第21話 3通の手紙
海を見るだけなら、いつまでもここにいたいと思えた。
けれど、海の見える街で暮らすとなれば、話は別だった。
「……また、だめだったね」
通りへ出てから、エレナは小さく息をついた。
ヴァレスタの街には朝から荷車の音が響いている。港へ向かう人々の足取りは忙しく、軒先に並んだ魚や野菜を品定めする声も絶えない。潮風は今日も気持ちよく吹いていた。昨日はその風を感じるだけで胸が躍ったのに、今は歩き疲れた足にばかり意識が向いてしまう。
「次を探そう。まだ昼を少し過ぎたところだよ」
「ええ。でも、今の方のお部屋、空いていたのでしょう?」
「空いてはいたね」
「それなのに、私たちには貸せないなんて……」
エレナは言いかけて、口を閉じた。
貸し手が何を気にしていたのかは、分かっている。二人にはまだ仕事がない。ここでどんな暮らしをしてきたのかと尋ねられても、詳しく答えることができない。
王城にいた頃、住む場所がないという心配をしたことはなかった。旅先でも宿屋なら、その夜の代金を払えば部屋を用意してもらえた。
しかし、暮らすための部屋は違う。
来月も、その次の月も、同じように支払いを続けられるのか。貸す側が確かめたいのは、そこだった。
「向こうの立場なら、当然の心配なんだと思う」
アランが言うと、エレナは顔を上げた。
「アランは、腹が立たないの?」
「少しはね。けれど、知らない相手に部屋を貸すのは、簡単なことじゃないから」
「……そうね」
理解はできても、落胆しないわけではなかった。
エレナはもう一度、振り返った。さっきまで話していた家の扉は、すでに閉まっている。
昨日、二人で小さな家を眺めながら話したことを思い出した。
窓辺に花を飾って、休みの日には海を見に行く。そんな暮らしを、簡単に想像していた。
実際には、窓辺に花を飾るどころか、窓のある部屋を借りることさえ難しい。
「……あのね、アラン」
「うん?」
「私、もう少し簡単に見つかると思っていたの」
「俺も、ここまで難しいとは思わなかったよ」
その答えが意外で、エレナは瞬きをした。
「アランも?」
「ああ。港町なら、働きに来る人のための部屋も多いだろうって。でも、働いていることを示せなければ、その部屋も借りにくいんだね」
アランは困ったように笑った。
自分だけが何も知らなかったのではないと分かり、エレナの肩から少し力が抜けた。
「だったら、先にお仕事を探した方がいいのかしら」
「そうかもしれない。ただ、仕事を探す間にも宿代がかかるからね」
「……あっ」
エレナは思わず声を漏らした。
毎日宿に泊まれば、その分だけ手持ちの金は減っていく。昨日の昼食も、今日の朝食も、代金を払えば当然のように用意された。けれど、その一つ一つを、これからは二人で稼がなければならない。
今までなら、気づかないまま通り過ぎていたことだった。
「考えることが、たくさんあるのね」
「そうだね。まずは座って、少し休もうか」
「まだ歩けるわ」
「俺が休みたいんだ」
アランは近くの日陰を指した。
エレナはその顔を見上げ、それから笑った。
「……それなら、仕方ないわね」
◇
午前中に訪ねた一軒目では、すでに別の借り手が決まっていた。
二軒目は、空き部屋があると聞いていたのに、住む人数を告げた途端に断られた。三軒目では、アランが仕事を探していると説明すると、貸し手は首を横に振った。
『仕事が決まってから、もう一度来てください』
その言葉は丁寧だった。だが、取り付く島はなかった。
次に訪ねたところでは、貸し手がアランの顔とエレナの顔を交互に見た。
『どちらの方で働いていたんです?』
『今は、こちらで仕事を探しています』
『今の話ではなく、前の仕事ですよ』
アランがわずかに言葉を選んだ、その間だけで相手の表情が変わった。
『……事情がおありのようですな』
追い払われたわけではない。それでも、二人はそこで話を終えるしかなかった。
エレナも、自分の身分を明かすことはできなかった。
王女だと名乗れば、話は一変するだろう。けれど、今の二人に必要なのは、王女として迎えられる場所ではない。誰にも特別扱いされず、二人で暮らしていける場所だった。
それを望むことが、こんなにも難しい。
通りを歩きながら、エレナは何度かアランの横顔を見た。
彼は断られるたびに礼を言い、次の場所を探していた。腹を立てて言い返すことも、相手を責めることもなかった。
けれど、何度も行き来するうちに、彼の声も少しずつ少なくなっている。
「アラン」
「どうしたの?」
「私がいるから、借りにくいのかしら」
アランが足を止めた。
「どうしてそう思うの?」
「一人なら、もっと小さなお部屋でもいいでしょう? それに……」
エレナは視線を落とした。
「私は、まだ何のお仕事もできないもの」
アランはしばらく黙っていた。
エレナが顔を上げると、彼は真面目な表情でこちらを見ている。
「一人で住む部屋を探してるわけじゃない」
「……うん」
「二人で暮らすために探してるんだ。だから、エレナがいるせいで難しいなんて思わないいい」
その言葉は、慰めるためだけに口にされたものではないと感じられた。
「……ありがとう」
「お礼を言われることじゃない」
「でも、言いたかったの」
エレナが微笑むと、アランもようやく笑った。
「じゃあ、今度は俺からお願い。疲れたら、ちゃんと言うこと」
「ええ。アランもね」
「分かった」
「約束よ」
「ああ、約束」
二人はまた歩き始めた。
港から少し離れると、人の声は穏やかになった。洗濯物が風に揺れ、家の前で作業をしていた人が顔を上げる。道の端には、誰かが掃いたらしい落ち葉が小さく集められていた。
暮らしのある場所だった。
そのどこかに、自分たちも加わりたい。
エレナはそう思いながら、次の扉の前に立った。
◇
「お金は、あるんですな?」
貸し手の男は、そう尋ねた。
ようやく空き部屋を見せてもらえることになった二人は、古びた建物の前に立っていた。男はアランの話を聞きながら、最初から難しい顔をしていた。
「今は仕事を探しているところです。ですが、当面の支払いに困ることはありません」
アランが答えると、男の目つきが少し変わった。
「なるほど。では、前もって多めに払っていただけるなら、考えなくもありません」
「どのくらいですか」
男が示した条件を聞き、アランはすぐには返事をしなかった。
先ほど別の通りで聞いた家賃より、明らかに高い。
「……ずいぶん高いですね」
「働き口も決まっていないお二人に貸すんです。こちらだって危険を負うんですよ」
「それは分かります。ただ、部屋の広さを考えても、この条件は……」
「嫌なら、ほかを当たっていただいて結構です」
男はそこで話を切った。
エレナはアランの横顔を見た。
彼は怒っていなかった。ただ、何かを計算するように目を伏せている。
この部屋を断れば、また探し直さなければならない。宿に戻れば、今夜も代金がかかる。明日も明後日も見つからなかったら、どうなるのだろう。
「少し、二人で相談してもいいですか」
アランが言うと、男は肩をすくめた。
「どうぞ。ただし、いつまでも空けておくつもりはありませんよ」
二人は少し離れた。
「……どう思う?」
アランの問いに、エレナはすぐには答えられなかった。
「高いのよね」
「うん。普通の条件ではないと思う」
「でも、ほかのお部屋も見つからなかったわ」
「そうなんだ。だから迷ってる」
アランは、手持ちの金を考えているのだろう。旅を続ける間にも支出は重なった。部屋を借りれば、次は食費も、日々の暮らしに必要なものも、自分たちで用意しなければならない。
「この条件を受けたら、仕事を見つけるまでの余裕が減る」
「……うん」
「でも、宿代を払い続けるのもよくない」
エレナは建物を見上げた。
壁には古さが見える。華やかでも、特別に美しくもない。昨日見た家々のように、窓辺に花が飾られているわけでもなかった。
けれど、ここなら今日から暮らせるかもしれない。
「アラン。私、ここでもいいと思う」
「無理してない?」
「していないわ。ただ……悔しい気持ちは、少しあるの」
エレナは正直に答えた。
「同じお部屋なのに、私たちには高くなるんでしょう? それは、やっぱり悔しいわ」
「俺もだよ」
「でも、ずっと宿にいるわけにもいかないものね」
アランはうなずいた。
「仕事が見つかったら、また考えよう。今は、落ち着いて暮らせる場所を作ることを優先したい」
「ええ」
エレナは彼の手を握った。
「二人で決めたんだから、後からアランだけが責任を感じたりしないでね」
アランは少し驚いた顔をした。
「……分かった。二人で決めたことにしよう」
「そうよ。私だって、ちゃんと考えたんだから」
その言い方がおかしかったのか、アランが小さく笑った。
貸し手の男のところへ戻り、条件を受け入れると告げる。
男はようやく頷いた。
金を支払い、鍵を受け取ったとき、エレナはほっとした。それと同時に、手の中から何か大切なものが少し減ってしまったような、奇妙な心細さも覚えた。
王城にいた頃は、鍵を一つ受け取るために、これほど悩むことなどなかった。
◇
扉を開けると、室内はひっそりとしていた。
最初に目に入ったのは、何も置かれていない床だった。壁には長く使われてきた痕跡があり、床板にも細かな傷が残っている。窓から入る光は明るいが、部屋全体を見渡すと、王城で暮らしていた場所とは比べようもないほど質素だった。
荷物を置くと、それだけで二人がここに来たことが分かった。
「……ここが、私たちのお部屋なのね」
「そうだね」
アランは扉を閉め、鍵を確かめた。外では誰かが通りを歩く足音がしている。少し離れたところから人の話し声が聞こえ、風が吹くと港町らしいざわめきがかすかに届いた。
王城の部屋は広かった。家具は初めから揃い、必要なものは頼めば用意された。窓を開ければ手入れされた景色が見え、生活の音がこんなに近くに聞こえることもなかった。
ここには、何もない。
「エレナ」
「なあに?」
「……ごめん。もっといい部屋を見つけられたらよかったんだけど」
アランは困ったように笑った。
「どうして謝るの?」
「王城とは、ずいぶん違うから」
「ええ。全然違うわね」
アランの表情がわずかに曇った。
「でも、それが嫌だと言っているわけじゃないの」
「……そう?」
「うん。ここなら、私たちで好きなようにできるのでしょう?」
エレナは空いた床へ視線を向けた。
「まだ何もないけれど、だからこそ、これから何を置こうか考えられるわ。ねえ、あの辺りに小さな食卓を置けないかしら」
アランはそこを見て、手を広げてみせる。
「二人で使うなら、それほど大きくなくていいね」
「そうね。でも、お皿を二つ並べても少し余裕がある方がいいわ」
「それなら、椅子も二つ必要だ」
「もちろん。向かい合って座りたいもの」
エレナは、そこにまだない食卓を見つめた。夕方、二人で帰ってきて、買った食材を並べる。うまく作れた料理も、失敗した料理も、そこで一緒に食べる。そんな光景が浮かんだ。
「アランが帰ってきたら、温かいご飯を用意しておきたいな」
「俺も手伝うよ」
「でも、アランがお仕事で疲れていたら?」
「エレナだって働くつもりだろ? 二人とも疲れてる日もあると思う」
「……そうね。じゃあ、二人とも疲れた日は簡単なお料理にしましょう」
「それがいいね」
彼は、エレナに何かをさせようとしているのではない。自分だけで何もかも背負おうともしていない。これからの暮らしを、本当に二人のものとして考えてくれている。
「それから、荷物をしまう場所も欲しいね」
「棚があったらいいわね。小さくてもいいから」
「先に買うなら、食卓と棚、どっちかな」
「……食卓!」
エレナは即答した。アランが笑う。
「迷わないね」
「だって、毎日使うでしょう?」
「棚も毎日使うと思うけど」
「……それもそうね」
二人は顔を見合わせた。
「難しいわ。何から買えばいいのかしら」
「今すぐ全部は揃えられないからね」
「うん。少しずつでいいわ」
エレナは窓辺へ歩いた。外の通りを眺めると、誰かが荷物を抱えて家へ帰るところだった。
「ここに花を飾るのは、どう?」
「いいね」
「でも、花瓶も必要ね」
「また買うものが増えた」
「ふふっ。本当だわ」
エレナは窓枠に指を置いた。
「いつか、ここに花を飾って、食卓を置いて、棚を買って……」
指折り数えているうちに、自分でもおかしくなった。
「欲しいものばかりね」
「まずは仕事を見つけないとね」
「ええ。そうだったわ」
アランの声には現実を忘れさせまいとする厳しさがあったが、夢を否定する響きはなかった。実際、今日支払った金は安くない。仕事が見つからなければ、今ある金もやがて尽きる。部屋を手に入れたからといって、安心して暮らせるわけではない。
「明日は、仕事を探してみよう。港なら荷運びの人手を探しているところもあるかもしれない」
「私も一緒に行くわ」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないって、前にも言ったでしょう?」
エレナは隣へ座った。
「私だって、お店のお手伝いができるかもしれないもの。それに、文字を書くのは得意よ」
「知ってるよ。きっと役に立つ仕事もあると思う」
エレナは膝を抱え、部屋を見渡した。壁の傷も、床のきしみも、さっきまでは少し寂しく見えた。今は、どこに食卓を置くか考えるだけで、その空間に少しずつ色がついていくように感じる。
「……ねえ、アラン。ここ、好きになれそう」
「まだ何もないのに?」
「ええ。何もないから、これから一緒に増やしていけるでしょう?」
エレナは少し照れながら続けた。
「王城にいた頃は、初めから何でも揃っていたもの。でも、ここでは小さな椅子一つ買えたら、きっとすごく嬉しいと思うの」
アランは返事をせず、しばらく彼女を見つめた。エレナは不便さを見ないふりしているのではなかった。高い家賃が悔しいことも、仕事がない不安も、分かったうえでここに座っている。
「……そうだね。最初の食卓を買えたら、二人で何かお祝いしようか」
「お祝い?」
「うん。いつもより少しだけ、いい食事にするとか」
「素敵ね! じゃあ、椅子を買ったときもお祝いしましょう」
「毎回?」
「だめ?」
「いや、いいと思う。でも、家具を買うたびにお祝いしていたら、お金がなかなか貯まらないかもしれないね」
エレナは真剣な顔で考えた。
「……じゃあ、お祝いは食卓だけにするわ」
「それがよさそうだ」
二人は笑った。何もない部屋に、二人の笑い声だけが残った。
◇
しばらくして、エレナは荷物の中から紙を取り出した。
「アラン。そういえば、手紙を出したい人がいるの」
「手紙?」
「ええ。ラヴィナに」
アランの表情が和らいだ。
「シャルネ村の?」
「うん。私たちが無事に海まで来られたこと、知らせたいの」
エレナは紙を両手で持った。ラヴィナの顔が浮かぶ。言いたいことを遠慮なく口にして、こちらが戸惑っていると笑いながら手を差し伸べてくれる少女。王城で暮らしていた頃には、ラヴィナのような少女と出会う機会はなかった。身分など気にせず、いつも自然体で接してくれた彼女のことを思い出すと、エレナの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「ラヴィナには、ずいぶん助けてもらったものね」
「そうだな」
「ちゃんとお礼も言いたいわ。それに、王城へ戻ったらお礼をするって約束したことも、忘れていないって」
アランは静かにうなずいた。あの村で過ごした時間がなければ、今こうして二人で海を見て、部屋を探すこともできなかったかもしれない。
「きっと喜んでくれると思うよ」
「そうかしら」
「あの調子なら、海の話を聞いて、また何か言いそうだな」
エレナはくすりと笑った。
「『ずるいぞ、俺も行きたかった』って言うかもしれないわ」
「言いそうだ」
笑いながら、エレナは紙に目を落とした。
知らせたいことはたくさんある。けれど、何でも書いてよいわけではない。今、自分たちがどこにいるのか。誰と暮らしているのか。その情報がほかの人の目に触れれば、ラヴィナにも迷惑をかけるかもしれない。
「……書くこと、気をつけないといけないわね」
「そうだね。手紙は、届くまでに何人かの手を通るから」
「ラヴィナに伝えたいことはあるのに、難しいわ」
「伝えたい気持ちは、きっと短い言葉でも伝わるよ」
エレナはその言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「うん。そうしてみる」
しばらくして、彼女はもう一枚の紙に手を伸ばした。先ほどまでの笑顔が、少しだけ静かになる。
「……それから、お父様にも」
アランは彼女を見た。
「レオルド陛下に?」
「ええ」
エレナは紙を置き、膝の上で指を組んだ。
王都では、自分は死んだことになっている。その報せを父が聞いたとき、どんな顔をしたのだろう。自分がいなくなった王城で、今どんな毎日を送っているのだろう。
考え始めると、胸が締めつけられた。
「お父様、きっと……とても心配しているわ」
言い終えてから、エレナは小さく首を振った。
「心配なんて言葉では、足りないわね」
アランは何も言わなかった。父を思う彼女に、軽々しい慰めを口にすることはできない。
「私が生きているって、伝えたいの」
「うん」
「アランと一緒にいることも。だから、どうか悲しまないでって……」
エレナは途中で声を詰まらせた。
王城へ戻りたい気持ちがないわけではない。父の顔を見たい。声を聞きたい。自分の手で抱きしめて、生きていると伝えたい。
それでも、今戻ればどうなるのか、二人には分からない。
アランは彼女のそばへ寄った。
「……手紙を出そう」
エレナが顔を上げる。
「いいの?」
「陛下に知らせたい気持ちは、俺にも分かるよ。ただ、慎重にしないといけない」
「ええ。分かっているわ」
エレナは、アランの手を取った。
「お父様にだけ、ちゃんと届いてほしいの」
「そうだね」
手紙を出したからといって、必ず本人の手に渡るとは限らない。道中で誰が扱うかも、受け取った先で誰が目にするかも、すべてを二人が決められるわけではなかった。
その危うさは、エレナにも分かっていた。けれど、何も伝えないままでは、父はいつまでも自分の死を悲しみ続けるかもしれない。
「……私、ちゃんと考えて書くわ」
アランはうなずいた。
エレナはしばらく白い紙を見つめていた。
その隣で、アランもまた考え込んでいた。
エレナが父親へ手紙を書こうとしている。それを見ているうちに、自分にも伝えなければならない相手がいることを、改めて思い出した。
「……俺も、手紙を書こうかな」
エレナが顔を上げた。
「アランも?」
「ああ。父上に、少し伝えておきたいことがあるんだ」
「ヴァルター様に?」
「うん。きっと心配をかけているだろうからね」
アランは白い紙に視線を落とした。
王都を離れてから、父とは一度も言葉を交わしていない。今頃、何を聞かされ、何を考えているのだろう。
「それに……アルトのことも気になる」
その名前を口にした途端、エレナの表情が曇った。
山道での出来事が脳裏によみがえる。
突然現れた山賊たち。響き渡る剣の音。そして、あの日のアルトの姿。
どうして、あんなことになってしまったのだろう。
エレナは膝の上に置いた手を、そっと握りしめた。
「……あの日のこと、今でも時々思い出すの」
アランはエレナへ顔を向けた。
「エレナ……」
エレナは寂しそうに微笑んだ。
自分にとっては弟であり、エレナにとっても幼い頃から知る相手だった。そのアルトが、なぜあのような行動に出たのか。
今も、簡単に答えを出せることではなかった。
「……父上には、アルトのことも含めて、少し伝えておきたいんだ」
「そ、そうね」
エレナはうなずきながら少し表情が曇った。
「何を書くか、少し考えないとな」
エレナは彼の横顔を見つめ、それから静かに微笑んだ。
アランは白い紙に視線を落とした。
すぐに筆を走らせることはなかったが、父へ手紙を書くことだけは、もう決めていた。
エレナもそれ以上は尋ねず、自分の手紙へ視線を戻した。
◇
紙を前にすると、エレナは何度も筆を止めた。
ラヴィナに伝えたいことを考えていると、山の花畑や村で過ごした時間が次々に思い浮かぶ。父へ書こうとすると、今度は王城の廊下や、優しく名前を呼ぶ声が浮かんだ。
何を書いたのかは、アランにも見せなかった。
隠したいからではない。自分の言葉で伝えたいことが、あまりにも多かったからだ。
アランも、彼女の筆が止まるたびに声をかけたりはしなかった。荷物を整えたり、部屋の様子を確かめたりしながら、静かに待っていた。
やがてエレナは筆を置いた。
「……できたわ」
「お疲れさま」
「お手紙を書くのって、こんなに難しかったかしら」
「相手が大切な人だからじゃないかな」
エレナは二通の紙を見た。
「そうね。きっと、そうだわ」
書いたものを整え、二人は書簡便の取扱所へ向かった。
ヴァレスタでは、商業地区にも港湾行政区にも書簡を扱う場所がある。書簡便は遠くの町や村へ手紙を届けるためのもので、旅人や商人だけでなく、庶民も利用する。書状は人の手で運ばれ、道によっては馬を使う。送り主や行き先によって扱い方が異なるため、誰もが同じ速さで届けてもらえるわけではない。
取扱所には、ほかにも書状を持った人がいた。商売の用件らしいものを預ける人もいれば、短い手紙を大事そうに抱える人もいる。
エレナはそれを見て、少しだけ不思議な気持ちになった。
自分たちの手紙も、ここに集まるたくさんの言葉の一つになる。
「遠くへ届けたいのですが」
アランが取扱いを尋ねると、相手は書簡便の扱いについて簡単に説明した。通常の書状は道をたどって運ばれ、届け先や運搬の事情によって時間がかかるという。
エレナは手元の紙を見下ろした。
手紙を書いている間は、相手がすぐそばにいるような気がしていた。けれど、実際には遠い。ラヴィナのいるシャルネ村も、父のいる王都も、ここからは簡単に行き来できない。
書状を預ける段になって、エレナの指先が少し止まった。
「……どうしたの?」
アランが小声で尋ねる。
「ううん。手を離したら、本当に遠くへ行ってしまうのね」
「そうだね」
「でも、届けたいから書いたんだもの」
エレナは小さく頷き、ラヴィナ宛てとレオルド宛ての書状を預けた。
窓口を離れてからも、何度か振り返りたくなった。けれど、もう手元にはない。
今度は自分たちではなく、誰かが運んでくれる。
それが、少し心細くもあり、頼もしくもあった。
◇
帰り道、空はゆっくりと夕方の色へ変わっていた。
港の方から吹く風は、朝より少し涼しい。仕事を終えた人々が通りを歩き、家々の窓には明かりが灯り始めている。
「手紙、届くといいね」
アランが言った。
「ええ。ラヴィナが読んだらどんな顔するかな?」
「陛下にも」
「……うん」
エレナは少しだけ歩調を緩めた。
「お父様、私の字を見たら、分かってくれるかしら」
「きっとね」
その答えを聞いて、エレナは微笑んだ。
借りた部屋へ戻ると、朝とは違う静けさがあった。
荷物はまだ少ない。家具もない。窓辺に花も飾られていない。
それでも、二人が一度外へ出て、同じ場所へ帰ってきたことで、部屋は少しだけ自分たちの居場所に近づいたように思えた。
「ただいま」
エレナは思わず口にした。
アランが振り返る。
「……誰に言ったの?」
「お部屋に、かな」
エレナは照れたように笑った。
「だって、帰ってきたんだもの」
アランは扉を閉めた。
「そうだね。ただいま」
二人の声が、何もない部屋に重なった。
エレナは、いつか食卓を置きたいと思った場所を見た。
今はまだ、床の上に荷物があるだけだ。明日になれば仕事を探しに出なければならないし、暮らしの心配が消えたわけでもない。
それでも、今日初めて手にした鍵があり、帰ってくる場所がある。
遠くにいる大切な人たちへ、言葉も送り出した。
「アラン」
「うん?」
「明日も、一緒に頑張りましょうね」
「ああ。一緒に」
エレナは彼の手を握った。
窓の外から、港町の人々の声がかすかに届く。
何もない部屋に、これから二人で暮らす時間だけが、静かに満ちていこうとしていた。




