第17話 はじめての海
ヴァレスタへ入った途端、エレナは目を丸くした。
「アラン、見て。あんなに大きな荷馬車が何台も!」
石畳を進む荷車には樽や木箱が山積みになっている。荷を担いだ男たちが声を掛け合い、商人が身振りを交えて話し込んでいた。旅人の服装も、レイフォードやルベルで見かけたものとは違う。
「あの荷物は全部船に積むの?」
「全部じゃないと思うよ。内陸へ運ぶものもあるだろうから」
「じゃあ、あの樽は?」
「さて。中身までは分からないな」
「もう、アランったら」
エレナは笑い、また別の荷車に目を向けた。旅の疲れが残っているはずなのに、街へ入ってから足取りが軽くなっている。
「海はまだ見えないの?」
「もう少しだよ」
「さっきもそう言っていたわ」
「本当にもう少しなんだけどな」
アランが笑った、そのときだった。
建物の間から吹き抜けた風に、エレナが足を止めた。
「……不思議な香り」
「潮風だ。海が近いんだ」
「これが潮風?」
山道の草の匂いでも、森の湿った木々の香りでもない。少し塩気を含んだ風を、エレナは目を閉じて胸いっぱいに吸い込んだ。
「まだ見えていないのに、海がここまで来ているみたい」
淡いプラチナブロンドの髪が風に流れる。アランはその横顔を見つめた。
港へ続く街路には淡い石壁、赤褐色の屋根、潮風にさらされた木の扉が並んでいた。店先には太い縄、樽、木箱。華やかな商店が目立ったルベルとは違い、この街では仕事道具までが景色の一部になっている。
「同じ王国なのに、街の色まで違うのね」
「海の近くでは暮らしも変わるからね」
「あれは何?」
エレナが建物の隙間を指さした。屋根より高いところに白い布が見える。
「船の帆だよ」
「帆? あんなに高いの?」
「風を受けて船を動かすんだ」
「じゃあ、船は建物より大きいのね!」
「大きな船ならね」
エレナの目が輝いた。
「早く行きましょう」
「そんなに急がなくても海は逃げないよ」
「分かっているけれど、早く見たいの」
人通りが増えたところで、アランは手を差し出した。エレナは嬉しそうに握る。
やがて車輪の音に、聞き慣れない鳴き声が混じった。
「今のは?」
「海鳥だと思う」
「森の鳥とは違う声ね」
次に聞こえたのは、ざあ、と何かが繰り返し打ち寄せる音だった。
「波の音だよ」
「波……」
エレナは耳を澄ませた。音は静かになったかと思えば、また戻ってくる。同じようでいて、少しずつ違う。
建物の切れ間から青い光が見えた。
エレナの言葉が途切れた。握った手に力がこもる。アランは先に答えを言わず、歩調を緩めた。
最後の建物の脇を抜ける。
その瞬間、視界が開けた。
「…………」
エレナは立ち尽くした。
目の前に、どこまでも続く青い海が広がっていた。
手前には幾隻もの船。岸辺では人々が荷を運び、白い帆が風を受けて揺れている。その先では太陽の光が海面に散り、無数のきらめきを作っていた。
けれど、エレナの目を奪ったのは、さらに向こうだった。
山の向こうには別の山がある。森の先にはまた木々が続いている。王城の窓から見る景色にも、どこかに必ず丘や建物の輪郭があった。
今は違う。
どれだけ遠くを見ても、遮るものがない。海の青は次第に淡くなり、やがて空の色に溶け込んでいる。境目には細い線が一本、途切れることなく伸びていた。
その向こうに何があるのか、ここからは分からない。それでも世界はまだ続いているのだと感じられた。
「……これが」
声が震えた。
「これが……海なのね」
アランは隣で静かに待った。
エレナは一歩前へ出た。海面の光を追って目を動かす。ひとつのきらめきはすぐ消え、別の場所で新しい光が生まれる。
「……広い。こんなに広いなんて……」
胸元へ手を添えたエレナが、ようやく振り返った。
「アラン……! 海って、こんなに綺麗なのね!」
「うん」
「見て、あそこ! 光がずっと続いているわ!」
「見えてるよ」
「それに、あんな遠くにも船があるの。あんなに小さく見えるのに、本当は大きいのでしょう?」
「そうだな」
「すごい……本当に、すごいわ」
エレナはまた海へ向き直った。
「……どうしよう」
「何が?」
「見たいところがたくさんありすぎるの」
右にも海、左にも海。船も波も光も、見るたびに少しずつ姿を変える。
「どこから見ればいいのか分からないわ」
「好きなところから見ればいいよ」
「でも、あっちを見ている間に、こっちの景色が変わってしまうでしょう?」
「それは忙しいね」
「本当に!」
エレナは声を立てて笑った。
アランもつられて笑う。旅の途中、彼女が物音に身を固くしたこともあった。あの日の恐怖が消えたわけではない。それでも今は、海に夢中になっている。
その笑顔を見られたことが、アランには嬉しかった。
「あの船はどこへ行くの?」
「別の港かな。外国へ向かう船かもしれない」
「外国……あの向こうにも街があるのね」
「ああ」
エレナは水平線を見つめた。
「地図では、海も陸も同じ紙の上にあったの。指を少し動かせば遠い国にも届くでしょう? でも、実際にはこんなに遠いのね」
「そうだね」
「本で読んだときは、分かったつもりだったの」
アランはうなずいた。自分が見慣れていた海を、彼女は今日初めて見たのだ。その驚きを隣で分けてもらうと、同じ景色が少し違って見えた。
「ねえ、波はずっと動いているの?」
「静かな日もあるけど、止まるわけじゃないよ」
「疲れないのかしら」
「波が?」
「うん。ずっと岸まで来て、また戻って……」
「波に聞いてみる?」
「もう。またそういうことを言うのね」
二人は笑った。
強い風が吹き、エレナの髪が顔の前へ流れた。
「わっ……!」
「大丈夫?」
「大丈夫。髪が全然言うことを聞いてくれないの」
「海風は手加減してくれないからね」
「でも、こんな風まで嬉しいの」
エレナは髪を押さえるのをやめた。海鳥が近くを横切ると、顔を上げてその行方を追った。
「……気持ちよさそう。空も海も、あんなに広いんだもの」
アランはその横顔を見た。彼女の肩から緊張が抜けている。彼自身も、いつの間にか遠くの人々の動きを追うことをやめていた。
しばらくして、エレナの声が静かになった。
「……アラン」
「うん?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
彼女は海を見たまま続けた。
「ずっと見てみたかったけれど、本当に見られる日が来るなんて……」
「海を見たいって、ずっと言っていたからね」
「でも、こんなに綺麗だなんて思わなかった」
エレナが振り返った。
「アランと一緒に見られて、よかった」
アランはすぐには答えず、エレナの顔を見つめた。
潮風にプラチナブロンドの髪を揺らしながら、嬉しそうに微笑んでいる。
あの山道で、もう二度と見られないかもしれないと思った笑顔が、今はこんなにも近くにある。
「……俺も嬉しいよ。エレナがそんなに喜んでくれるなんて」
「ふふっ。だって、本当に綺麗なんだもの」
エレナはもう一度海へ顔を向けた。
「ねえ、アラン。見て。あの遠くの船、さっきより小さくなってない?」
「本当だ。ずいぶん遠くまで行ったね」
「あんなに遠くまで行けるなんて……」
エレナは目を輝かせたまま、水平線を見つめている。
アランはその横顔を眺め、静かに微笑んだ。
二人は顔を見合わせて笑った。
遠くでは荷運びの声が響き、岸へ寄せる波が繰り返し音を立てていた。港は相変わらず賑やかなのに、二人の間には穏やかな静けさがあった。
エレナは水平線を指さした。
「あの向こうには、どんな景色があるのかな」
「俺も全部は知らないよ」
「アランでも?」
「俺だって、世界中を見てきたわけじゃないからね」
「そうよね……知らない場所が、まだたくさんあるのね」
その瞳には、恐れよりも期待が浮かんでいた。
潮風が吹く。青い海面を光が走り、遠くの帆がゆっくり動いていく。
エレナは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「ねえ、アラン。もう少しここにいてもいい?」
「もちろん」
エレナはほっとしたように微笑んだ。ふと隣を見ると、アランも笑っている。いつもの落ち着いた表情とは違う、肩の力の抜けた柔らかな笑顔だった。
「……アランも、嬉しい?」
「ああ。とても」
エレナは何も言わず、彼の手を握り直した。
潮風が二人の間を通り抜けていく。船の帆が揺れ、海鳥が鳴き、波は変わらず岸へ寄せていた。
今は、急いでどこかへ行かなくてもいい。
ただアランと並んで、この海を見ていたい。
エレナは水平線へ視線を戻した。握った手の温かさを感じながら、いつまでも続く青を眺めていた。
エレナは、もう一度水平線を見つめてからアランを振り返った。
「ねえ、あの船の近くまで行ってみてもいい?」
「いいよ。荷物を運んでいる人の邪魔にならないようにね」
「ええ、気をつけるわ」
港の通りへ戻ると、先ほどまで遠くに聞こえていた声が急に近くなった。荷車が石畳を鳴らし、木箱を担いだ男たちが互いに声を掛け合う。船のそばでは太い綱が引かれ、次々と荷物が下ろされていた。
「わあ……見て、アラン。あんなに大きな箱を、次から次へと運んでいるのね」
「ああ。船が着くと忙しくなるんだろうね」
「あれは全部、どこへ行くの?」
「倉庫か、街の商店かな。もっと遠くへ運ばれるものもあると思うよ」
荷車が近づくと、エレナはすぐに道を譲った。押していた男と目が合い、軽く会釈する。男も片手を上げて通り過ぎた。
「港って、こんなにたくさんの人が働いているのね」
「船を動かす人だけじゃないからね」
「ええ……海から届いたものが、ここで誰かの手に渡っていくのね」
エレナは行き交う人々を見つめた。王城で地図を眺めていた頃、港は小さな印でしかなかった。その印の中に、こんなにも多くの人々の暮らしがある。
魚を並べた店先に目を留め、また足が止まる。
「アラン、あの魚も、さっきまで海にいたのかしら」
「たぶんね」
「すごいわ。海って、眺めるだけのものじゃないのね」
そのとき、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
「……あら」
「どうしたの?」
「お腹が空いてきたみたい」
自分で言って少し照れるエレナに、アランは笑った。
「朝から歩いていたからね。何か食べようか」
「ええ。できれば海が見えるところがいいな」
「まだ見足りない?」
「全然」
あまりにも迷いのない返事に、二人は顔を見合わせて笑った。
◇
港に面した食事処の窓からは、停泊する船がよく見えた。
卓に運ばれてきたのは、香ばしく焼かれた魚と温かな付け合わせ、それにパンだった。魚の表面には薄く焼き色がつき、湯気が立っている。
「おいしそう……」
そう言いながら、エレナの視線は窓の外へ向いていた。船上で人影が動き、大きな帆が畳まれていく。
「エレナ、料理が冷めるよ」
「あ……そうね。でも、あの船が気になるんだもの」
「船は食べ終わってからでも見られるよ」
「その頃には行ってしまうかもしれないわ」
「じゃあ、今のうちによく見ておこうか」
アランが笑うと、エレナもおかしくなったように笑った。
「もう。アランまでそんなことを言うのね」
「今日は初めての海だから、仕方ないよ」
ようやく魚を一口食べたエレナは、驚いたように目を細めた。
「おいしい……! 海を見ながら食べると、もっとおいしく感じるのね」
「それは海のおかげかな」
「ええ、きっとそう」
窓の向こうでは船が揺れ、人々が働いている。皿の上の魚も、あの賑やかな港を通ってここまで届いたのかもしれない。そう考えると、何気ない昼食まで特別に思えた。
アランはパンをちぎりながら、彼女の様子を眺めていた。道の先や周囲の人影を警戒することなく、エレナが料理に驚いたり、船に気を取られたりする姿をただ見ていられる。そんな時間が、ひどく久しぶりに感じられた。
「……アラン?」
「うん?」
「何かおかしい?」
「いや。楽しそうだなと思って」
「楽しいわ。とっても」
エレナはそう言って、また一口食べた。
◇
食事が一段落した頃、アランは窓の外を一度見てから口を開いた。
「エレナ。少し、これからのことを考えようか」
「これから?」
「ああ。いつまでも旅を続けるわけにはいかない」
エレナは手を止めた。
王都を離れてから、二人は目の前の道を進むことで精いっぱいだった。海を見ることは、ずっと待ち望んでいた。その先の日々を考えなかったわけではない。それでも、こうして向かい合って話すのは初めてだった。
「……そうね。住む場所も決めなければいけないもの」
「それに、生活していくためのお金も必要だ」
「仕事も、ね」
「ああ」
エレナは窓の向こうを見た。荷車を押す人、魚を売る人、船で働く人。誰もがそれぞれの役目を果たしていた。
「私も、何かできることを探したい」
アランは少し驚いたように彼女を見る。
「エレナも?」
「ええ。アラン一人に全部任せるのは違うと思うの」
「慣れないことばかりだよ」
「それは分かっているわ。でも、知らないから何もしないままでは、いつまでも知らないままでしょう?」
声を強めたわけではない。ただ、彼女の眼差しは真剣だった。
「……そうだね。一緒に考えよう」
その返事に、エレナの口元が柔らかくなる。
「アランは、どんなお仕事ができそう?」
「俺なら身体を使う仕事かな。港には荷運びの仕事もありそうだし」
「アランが荷運びを?」
「そんなに意外?」
「ううん。ただ、今までとは全然違うお仕事だから」
「そうだな。でも、働くことに変わりはないよ」
エレナはアランの手を見た。剣を握ってきた手。自分を守るために傷ついたこともある手だ。
「……身体を痛めたりしない?」
「気をつけるよ。もっとも、まだ雇ってもらえるかも分からないけどね」
「そうだったわね」
二人は小さく笑った。
アランには、これまでの経歴をそのまま明かせない事情がある。働く場所を見つけることも、身元を尋ねられたときにどう答えるかも、簡単ではないだろう。だが、まだ何も見ずに諦める理由もなかった。
「エレナは何をしてみたい?」
「そうね……お店で人とお話しするお仕事なら、できるかしら。品物を並べたり、お客さんのお話を聞いたり」
「向いているかもしれないね」
「それから、文字を読んだり書いたりすることなら、少しは役に立てると思うの」
「それは十分、強みになるよ」
「でも、お店の仕事そのものは知らないことばかりよね」
「覚えることはあるだろうね」
エレナは頷いた。
「まずは、どんなお仕事があるのか見てみたいわ。できると思っていても、実際には違うかもしれないもの」
「焦って決めなくてもいいよ」
「ええ。でも、私も働いてみたい」
「無理をしなくてもいいんだよ」
彼女は小さく首を振った。
「無理じゃないわ。私もアランと一緒に暮らしていきたいもの」
アランはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「……ありがとう、エレナ」
「どうしてお礼を言うの?」
「一緒に考えてくれるから」
「それは当然でしょう?」
エレナは少し不思議そうに首を傾げ、それから笑った。
「だって、二人の暮らしなんだもの」
◇
食事処を出ると、昼の陽射しは少し柔らかくなっていた。
二人は港の賑やかな通りを離れ、住宅の並ぶ静かな道へ入った。石畳には家々の影が伸び、窓辺には花が飾られている。軒先では洗った布が風に揺れ、開いた窓から誰かの話し声が漏れてきた。
「ここは、港の近くなのに静かなのね」
「大通りから離れるだけで、ずいぶん違うね」
エレナは一軒の小さな家の前で足を緩めた。扉の脇に鉢植えがあり、窓から柔らかな光が差し込んでいる。
「……こういうお家も素敵ね」
「気に入った?」
「ええ。窓のところに花があって、可愛らしいわ」
家を見上げながら、エレナは続ける。
「窓から海が見えたら、もっと素敵でしょうね」
「それは、少し贅沢かもしれないね」
「そうなの?」
「海が見える場所は、住みたい人も多そうだから」
「……なるほど」
しばらく考えたあと、エレナはふっと笑った。
「じゃあ、海が見えなくてもいいわ」
「いいの?」
「ええ。お休みの日に、一緒に見に来ればいいもの」
そして、アランを見上げる。
「それに、アランと一緒なら、きっと楽しいわ」
アランは思わず足を止めた。
「……さっきまで海が見える家がいいって言っていたのに」
「だって、海は逃げないのでしょう?」
アランは目を丸くした。港へ向かう途中、自分が言った言葉だった。
「覚えていたんだ」
「もちろん」
エレナが得意そうに微笑む。アランはつられて笑った。
王城にいた頃、二人で暮らす家の大きさや窓辺の花について話す日が来るなど、想像もしなかった。今はまだ住む場所も決まっていない。それでも、こうして一軒の家を前に立ち止まり、何気ない未来を語り合えることが嬉しかった。
少し先では、一人の女性が軒先の洗濯物を取り込んでいた。乾いた布を丁寧に畳み、腕に重ねて家の中へ運んでいく。
エレナはその姿をしばらく見つめた。
「……ねえ、アラン」
「どうしたの?」
「私、ちゃんと暮らしていけるかしら」
アランが振り向く。
「どうして?」
「お料理も、お洗濯も……今まで誰かにしてもらってばかりだったから」
エレナは少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「働きたいなんて言ったけれど、自分の暮らしのことさえ、できないことがたくさんあるのね」
アランは急いで励ますことをせず、彼女の隣に立った。
「俺だって、得意なことばかりじゃない」
「本当に?」
「もちろん。料理だって、何でも作れるわけじゃないし」
「……そうなの?」
「ああ。二人で少しずつ覚えていけばいいんじゃないかな」
エレナは顔を上げた。
「二人で?」
「ああ。失敗したら、次は違うやり方を試せばいい」
「……そうね」
エレナはもう一度、洗濯物の揺れる軒先を見た。
「最初から何でもできる人なんて、いないものね」
「うん」
「でも、アラン。私が料理を失敗したら、ちゃんと言ってね」
「分かった」
「無理しておいしいって言うのはだめよ」
「それは難しい注文だな」
「どうして?」
「エレナが頑張って作ってくれたら、嬉しくておいしいって言ってしまうかもしれない」
エレナは少しだけ頬を赤くした。
「……もう。そういうことを言うんだから」
それでも、先ほどまでの不安げな表情は消えていた。
◇
夕方、二人はもう一度、海を望む場所へ戻った。
昼間は鮮やかな青色だった海が、今は夕日を受けて金色に輝いている。波が寄せるたび、光の帯が細かく砕けては、またつながった。船の影は長く伸び、空の端には柔らかな赤みが広がっていた。
「……わあ」
エレナが小さく声を漏らした。
「アラン、見て。昼間とは全然違うわ」
「本当だな」
「海って、一日中見ていても飽きないのね」
「今日はずっと海の話をしているね」
「だって、本当に素敵なんだもの」
アランが笑うと、エレナも嬉しそうに笑い返した。
風が吹き、淡いプラチナブロンドの髪が肩から流れる。エレナは片手で髪を押さえ、もう片方の手をアランへ伸ばした。アランがその手を取ると、彼女は安心したように指を絡めた。
昼間、二人は仕事や家のことを話した。まだ決められないことばかりだった。収入も住まいも、どんな仕事に就けるのかさえ分からない。
けれど、エレナの胸には、昼食の席で聞いたアランの言葉が残っていた。
二人で少しずつ覚えていけばいい。
その言葉を思い出すと、知らない暮らしも、ただ怖いだけのものではなくなった。
「ねえ、アラン」
「うん?」
「私たち、ここで暮らせるかな?」
アランは夕暮れの街を見つめた。
「まだ分からないよ。仕事も住む場所も、これから探さないといけないから」
「そうね……」
「でも、ここで暮らせたらいいなとは思う」
エレナは彼の横顔を見た。
「私も」
しばらく二人は黙って海を眺めた。波の音が寄せては引き、港からはまだ人々の声が聞こえてくる。
エレナは握った手に少し力を込めた。
「明日から、一緒に探してみましょう?」
「ああ。そうしよう」
アランが微笑む。エレナも笑い返した。
十六歳の誕生日を祝うために始まった旅行だった。
あのときは、こんな未来を二人で語り合うことになるなど、想像もしていなかった。
楽しい思い出になるはずだった旅は、途中で何もかもが変わってしまった。
失ったものもある。もう戻れない場所もある。
それでも、こうしてアランと並んで海を眺めていると、エレナは思う。
旅の始まりには、たくさんの人がいた。
けれど、今は二人だけ。
いつの間にか、この旅はアランと自分だけのものになっていた。
「……アラン」
「どうしたの?」
「今日、海を見られて本当によかった」
「俺もだよ」
エレナはそっと彼の肩に寄り添った。
もう旅は終わった。
明日からは、二人で暮らしていくための新しい日々が始まる。
夕日に染まった海を前に、二人はいつまでも寄り添っていた。




