第35話 花屋に訪れる客
ルベルの街に降り立ったエレナは、ラヴィナから渡された手書きの地図を広げた。
「ここを曲がって……あら?」
目の前の道は二つに分かれているのに、地図には一本しか描かれていない。
(ラヴィナったら)
思わず笑みがこぼれた。
以前、アランとこの街を歩いたときは、何もかもが珍しく、同時に心細かった。王女という身分を隠し、これからどう暮らしていくかも分からなかった。今も秘密を抱えていることに変わりはない。それでもヴァレスタの食事処で働いた経験が、街の見え方を変えていた。
商店の前では女性が品物を並べ直している。通りから見やすいように配置を工夫し、立ち止まった客に声をかける。以前なら品物ばかり眺めただろう。今は働く人の手元に目が向いた。
(あの並べ方、見やすいわ)
少し歩くと、賑やかな声が聞こえた。
「ロイ! だから、そっちじゃねえって!」
「さっきお前がそこに置けって言っただろ!」
「二人とも! お花が傷んじゃうから!」
エレナは顔を上げた。
「……ふふっ」
地図より確かな目印が見つかった。
少し前まで、仕事場で誰かが声を上げるたび、失敗を叱られるのではないかと身構えていた。今は、互いに声を掛け合う忙しさの中にも、こんな笑い声があるのだと分かる。
地図を畳み、折り目を指でなぞった。
「俺もミレイも待ってるからな」
別れ際のラヴィナの声がよみがえる。アランと話し合い、食事処の店主に感謝を伝えて、ようやくここまで来た。
(今度は、私も誰かの役に立てるかしら)
花の香りを含んだ空気を吸い込み、エレナは声のする方へ歩き出した。
声を頼りに進むと、花が並ぶ店先が見えた。ラヴィナが花を抱え、ロイが置き場所を指さし、ミレイが二人の間で困ったように笑っている。
「ラヴィナ!」
「エレナ! 来たのか!」
ラヴィナが勢いよく振り向く。
「おい、急に渡すなって!」
「ちょっと持ってろよ!」
「もう持ってるだろ!」
「二人とも、まずお花を置いて!」
エレナはとうとう笑ってしまった。
「とても楽しそうなお店ね」
「だろ?」
ラヴィナは自分が褒められたように胸を張った。
◇
店内へ入ると、花の香りがふわりと広がった。開ききった花も、まだ蕾を残すものも、ミレイの手で丁寧に並べられている。
「エレナ、来てくれてありがとう!」
ミレイが笑顔で迎えた。
「エレナがいてくれたら、お店がもっと華やかになりそう!」
「ありがとうございます。でも、私、お花のことはまだ詳しくなくて……」
「それはこれから覚えればいいのよ」
その言葉にエレナはほっとした。
「アラン様とは、ちゃんと相談できた?」
「はい。ルベルへ通うことも、帰りの馬車のことも話しました。心配していましたけれど、最後には応援してくれて……」
「そりゃそうだよな。エレナがやりたいことなんだから」
ラヴィナが得意げに言う。
「ただ、無理をしないようにって何度も言われたわ」
「エレナ、夢中になると帰るの忘れそうだもんな」
「そんなことないわ」
「本当か?」
「……気をつけるわ」
ミレイが笑った。
「帰る時間は私も気にするわ。遠くから来てもらうんだもの」
食事処の店主に仕事を離れる相談をしたときのことを思い出す。失敗を繰り返した自分を見捨てずに教えてくれた人だった。礼を伝える声が少し震えたことも、まだ覚えている。
「改めて、うちで働いてくれるなら大歓迎よ」
「本当によろしいのですか?」
「もちろん。一緒に働けたら楽しいでしょう?」
「な? 言ったとおりだろ!」
ラヴィナが胸を張る。
「だからって、私に聞く前に決めちゃうのは困るわよ」
「結局いいんだから同じじゃねえか」
「同じじゃないわ」
その横でロイが何か言いかけ、口を閉じた。
「あの……ロイさん、ですよね?」
「あ、ああ。ロイです。よろしく」
「エレナです。これからお世話になります」
「いや、こっちこそ」
ロイは少し目を逸らした。
「なんだよロイ。さっきまで会ってみたいって言ってたくせに」
「うるさいな! 普通に挨拶しただけだろ!」
「へえ、普通ねえ」
ミレイもエレナも笑った。エレナには不思議な居心地のよさがあった。
◇
仕事を教わり始めると、花屋にも食事処とは違う忙しさがあると分かった。
花は美しく並べるだけでは足りない。傷んだ部分がないか確かめ、水を替え、種類ごとの扱い方に気を配る。似た色の花でも葉の形が違う。
「これは、こちらと似ていますね」
「そうね。でも葉を見てみて」
「あ……少し違うわ」
「慣れれば分かるようになるわよ」
王城では花はいつも美しい姿で飾られていた。その裏の手間を考えたことは少なかった。
(知らないことばかりね)
けれど、嫌ではなかった。むしろ一つ覚えるたび、世界が広くなるように感じた。
ミレイはまず、店先に並べる花と、奥に残しておく花の違いから説明した。
「お客さんが手に取るものだから、綺麗に見えるようにしたいの。でも見た目だけで選ぶと、後で困ることもあるのよ」
「花の状態を確かめるのね」
「そう。難しく考えなくていいから、最初は私が選ぶところを見ていて」
エレナは頷いた。
ミレイは花の向きを変え、少し離れて眺め、また位置を直した。隣でロイが容器を支え、ラヴィナが別の花を運んでくる。
「これ、こっちでいいんだよな?」
「ええ。今度は合ってるわ」
「今度は、ってなんだよ」
「さっきは違ったもの」
「ミレイ、細けえなあ」
「細かいところまで見てくれるお客さんもいるのよ」
ラヴィナは納得したような、していないような顔で花を置いた。
エレナはそのやり取りを見ながら、自分の手元の花をそっと持ち上げた。
「このくらいの間隔でいいかしら」
「もう少し空けましょう。そう、そのくらい」
「……できたわ」
「上手よ」
褒められたのは、ほんの小さなことだった。それなのに、エレナは嬉しくて仕方がなかった。
食事処で初めて料理を間違えずに運べたときも、こんな気持ちだった。誰かが当たり前にこなしていることを、自分も一つできるようになる。以前はそれが、こんなに大切な喜びだと知らなかった。
店先を通りかかった客が、並んだ花に目を留めた。
「今日は綺麗に並んでるね」
ミレイが顔を上げる。
「ありがとうございます。よかったら、ゆっくり見ていってください」
エレナはその横で軽く頭を下げた。客が花を選ぶ間、必要以上に声を掛けず、視線がこちらへ向いたときだけ微笑む。
食事処では、急いでいる客には短く用件を聞くことが大切だった。花を眺めている客には、少し待つことも必要なのだろう。相手によって望む距離が違う。そのことを、エレナは自分の経験から考えた。
客が去ると、ミレイが言った。
「今の挨拶、自然だったわね」
「食事処で少しだけ覚えたの。まだ、ここのお客さんのことは分からないけれど」
「それなら一緒に覚えていきましょう」
ミレイの言葉に、エレナは頷いた。
働く場所が変わっても、これまでの日々が消えてしまうわけではない。そう思えることが、何より嬉しかった。
ふと、以前アランと家具の少ない部屋で話したことを思い出す。いつか食卓を置いて、花も飾りたい。あのときは、花を買うことさえ贅沢に感じていた。
今は花を売る側にいる。
自分が選んだ花を、誰かが家に飾るかもしれない。小さな部屋で食事を囲む人たちのそばに、今日ここで扱った花が置かれるかもしれない。
そんな想像をすると、目の前の一輪をぞんざいには扱えなかった。
しばらくしてミレイが帳簿を開き、困った顔になった。
「どうして合わないのかしら……」
「何が?」
ロイが覗き込む。
「昨日の仕入れと売れた数。残っている分と合わせても、少し違うの」
「数え直せば?」
「もう何度も数えたわ」
「じゃあ、もう一回」
「ロイ……」
エレナが声をかけた。
「よろしければ、私も見てみましょうか?」
「いいの? 初日からこんなことまで頼んでしまって」
「私にできることがあれば嬉しいです」
エレナはすぐ計算せず、数字の意味をミレイに確認した。食事処で、分かったつもりで動いて失敗した経験がある。
「こちらは、朝の時点で残っていた数ですか?」
「そうよ」
「では、こちらへ移した分も含まれているのですね」
「ええ……あっ」
ミレイの声が変わった。
「そこを二度数えていたのかしら」
「一緒に確認してみましょう」
二人で記録をたどった。
「こちらの数を合わせると、ちょうど同じになります」
「えっ、もう分かったの? すごい! 私、昨日からずっと悩んでいたのに!」
「ミレイが説明してくださったからです」
ラヴィナが得意げに腕を組んだ。
「な? エレナが来てくれて正解だったろ?」
「ラヴィナも、もう少し帳簿を覚えてくれると助かるんだけど」
「俺は花を運ぶ方が向いてるって!」
「置き場所も覚えてくれれば、もっと助かるわ」
ロイが横から口を挟む。
「それ、お前もだろ!」
「何だと?」
「二人とも、喧嘩するならお花を片づけてからね」
ミレイの一言に、二人は同時に黙った。
エレナはこらえきれずに笑った。こんなふうに仕事の途中で笑える。知らないことを教えてもらい、自分にできることで誰かを助けられる。王城にいた頃には想像しなかった幸福だった。
ミレイは帳簿を閉じる前に、もう一度数字を指で追った。
「エレナがいてくれたら、これからは心強いわ」
「でも、私にも花のことを教えてね。今日だけで、知らないことがこんなにあるって分かったもの」
「もちろん。じゃあ、私は花を教えて、エレナには帳簿を教えてもらおうかな」
ロイが横から顔を出す。
「俺にも教えてくれよ。いつも最後の数で分かんなくなるんだ」
「ええ。一緒に確かめましょう」
「お、俺も?」
ラヴィナが思わず聞き返した。
「ラヴィナもよ」
「うわ、逃げられねえのか」
「花の置き場所を覚えるより簡単かもな」
「ロイ、お前な!」
笑い声が重なった。エレナは開いた帳簿の端をそっと押さえる。昨日までの自分の経験が、今日初めて会った人たちの役に立つ。その嬉しさは、王城で褒められたときのものとは少し違っていた。
ミレイが店先の花を一輪持ち上げた。
「エレナ、この花を選ぶお客さんには、どんなことを聞く?」
「ええと……どこに飾るか、でしょうか」
「そうね。それから、贈り物か、ご自分のためかも大切よ」
「同じ花でも?」
「同じ花だからこそ。渡す相手によって、嬉しい理由が違うでしょう?」
エレナは花びらを傷つけないように手を添えた。
王城にいた頃は、花を受け取ることに慣れていた。誰かが選び、整え、ふさわしい場所に飾ってくれた。けれど、贈る人の気持ちまで考えて選んだことが、どれほどあっただろう。
「では、相手のことを聞いてから、一緒に選ぶのね」
「ええ。それが一番よ」
ミレイは嬉しそうに頷いた。
「でも、最初は難しいから、分からなければ呼んでね」
「はい」
ロイが花を置き終えて、こちらを見た。
「ミレイ、今の話、俺にも何度もしてるだろ」
「ロイも聞いてくれたら助かるわ」
「聞いてるって」
「じゃあ、さっきお客様に聞かれたとき、どうして私を呼んだの?」
「……確認だよ、確認」
ラヴィナが吹き出した。
花の扱い一つにも、覚えることがある。エレナはその当たり前の難しさを、今は嬉しく思った。ここでは誰かの名前や身分より、目の前の仕事をどれだけ丁寧にできるかが大切なのだ。
そのとき、店の扉が開いた。
◇
「いらっしゃいませ!」
ミレイは顔を上げ、入ってきた男性を見て姿勢を正した。
「あっ、クロイツ子爵様。いらっしゃいませ」
「こんにちは、ミレイさん。店の様子を少し見に来ました」
穏やかな声だった。ロイも挨拶し、ラヴィナも以前会った相手として頭を下げる。
エレナだけが、すぐには動けなかった。
帳簿に添えた指が止まる。細い金属フレームの眼鏡。その奥の落ち着いた視線。端正な身なり。
(ユリウス・クロイツ……)
王都で見知った人物が、なぜここにいるのだろう。エレナは身を引きそうになり、こらえた。
「お店の方はいかがですか?」
「おかげさまで、少しずつお客様も増えています」
「それは何よりです」
ユリウスは店内を見渡した。視線がエレナで一瞬止まる。
報告ではヴァレスタにいた少女。王国法の知識、月のブレスレット、クラリッサ・ベルフォールとの再会、ピアノ演奏。それらが示していた人物が、今は自分の家門から貸している店に立っている。
(……ルベルに?)
ユリウスは疑問を顔に出さなかった。人が移動すること自体は珍しくない。しかし、ここへ来た理由はまだ分からない。
エレナは、そのわずかな沈黙を見逃さなかった。
(気づかれた……?貴族で自分を知らない人はまずいない)
エレナは指を帳簿から離した。閉じてしまえば不自然に見える気がして、そのままにしておく。ほんの数歩の距離に、王都で何度も見かけた人物が立っている。
王女として城にいたときなら、挨拶ぐらい普通に交わせた。今は違う。ここでの自分は、花の名前を教わったばかりの新人だ。
(落ち着いて。ミレイのお店の店員として答えればいい)
そう思っても、心臓の音だけは言うことを聞かなかった。
ユリウスはすぐにミレイへ向き直る。
「こちらの方は、新しく働き始めた方ですか?」
「はい! 今日から手伝っていただいているんです」
「そうなんですね」
エレナはゆっくり顔を上げた。
「……はい。初めまして」
「初めまして。ユリウス・クロイツと申します」
エレナは意図的に名前を言わなかった。互いに知っているはずの相手と、初対面の挨拶を交わす。エレナの胸が締めつけられた。
「ルベルには、いつ頃いらしたのですか?」
「今日、こちらのお店へ伺ったところです」
「そうでしたか。お仕事には慣れましたか?」
「まだ教わることばかりですけれど、皆さんが親切にしてくださるので……」
「それはよかった」
それ以上は尋ねなかった。質問を切り上げられても、エレナは安心できない。相手がどこまで知っているのか分からないからだ。
「帳簿も見てくださるんですよ」
ミレイはエレナの事情を知っていたが、平常心で嬉しそうに言った。
「さっきも、私が困っていた数字を整理してくれて」
「ほう。それは心強い方が加わりましたね」
ユリウスの視線が帳簿へ向く。王城で教育を受けた王女なら数字の扱いにも不自由はしないだろう。だが、エレナがここにいる理由がわからない。
(なぜ、この店を選んだ?)
彼女が今ここで働く理由は、報告書にはなかった。
「新しい方が加わって、賑やかになったようですね」
「はい。本当に助かっています」
ミレイは何の疑いもなく笑った。エレナはその笑顔を見るほど、自分の秘密がこの店を巻き込むのではないかと胸が痛んだ。
ラヴィナが近づく。
「こっちの花、俺が運ぶよ」
「あ……ありがとう」
いつもと変わらない調子で、ラヴィナはエレナの顔をちらりと見た。その視線に、エレナは少し救われた。
◇
「そういえば、ミレイさん」
ユリウスは話題を変えた。
「以前お話しした花の件ですが……」
「あっ、大量に必要になるとおっしゃっていた件ですね」
「ええ。申し訳ありませんが、必要がなくなりました」
ミレイは少し驚いた。
「そうだったんですね」
「準備を進めていただいていたのなら、申し訳ないことをしました」
「いえ、少し用意しましたけれど、お店で扱えるお花ですから」
ユリウスは丁寧に頭を下げた。
「それでも、こちらからお話ししたことです。ご迷惑をおかけしました」
エレナは二人の会話を聞きながら、ほっとしかけた。家主と店主の商談。自分が口を挟む必要はない。
だが、次の言葉で呼吸が止まりそうになった。
「実は、エレナ王女殿下の国葬に使う花を考えていたのです」
耳の奥で、周囲の音が遠のいた。
「……王女様の?」
ミレイが声を落とす。
「ええ。ですが、国葬は行われないことになりましてね」
ユリウスの口調は変わらない。
つい先ほどまで花に触れていた指先が、ひどく冷たく感じられた。
(私の……国葬?)
自分が死んだと王都で信じられていることは、分かっていた。けれど、目の前の男はそのために用意した花の話を、まるで日常の商談のように続けている。
エレナは花を見た。ミレイが朝から一輪ずつ確かめていた花。王城では飾られた美しさしか知らなかったが、今ならそこに費やされた手間を少しは想像できる。
(お父様は……)
国葬が取りやめになった理由は分からない。父が何を考えているのかも、手紙を送った後の暮らしも知らない。自分が戻らないことで、どれほど苦しませているのだろう。
唇を開きかけて、閉じた。父のことも、自分のことも、ここで話せるはずがなかった。
「王女様も、きっと綺麗なお花がお好きだったでしょうね」
ミレイが寂しそうに言った。
悪意など少しもない言葉だった。それは、エレナを守るためのミレイの精一杯のフォローだった。
隣でラヴィナが花を持ち直した。
「こっちは俺がやっとくから」
「……ありがとう」
ラヴィナはそれ以上尋ねない。だが、ユリウスを見る目にはいつもの気軽さがなかった。
ラヴィナは、エレナが帳簿を見ていたときと同じ姿勢のまま、ほとんど動いていないことに気づいた。
(……嫌な感じだ)
この子爵が何かをした証拠はない。だが、先日も礼儀正しく近づいてきた相手が、最後には短剣を抜いた。だからといって、ここで疑いを顔に出せばミレイまで不安にさせる。
「これ、どこに置けばいい?」
普段どおりの声で尋ねる。
「……あ、ミレイに聞いてみましょう」
「そうだな。俺が勝手に置くとまた怒られるし」
ロイが笑い、ミレイも表情を緩めた。エレナがこちらを見る。ラヴィナは小さく頷いて、すぐ手元の花に視線を戻した。
ユリウスの視線は時折エレナに向けられる。
ユリウスの一言言った。
「王女殿下も、まだお若かった。お気の毒なことです」
エレナは視線を落とした。
(この方は……私だと知っているの?)
彼の顔からは何も読み取れない。
そして、ユリウスはエレナを見た。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……何でもありません」
ようやく返した声は、自分でも少し硬いと思った。
「悲しいお話をしてしまいましたね。失礼しました」
それが本当の謝罪なのか、反応を確かめるための言葉なのか。エレナには判断できなかった。
◇
エレナは小さく息をついた。ユリウスの問いが自分から離れたことに、ほっとするのが悔しかった。
ミレイはいつもと変わらない手つきで帳簿を引き寄せる。さっき自分が整理したばかりの頁だ。つい先ほどまで四人で笑い合っていた同じ机の上で、今は自分の葬儀の話が続いている。
エレナはその頁を見つめた。数字はさっきと何も変わっていない。それなのに、店の空気だけが違うものになったようだった。
「それで、準備してくださった花は?」
ユリウスがミレイに尋ねた。
「別の部屋で保管しています。ラグナリアやガルディア、ネーヴァなどです。状態を崩さないよう、温度には気をつけていたんですけれど……」
ミレイは少し申し訳なさそうに笑った。
「でも、お店の商品として出せば大丈夫です。ご心配なさらないでください」
ユリウスはすぐには答えなかった。
正式な注文を成立させたわけではない。それでも、自分の話を受けて彼女が準備したことは確かだった。
「いえ。それでは私の気が済みません」
「そんな、子爵様」
「準備してくださった分は、私が買い取らせてください。代金は私個人でお支払いします」
ミレイが目を丸くした。
「でも、本当に店で売れますから……」
「もちろん、無理にとは申しません。ただ、私からお願いしたことへのお礼と思っていただければ」
丁寧な申し出だった。ミレイはしばらく考えてから頷いた。
「……ありがとうございます。それなら、準備していたお花をお見せしますね」
花を確かめる間、ロイが運ぶのを手伝い、ラヴィナも声をかけられて動いた。エレナはその場で待っていたが、何をしていれば自然なのか分からなかった。
ユリウスはエレナの前で足を止めた。
「花がお好きなのですか?」
「……はい」
「こちらで働こうと思われたのも、そのためですか?」
エレナは少し考えた。
「好きだから、というだけではありません。お花のことは、まだ知らないことが多くて。でも、誰かの暮らしに花を届ける仕事は、素敵だと思ったんです」
言い終えてから、余計なことを話したのではないかと不安になった。だが、それは偽りのない気持ちだった。
「なるほど」
ユリウスは静かに頷いた。
王城で与えられる暮らしを送っていた少女が、今は自分の意思で働こうとしている。そこにどんな事情があるのか、彼にはまだ分からない。
「よいお仕事だと思います」
エレナは思わず顔を上げた。
「……ありがとうございます」
ミレイが奥から戻ると、保管していた花を一つずつ確かめ、帳簿と照らし合わせた。ロイが数を読み上げ、ミレイが印をつける。ラヴィナも花を傷つけないように手伝った。
ユリウスは金額を確かめ、先ほど申し出たとおり、個人で買い取ることを告げた。ミレイはようやく肩の力を抜いた。
エレナもほっとした。ミレイの努力が無駄にならずに済む。それだけでも、よかったと思う。
ところが、ユリウスは花を引き取ろうとはせず、彼女の方を向いた。
「それから、よろしければ」
彼はエレナへ向き直った。
「この花を、あなたにお贈りしてもよろしいでしょうか」
ユリウスは穏やかな笑みを浮かべ、エレナへ花を差し出した。
「……私に、ですか?」
思わず聞き返した声が、わずかに震えた。
「ええ。今日、新しく働き始めた記念に。ささやかな歓迎の気持ちです」
どこまでも丁寧な申し出だった。
だが、エレナにはすぐに返事ができなかった。
つい先ほど、この花が何のために用意されたものなのか、ユリウス自身の口から聞かされたばかりだった。
自分の国葬。
死んだはずの王女を悼むために用意された花が、今、その王女本人へ差し出されている。
(……どうして、私に?気づいている?)
偶然なのだろうか。
それとも、この人はすべてを知っていて、あえてこんなことをしているのだろうか。
エレナは恐る恐る顔を上げた。
ユリウスは微笑んでいた。
王都で見かけた頃と変わらない、落ち着いた表情。その眼差しからは、驚きも、疑念も、何一つ読み取れない。
ただ、エレナが答えるのを静かに待っている。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
少し離れたところで、ミレイが動きを止めていた。
彼女はエレナの事情を知っている。
だからこそ、先ほどの国葬の話が、目の前の少女にとってどれほど残酷なものだったか理解できた。
しかも、花を差し出しているのは、この店の家主であるクロイツ子爵だ。
ミレイは何か言おうと唇を開きかけたが、結局、言葉にはしなかった。
ここで不用意なことを口にすれば、かえってエレナを困らせてしまう。
ロイもまた、黙って二人を見ていた。
いつもなら真っ先に軽口を叩くラヴィナも、今は笑っていなかった。
半歩、エレナの方へ近づく。
ユリウスの手元にある花と、その向こうの穏やかな顔を交互に見た。
(……何がしたいんだ、こいつ)
ただの贈り物にしては、あまりにも出来すぎている。
だが、ここで自分が口を挟めば、エレナが何かを隠していると知らせるようなものだ。
ラヴィナは奥歯を噛み、踏み出しかけた足を止めた。
エレナは差し出された花へ視線を戻した。
花びらには傷一つない。
ミレイが温度に気を配り、大切に守ってきた花だった。
その美しさに、何の罪もない。
それでも、手を伸ばすことができなかった。
(この方は……私だと気づいているの?)
聞けるはずがなかった。
もし気づかれているのなら、この贈り物は単なる歓迎の印ではない。
自分の秘密を知っているという、言葉にしない意思表示なのかもしれない。
だが、そうではなかったら。
ただ親切で花を贈ろうとしている相手を疑い、拒絶することになる。
どちらなのか、エレナには分からなかった。
「……お気に召しませんか?」
ユリウスが静かに尋ねた。
エレナの肩が、わずかに揺れた。
「い、いえ……そんなことは……」
「それなら、よかった」
彼はそれ以上何も尋ねなかった。
花を差し出したまま、ただ待っている。
急かすことも、受け取るよう求めることもない。
その余裕が、エレナには何より不気味だった。
ミレイが小さく息を飲む音がした。
ラヴィナも黙っている。
エレナはゆっくりと手を伸ばした。
花を受け取る瞬間、ユリウスと視線が重なる。
彼の表情は、少しも変わらなかった。
「……ありがとうございます。大切にします」
ようやく、それだけを口にした。
「お気に召していただけたなら幸いです」
ユリウスは静かに手を引いた。
それだけだった。
エレナの名前を確かめることも、王城の話を持ち出すこともない。
何事もなかったかのように、ミレイへ向き直った。
「よい花を用意していただき、ありがとうございました」
「……いえ。こちらこそ、お買い上げいただきありがとうございます」
ミレイは丁寧に頭を下げた。
その声には、いつもの明るさが少しだけ欠けていた。
ユリウスが気づいた様子はない。
ロイは花を置き直し、ミレイは仕事へ戻ろうとする。
店内には、再び普段の物音が戻り始めた。
けれど、エレナの胸の鼓動だけは、なかなか静まらなかった。
腕の中の花は、思っていたよりも重く感じられた。
ラヴィナがそっと隣へ来る。
「……大丈夫か?」
ほかの誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
エレナは花を抱え直し、かすかに頷いた。
「……ええ」
それ以上は言えなかった。
ユリウスはミレイとロイに礼を述べた。
「お邪魔しました。これからも、よいお店にしてください」
「はい。ありがとうございます、子爵様」
ミレイが頭を下げる。
ユリウスは軽く会釈すると、扉へ向かった。
エレナはようやく息をついた。
何も起こらなかった。
名前を問い詰められることも、正体を明かされることもなかった。
ただ花を贈られただけ。
そう考えようとした、そのときだった。
扉の前で、ユリウスが足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
エレナは思わず顔を上げた。
腕の中には、王女の国葬のために用意された花。
その花を抱く少女を、ユリウスは静かに見つめていた。
一瞬、目が合う。
そして、王都で幾度も見たことのある、あの穏やかな微笑を浮かべた。
「エレナ王女。またお会いできることを楽しみにしております」
エレナの呼吸が止まった。
腕の中の花が、かすかに揺れる。
聞き間違いではない。
今、確かに王女と呼ばれた。
ユリウスはそれ以上何も言わず、丁寧に一礼した。
扉が静かに閉まる。
誰も声を出さなかった。
ミレイは口元に手を当てたまま、閉じた扉を見つめていた。顔から血の気が引いている。
ロイは呆然と立ち尽くし、やがてエレナへ視線を移した。何かを尋ねようと唇を動かしたが、言葉にならない。
ラヴィナだけは、扉から目を離さなかった。
いつもの快活な表情は消え、眉間に深い皺が寄っている。無意識に握りしめた拳が、わずかに震えていた。
やがてラヴィナは、ゆっくりとエレナを振り返った。
エレナは花を抱いたまま、動けずにいた。
その花は、彼女自身の国葬のために用意されたものだった。
つい先ほどまで笑い声に満ちていた花屋に、重い沈黙だけが残っていた。




