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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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第18話 静かなる包囲網

 王国の行く末を決めるのは、必ずしも王冠を戴く者だけではない。


 王都ローディスの高台に王城がそびえる一方、その周囲に屋敷を構える貴族たちもまた、毎月の王都会議を見据えて動いていた。


 カルゼリア王国は王政民主主義を掲げている。国王が国家の頂点に立ち、六貴族家がそれぞれの担当分野から地方の声を集め、国政の議題を提出する。会議では王族の資格と爵位に応じて議決票が与えられ、国王の意向が必ずしもそのまま決議になるわけではなかった。


 軍事と国防を担うフォルディス公爵家。司法と王国法を扱うヴァルディア侯爵家。財政と徴税を握るレグナート伯爵家。地方統治を調整するグランツ侯爵家。外交と交易を受け持つベルフォード伯爵家。そして情報、記録、王都行政を担当するクロイツ子爵家。


 それぞれの机には、王国各地から届く報告が積まれている。


 街道の補修を求める声もあれば、交易の負担を軽くしてほしいという訴えもある。国境の防衛を強めるための予算を欲する者がいれば、その財源を別の用途へ回したい者もいた。


 議題の名目は、いずれも王国のため。


 しかし、王国のためになることと、自分たちの家に利益をもたらすことは、必ずしも同じではない。むしろ両者を巧みに重ね合わせることこそ、貴族たちの腕の見せどころだった。


 その日のクロイツ家の執務室にも、数通の報告書が広げられていた。情報分野を担うクロイツ家に集まる情報は他の貴族の情報量を遥かに越える。


 窓から差し込む午後の光が、机の端に置かれた眼鏡の細い金属縁を照らしている。


 ユリウス・クロイツは椅子に深くもたれず、背筋を伸ばして書面を読んでいた。ダークアッシュグレーの髪を整えた三十七歳の子爵は、頁をめくる動きにも無駄がない。


 最初の書類には、エレナ王女死亡の公的発表について。


 次には、アラン・フォルディスの所在がいまだ確認されていないという報告。


 さらに、騎士団長代理アルト・フォルディスの名が記された文書。


 ユリウスはそれらを読み終えても、すぐには重ねなかった。


 紙に記されている事実は限られている。報告をした者の判断が正しいかどうかも、現時点では確かめようがない。だが、報告を受け取った人々が何を信じ、どう動くかは別の問題だった。


 机の一角には国境情勢に関する報告もあった。


 彼はその紙を一度見て、ほかの書類から少し離して置く。


 窓の外では、遠くの王城の塔が穏やかな空の下に立っていた。


 エレナ王女を失ったと伝えられた王国。騎士団長が戻らないまま、弟がその職務を代行している騎士団。そして、軍を統べる公爵家。


 ユリウスは紙の端を指で揃えた。


「……そろそろ、外堀を埋めていきますか」


 誰に聞かせるでもない声だった。


 灰青色の瞳が、最後にフォルディス家の名へ止まる。


 その口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。


 ◇


 フォルディス家の応接室は、華美な装飾を競うような部屋ではなかった。


 重厚な木製の家具と、手入れの行き届いた調度品。壁面には余計な飾りが少なく、客を迎えるための椅子と卓が、ゆとりを持って置かれている。


 ヴァルター・フォルディスは、向かいの席に腰を下ろした客を見ていた。


 クロイツ子爵家当主、ユリウス。


 王都会議で顔を合わせる相手ではある。だが、事前にこうして屋敷を訪ねてくるとなれば、単なる挨拶では済まないだろう。


 卓には茶が用意されていた。湯気が薄く立ち上る間も、ユリウスは急いで口を開こうとしない。


 ヴァルターの方から沈黙を破った。


「クロイツ子爵。今日は何の用だ」


「来月の王都会議で、事前にお耳に入れたい議題がございます」


「議題なら会議の場で聞けばよかろう」


「もちろんです。ただ、フォルディス公爵家のご意向が、今後の王国に大きく関わると考えまして」


 ユリウスは茶器へ視線を落とし、それから穏やかに顔を上げた。


「王家の後継についてです」


 ヴァルターの眉が動く。


「……エレナ殿下の件か」


「はい。王女殿下がお亡くなりになったとの発表を受け、次の王都会議で新たな王妃候補を募る提案が出る可能性があります」


「何だと?」


 低い声が応接室に響いた。


 ヴァルターは背もたれから身を起こす。


「まだ殿下の件も片付いておらんというのに、陛下に新たな妃を迎えろと言うつもりか」


「王統を維持することも、国家にとって重要な問題ですから」


「そんな理屈は分かっている。だが、娘を失った父親に向かって、次の子をもうけろと迫るのか」


 ユリウスはすぐには返さなかった。


 ヴァルターにとって、レオルドは単なる議決権を持つ国王ではない。王家を支える者として接してきた相手だ。エレナの死が報じられてから日も浅い。悲しみが癒える前に再婚の話を持ち込むことに、強い抵抗があった。


「陛下ご自身は、反対される可能性が高いでしょう」


「当然だ」


「しかし、ほかの貴族家が同じように考えるとは限りません」


「……どういう意味だ」


「娘を王妃候補として送り出せる家にとって、王家との縁組は大きな意味を持ちます。王国の将来を案じるという名目も立ちますし、家の地位を高める機会にもなるでしょう」


 ヴァルターは不快そうに口を結んだ。


 ユリウスの言うことは、貴族社会では珍しい話ではない。王家との婚姻は家の名誉だけでなく、政治的な発言力にも影響する。表立って喜ぶ者はいなくとも、内心で機会をうかがう家があってもおかしくはなかった。


「貴族どもが皆、賛成するとでも?」


「皆とまでは申しません。ただ、賛成に傾く家は少なくないと見ています」


「クロイツ家には娘がおらんだろう。お前に何の得がある」


「その点では、フォルディス家も同じではありませんか」


 ヴァルターは答えなかった。


「我が家も、王妃候補として差し出せる娘はおりません。したがって縁組による直接の利益はない。公爵閣下のお立場も、私にはよく分かります」


「ならば反対するのだな」


「ええ。そのつもりです」


 意外なほどあっさりとした返答だった。


 ヴァルターは相手を見据えた。


 クロイツ家の議決票は三票。フォルディス家の六票と国王の十票を合わせれば十九票になる。残る四貴族家の票は合計十八票。全員が票を投じ、ほかに議決権者がいないという前提なら、クロイツ家の態度は結果を左右し得る。


 ただし、その三票が無条件でこちらへ来るとは思えなかった。


「……何を求めている」


 ユリウスは静かに茶器を置いた。


「一つ、別の議題についてご賛同をいただければと」


「言ってみろ」


「アラン・フォルディス殿の手配についてです」


 その名が出た瞬間、ヴァルターの顔つきが変わった。


「アランの何をどうする」


「現在は身柄を確保し、事情を確認するための命令が出ております。しかし王女殿下の重大事件で護衛責任者が帰還せず、報告も果たされていない。国家重大犯罪の疑いについて、より厳格な手配と審議を求める議題を提出したいのです」


「息子を重罪人にしろと言うのか」


「判決を先に下すのではありません。責任を問う手続きを進めるのです」


「言葉を変えたところで同じことだ!」


 ヴァルターの手が卓に置かれた。茶器が小さく鳴る。


「アランが何をしたのか、何が起きたのかも分かっておらん。王女殿下の護衛に失敗したというだけで、重罪の疑いをかけることに賛成できるものか」


「護衛の失敗だけで罪を断定できないことは承知しております」


「ならば、なぜそんな議題を持ち出す」


「国がいつまでも、何の判断も示さずにいるわけにはいきません」


「私は反対だ」


 ヴァルターは即答した。


 ユリウスは眉一つ動かさなかった。


「そうですか。残念です」


 その声には、失望した様子さえなかった。


「でしたら、王妃候補募集の議題についても、改めて私は賛成を検討する必要がありそうですね」


「……お前」


「王国の後継問題を放置するわけにも参りませんので」


 ヴァルターは奥歯を噛みしめた。


 自分が反対する議題に賛成するぞ、と言っている。それも、あくまで王国のためという顔で。


 相手の三票が動けば、先ほどまで考えていた票の均衡が崩れる。王が反対しても、ほかの貴族たちがどのように動くか分からない。決議の行方を、今ここで軽々しく見積もることはできなかった。


「息子を差し出せば、陛下を守ってやると言いたいのか」


「そのようなつもりはありません。どちらも王国にとって重要な議題です。閣下と協力できるのであれば、それが望ましいと申し上げているのです」


「よく言う」


 ユリウスは反論しなかった。


 ただ、灰青色の視線がわずかに鋭くなった。


「では、起こり得る結果を四つに分けて考えましょう」


 ◇

「第一に、エレナ王女殿下が本当に亡くなられていた場合です」


 ユリウスは指を一本立てた。


「王国の発表は正しかったことになります。しかし、護衛責任者であるアラン殿は帰還しておらず、正式な報告もありません。なぜ殿下を守れなかったのか、なぜ戻らないのか。その責任を問う声は強まるでしょう」


「アランが逃げたと決まったわけではない」


「もちろんです。負傷して動けない可能性も、何らかの事情で帰還できない可能性もあります。ですが、それを確認するためにも本人が必要なのですが、戻らない期間があまりに長いと国は何をしていたのかという庶民からの不満の種を増やします」


 ユリウスは続けた。


「さらに、アルト殿の報告やその後の対応に問題があれば、そちらも問われます。フォルディス家の騎士団が王女を守れなかったという印象は、容易には消えないでしょう。最悪、山賊程度に敗れる騎士団と思われれば、山賊でも王都を落とせると勘違いして反乱因子を生むことになります」


「何を大げさな。それに、王女殿下が亡くなられたという前提で、家の評判を論じるな」


「前提を分けて考えているだけです」


「事実も分からぬうちに罪を決めるな」


「罪ではなく、起こり得る責任の話をしております」


 ヴァルターは茶に手を伸ばさなかった。


 王国の軍を預かる以上、責任から逃れるつもりはない。だが、その責任をどこまで問われるべきかは、何が起きたかによって変わるはずだった。


 ユリウスの話には、その肝心な部分が欠けている。


 欠けていることを承知で、なお逃げ道を塞ごうとしているように思えた。


「第二に、王女殿下が生きておられ、王国側が無事に発見した場合です」


 ヴァルターは思わず顔を上げた。


「……生きておられるなら、それでよいではないか」


「ええ。王女殿下の無事は、何より喜ばしいことです」


 ユリウスは少し間を置く。


「ですが、王国が誤った死亡情報を公表した経緯を、民が問わずに済ませるでしょうか」


 ヴァルターの表情が曇った。


「アルト殿は、なぜ王女殿下が亡くなられたと報告したのか。誤認だったのか、何かを見落としたのか、それとも故意だったのか。調べる必要があります」


「故意だと決めつけるな」


「決めつけてはおりません。故意の虚偽と立証されれば重い罪になり得る、ということです」


 ユリウスは落ち着いた口調のまま、さらに言葉を重ねる。


「そして、アラン殿が生存していた場合、なぜ王都へ戻らずにいたのかという疑問が残ります。王女殿下の無事が確認されても、騎士団の説明責任まで消えるわけではありません」


「王女を守っていたのかもしれんだろう」


「その可能性もあります。ならばなおさら、なぜ報告が届かないのでしょう」


 ヴァルターは返事を探した。


 アランなら、王族の護衛責任を軽んじることはない。息子が職務を放棄して姿を消したなど、父としても軍を率いる者としても信じがたい。


 だが、信じがたいというだけでは、王都会議の席で誰も納得させられない。


「私は、アランを信じている」


 ようやく出た言葉に、ユリウスは静かにうなずいた。


「父親として、当然のことと存じます」


 その返答が、ヴァルターにはかえって腹立たしかった。


 信じる気持ちを否定されてはいない。けれど、それが国政を動かす根拠にはならないと、遠回しに言われた気がした。


「第三の場合は、少し事情が異なります」


「……まだあるのか」


「王女殿下が生きておられ、王都へ戻る意思をお持ちだったとしましょう」


 ユリウスは卓上の茶器に目を落とした。


「ところが、帰還される前に、ご自身が死亡したという王国の発表を耳にされたら?」


 ヴァルターは黙った。


「殿下はどうお考えになるでしょう。自分は生きている。それなのに国は死んだと告げている。誰かが誤った報告をしたのか、それとも偽りと知りながら発表した者がいるのか。疑われても不思議ではありません」


「単なる行き違いだと考えることもできる」


「もちろんです。ただ、山賊に襲われた直後の方が、そこまで楽観的に受け取れるでしょうか」


 ユリウスの声は低くも高くもならない。


「もし王都の中に危険があると考えられたなら、帰還をためらわれるかもしれません。戻ること自体が、ご自身の命を危険にさらすと思われる可能性もある」


 ヴァルターは目を伏せた。


 王女殿下は、王都で守られるべき方だ。その王都を、帰れない場所だと考える。


 そんなことが起きているとしたら、王国にとって何という失態だろう。


「……だが、仮定に過ぎん」


「おっしゃるとおりです」


 ユリウスは容易に認めた。


「ただ、その後に殿下が帰還され、ご自身の言葉で経緯を語られたなら、死亡報告をめぐる疑問は避けられません。誰が何を報告し、誰がそれを公表し、護衛責任者はその間何をしていたのか。すべて問われるでしょう」


「王女殿下が生きておられるなら、まずは喜ぶべきだ」


「私もそう思います。ですが、喜ぶことと、責任を調べることは両立します」


 その言葉にヴァルターは反論できなかった。


 もし生きているなら、今すぐ戻ってきてほしい。


 アランも、エレナも。


 けれど、帰還を望む自分たちの側にこそ、二人を遠ざける理由があるのだとしたら。


 ヴァルターは卓の木目を見つめた。


「……第四は何だ」


 ユリウスは、そこで初めてわずかに姿勢を正した。


「そして、最も厄介なのが第四の場合です」


 ヴァルターは顔を上げる。


「第三の場合に加え、王女殿下とアラン殿が、共に生きて帰還された場合です」


「それのどこが最悪なのだ。二人とも生きて戻るなら、それ以上のことはなかろう」


「命の話としては、まったくそのとおりです」


 ユリウスは否定しない。


「しかし、王女殿下とアラン殿は婚約者でいらっしゃると伺っています。二人が共に帰還し、王女殿下が自ら当時の出来事を証言されたなら、アラン殿の言葉にも、これまでとは違う重みが生まれます」


「何を言いたい」


「王女殿下が生存していた事実が確認されれば、死亡報告が誤っていたことは明白です。では、その報告をしたのは誰か」


 ヴァルターの喉が小さく動いた。


 ユリウスは答えを急がない。


「……アルトか」


「はい。現在、騎士団長代理を務めておられるアルト殿です」


 ヴァルターの目が険しくなる。


「アルトは、兄が不在になったために職務を引き受けただけだ」


「その説明は成り立ちます。ですが、人々がその順序をどう受け取るかは、また別の話でしょう」


 ユリウスは指先を揃えた。


「王女殿下が亡くなられたとの報告があり、騎士団長が戻らず、その弟が団長代理となった。もし報告が虚偽だったと判明すれば、誰もが考えます。弟は兄の地位を得るために、偽りを告げたのではないか、と」


「そのような噂を広めるつもりか!」


「私は噂の危険性を申し上げているのです」


「お前が口にしたのだぞ」


「この場で、閣下にだけです」


 ヴァルターは言葉を詰まらせた。


 確かに、この部屋には二人しかいない。ユリウスは世間に広めたとは言っていない。


 だが、彼が今示した筋道は、あまりにも分かりやすかった。


 人は複雑な真相より、理解しやすい疑惑を好むことがある。兄の不在。弟の昇進。誤った死亡報告。その三つを並べるだけで、事情を知らない者には一つの物語に見えてしまう。


「故意の虚偽と立証されれば、アルト殿は重大な責任を問われるでしょう」


「まだ何一つ立証されておらん」


「そのとおりです。ですが、現役の騎士団長代理が疑惑の中心となれば、騎士団の指揮そのものにも影響します」


 ユリウスは少しだけ微笑んだ。


「幸い、私は情報を扱う立場におります」


 ヴァルターはその顔を見た。


 助けられる、と言っているのか。


 それとも、情報がどこへ流れるかを知っている、と示しているのか。


 どちらとも取れる言葉だった。


「……お前は、自分が何を言っているか分かっているのか」


「もちろんです。だからこそ、こうして事前にお話ししております」


 ヴァルターの胸の奥に、冷たいものが沈んだ。


 ユリウスは四つの未来を示した。


 だが、そのどれを選んでも、フォルディス家は傷つくように話が組み立てられている。


 王女が死んでいても、生きていても。


 アランが戻っても、戻らなくても。


 父としては二人の無事を願うだけなのに、家の当主としてはその帰還さえ恐れるよう仕向けられている。


 ヴァルターは、ゆっくりと息を吐いた。


「アルトを団長に推したのは、お前だろう、ユリウス」


 初めて、相手を名で呼んだ。


「騎士団長代理にアルトを据える判断を支持したのは、お前だったはずだ。報告が偽りだったなら、お前にも責任がある」


「騎士団長不在の報告を受け、軍の空白を避けるために最善と思われる判断を支持したまでです」


「最善だと?」


「当時、アラン殿の所在は分からず、王女殿下の件で騎士団は混乱しておりました。誰かが職務を代行しなければ、日々の指揮にも支障が出ます」


「だから弟を選んだと」


「アルト殿を支持することに合理性があると判断しました。ですが、報告の真偽まで私が知る立場ではありませんでした」


 ユリウスは一度だけ瞬きをした。


「虚偽であれば、むしろ私も欺かれた側です」


「……都合のよい話だな」


「事実が明らかになれば、必要な説明はいたします」


 ヴァルターは相手を睨んだ。


 だが、ユリウスの言葉には、今ここで崩せる明白な矛盾がない。


 実際に騎士団長が不在であったことは事実だ。代理が必要だったことも否定しにくい。そして、ユリウスが何を知っていたかは、ヴァルターにも分からない。


 責任を追及したつもりが、いつの間にか証明する側に回されている。


 それが腹立たしかった。


 それ以上に、アランとアルトの間に何かったのでは?真実を知ったときにどちらを信じればよいのか、自分の中でも答えが出ていないことが苦しかった。


 ◇

「……一つ、答えろ」


 ヴァルターは、しばらくしてから口を開いた。


「なぜそこまでアランを重罪人として手配したがる」


 ユリウスは答える前に、卓の茶へ目を向けた。すでに湯気は消えていた。


「理由は申し上げたつもりですが」


「王国のため、という言葉ならもう聞いた。なぜアランなのだ。身柄を確保する命令はすでに出ている。事情を聞く前から重大犯罪の疑いを強める必要が、どこにある」


「捜索が難航しております」


 ユリウスは淡々と答えた。


「王女殿下は亡くなられたと発表され、護衛責任者のアラン殿は姿を見せない。騎士団は捜索を続けていますが、目立った成果がない。この状態が続けば、民は何を思うでしょう」


「騎士団が無能だと思う、と言いたいのか」


「少なくとも、説明を求める声は増えるでしょう。王族を守るはずの騎士団が、その王族を失い、責任者の所在すら把握できない。これは軍の信用に関わります」


「だから、息子に重罪の疑いをかけてでも、騎士団の体面を守れと?」


「体面だけの問題ではありません。国の軍が信頼されなくなれば、命令の伝達にも、人員の統率にも影響します。国民が王国の守りを疑うことは、国防上の不利益です」


「その理屈なら、まず事実を調べるべきだ」


「ええ。だからこそ、厳格な審議を求めているのです」


 ヴァルターは首を振った。


「お前は言葉を巧みに使う。だが、重罪の疑いを公にすれば、アランが犯人だと受け取る者も出る。手続きだと言っても、その影響は消えん」


「その危険は承知しております」


「承知していて、なおやると言うのか」


「何も進展しないまま放置する危険と、比較する必要があります」


 また比較か。


 ヴァルターは口を閉じた。


 この男は、こちらが一つの不利益を指摘すると、必ず別の不利益を差し出す。どちらかを選べと言われれば、選ばなかった方の責任まで負わされるような気がした。


 王女が亡くなったという報道。帰還しないアラン。騎士団長代理となったアルト。


 それらを思い返したとき、別の記憶が浮かんだ。


「……待て」


 ユリウスが顔を上げる。


「以前、お前は約束したはずだな」


「何についてでしょう」


「王女殿下が生きて戻られ、国の発表が誤りだったと明らかになった場合のことだ」


 ヴァルターは相手の目を見た。


「そのときは、お前が貴族を辞めるのだったな」


 言い終えると、胸のつかえが少し下りた。


 ユリウスがどれほど巧妙に言葉を重ねても、自らの立場を賭けた約束までは消せない。王女が帰還すれば、この男も無傷では済まないはずだ。


 ヴァルターは、わずかに顎を上げた。


 ところが。


「もちろん。約束は守ります」


 ユリウスは即答した。


「……何?」


「私がその条件でお約束したのであれば、責任を取ります。貴族の地位を失うことになっても、受け入れましょう」


 迷いも、言い逃れもなかった。


 ヴァルターはしばらく相手の顔を見つめた。


 覚悟を決めた者の表情にも見える。だが、目の前の男が本当に何を覚悟しているのかは、少しも読み取れなかった。


「随分と簡単に言う」


「守れない約束なら、初めからいたしません」


「子爵の地位を捨てることになるのだぞ」


「承知しております」


 ヴァルターの指が、膝の上で強く握られた。


 自分が切り札だと思った言葉を、この男はまるで普通の確認事項のように受け止めている。


 ユリウスは声を少し落とした。


「ただし、その頃のフォルディス家は、今よりもはるかに混乱しているでしょう」


「……何だと」


「王女殿下が生きておられ、アラン殿も帰還する。そのとき王国の発表が誤りだったと分かれば、当然、調査が始まります」


「それは分かっている」


「誰が最初に報告したのか。誰がその内容を確認したのか。誰が公表を進めたのか。そして、その間に誰が利益を得たのか」


 ユリウスは言葉を一つずつ置いた。


「もっとも、犯人捜しで疑われる人物はすでに見えておりますが」


「……アルトのことを言っているのか」


「私は名を挙げておりません」


「ならば、誰のことだ」


「それを明らかにするのが、調査ではありませんか」


 ヴァルターは不快そうに眉を寄せた。


 ユリウスはその表情を見ても、少しも態度を変えなかった。


「ただ、閣下。一つだけ、覚悟しておかれた方がよろしいことがございます」


「……何だ」


「王女殿下の生死が明らかになったとき、閣下はアラン殿とアルト殿、そのどちらを守るのか、選ばなければならなくなるかもしれません」


 ヴァルターの表情が強張った。


「何を馬鹿なことを。二人とも私の息子だぞ」


「存じております。ですが、父親としての願いと、フォルディス公爵家当主として下さねばならない判断が、常に一致するとは限りません」


「……どういう意味だ」


「王女殿下が亡くなられていたなら、護衛責任者であるアラン殿の責任が問われます。一方、生きておられたなら、死亡を報告したアルト殿の責任が問われるでしょう。いずれも、事実関係が明らかになればの話ですが」


 ユリウスは一度言葉を切った。


「そして、王女殿下とアラン殿が共に帰還された場合は、さらに難しいことになります」


「……何がだ」


「お二人は婚約者でいらっしゃいます。いずれご結婚されれば、セレディス王家とフォルディス家の結びつきは、これまで以上に強固なものとなるでしょう」


 ヴァルターは黙って聞いていた。


 それは、かつて自分も思い描いていた未来だった。


 アランがエレナ王女を娶り、王家とフォルディス家がより深い信頼で結ばれる。王国を支える家として、これ以上望ましい縁組はない。


 だが、ユリウスの次の言葉は、その未来に冷たい影を落とした。


「しかし、そのとき騎士団長の座にいるのが、王女殿下の死亡を誤って報告したアルト殿だとしたら、どうでしょう」


「…………」


「王女殿下がアラン殿と共に帰還し、アルト殿の報告が偽りだったと証明された場合、閣下はどちらの息子の言葉を信じられますか?」


 ヴァルターは答えなかった。


「アラン殿を信じれば、アルト殿の責任を追及せねばならない。アルト殿を庇えば、今度はアラン殿と王女殿下の証言に疑いを向けることになります」


「……それは、まだ何も決まっておらん」


「ええ。だからこそ、今のうちに申し上げているのです」


 ユリウスの声は穏やかだった。


「閣下が望まれていた王家との縁組も、そのときにはフォルディス家を守るものではなく、むしろ家の内部に深い亀裂を生むものとなりかねません」


「……ユリウス」


 ヴァルターの低い声が響く。


 だが、ユリウスは視線を逸らさなかった。


「父親としては、どちらも失いたくない。当然のお気持ちでしょう。しかし、公爵閣下としては、王国の前でどちらの責任を問うべきか、判断を迫られることになる」


 そして、最後の一言を静かに告げた。


「王女殿下が生きて戻られることと、フォルディス家が救われることは、必ずしも同じではないのですよ、閣下」


 ヴァルターは返す言葉を失った。


 ユリウスはそれ以上、何も言わなかった。


 目の前の男が何を選ぶのか。その答えを今、聞く必要はない。


 ただ一つ、ヴァルターには分かったことがあった。


 自分が長年守ってきた王家への忠誠と、二人の息子への思い。


 その両方を守れると信じていた未来が、いつの間にか、ひどく危ういものになっていた。


 この男は、答えを口にしない。相手に答えを考えさせる。そして考えれば考えるほど、最悪の可能性が浮かぶ。


 アルトが誤った報告をしたのなら、なぜなのか。アランが生きているのなら、なぜ戻らないのか。王女の死亡情報が誤りだったなら、その報告はどこで間違えられたのか。


 どれも、父として確かめたいことだった。


 だが、家の当主として公の場で問われることを考えると、胸が重くなる。


 ユリウスはそんなヴァルターの沈黙を急かさなかった。


 やがて、まるで別の話題を思い出したかのように口を開く。


「ところで、ヴァルゼディアは、今も緊迫していると聞きます」


 ヴァルターの視線が鋭くなった。


「……なぜそれを知っている」


 ユリウスは答えを急がない。


「オルディネアが動くのも、時間の問題ではありませんか」


「誰から聞いた」


「情報を集めるのが、我が家の役目ですので」


「そんな答えで済むと思うか」


「失礼しました。ただ、国境に関する懸念を申し上げたかったのです」


 ヴァルターは相手を見据えた。


 ヴァルゼディアはフォルディス家が守る国境の要衝だ。共和国との緊張は、軍を預かる自分にとって決して軽い話ではない。


 だが、具体的な情勢をどこまでユリウスが知っているのか。情報の出所を問い詰めても、相手は明かさないだろう。


「……国境の話を、なぜ今する」


「王国の軍が信用を失うことの危険性をお話ししたからです」


「アランの手配と、戦争の話を同じものとして扱う気か」


「同じではありません。ただ、無関係でもありません」


 ユリウスは、ここで初めて卓上に置いていた両手を組んだ。


「戦争に勝つには、兵力だけでは足りません。情報が要ります。敵が何を考え、どこに兵を集め、どの道から動こうとしているのか。それを知らずに軍を動かせば、優れた指揮官でも苦戦を強いられます」


「それは軍を預かる私に説くまでもない」


「もちろんです。だからこそ、閣下と協力したいのです」


 ヴァルターの目が細くなる。


「……協力?」


「軍部と情報部が密接に連携しなければ、勝てる戦も落としかねません」


「今でも必要な情報は受け取っている」


「十分でしょうか」


 短い問いだった。


 ヴァルターは返事をしなかった。


 情報は多ければよいというものではない。誤った報告は軍を誤った場所へ動かす。遅れた情報は、正確であっても役に立たないことがある。


 国境の緊張が高まっているなら、判断を下すまでの時間は短くなる。


 軍の指揮権を守ることと、情報の協力を拒むことは別だ。


 ヴァルターには、それが分かっていた。


「つまり、お前は軍にも口を出したいのか」


「国のために、互いの力を生かしたいのです」


「質問に答えておらん」


「軍事の専門家は閣下です。私が剣を振るうわけではありません。ただ、判断に必要な情報をお届けすることはできます」


「その情報を、誰が選ぶ」


 ユリウスはわずかに口元を緩めた。


「それも含め、協力の形を考える必要があるでしょう」


 ヴァルターは背もたれに身を預けた。


 ようやく見えてきた。


 この男が欲しているのは、単に王都会議での一票や、アランの扱いについての賛同だけではない。


 クロイツ家は情報を持っている。フォルディス家は軍を動かせる。


 情報が軍の判断を左右するなら、その情報を握る者は、軍の行動にも影響を及ぼせる。


 それがユリウスの望む協力なのだろう。

「……随分と大きな話になったな」


「王国を守るという点では、最初から同じ話をしております」


「王妃候補の話から始めておいて、よく言えるものだ」


「お話しする順番には、配慮したつもりですが」


 ヴァルターは鼻で笑った。


 ここへ来て初めて、ユリウスの言葉に小さな皮肉を返す余裕が生まれた。


 だが、笑いは長く続かなかった。


 情報を軍に取り込めば、国境で役に立つかもしれない。自分が知らない動きを知ることができるなら、守れる兵も、守れる土地もあるだろう。


 その利益は確かに存在する。


 一方で、その情報が意図的に選ばれていたらどうなる。


 誰かが知らせたいことだけを知らされ、知らせたくないことを伏せられたら。


 軍の指揮を握っているつもりでも、判断の前提を他人に握られることになる。


 ヴァルターは、眼鏡の奥の灰青色の瞳を見つめた。


「お前の話には、いつも肝心なところが残っている」


「そうでしょうか」


「今日もそうだ。アランを重罪の疑いで手配したいと言いながら、なぜそこまで急ぐのかは明かさない。国境の情報を持っていると言いながら、どこまで知っているのかは教えない」


 ユリウスは口を挟まなかった。


「そのうえで協力しろと言う。私が簡単に応じると思ったか」


「簡単なお話でないことは承知しております」


 ユリウスは静かにうなずいた。


「ですが、閣下。一つだけ申し上げておきたいことがございます」


「……何だ」


「情報には、鮮度というものがあります。どれほど正確な情報であっても、届くのが遅ければ、その価値は大きく損なわれます」


 ヴァルターは黙って聞いていた。


「新しい情報をいち早く集め、事実を整理する。それによって、我々はより早く判断を下すことができます。人に与えられた時間は有限です。まして国家を動かす者に、いつまでも答えを待つ余裕はございません」


 ユリウスは一度言葉を切った。


「もちろん、早ければよいというものではありません。確認できた事実と、まだ確かめられていない情報を分け、複数の可能性を検討する。そのうえで最悪の事態を避けるために、いつ、何を決断すべきかを見極めるのです」


「……だからアランを重罪人として手配しろと言うのか」


「罪を確定させろと申し上げているのではありません。国家として、重大な疑いに向き合う姿勢を示すべきだと考えているのです」


 ユリウスの声は、少しも揺らがなかった。


「仮に、後日アラン殿の重大な罪が明らかになったとしましょう。そのとき民は何を思うでしょうか。なぜ王国は、もっと早く厳格な手配に踏み切らなかったのか。なぜ騎士団長の不在を、いつまでも曖昧にしていたのか、と」


「…………」


「判断を誤れば、当然責任を問われます。しかし、判断を先延ばしにした結果、取り返しのつかない事態を招いたとしても、我々は責任を免れません」


 ユリウスはヴァルターの目をまっすぐに見た。


「国家への不信は、やがて国家を動かす我々への不信となります。王家も、貴族も、騎士団も、その例外ではありません」


 ヴァルターは腕を組んだ。


 言っていること自体は間違っていない。軍を率いる自分も、情報の遅れがどれほど重大な結果を招くかは知っている。


 だが、ユリウスの理屈には、一つだけ引っかかるものがあった。


「……もし、アランに罪がなかったらどうする」


「そのときは、潔白を明らかにすればよいのです」


「重罪の疑いをかけられた者の名誉が、それだけで元に戻ると思うか?」


 ユリウスはわずかに目を細めた。


「いいえ。ですからこそ、調査は慎重でなければなりません」


「慎重であれと言いながら、急げと言う。随分と都合のよい話だな」


「慎重であることと、決断を遅らせることは違います」


 即座に返された言葉に、ヴァルターは眉を寄せた。


 ユリウスは穏やかな表情のまま続けた。


「情報を持つ者の責任は、真実が明らかになるまで待つことだけではありません。真実が明らかになったとき、すでに手遅れになっている事態を防ぐことにもあるのです」


 しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


 ヴァルターには、その言葉を簡単に否定することができなかった。


 しかし、目の前の男が本当に恐れているのは国家の混乱なのか。それとも、別の何かなのか。


 その答えだけは、最後まで見えてこなかった。


「……ならば、返事は出せん」


「承知いたしました」


 ユリウスはそれ以上、説得を重ねなかった。


 ヴァルターは意表を突かれた。


 ユリウスは、なおも説得を続けると思っていた。


 ところが相手は、もう十分だとでもいうように茶器を卓へ戻した。


「お話は以上です。ご判断は、王都会議までに」


「……それだけか」


「今日この場で、結論を迫るつもりはありません」


「私はアランの重罪化には反対だ。その考えは変わらん」


「承りました」


 ユリウスは立ち上がった。


 ヴァルターも席を立つ。


 二人の間には、礼を失わないだけの距離があった。だが、最初に客を迎えたときと同じ空気ではない。


「クロイツ子爵」


 退出しようとする相手を、ヴァルターが呼び止めた。


「一つだけ言っておく。フォルディス家は、国の軍を預かっている。家の都合だけで兵を動かすことはせん」


 ユリウスは振り返った。


「それを伺えて安心いたしました。私も、王国のために働くつもりです」


 同じ言葉を使っているのに、二人が思い描く王国の姿は違うように思えた。


 ヴァルターはそれ以上、何も言わなかった。


 ユリウスは一礼し、応接室を後にした。


 ◇


 扉が閉まってからも、ヴァルターはしばらく立っていた。


 卓には二人分の茶が残っている。片方はほとんど減っていない。


 王妃候補募集への反対。


 アランへの厳格な手配。


 王女殿下の生死をめぐる四つの可能性。


 そしてヴァルゼディア。


 ユリウスは、まるで別々の話をしているようでいて、最後にはすべてをフォルディス家の選択へ結びつけてみせた。


 ヴァルターは椅子に腰を下ろした。


 自分は何も約束していない。


 アランを重罪人として扱う議題にも賛成していないし、クロイツ家へ軍の権限を渡すとも言っていない。


 それでも、訪問を受ける前より、考えなければならないことが増えていた。


 国王の悲しみを守るために、クロイツ家の三票が欲しい。


 国境の危機に備えるために、クロイツ家の情報力も無視できない。


 しかし、その協力を受け入れれば、いずれ何を求められるのか。


 ヴァルターは、膝の上で拳を握った。


 アランはどこにいる。


 アルトは何を知っている。


 そして、エレナ王女殿下は本当に亡くなられたのか。


 答えのない問いばかりが残っている。


 窓の外に目を向けると、王都の空には夕方の色が差し始めていた。


 ユリウスの提案を断った。


 だが、次の王都会議までに何を選ぶべきか、以前より分からなくなっていた。


 ◇


 フォルディス家の屋敷を出たユリウスは、足を止めなかった。


 石畳を進む馬車の車輪が、遠くで低い音を立てている。貴族街の静かな通りには、夕日が長い影を落としていた。


 ユリウスは手袋の指先を整え、来た道を振り返ることなく歩いた。


 ヴァルターから賛同を得たわけではない。


 王妃候補の議題も、アランの手配をめぐる議題も、まだ何一つ決まっていなかった。


 それでも、別れ際の公爵の表情を思い返すと、ユリウスの口元がほんのわずかに緩んだ。


 話さなかったことは、まだある。


 だが、今それを口にする必要はない。


 王城の塔は、夕暮れの空に変わらずそびえていた。


 王都会議が開かれるまで、まだ時間はある。


 ユリウスはその塔を一度だけ見上げると、静かな足取りで歩き続けた。


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