


「お待たせいたしました。ご注文をお伺いします」

「焼いた魚を一つ。それとパンを」

「はい。焼いたお魚とパンを、お一つずつですね」

「そうそう。急いでるから頼むよ」

「承知しました」


 注文を伝えようとしたところで、背後から別の声が飛んだ。


「こっちも頼む!」


 振り向けば、別の卓から手が上がっている。その向こうでは空いた器が片付けられるのを待っていた。


 エレナは最初の注文を伝えてから、次の卓へ急いだ。


「お待たせして申し訳ありません」

「いいから、先に注文を聞いてくれよ。昼休みが短いんだ」

「はい、すぐに」


 客の声は怒鳴り声というほどではなかった。ただ、待つ余裕がないのだと分かった。


 エレナは料理の数を聞き、覚えたつもりで戻る。けれど、途中で別の客に呼び止められ、何を先に伝えるべきか迷ってしまった。


 店主が手を止めた。


「エレナ、今の注文は?」

「はい。あちらの卓が魚を二つと、それから……」

「それから?」

「……申し訳ありません。もう一度確かめてきます」


 店主は短くうなずいた。


「分からなくなったら、そのままにしないで。急いでいる時ほど、確かめなきゃだめだよ」

「はい」


 エレナは客のもとへ戻った。


 もう一度聞くのは恥ずかしかった。それでも、間違った料理を出すよりはいい。


「申し訳ありません。ご注文をもう一度、確認させていただけますか?」

「ええ? さっき言ったろう」

「はい。本当に申し訳ありません」


 男は少し眉を寄せたが、注文を言い直してくれた。


 エレナは礼を述べ、今度こそ間違えないように伝えた。


 ところが、ようやく運ぶ料理を受け取ったときには、別の問題が待っていた。


 似た料理が二つ並んでいる。どちらをどの卓へ運ぶのか、さっき教わったはずなのに、目の前の器を見た途端に分からなくなった。


 店主は別の客の相手をしている。


 エレナは一瞬ためらい、覚えている方へ料理を運んだ。


「お待たせいたしました」

「ん? 俺たちが頼んだのはこっちじゃないぞ」


 客が器を見て言った。


「……え?」

「魚は頼んだが、この付け合わせじゃない。隣の卓のだろう」


 顔が熱くなった。


「申し訳ありません。すぐに確認いたします」


 器を持ち直そうとしたとき、店主が近づいてきた。


「エレナ、そっちは違うよ。運ぶ前に聞いてくれればよかったのに」

「はい……申し訳ありません」

「謝るのはあと。まず正しい料理を届けよう」


 店主の言葉に、エレナははっとした。


 謝ることに気を取られて、今すべきことを見失いかけていた。


 店主は間違いを直し、次の料理を手早く運ぶ。エレナも教えられた通りに動こうとするが、歩く先々で別の用事が目に入った。


 使い終わった器が積まれている。水を求める声がする。空いた席には次の客が座ろうとしている。


 どれも、誰かがしなければならない仕事だった。


 王城で食事をしていた頃、料理は温かいうちに運ばれてきた。必要なものを尋ねれば、誰かがすぐに用意してくれた。


 その裏で、何人もの人が何を見て、何を考え、どれほど急いでいたのか。


 エレナは、今までほとんど知らなかった。


 ◇


 昼の混雑が落ち着いた頃には、エレナの足は重くなっていた。


 使い終わった器を下げ、卓を拭き、残っている客の様子を確かめる。手を止めると次に何をすればよいか分からなくなり、動こうとすると別の仕事を思い出す。


 ようやく空いた卓を片付け終えたところで、店主が声をかけた。


「ちょっと座っておいで。顔が疲れてるよ」

「いえ、まだ片付けが……」

「今はいいから。少し休んだら、また頼むよ」


 エレナは礼を述べ、邪魔にならないところへ腰を下ろした。


 指先が少し痛い。歩き続けた足も重い。何より、何度も客を待たせたことが気になっていた。


 自分では丁寧に接したつもりだった。


 でも、客が欲しかったのは、長い挨拶でも、何度も繰り返す謝罪でもなかった。


 限られた休憩時間のうちに、温かい食事を食べることだった。


「……私、何度も間違えてしまいました」


 店主は器を重ねながら、エレナを見た。


「そうだね。今日は間違いが多かった」


 はっきり言われ、エレナは視線を落とした。


「申し訳ありませんでした」

「でも、逃げなかっただろう」

「……え?」

「途中で嫌になって帰る子もいるよ。忙しいのが終わるまで、よく動いてくれた」


 エレナはすぐに返事ができなかった。


 褒められた気がして嬉しいのに、今日の自分を思い返すと、素直に喜んでよいのか分からない。


「丁寧なのはいいことだよ。ただね、ここでは早く料理を出すのも、お客さんを大事にすることなんだ」

「早く……」

「もちろん、急いで間違えたら意味がない。だから、聞くところは聞いて、確かめるところは確かめる。慣れるまでは難しいけどね」


 店主は少し笑った。


「お客さんは、食べたらまた仕事へ戻るんだよ。待たせないようにするのも、あの人たちの時間を大切にすることさ」


 エレナは顔を上げた。


 礼儀とは、相手を尊重するためのものだと教わってきた。


 けれど、相手を尊重する方法は一つではない。


 今ここにいる人々には、長い言葉より、間違いなく届く一皿の方が必要なときもある。


「……分かりました。明日は、今日より上手にできるようにしたいです」

「明日も来る気があるのかい?」

「はい。まだ覚えられていないことが、たくさんありますから」


 店主は少し目を細めた。


「じゃあ、明日もおいで。最初から全部できる人なんていないよ。でも、今日間違えたことは覚えておくんだよ」

「はい。ありがとうございます」


 エレナは深く頭を下げた。


 店を出る頃、港の空は少しずつ夕方の色へ変わっていた。


 海の方から吹く風が頬に触れる。朝にはあれほど気持ちよく感じた潮風が、今は疲れた身体をそっと冷ましてくれるようだった。


 エレナは振り返り、店の扉を見た。


 明日も、ここへ来ていい。


 そのことが嬉しかった。


 けれど、明日も失敗するかもしれないという不安も、まだ消えていなかった。


 ◇


 翌朝、アランは教えられた場所へ向かった。


 昨日は面談だけだった。今日からは、実際に荷物を運ぶ。


 港の朝は前日と変わらず忙しい。船から下ろされた箱が並び、倉庫へ向かう荷車が順番を待っていた。


 アランは作業員の指示を聞き、まず荷を置く場所を覚えた。重い箱と軽い箱では積み方が違う。上に載せてはいけないものもある。通り道を塞げば、次の荷車が動けなくなる。


「そっちはまだ置くな。先に奥を空けるんだ」

「分かりました」

「箱を持つ前に、下の縄も見ておけ。ほどけかけてると危ないぞ」

「はい。ありがとうございます」


 アランは指示を受けるたび、言われたことを確かめた。


 重さだけなら、苦にならない荷も多い。だが、持ち上げられるからといって、好きな場所へ運べばいいわけではなかった。


 最初のうち、アランは倉庫の入口近くに箱を置こうとして止められた。


「そこに置くと、あとから来る荷が通れなくなる」

「すみません。奥へ運び直します」

「そうだ。慌てなくていいから、先を見て動け」


 アランは箱を持ち直した。


 自分一人なら簡単に運べる。だが、ほかの人が次に何をするかまで考えなければ、作業は滞る。


 剣を握っていた頃も、仲間との連携は大切だった。それでも、今ここで求められている判断は違う。


 守るべきものは、敵の攻撃から誰かをかばうことではない。荷を傷つけず、働く人を危険にさらさず、決められた場所へ確実に運ぶことだ。


 仕事の途中、別の作業員が声をかけた。


「兄ちゃん、力はあるな。けど、腕だけで運ぼうとすると、あとで腰にくるぞ」

「そうなんですか?」

「そうだよ。足も使うんだ。ほら、こうやって」


 男は荷の持ち方を実際に見せた。


 アランも同じように試す。


「……なるほど。確かに、こっちの方が安定しますね」

「だろう? 最初はみんな、力任せにやりたがるんだ」

「教えていただいて助かりました」

「いいってことよ。隣で倒れられたら、こっちも困るからな」


 男は笑い、次の荷へ向かった。


 アランも笑った。


 王国騎士団長として過ごしていた頃には、部下から仕事の基本を教わる機会などほとんどなかった。今は誰かに教えてもらわなければ、まともに一日を終えられない。


 それを恥ずかしいとは思わなかった。


 むしろ、ここでは誰もが自分より多くのことを知っている。そう思うと、尋ねることも自然になった。


 昼を過ぎても作業は続いた。荷車が来れば道を空け、積み終えれば次の荷を取りに行く。声を掛け合ううち、周囲の動きが少しずつ見えるようになる。


 終わる頃には、腕にも肩にも疲れが残っていた。


 剣の稽古とは違う疲れだった。同じ動きを何度も繰り返し、誰かの仕事の進み具合に合わせて動き続ける。大きな出来事は何も起きていない。それでも、一日が終わると身体は重かった。


 作業員たちは、そんな様子のアランを見て笑った。


「初日はそんなもんだ。明日も来られそうか?」

「はい。まだ覚えることが多いので」

「なら大丈夫だな」


 アランは礼を言い、港をあとにした。


 夕方の海には、朝と違う光が落ちている。


 この港で働く人々は、明日もまた同じように荷を運ぶのだろう。


 その仕事の一部を、自分も担うことになった。


 アランはゆっくり息を吐いた。


 今日、エレナはどうしているだろう。


 そのことを思うと、疲れた足が自然と家の方へ向いた。


 ◇


 その夜、先に部屋へ戻っていたエレナは、扉の開く音に顔を上げた。


「おかえりなさい、アラン」

「ただいま。エレナもお疲れさま」


 アランがそう言うと、エレナは少しだけ不思議そうな顔をした。


「……お疲れさま、って言われるの、何だか嬉しいわね」

「今日は働いてきたんだろう?」

「ええ。まだ、ちゃんと働けたと言えるか分からないけれど」


 エレナは笑い、アランの手元を見た。


「アラン、手が少し赤くなっているわ」

「ああ。荷物を運んでいたからね」

「痛くない?」

「少しは。でも、大丈夫だよ」

「本当に?」

「本当だよ。無理をしないって約束しただろう」


 エレナはようやくうなずいた。


 二人は今日のことを話しながら、簡単な夕食の用意をした。まだ食卓はない。荷物を少し寄せ、座る場所を作る。アランがいつものように隣へ腰を下ろすと、エレナは一度その横顔を見てから口を開いた。


「お仕事、決まったのね」

「ああ。昨日、ディルクさんに会ったんだ」

「ディルクさん?」

「ルベルで会った大柄な人だよ。覚えてる?」

「ええ。あの方が、ここにいらっしゃるの?」

「港の警備をまとめているそうだ。仕事を探していると話したら、いろいろ聞いてくれてね」


 アランは面談で尋ねられたことを話した。経験がないと答えたこと。失敗したときのことを聞かれたこと。そして、今日から作業を教わったこと。


「そんなに早く決まったのね。よかった……!」

「俺も驚いたよ」

「でも、アランならきっと、きちんとお仕事を覚えられるわ」

「そう言ってもらえると嬉しい。ただ、今日は何度も教わってばかりだった」

「アランが?」

「そう。荷物の置き方も、運び方も、知らないことだらけ」


 エレナは目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「……何だか、少し安心」

「どうして?」

「アランにも、知らないことがたくさんあるんだなって」

「もちろん。俺だって初めての仕事だからね」


 エレナは膝の上で指を重ねた。


「私もね、今日も失敗してしまったの」


 アランは彼女へ身体を向けた。


「食事処で?」

「ええ。お客さんの注文を覚えきれなかったり、違う卓へお料理を運んでしまったり……」


 言葉にしているうちに、昼の店内が思い浮かんだ。重なる注文。急ぐ客。店主に呼び止められたときの、胸が縮むような気持ち。


「謝ってばかりいたの。でも、謝っている間にも、ほかのお客さんが待っているのよ」

「それは忙しかったね」

「ええ。私、相手に丁寧に接することならできると思っていたの。けれど、それだけじゃ足りなかったわ」


 アランは黙って聞いていた。


「店主さんがね、早く料理を出すことも、お客さんの時間を大切にすることだって教えてくださったの」

「……なるほど」

「言われてみれば、その通りなのよね。みんな、お仕事の合間に食べに来ているんだもの」


 エレナは小さく息をついた。


「今まで、食事が運ばれてくるのを当たり前だと思っていたわ。あんなに忙しい中で、誰かが用意してくれていたのね」


 アランは彼女の手に視線を落とした。


「エレナ、今日はずいぶん働いたんだね」

「……ううん。働こうとして、何度も失敗したの」

「それでも、最後までいたんだろう?」

「ええ。明日も来ていいって言っていただけたわ」

「じゃあ、明日も行けるんだね」

「うん」


 エレナの声が少し明るくなった。


「でも、また間違えるかもしれない」

「俺だって、また荷物を置く場所を間違えるかもしれないよ」

「アランも間違えたの?」

「ああ。倉庫の入口を塞ぎそうになってね。すぐに教えてもらった」


 エレナは思わず笑った。


「二人とも、まだまだね」

「本当だ」


 アランも笑った。


 ひとしきり笑ってから、エレナは彼の手をそっと取った。


「でも、今日一日で、少しだけ分かった気がするの」

「何が?」

「お仕事って、ただ自分が頑張ればいいだけじゃないのね。ほかの人が困らないように考えないといけないんだわ」

「そうだ。港でも同じだったよ。俺が運べるからって、好きな場所へ荷を置いたら、次の人が困る」

「……同じことを教わっていたのね、私たち」


 エレナは嬉しそうに笑った。


 王城にいた頃、二人はそれぞれ違う役目を持っていた。アランは守る側で、エレナは守られる側だった。今は別々の場所で働き、別々の失敗をして、同じ部屋へ戻ってくる。


 どちらが偉いわけでもない。どちらか一人だけが頑張るわけでもない。


 エレナは、そんな一日をこれから少しずつ重ねていくのだと思った。


「……ねえ、アラン」

「うん?」

「明日は、今日より少しだけ上手にできるといいな」

「ああ。俺もそう思う」


 窓の外から、港の方へ帰る荷車の音が聞こえてきた。


 部屋にはまだ家具がほとんどない。手元の金も、仕事が決まったからといってすぐに増えるわけではなかった。覚えることは山ほどあるし、明日も疲れて帰ってくるだろう。


 それでも、二人には話したい一日があった。


 エレナは食事を終えると、まだ何も置かれていない床の一角を見た。


「ここに食卓があったら、帰ってきてすぐに一緒にご飯を食べられるのにね」

「最初に買う家具は、やっぱり食卓かな」

「そうね。でも、その前にお仕事をちゃんと覚えないと」

「ああ。まずはそこからだ」


 エレナは笑って、アランの肩にそっと寄り添った。


 窓の外では、今日もたくさんの人が仕事を終え、家へ帰っていく。


 この街の人々にとっては、きっと何でもない一日。


 けれど、エレナとアランにとっては、自分たちの暮らしを自分たちで支えるための、初めての一日だった。


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