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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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21/43

第21話 3通の手紙

 海を見るだけなら、いつまでもここにいたいと思えた。


 けれど、海の見える街で暮らすとなれば、話は別だった。


「……また、だめだったね」


 通りへ出てから、エレナは小さく息をついた。


 ヴァレスタの街には朝から荷車の音が響いている。港へ向かう人々の足取りは忙しく、軒先に並んだ魚や野菜を品定めする声も絶えない。潮風は今日も気持ちよく吹いていた。昨日はその風を感じるだけで胸が躍ったのに、今は歩き疲れた足にばかり意識が向いてしまう。


「次を探そう。まだ昼を少し過ぎたところだよ」

「ええ。でも、今の方のお部屋、空いていたのでしょう?」

「空いてはいたね」

「それなのに、私たちには貸せないなんて……」


 エレナは言いかけて、口を閉じた。


 貸し手が何を気にしていたのかは、分かっている。二人にはまだ仕事がない。ここでどんな暮らしをしてきたのかと尋ねられても、詳しく答えることができない。


 王城にいた頃、住む場所がないという心配をしたことはなかった。旅先でも宿屋なら、その夜の代金を払えば部屋を用意してもらえた。


 しかし、暮らすための部屋は違う。


 来月も、その次の月も、同じように支払いを続けられるのか。貸す側が確かめたいのは、そこだった。


「向こうの立場なら、当然の心配なんだと思う」


 アランが言うと、エレナは顔を上げた。


「アランは、腹が立たないの?」

「少しはね。けれど、知らない相手に部屋を貸すのは、簡単なことじゃないから」

「……そうね」


 理解はできても、落胆しないわけではなかった。


 エレナはもう一度、振り返った。さっきまで話していた家の扉は、すでに閉まっている。


 昨日、二人で小さな家を眺めながら話したことを思い出した。


 窓辺に花を飾って、休みの日には海を見に行く。そんな暮らしを、簡単に想像していた。


 実際には、窓辺に花を飾るどころか、窓のある部屋を借りることさえ難しい。


「……あのね、アラン」

「うん?」

「私、もう少し簡単に見つかると思っていたの」

「俺も、ここまで難しいとは思わなかったよ」


 その答えが意外で、エレナは瞬きをした。


「アランも?」

「ああ。港町なら、働きに来る人のための部屋も多いだろうって。でも、働いていることを示せなければ、その部屋も借りにくいんだね」


 アランは困ったように笑った。


 自分だけが何も知らなかったのではないと分かり、エレナの肩から少し力が抜けた。


「だったら、先にお仕事を探した方がいいのかしら」

「そうかもしれない。ただ、仕事を探す間にも宿代がかかるからね」

「……あっ」


 エレナは思わず声を漏らした。


 毎日宿に泊まれば、その分だけ手持ちの金は減っていく。昨日の昼食も、今日の朝食も、代金を払えば当然のように用意された。けれど、その一つ一つを、これからは二人で稼がなければならない。


 今までなら、気づかないまま通り過ぎていたことだった。


「考えることが、たくさんあるのね」

「そうだね。まずは座って、少し休もうか」

「まだ歩けるわ」

「俺が休みたいんだ」


 アランは近くの日陰を指した。


 エレナはその顔を見上げ、それから笑った。


「……それなら、仕方ないわね」


 ◇


 午前中に訪ねた一軒目では、すでに別の借り手が決まっていた。


 二軒目は、空き部屋があると聞いていたのに、住む人数を告げた途端に断られた。三軒目では、アランが仕事を探していると説明すると、貸し手は首を横に振った。


『仕事が決まってから、もう一度来てください』


 その言葉は丁寧だった。だが、取り付く島はなかった。


 次に訪ねたところでは、貸し手がアランの顔とエレナの顔を交互に見た。


『どちらの方で働いていたんです?』


『今は、こちらで仕事を探しています』


『今の話ではなく、前の仕事ですよ』


 アランがわずかに言葉を選んだ、その間だけで相手の表情が変わった。


『……事情がおありのようですな』


 追い払われたわけではない。それでも、二人はそこで話を終えるしかなかった。


 エレナも、自分の身分を明かすことはできなかった。


 王女だと名乗れば、話は一変するだろう。けれど、今の二人に必要なのは、王女として迎えられる場所ではない。誰にも特別扱いされず、二人で暮らしていける場所だった。


 それを望むことが、こんなにも難しい。


 通りを歩きながら、エレナは何度かアランの横顔を見た。


 彼は断られるたびに礼を言い、次の場所を探していた。腹を立てて言い返すことも、相手を責めることもなかった。


 けれど、何度も行き来するうちに、彼の声も少しずつ少なくなっている。


「アラン」

「どうしたの?」

「私がいるから、借りにくいのかしら」


 アランが足を止めた。


「どうしてそう思うの?」

「一人なら、もっと小さなお部屋でもいいでしょう? それに……」


 エレナは視線を落とした。


「私は、まだ何のお仕事もできないもの」


 アランはしばらく黙っていた。


 エレナが顔を上げると、彼は真面目な表情でこちらを見ている。


「一人で住む部屋を探してるわけじゃない」

「……うん」

「二人で暮らすために探してるんだ。だから、エレナがいるせいで難しいなんて思わないいい」


 その言葉は、慰めるためだけに口にされたものではないと感じられた。


「……ありがとう」

「お礼を言われることじゃない」

「でも、言いたかったの」


 エレナが微笑むと、アランもようやく笑った。


「じゃあ、今度は俺からお願い。疲れたら、ちゃんと言うこと」

「ええ。アランもね」

「分かった」

「約束よ」

「ああ、約束」


 二人はまた歩き始めた。


 港から少し離れると、人の声は穏やかになった。洗濯物が風に揺れ、家の前で作業をしていた人が顔を上げる。道の端には、誰かが掃いたらしい落ち葉が小さく集められていた。


 暮らしのある場所だった。


 そのどこかに、自分たちも加わりたい。


 エレナはそう思いながら、次の扉の前に立った。


 ◇


「お金は、あるんですな?」


 貸し手の男は、そう尋ねた。


 ようやく空き部屋を見せてもらえることになった二人は、古びた建物の前に立っていた。男はアランの話を聞きながら、最初から難しい顔をしていた。


「今は仕事を探しているところです。ですが、当面の支払いに困ることはありません」


 アランが答えると、男の目つきが少し変わった。


「なるほど。では、前もって多めに払っていただけるなら、考えなくもありません」

「どのくらいですか」


 男が示した条件を聞き、アランはすぐには返事をしなかった。


 先ほど別の通りで聞いた家賃より、明らかに高い。


「……ずいぶん高いですね」

「働き口も決まっていないお二人に貸すんです。こちらだって危険を負うんですよ」

「それは分かります。ただ、部屋の広さを考えても、この条件は……」

「嫌なら、ほかを当たっていただいて結構です」


 男はそこで話を切った。


 エレナはアランの横顔を見た。


 彼は怒っていなかった。ただ、何かを計算するように目を伏せている。


 この部屋を断れば、また探し直さなければならない。宿に戻れば、今夜も代金がかかる。明日も明後日も見つからなかったら、どうなるのだろう。


「少し、二人で相談してもいいですか」


 アランが言うと、男は肩をすくめた。


「どうぞ。ただし、いつまでも空けておくつもりはありませんよ」


 二人は少し離れた。


「……どう思う?」


 アランの問いに、エレナはすぐには答えられなかった。


「高いのよね」

「うん。普通の条件ではないと思う」

「でも、ほかのお部屋も見つからなかったわ」

「そうなんだ。だから迷ってる」


 アランは、手持ちの金を考えているのだろう。旅を続ける間にも支出は重なった。部屋を借りれば、次は食費も、日々の暮らしに必要なものも、自分たちで用意しなければならない。


「この条件を受けたら、仕事を見つけるまでの余裕が減る」

「……うん」

「でも、宿代を払い続けるのもよくない」


 エレナは建物を見上げた。


 壁には古さが見える。華やかでも、特別に美しくもない。昨日見た家々のように、窓辺に花が飾られているわけでもなかった。


 けれど、ここなら今日から暮らせるかもしれない。


「アラン。私、ここでもいいと思う」

「無理してない?」

「していないわ。ただ……悔しい気持ちは、少しあるの」


 エレナは正直に答えた。


「同じお部屋なのに、私たちには高くなるんでしょう? それは、やっぱり悔しいわ」

「俺もだよ」

「でも、ずっと宿にいるわけにもいかないものね」


 アランはうなずいた。


「仕事が見つかったら、また考えよう。今は、落ち着いて暮らせる場所を作ることを優先したい」

「ええ」


 エレナは彼の手を握った。


「二人で決めたんだから、後からアランだけが責任を感じたりしないでね」


 アランは少し驚いた顔をした。


「……分かった。二人で決めたことにしよう」

「そうよ。私だって、ちゃんと考えたんだから」


 その言い方がおかしかったのか、アランが小さく笑った。


 貸し手の男のところへ戻り、条件を受け入れると告げる。


 男はようやく頷いた。


 金を支払い、鍵を受け取ったとき、エレナはほっとした。それと同時に、手の中から何か大切なものが少し減ってしまったような、奇妙な心細さも覚えた。


 王城にいた頃は、鍵を一つ受け取るために、これほど悩むことなどなかった。


 ◇

 扉を開けると、室内はひっそりとしていた。


 最初に目に入ったのは、何も置かれていない床だった。壁には長く使われてきた痕跡があり、床板にも細かな傷が残っている。窓から入る光は明るいが、部屋全体を見渡すと、王城で暮らしていた場所とは比べようもないほど質素だった。


 荷物を置くと、それだけで二人がここに来たことが分かった。


「……ここが、私たちのお部屋なのね」

「そうだね」


 アランは扉を閉め、鍵を確かめた。外では誰かが通りを歩く足音がしている。少し離れたところから人の話し声が聞こえ、風が吹くと港町らしいざわめきがかすかに届いた。


 王城の部屋は広かった。家具は初めから揃い、必要なものは頼めば用意された。窓を開ければ手入れされた景色が見え、生活の音がこんなに近くに聞こえることもなかった。


 ここには、何もない。


「エレナ」

「なあに?」

「……ごめん。もっといい部屋を見つけられたらよかったんだけど」


 アランは困ったように笑った。


「どうして謝るの?」

「王城とは、ずいぶん違うから」

「ええ。全然違うわね」


 アランの表情がわずかに曇った。


「でも、それが嫌だと言っているわけじゃないの」

「……そう?」

「うん。ここなら、私たちで好きなようにできるのでしょう?」


 エレナは空いた床へ視線を向けた。


「まだ何もないけれど、だからこそ、これから何を置こうか考えられるわ。ねえ、あの辺りに小さな食卓を置けないかしら」


 アランはそこを見て、手を広げてみせる。


「二人で使うなら、それほど大きくなくていいね」

「そうね。でも、お皿を二つ並べても少し余裕がある方がいいわ」

「それなら、椅子も二つ必要だ」

「もちろん。向かい合って座りたいもの」


 エレナは、そこにまだない食卓を見つめた。夕方、二人で帰ってきて、買った食材を並べる。うまく作れた料理も、失敗した料理も、そこで一緒に食べる。そんな光景が浮かんだ。


「アランが帰ってきたら、温かいご飯を用意しておきたいな」

「俺も手伝うよ」

「でも、アランがお仕事で疲れていたら?」

「エレナだって働くつもりだろ? 二人とも疲れてる日もあると思う」

「……そうね。じゃあ、二人とも疲れた日は簡単なお料理にしましょう」

「それがいいね」


 彼は、エレナに何かをさせようとしているのではない。自分だけで何もかも背負おうともしていない。これからの暮らしを、本当に二人のものとして考えてくれている。


「それから、荷物をしまう場所も欲しいね」

「棚があったらいいわね。小さくてもいいから」

「先に買うなら、食卓と棚、どっちかな」

「……食卓!」


 エレナは即答した。アランが笑う。


「迷わないね」

「だって、毎日使うでしょう?」

「棚も毎日使うと思うけど」

「……それもそうね」


 二人は顔を見合わせた。


「難しいわ。何から買えばいいのかしら」

「今すぐ全部は揃えられないからね」

「うん。少しずつでいいわ」


 エレナは窓辺へ歩いた。外の通りを眺めると、誰かが荷物を抱えて家へ帰るところだった。


「ここに花を飾るのは、どう?」

「いいね」

「でも、花瓶も必要ね」

「また買うものが増えた」

「ふふっ。本当だわ」


 エレナは窓枠に指を置いた。


「いつか、ここに花を飾って、食卓を置いて、棚を買って……」


 指折り数えているうちに、自分でもおかしくなった。


「欲しいものばかりね」

「まずは仕事を見つけないとね」

「ええ。そうだったわ」


 アランの声には現実を忘れさせまいとする厳しさがあったが、夢を否定する響きはなかった。実際、今日支払った金は安くない。仕事が見つからなければ、今ある金もやがて尽きる。部屋を手に入れたからといって、安心して暮らせるわけではない。


「明日は、仕事を探してみよう。港なら荷運びの人手を探しているところもあるかもしれない」

「私も一緒に行くわ」

「無理しなくていいよ」

「無理じゃないって、前にも言ったでしょう?」


 エレナは隣へ座った。


「私だって、お店のお手伝いができるかもしれないもの。それに、文字を書くのは得意よ」

「知ってるよ。きっと役に立つ仕事もあると思う」


 エレナは膝を抱え、部屋を見渡した。壁の傷も、床のきしみも、さっきまでは少し寂しく見えた。今は、どこに食卓を置くか考えるだけで、その空間に少しずつ色がついていくように感じる。


「……ねえ、アラン。ここ、好きになれそう」

「まだ何もないのに?」

「ええ。何もないから、これから一緒に増やしていけるでしょう?」


 エレナは少し照れながら続けた。


「王城にいた頃は、初めから何でも揃っていたもの。でも、ここでは小さな椅子一つ買えたら、きっとすごく嬉しいと思うの」


 アランは返事をせず、しばらく彼女を見つめた。エレナは不便さを見ないふりしているのではなかった。高い家賃が悔しいことも、仕事がない不安も、分かったうえでここに座っている。


「……そうだね。最初の食卓を買えたら、二人で何かお祝いしようか」

「お祝い?」

「うん。いつもより少しだけ、いい食事にするとか」

「素敵ね! じゃあ、椅子を買ったときもお祝いしましょう」

「毎回?」

「だめ?」

「いや、いいと思う。でも、家具を買うたびにお祝いしていたら、お金がなかなか貯まらないかもしれないね」


 エレナは真剣な顔で考えた。


「……じゃあ、お祝いは食卓だけにするわ」

「それがよさそうだ」


 二人は笑った。何もない部屋に、二人の笑い声だけが残った。


 ◇

 しばらくして、エレナは荷物の中から紙を取り出した。


「アラン。そういえば、手紙を出したい人がいるの」

「手紙?」

「ええ。ラヴィナに」


 アランの表情が和らいだ。


「シャルネ村の?」

「うん。私たちが無事に海まで来られたこと、知らせたいの」


 エレナは紙を両手で持った。ラヴィナの顔が浮かぶ。言いたいことを遠慮なく口にして、こちらが戸惑っていると笑いながら手を差し伸べてくれる少女。王城で暮らしていた頃には、ラヴィナのような少女と出会う機会はなかった。身分など気にせず、いつも自然体で接してくれた彼女のことを思い出すと、エレナの口元に小さな笑みが浮かんだ。


「ラヴィナには、ずいぶん助けてもらったものね」

「そうだな」

「ちゃんとお礼も言いたいわ。それに、王城へ戻ったらお礼をするって約束したことも、忘れていないって」


 アランは静かにうなずいた。あの村で過ごした時間がなければ、今こうして二人で海を見て、部屋を探すこともできなかったかもしれない。


「きっと喜んでくれると思うよ」

「そうかしら」

「あの調子なら、海の話を聞いて、また何か言いそうだな」


 エレナはくすりと笑った。


「『ずるいぞ、俺も行きたかった』って言うかもしれないわ」

「言いそうだ」


 笑いながら、エレナは紙に目を落とした。


 知らせたいことはたくさんある。けれど、何でも書いてよいわけではない。今、自分たちがどこにいるのか。誰と暮らしているのか。その情報がほかの人の目に触れれば、ラヴィナにも迷惑をかけるかもしれない。


「……書くこと、気をつけないといけないわね」

「そうだね。手紙は、届くまでに何人かの手を通るから」

「ラヴィナに伝えたいことはあるのに、難しいわ」

「伝えたい気持ちは、きっと短い言葉でも伝わるよ」


 エレナはその言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。


「うん。そうしてみる」


 しばらくして、彼女はもう一枚の紙に手を伸ばした。先ほどまでの笑顔が、少しだけ静かになる。


「……それから、お父様にも」


 アランは彼女を見た。


「レオルド陛下に?」

「ええ」


 エレナは紙を置き、膝の上で指を組んだ。


 王都では、自分は死んだことになっている。その報せを父が聞いたとき、どんな顔をしたのだろう。自分がいなくなった王城で、今どんな毎日を送っているのだろう。


 考え始めると、胸が締めつけられた。


「お父様、きっと……とても心配しているわ」


 言い終えてから、エレナは小さく首を振った。


「心配なんて言葉では、足りないわね」


 アランは何も言わなかった。父を思う彼女に、軽々しい慰めを口にすることはできない。


「私が生きているって、伝えたいの」

「うん」

「アランと一緒にいることも。だから、どうか悲しまないでって……」


 エレナは途中で声を詰まらせた。


 王城へ戻りたい気持ちがないわけではない。父の顔を見たい。声を聞きたい。自分の手で抱きしめて、生きていると伝えたい。


 それでも、今戻ればどうなるのか、二人には分からない。


 アランは彼女のそばへ寄った。


「……手紙を出そう」


 エレナが顔を上げる。


「いいの?」

「陛下に知らせたい気持ちは、俺にも分かるよ。ただ、慎重にしないといけない」

「ええ。分かっているわ」


 エレナは、アランの手を取った。


「お父様にだけ、ちゃんと届いてほしいの」

「そうだね」


 手紙を出したからといって、必ず本人の手に渡るとは限らない。道中で誰が扱うかも、受け取った先で誰が目にするかも、すべてを二人が決められるわけではなかった。


 その危うさは、エレナにも分かっていた。けれど、何も伝えないままでは、父はいつまでも自分の死を悲しみ続けるかもしれない。


「……私、ちゃんと考えて書くわ」


 アランはうなずいた。


 エレナはしばらく白い紙を見つめていた。


 その隣で、アランもまた考え込んでいた。


 エレナが父親へ手紙を書こうとしている。それを見ているうちに、自分にも伝えなければならない相手がいることを、改めて思い出した。


「……俺も、手紙を書こうかな」


 エレナが顔を上げた。


「アランも?」


「ああ。父上に、少し伝えておきたいことがあるんだ」


「ヴァルター様に?」


「うん。きっと心配をかけているだろうからね」


 アランは白い紙に視線を落とした。


 王都を離れてから、父とは一度も言葉を交わしていない。今頃、何を聞かされ、何を考えているのだろう。


「それに……アルトのことも気になる」


 その名前を口にした途端、エレナの表情が曇った。


 山道での出来事が脳裏によみがえる。


 突然現れた山賊たち。響き渡る剣の音。そして、あの日のアルトの姿。


 どうして、あんなことになってしまったのだろう。


 エレナは膝の上に置いた手を、そっと握りしめた。


「……あの日のこと、今でも時々思い出すの」


 アランはエレナへ顔を向けた。


「エレナ……」


 エレナは寂しそうに微笑んだ。


 自分にとっては弟であり、エレナにとっても幼い頃から知る相手だった。そのアルトが、なぜあのような行動に出たのか。


 今も、簡単に答えを出せることではなかった。


「……父上には、アルトのことも含めて、少し伝えておきたいんだ」


「そ、そうね」


 エレナはうなずきながら少し表情が曇った。


「何を書くか、少し考えないとな」


 エレナは彼の横顔を見つめ、それから静かに微笑んだ。


 アランは白い紙に視線を落とした。


 すぐに筆を走らせることはなかったが、父へ手紙を書くことだけは、もう決めていた。


 エレナもそれ以上は尋ねず、自分の手紙へ視線を戻した。


 ◇


 紙を前にすると、エレナは何度も筆を止めた。


 ラヴィナに伝えたいことを考えていると、山の花畑や村で過ごした時間が次々に思い浮かぶ。父へ書こうとすると、今度は王城の廊下や、優しく名前を呼ぶ声が浮かんだ。


 何を書いたのかは、アランにも見せなかった。


 隠したいからではない。自分の言葉で伝えたいことが、あまりにも多かったからだ。


 アランも、彼女の筆が止まるたびに声をかけたりはしなかった。荷物を整えたり、部屋の様子を確かめたりしながら、静かに待っていた。


 やがてエレナは筆を置いた。


「……できたわ」

「お疲れさま」

「お手紙を書くのって、こんなに難しかったかしら」

「相手が大切な人だからじゃないかな」


 エレナは二通の紙を見た。


「そうね。きっと、そうだわ」


 書いたものを整え、二人は書簡便の取扱所へ向かった。


 ヴァレスタでは、商業地区にも港湾行政区にも書簡を扱う場所がある。書簡便は遠くの町や村へ手紙を届けるためのもので、旅人や商人だけでなく、庶民も利用する。書状は人の手で運ばれ、道によっては馬を使う。送り主や行き先によって扱い方が異なるため、誰もが同じ速さで届けてもらえるわけではない。


 取扱所には、ほかにも書状を持った人がいた。商売の用件らしいものを預ける人もいれば、短い手紙を大事そうに抱える人もいる。


 エレナはそれを見て、少しだけ不思議な気持ちになった。


 自分たちの手紙も、ここに集まるたくさんの言葉の一つになる。


「遠くへ届けたいのですが」


 アランが取扱いを尋ねると、相手は書簡便の扱いについて簡単に説明した。通常の書状は道をたどって運ばれ、届け先や運搬の事情によって時間がかかるという。


 エレナは手元の紙を見下ろした。


 手紙を書いている間は、相手がすぐそばにいるような気がしていた。けれど、実際には遠い。ラヴィナのいるシャルネ村も、父のいる王都も、ここからは簡単に行き来できない。


 書状を預ける段になって、エレナの指先が少し止まった。


「……どうしたの?」


 アランが小声で尋ねる。


「ううん。手を離したら、本当に遠くへ行ってしまうのね」

「そうだね」

「でも、届けたいから書いたんだもの」


 エレナは小さく頷き、ラヴィナ宛てとレオルド宛ての書状を預けた。


 窓口を離れてからも、何度か振り返りたくなった。けれど、もう手元にはない。


 今度は自分たちではなく、誰かが運んでくれる。


 それが、少し心細くもあり、頼もしくもあった。


 ◇


 帰り道、空はゆっくりと夕方の色へ変わっていた。


 港の方から吹く風は、朝より少し涼しい。仕事を終えた人々が通りを歩き、家々の窓には明かりが灯り始めている。


「手紙、届くといいね」


 アランが言った。


「ええ。ラヴィナが読んだらどんな顔するかな?」

「陛下にも」

「……うん」


 エレナは少しだけ歩調を緩めた。


「お父様、私の字を見たら、分かってくれるかしら」

「きっとね」


 その答えを聞いて、エレナは微笑んだ。


 借りた部屋へ戻ると、朝とは違う静けさがあった。


 荷物はまだ少ない。家具もない。窓辺に花も飾られていない。


 それでも、二人が一度外へ出て、同じ場所へ帰ってきたことで、部屋は少しだけ自分たちの居場所に近づいたように思えた。


「ただいま」


 エレナは思わず口にした。


 アランが振り返る。


「……誰に言ったの?」

「お部屋に、かな」


 エレナは照れたように笑った。


「だって、帰ってきたんだもの」


 アランは扉を閉めた。


「そうだね。ただいま」


 二人の声が、何もない部屋に重なった。


 エレナは、いつか食卓を置きたいと思った場所を見た。


 今はまだ、床の上に荷物があるだけだ。明日になれば仕事を探しに出なければならないし、暮らしの心配が消えたわけでもない。


 それでも、今日初めて手にした鍵があり、帰ってくる場所がある。


 遠くにいる大切な人たちへ、言葉も送り出した。


「アラン」

「うん?」

「明日も、一緒に頑張りましょうね」

「ああ。一緒に」


 エレナは彼の手を握った。


 窓の外から、港町の人々の声がかすかに届く。


 何もない部屋に、これから二人で暮らす時間だけが、静かに満ちていこうとしていた。


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