第19話 ゼルヴァの浸食
ユリウスが去った後も、ヴァルターは応接室に残っていた。
向かいの椅子は空になり、茶器も片づけられている。それなのに、あの男の声が耳から離れない。
『結果が出た時には、お二人の息子のどちらかを選ばねばならなくなるかもしれません』
「……勝手なことを」
長男アラン。次男アルト。どちらも自分の息子だ。王女が本当に亡くなっていれば護衛責任者のアランが、生きていれば死亡を報告したアルトが追及される。ユリウスは四つの可能性を並べ、どちらに転んでもフォルディス家が傷つくと告げた。
軍を率いる者として、その計算の意味は分かる。敵の正面ばかり見ている間に退路を塞がれれば、戦う前から負けが決まることもある。
だが、息子のことまで戦の駒として考えられるものか。
ヴァルターは深く息を吐いた。家の名誉も王国への責任も大切だ。しかし、どちらかを切り捨てると決めるには、まだ何も分かっていない。
「……まずは、あの日のことだ」
机の上に残った書類から目を離す。
推測を重ねるより、現場から戻った者に聞くべきだ。
「アルトを呼べ」
*
「お呼びでしょうか、父上」
入ってきたアルトは、いつもどおり丁寧に一礼した。灰色を含んだ淡い琥珀色の目は穏やかで、声にも乱れはない。
「ああ。座れ」
ヴァルターは向かいの席を示した。
「山賊襲撃の日にあったことを、最初から最後まで話せ」
アルトのまぶたがわずかに動いた。
「……あの日のことですか」
「そうだ」
「王城へはすでに報告を――」
「報告書の文言を聞きたいのではない」
父の声が強くなった。
「お前自身が何を見たかだ。誰かから聞いた話と、お前の目で確かめたことを分けて話せ」
「……承知しました」
アルトは姿勢を正した。
「灰岩峡路で、突然山賊の襲撃を受けました。護衛は対応に追われ、私はエレナ王女をお守りしようとしました。しかし、周囲は混乱して……」
「アランは何をしていた」
「兄上も戦っておられました」
「それを見たのか」
「はい」
「どこまで見ていた」
「……戦いが激しくなってからは、すべてを見通せたわけではありません」
「ならば、見えたところまででよい」
ヴァルターは急かさなかった。戦場の証言が不完全なのは珍しくない。見ていないことまで無理に答えさせれば、記憶ではなく期待に沿った説明を作らせてしまう。
「最後にエレナ殿下を見たのはいつだ」
「襲撃の最中です」
「その時、アランは殿下のそばにいたのか」
「……正確には覚えておりません」
「お前は殿下のそばにいたのか」
「私は、必死でお守りしようと――」
「アルト。何をしようとしたかではない。どこにいたかを聞いている」
アルトは視線を落とした。
「申し訳ありません。混乱していて、位置関係までは……」
「そうか」
短い返事だった。それがかえってアルトを落ち着かなくさせた。
*
父は何を疑っているのだろう。
アルトは膝の上で指を組んだ。叱責されるならまだいい。だが父の質問は、少しずつ形を変えて同じ場所へ戻ってくる。
「アランに怪我はなかったのか」
胸の奥に小さな熱が生まれた。
「……戦闘中でしたから、無傷だったとは申し上げられません」
「負傷するところを見たか」
「それは……」
灰岩峡路の記憶が浮かぶ。兄の剣。自分に向けられた視線。刃が交わった瞬間。
思い出すな。
「正確には、お答えできません」
「では、エレナ殿下は。怪我をされていたか」
その名が出た途端、熱が少し強くなった。
エレナ。
穏やかな声。柔らかな眼差し。けれど、彼女が心から微笑みかける相手はいつも兄だった。
今は考えるな。
「殿下のお怪我を確認する余裕はありませんでした」
「歩ける状態だったかどうかも分からぬのか」
「……はい」
「アランが殿下を連れて動くところは見たか」
「はっきりとは」
「二人が別々になったところは」
「父上」
思わず遮っていた。
「私は、本当に必死だったのです。エレナ王女をお守りするために。誰がどこへ動いたかなど、すべて覚えているわけではありません」
声が速くなっている。アルトは息を吸い直した。
落ち着け。ここには敵はいない。剣を抜く必要もない。あの時とは違う。
胸の熱を知っていた。ゼルヴァが発現した時、力とともに湧き上がった感情も。兄を超えられるという高揚が、どれほど容易く自分の判断を押しのけたかも。
今は抑えられる。そう思っていた。
「一つだけ確認する」
父の声に顔を上げた。
「お前は、殿下が亡くなられるところを、自分の目で確認したのか」
喉が詰まった。
答えは分かっている。だが、それを口にするわけにはいかない。
「……私は、王都へ戻って報告したとおりに認識しておりました」
父はしばらく息子を見つめた。
「そうか」
それ以上は追及しない。しかし質問への答えになっていないことを、父が見落としたとは思えなかった。
◇
ヴァルターは話の筋を頭の中でたどり直した。
襲撃を受けた。王女を守ろうとした。兄も戦っていた。だが、その後の位置も、負傷の有無も、王女の最期も明確には語れない。
それぞれに理由はつく。激しい戦闘の中で目撃できる範囲は限られる。しかし、死亡報告を裏づける肝心な部分が埋まらない。
「アルト。思い出せぬことを無理に答える必要はない。ただし、後から何か思い出したら必ず伝えろ。小さなことでもだ」
「……はい、父上」
ヴァルターは背もたれに身体を預けた。
「先ほど、ユリウス・クロイツが訪ねてきた」
「クロイツ子爵が、ですか」
「ああ。来月の王都会議についてだ。アランの身柄確保を、さらに厳しい審議へ進めようという話がある」
アルトの目がわずかに細くなった。
「兄上を……」
「私は賛同しておらん。まだ何も決まってはいない」
ヴァルターは言葉を切った。
「だが、王女殿下の生死が明らかになれば、必ず誰かの責任が問われる。殿下が亡くなられたのなら護衛責任者だったアラン。生きておられたのなら、死亡を報告したお前の説明も調べられる」
「……当然のことだと思います」
「そうだ。王国法の下では、私の息子であることも免罪にはならん」
ヴァルターは深く息を吐いた。
「真実が分かった時、場合によってはアランかお前のどちらかを、この家から退けねばならなくなるかもしれん」
アルトは顔を上げた。
「……どちらかを、ですか」
「今ここで罪を決めるつもりはない。証拠も裁きもないのだからな」
父の視線が揺れた。
「だが、当主として家を守る判断を迫られる時が来るかもしれん」
アルトは答えなかった。
また、兄と自分だ。
王国騎士団長だった兄。王女の婚約者だった兄。誰もがその名を知り、父でさえ今も帰還を待っている兄。
自分は、何なのだろう。
「できるなら、二人とも守りたい」
父が低く言った。
「私はお前たちの父親だ。どちらかを切り捨てるために真実を知りたいわけではない」
その言葉は嘘ではないのだろう。けれどアルトの胸には、うまく届かなかった。
二人とも守りたい。
ならば兄が戻ってきたらどうなる。兄がすべてを語ったら。エレナが兄のそばに立っていたら。
熱が消えない。
「……父上のお考えは、分かりました」
アルトはどうにかそう答えた。
◇
ヴァルターは息子の表情を見て、事件の話を続けるべきではないと思った。
王女の消息も、アランの行方も、今すぐ分かることではない。アルトは騎士団の捜索を担い、重い責任を負っている。父として何か別の話をしてやりたかった。
「……ところで、アルト」
「はい」
「お前も、もう二十二だな」
「……ええ」
「そろそろ妻を迎えることも考えた方がよい」
アルトは、すぐには返事をしなかった。
「今は騎士団の仕事が忙しいだろう。だが、それだけが人生ではない。家の将来も、お前自身の暮らしもある。縁談を考えるには遅くない」
「……縁談、ですか」
「そうだ。いつまでも先延ばしにはできん。お前も自分の家庭を持つ年齢だ」
父に悪意はなかった。息子の将来を案じての言葉だった。
しかしアルトには、まったく違う意味に聞こえた。
別の女性を迎えろ。
エレナを諦めろ。
兄の婚約者に想いを寄せることなど、最初から許されないのだと。
「……父上」
胸の奥が、突然熱くなった。
さっきまで抑えていたものとは違う。内側から一気に膨れ上がり、呼吸を奪う。
「どうした」
「その話は……」
言葉が続かない。
父は眉を寄せた。
「今すぐ相手を決めろと言っているのではない。ただ、お前も将来のことを真剣に考えねば――」
その一言が、胸の熱をさらに押し上げた。
違う。
違う、違う。
自分が欲しかったのは、そんな未来ではない。
エレナがいる。
あの人が、いる。
兄の隣に。
いつだって、兄の隣に。
指先が震え始めた。アルトはそれを隠そうと膝の上で拳を握る。だが震えは止まらない。
「アルト?」
「……少し、待ってください」
声がかすれた。
もう一度あの力が出ようとしている。
なぜだ。もう抑えられるはずだった。以前よりずっと、自分の感情を扱えるようになったと思っていた。
兄を思い出さなければいい。エレナのことを考えなければいい。父の話を聞き流せばいい。
それだけのことが、できない。
アルトは椅子の縁をつかんだ。
エレナは兄の婚約者だ。
分かっている。
彼女には彼女の意思がある。
分かっている。
だから、諦めろ。
……なぜ?
胸の内側で、別の感情がその言葉を押し返した。
兄だから譲るのか。兄が先に手に入れたから、何もかも諦めるのか。剣でも、地位でも、エレナでも。
違う。そんなことを考えてはいけない。
自分がしたことを思い出せ。あの日、兄に剣を向けたことを。王都へ戻って偽りを告げたことを。
その記憶は、確かに恐ろしいはずだった。
なのに今は、恐ろしさよりも、何も手に入らないまま終わることの方が耐え難い。
「……っ、は……」
息が乱れた。
身体の奥から力が押し寄せる感覚がある。以前にも経験した、ゼルヴァの熱。力が増していくのと引き換えに、思考のどこかが薄くなっていく。
自分が何をしているかは分かる。父の前に座っていることも、縁談の話をされていることも。
だが、なぜそれを我慢しなければならないのか、その理由だけが少しずつ遠ざかっていく。
アルトは歯を食いしばった。
止まれ。
ここで父に何か言ってしまえば、取り返しがつかない。
「アルト!」
父の声が近くなった。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「……大丈夫、です」
「大丈夫なものか。こちらを見ろ」
顔を上げようとして、視界が揺れた。胸の熱は引かず、指先は細かく震えている。
父が立ち上がる音がした。
「アルト、何が起きている。どこが苦しい」
答えたい。だが、答えればゼルヴァのことを話さなければならない。セリアに相談してきた症状も、あの日のことも。
何より、今の自分の内側にあるものを、父に知られたくなかった。
「……少し、時間を……」
それが精いっぱいだった。
◇
ヴァルターは息子の顔を覗き込んだ。
アルトの呼吸は荒く、指先は震えている。先ほどまで整っていた姿勢も崩れ、椅子を支えにするように身体を傾けていた。
「アルト。私の声が聞こえるか」
息子は小さく頷いたように見えた。しかし返事はない。
どういうことだ。
縁談の話をしただけではないか。たった今まで会話ができていたのに、突然こんな状態になるものなのか。
国境で負傷者を見たことはある。恐怖で息が乱れる兵も、傷の痛みに耐える兵もいた。だが目の前の息子の苦しみには、何か違うものがあった。
身体のどこかを押さえているわけでもない。ただ、内側から湧き上がる何かに耐えているようだった。
「アルト、しっかりしろ」
肩に手を置こうとして、ヴァルターは一瞬ためらった。触れればさらに苦しませるのではないかと、理由もなく思ったからだ。
そんな自分に腹が立った。
私は何をしている。息子が苦しんでいるのだ。
「……先生を呼んでくる。ここで待っていろ」
アルトが答えたかどうかも確かめず、ヴァルターは部屋を出た。
廊下を急ぐ足音が響く。いつもなら誰かを呼びつければ済む。だが今は、その時間さえ惜しかった。
セリア・ヴェルネ。
フォルディス家の専属研究者なら、何か分かるかもしれない。
研究室の扉の前に着くと、ヴァルターは強く叩いた。
「先生! セリア先生!」
返事を待つ間も惜しく、もう一度叩く。
「先生、いるか!」
扉が開いた。
「公爵閣下。どうなさいました」
セリアは突然の訪問に目を向けた。ヴァルターは息を整える間もなく言った。
「アルトの様子がおかしい。突然、胸が苦しそうになって、息が乱れ、手が震え始めた。問いかけても、まともに答えられん」
「いつからですか」
「つい先ほどだ。それまでは普通に話していた」
「意識はありますか」
「私の声は聞こえているようだった。だが……」
説明しているうちに、自分が何も確かめられていないことに気づく。
セリアは短く頷いた。
「分かりました。すぐに参ります」
彼女が研究室を出るのを待ち、ヴァルターは足早に引き返した。
◇
部屋に戻ると、アルトはまだそこにいた。
椅子に座ったまま、荒い息を繰り返している。大きく開かれた目は一点を見つめているようで、しかし何を見ているのか分からない。
「アルト!」
ヴァルターが近づくと、息子の肩がわずかに動いた。
「先生、これだ。急にこうなった」
セリアはアルトの前に立ち、顔色と呼吸を確かめるように見た。
「アルト様。私の声が分かりますか」
アルトの唇がかすかに動く。
「……先生……」
「無理に話さなくて結構です。今は、どういう感じがしますか」
「……熱い……」
セリアの視線が鋭くなった。
「胸のあたりですか」
小さく頷く。
「以前、お話しくださった時と同じような?」
アルトは答えなかった。目を閉じようとして、すぐに開く。何かを押しとどめようとしているように、口元に力が入っていた。
セリアは息子の顔から目を離さない。
「これは……」
その先が続かなかった。
「先生!」
ヴァルターが声を上げる。
「これはどういうことだ。何が起きている!」
セリアはすぐには答えなかった。
その沈黙に、ヴァルターは苛立った。研究者が何を考えているかなど、今はどうでもよかった。目の前で息子が苦しんでいるのだ。
「分からぬなら分からぬと言ってくれ。何かできることはないのか」
「……今は、もう少し様子を見させてください」
「様子を見るだと?」
言い返そうとした、その時だった。
アルトの呼吸が、ふっと静かになった。
最初は息を止めたのかと思った。
「アルト?」
だが、胸は規則正しく上下している。さっきまで止まらなかった指の震えも、いつの間にか消えていた。
アルトはゆっくり顔を上げた。
その表情を見て、ヴァルターは言葉を失った。
苦しそうな顔ではない。安堵した顔でもない。ただ、何も起きなかったかのように静かだった。
「……アルト。もう苦しくないのか」
「はい」
短い返答。
「本当に大丈夫なのか」
「ご心配をおかけしました」
声は落ち着いていた。乱れも、ためらいもない。
先ほどまでの苦しみが嘘のようだった。
ヴァルターは息子の顔を見つめる。アッシュブラウンの髪も、淡い琥珀色の瞳も、見慣れたものだ。顔立ちが変わったわけではない。
それなのに、どこか違う。
普段のアルトなら、父に心配をかけたことを申し訳なさそうにするだろう。今も謝っている。だが、その声に、謝罪を口にする者らしい揺れが感じられなかった。
セリアも黙っていた。アルトの目元を見つめ、次に手先へ視線を移す。先ほどの苦悶と、今の静けさ。その落差を確かめるように。
「父上、申し訳ありませんでした」
アルトが立ち上がった。
「……待て。どこへ行く」
「失礼いたします」
そう告げて、扉へ向かおうとする。
ヴァルターは反射的に手を伸ばし、息子の腕をつかんだ。
「待て。まだ話は終わっていない」
アルトの足が止まる。
ゆっくりと振り向いた。
何も言わない。
ただ、父を見た。
ヴァルターの背筋に、冷たいものが走った。
怒っているわけではない。顔をしかめてもいない。歯を食いしばって威嚇しているわけでもない。
それなのに、その視線を受けた瞬間、ヴァルターは自分が何か危険なものに触れてしまったような感覚に襲われた。
戦場で敵の殺気を受けた時とも違う。相手が攻撃する意思を見せたなら、剣を抜き、距離を測り、次の動きを考えればいい。
今のアルトには、それがない。
敵意を示さず、言い返しもせず、ただ静かに見つめている。
だが、その静けさの奥に何があるのか、父には分からなかった。
息子の腕をつかんでいる自分の手が、妙に場違いなものに思えた。
「……父上?」
アルトが呼んだ。
その声に、ヴァルターははっとした。
何をしている。
相手は自分の息子ではないか。
それでも、つかんだ腕に力を込め直すことはできなかった。
指が緩む。
「……あ、いや」
言い直そうとして、声がうまく出なかった。
「話は……また今度でよい」
アルトは一度だけ頷いた。
「承知しました」
その返事も、驚くほど静かだった。
「それでは、私は捜索がありますので」
「あ、ああ……」
ヴァルターは、それ以上何も言えなかった。
アルトは一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音を聞いても、ヴァルターはすぐに動けなかった。
◇
「……先生」
しばらくして、ヴァルターはようやく声を出した。
「今のは、何だったのだ」
セリアは扉から視線を戻した。
「……以前から、アルト様には胸の熱や苦しさについてご相談を受けていました」
「以前から?」
「はい」
「ならば、あのようになることも知っていたのか」
「今日のような変化を、すべて予測できていたわけではありません」
ヴァルターは唇を結んだ。
知っていたことがあるなら、なぜ自分には伝えなかったのか。問いただしたい気持ちはあった。しかし、セリアが何を把握し、アルトと何を話していたかもまだ分からない。
「病なのか」
「今ここで、そう断定することはできません」
「では、危険はないのか」
セリアは答えるまでに少し間を置いた。
「……分からないことがあります。軽々しく安心だとは申し上げられません」
ヴァルターは大きく息を吐いた。
その返答を責めることはできない。分からないことを分かったと言われるよりは、よほどましだ。
だが、安心できる言葉が一つもない。
「先生。アルトに何が起きているのか、確かめてくれ」
「承知しました」
セリアはそう答えた。声に大きな変化はなかったが、その目はもう一度、閉じた扉へ向いた。
ヴァルターは自分の右手を見下ろした。
先ほどアルトの腕をつかんだ手だ。
あの時、息子は抵抗しなかった。怒鳴りもしなかった。ただこちらを見ただけだった。
なのに自分は手を放した。
命令を取り消した。
まだ聞くべきことが山ほどあったのに、問いを引っ込めてしまった。
国境で兵を率いる時、ヴァルターは恐怖を知らぬつもりでいたわけではない。恐怖があっても、必要な判断を下す。それが指揮官の務めだった。
だが、たった今、自分は何を恐れたのだろう。
あの目の奥に何があったのか、説明できない。
何より、その視線を向けてきたのが、幼い頃から知っている自分の息子だったことが、理解できなかった。
アルトの身に、何かが起きている。
単なる体調の異変ではない。先ほどまで苦しんでいた息子が、突然何事もなかったように落ち着きを取り戻した。だが、あの瞬間から、何かが決定的に変わってしまったように思える。
姿も声も、間違いなくアルトだった。それなのに、あの目だけは、自分の知る息子のものとは思えなかった。
「……アルト」
名前を呼んでも返事はない。
アランは行方不明のまま。エレナ王女の生死も確かめられない。アルトの報告の曖昧さも、今日の問いかけでは埋まらなかった。
ユリウスは、いずれ二人の息子のどちらかを選ばねばならなくなるかもしれないと言った。
ヴァルターは、その言葉を認めたくなかった。二人とも失いたくない。家の名誉を守るために、息子を切り捨てるような父にはなりたくない。
だが今は、それより手前のところで立ち尽くしている。
まだ目の前にいるはずの息子が、何を考え、何に苦しみ、なぜあのような目を向けたのかさえ分からない。
セリアは黙ったまま、扉を見ていた。
ヴァルターも同じ方へ目を向ける。
閉じた扉の向こうに、アルトの足音はもう聞こえなかった。
それでも、腕をつかんだ時の感触だけが、いつまでも右手に残っていた。
◇
研究室の扉を閉めたところで、セリアは足を止めた。
静かだった。
先ほどまで耳にしていた荒い息遣いも、苦しげに漏れる声も、ここまでは届かない。だが、目を閉じれば、アルトの姿はすぐに浮かんできた。
椅子に身体を預け、震える指を押さえようとしていた青年。父親の呼びかけに答えようとしながら、言葉を途切れさせていた青年。
そして、その直後。
まるで何事もなかったかのように、呼吸が整った。
「……あの変わり方は」
セリアは小さく呟き、机へ向かった。
医術を学んでいた頃から、苦しんでいた者が急に静かになる場面には慎重であろうとしてきた。苦痛が消えたことと、その原因が消えたことは同じではない。
今日のアルトは、ただ落ち着いたのではなかった。
目の前で起きた変化を思い返す。呼吸が乱れ、肩が震え、何かに抗うように目を見開いていた。ところが次の瞬間には、表情から苦悶ばかりか、それまで見えていた戸惑いまで消えていた。
ヴァルターは息子を呼び止めた。
その腕を掴んだ手が緩んだ瞬間も、セリアは見ていた。
公爵は息子の身を案じていた。けれど最後には、目の前にいるアルトをどう扱えばよいのか分からなくなったようだった。
同じ光景を見て、セリアの胸に残ったのは別の疑問だった。
なぜ、あれほど激しい苦しみが、あのように途切れたのか。
机の上には書き込みのある資料が重なり、棚には薬瓶や乾燥させた植物、鉱石が並んでいる。いつもなら見慣れた光景だったが、今は積み重なった書物の方へ自然と目が向いた。
ヴェルネシアから取り寄せた魔導書。
セリアはその一冊を引き寄せ、慎重に頁を開いた。
◇
アルトが最初に胸の熱を訴えた時、セリアはすぐに一つの答えを与えなかった。
エレナ王女のことを考えると苦しくなる。兄アランの名を聞くと、身体の奥が熱くなる。感情が高ぶった時には、自分でも説明できない力を感じる。
そうした訴えは、確かに魔力の発現を思わせた。
しかし、感情が激しくなることと、魔力が生じることの間に、どのような関係があるのか。まして、その力が本人の考え方にまで影響を及ぼすとしたら。
それを、症状だけで決めつけるわけにはいかなかった。
セリアは頁を繰った。
紙の擦れる乾いた音が響く。
魔力には、根源となる感情の違いがある。似た反応を示していても、そこへ至る感情が同じとは限らない。
まず確かめるべきは、アルトの中で何が最も強く動いているかだった。
セリアは一度、書物から顔を上げた。
彼が兄について語る時の声を思い出す。
表向きは穏やかだった。兄の立場を認め、自分の務めを果たそうとする青年の言葉にも聞こえた。
それなのに、ほんのわずかな間があった。
アランの名を口にする前。エレナの話へ移る時。何かを飲み込むように、アルトは言葉を選んでいた。
今日もそうだったのだろうか。
ヴァルターとの話のすべてを聞いたわけではない。セリアが目にしたのは、苦しみの頂点と、その後の変化だけだ。
知らない部分は、知らないまま残しておかなければならない。
そう考えて、彼女は別の書物を開いた。
「ネグレス……」
憎悪、怨恨、復讐心。
長く積み重なった憎しみが、やがて本人の判断を押しのけていく。精神への侵食を伴い、許すことや受け入れることから遠ざかっていく性質が記されていた。
セリアの指が一行の上で止まった。
アルトが兄に抱く感情には、怒りもあるだろう。少なくとも、兄の存在が彼を苦しめていることは疑いにくい。
だが、憎しみだけなのか。
アルトは兄の話をするたび、ただ相手を傷つけたいと訴えていたわけではない。兄が持つもの、自分には届かないものを意識していた。
セリアは頁の端に指を置いたまま考えた。
憎悪は、結果として生じているのかもしれない。けれど、それが最初の感情だとはまだ言えない。
書物を閉じ、次を開く。
「ヴェルザ」
欲望、渇望、貪欲。
欲しいものを求める心が強まり、手に入れることそのものが判断を支配していく。満たされるはずの欲求が満たされず、さらに多くを求める。
こちらの記述にも、思い当たるものがあった。
エレナ王女。
アルトが彼女を強く想っていることは、相談の中でも感じられた。手に入らない相手への執着が、心の均衡を崩していると考えることもできる。
しかし、セリアはすぐに首を縦には振らなかった。
もし求める相手がエレナだけなら、なぜ兄の存在がこれほど大きいのか。
アルトの話では、エレナを想う気持ちと、アランを意識する苦しみが、いつも近くにあった。
欲しい。
それだけではない。
なぜ兄にはあるのか。
なぜ自分にはないのか。
そこに、別の感情がある。
セリアはしばらく書物を見つめた後、ゆっくりと閉じた。
◇
最初から、気に掛かっていた名前がある。
ゼルヴァ。
以前アルトにその名を伝えた時にも、セリアは可能性の一つとして考えていた。嫉妬や羨望、劣等感、対抗心を根源とする魔力。
だが、似た感情が見られるというだけで、それと決めることはできなかった。
セリアは該当する記述を開いた。
比較する相手がいる。
その相手が、自分の求めるものを持っている。
追いつきたい。超えたい。自分も同じものを手に入れたい。
その思いが強くなるほど、感情は増幅し、理性による抑制を越えていく。
セリアはアルトの言葉を一つずつ思い返した。
兄は自分より剣が強い。
兄は騎士団長になった。
エレナ王女が想う相手も兄だった。
その一つ一つが、彼の中で切り離せないものになっていた。
単に王女を恋い慕っているだけではない。単に兄を憎んでいるだけでもない。
兄という存在を通して、自分自身の足りないものを見続けている。
「……そういうこと」
呟いてから、セリアはすぐに先の頁へ目を移した。
まだ説明のつかないことが残っている。
胸の熱。
突然の苦しみ。
感情の高まりに伴う変化。
そして、今日のあの静けさ。
頁をめくる手が止まった。
そこには、精神への影響が記されていた。
感情が理性を押しのける。自分を抑えようとする意識が弱まり、本来の人格が次第に抑圧されていく。
さらに読み進める。
激しい苦痛と錯乱の後、突然、心が穏やかになったように見えることがある。
セリアはその行をもう一度読んだ。
先ほどのアルトの顔が、鮮明に蘇る。
震えていた指。
荒い呼吸。
必死に何かを抑えようとする目。
それが、一瞬で消えた。
苦しみから解放された者の安堵ではなかった。
少なくとも、セリアにはそう見えなかった。
ヴァルターが呼び止めた時、アルトは言い争わなかった。声を荒らげることもなく、ただ父親を見返した。
その沈黙に、公爵は言葉を引っ込めた。
あれほど強く息子を問いただしていた人物が、最後には自ら話を終えたのだ。
セリアは書物へ視線を戻す。
静けさは、理性が戻った証拠とは限らない。
むしろ、抵抗していた理性の方が押し込められたとしたら。
胸の奥で、これまで別々に考えていた出来事がつながっていく。
アルトは以前、自分の中にある力を制御できるようになったと思っていた。
しかし今日、彼は再び苦しんだ。
抑えようとしても抑えられない。そして、抵抗する姿が消えた。
それを回復と呼んでよいのか。
セリアは頁を押さえる指に、わずかに力を込めた。
感情が一線を越えるたび、侵食は深まる。
書物にあるその記述は、単に力が強くなることを意味していなかった。使用者の内面で、感情と理性の釣り合いそのものが変わっていく。
何かを手に入れたように見える一方で、別の何かを失っているのかもしれない。
では、アルトは今日、何を失ったのだろう。
そこまでは分からなかった。
彼が今どこまで自分の意思を保っているのかも、次に同じことが起きた時どうなるのかも、書物の記述だけでは確かめられない。
それでも、一つだけ、もう以前と同じようには考えられなかった。
◇
セリアは開いた頁を前に、長い間動かなかった。
ネグレスにも、ヴェルザにも、重なる特徴はあった。
だが、アルトの感情が向かう先と、その力が彼自身へ及ぼしている変化を一つにつなげるのは、目の前の記述だった。
初めて彼が相談に来た時には、まだ判断する材料が足りなかった。
その後も、胸の熱と感情の変化について聞くたび、可能性は強まっていた。
今日、初めて目の前で見たのは、感情が本人を押しのけるように変わっていく瞬間だった。
そして何より、その後に訪れた平静。
あれが決め手だった。
「……ゼルヴァ」
セリアは静かに名を口にした。
驚きはなかった。
代わりに、長く曖昧だった輪郭がようやく定まったような感覚があった。
アルトに起きている異変は、ゼルヴァの侵食によるものだ。
彼女の中では、もはや単なる候補の一つではなかった。
だが、確信できたことはそれだけでもある。
魔力がどこまで彼を変えるのか。元の状態へ戻せるのか。あの穏やかな表情の奥に、アルト自身の意思がどれほど残っているのか。
どの問いにも、まだ答えはなかった。
セリアは閉じかけた書物をもう一度開き、先ほどの記述を確かめた。
読み違えてはいない。
指を離しても、その一行からしばらく目が離れなかった。
ヴァルターの険しい顔が浮かぶ。
公爵が求めていたのは、息子に何が起きているのかという説明だった。
その問いに、今なら以前より踏み込んだ言葉を返せる。
しかし、名称を示すことと、アルトの身に起きるすべてを説明できることは違う。
セリアはゆっくりと書物を閉じた。
机の上には、まだ調べるべき資料が積まれている。
彼女はそれを見渡した。
先ほどまでの疑問は、一つの答えを得たことで消えたわけではなかった。
むしろ、何を確かめるべきなのかが、ようやくはっきりしてきた。
セリアの目が、机の端に置かれた紙へ向く。
少しの間、そのまま考えた。
やがて、手元の書物を脇へ寄せ、紙を一枚広げた。
筆を取る。
しかし、すぐには動かさなかった。
アルトが最後に見せた、あの穏やかな顔が脳裏に浮かぶ。
セリアは一度だけ深く息をついた。
この手紙を、誰にでも送れるわけではない。
そして、書き記す言葉も慎重に選ばなければならなかった。
しばらく白い紙を見つめた後、セリアは静かに筆先を下ろした。
さらさらと、小さな音が響き始める。
研究室には、紙の上を走る筆の音だけが残っていた。




