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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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17/47

第17話 はじめての海

 ヴァレスタへ入った途端、エレナは目を丸くした。


「アラン、見て。あんなに大きな荷馬車が何台も!」


 石畳を進む荷車には樽や木箱が山積みになっている。荷を担いだ男たちが声を掛け合い、商人が身振りを交えて話し込んでいた。旅人の服装も、レイフォードやルベルで見かけたものとは違う。


「あの荷物は全部船に積むの?」

「全部じゃないと思うよ。内陸へ運ぶものもあるだろうから」

「じゃあ、あの樽は?」

「さて。中身までは分からないな」

「もう、アランったら」


 エレナは笑い、また別の荷車に目を向けた。旅の疲れが残っているはずなのに、街へ入ってから足取りが軽くなっている。


「海はまだ見えないの?」

「もう少しだよ」

「さっきもそう言っていたわ」

「本当にもう少しなんだけどな」


 アランが笑った、そのときだった。


 建物の間から吹き抜けた風に、エレナが足を止めた。


「……不思議な香り」

「潮風だ。海が近いんだ」

「これが潮風?」


 山道の草の匂いでも、森の湿った木々の香りでもない。少し塩気を含んだ風を、エレナは目を閉じて胸いっぱいに吸い込んだ。


「まだ見えていないのに、海がここまで来ているみたい」


 淡いプラチナブロンドの髪が風に流れる。アランはその横顔を見つめた。


 港へ続く街路には淡い石壁、赤褐色の屋根、潮風にさらされた木の扉が並んでいた。店先には太い縄、樽、木箱。華やかな商店が目立ったルベルとは違い、この街では仕事道具までが景色の一部になっている。


「同じ王国なのに、街の色まで違うのね」

「海の近くでは暮らしも変わるからね」

「あれは何?」


 エレナが建物の隙間を指さした。屋根より高いところに白い布が見える。


「船の帆だよ」

「帆? あんなに高いの?」

「風を受けて船を動かすんだ」

「じゃあ、船は建物より大きいのね!」

「大きな船ならね」


 エレナの目が輝いた。


「早く行きましょう」

「そんなに急がなくても海は逃げないよ」

「分かっているけれど、早く見たいの」


 人通りが増えたところで、アランは手を差し出した。エレナは嬉しそうに握る。


 やがて車輪の音に、聞き慣れない鳴き声が混じった。


「今のは?」

「海鳥だと思う」

「森の鳥とは違う声ね」


 次に聞こえたのは、ざあ、と何かが繰り返し打ち寄せる音だった。


「波の音だよ」

「波……」


 エレナは耳を澄ませた。音は静かになったかと思えば、また戻ってくる。同じようでいて、少しずつ違う。


 建物の切れ間から青い光が見えた。


 エレナの言葉が途切れた。握った手に力がこもる。アランは先に答えを言わず、歩調を緩めた。


 最後の建物の脇を抜ける。


 その瞬間、視界が開けた。


「…………」


 エレナは立ち尽くした。


 目の前に、どこまでも続く青い海が広がっていた。


 手前には幾隻もの船。岸辺では人々が荷を運び、白い帆が風を受けて揺れている。その先では太陽の光が海面に散り、無数のきらめきを作っていた。


 けれど、エレナの目を奪ったのは、さらに向こうだった。


 山の向こうには別の山がある。森の先にはまた木々が続いている。王城の窓から見る景色にも、どこかに必ず丘や建物の輪郭があった。


 今は違う。


 どれだけ遠くを見ても、遮るものがない。海の青は次第に淡くなり、やがて空の色に溶け込んでいる。境目には細い線が一本、途切れることなく伸びていた。


 その向こうに何があるのか、ここからは分からない。それでも世界はまだ続いているのだと感じられた。


「……これが」


 声が震えた。


「これが……海なのね」


 アランは隣で静かに待った。


 エレナは一歩前へ出た。海面の光を追って目を動かす。ひとつのきらめきはすぐ消え、別の場所で新しい光が生まれる。


「……広い。こんなに広いなんて……」


 胸元へ手を添えたエレナが、ようやく振り返った。


「アラン……! 海って、こんなに綺麗なのね!」

「うん」

「見て、あそこ! 光がずっと続いているわ!」

「見えてるよ」

「それに、あんな遠くにも船があるの。あんなに小さく見えるのに、本当は大きいのでしょう?」

「そうだな」

「すごい……本当に、すごいわ」


 エレナはまた海へ向き直った。


「……どうしよう」

「何が?」

「見たいところがたくさんありすぎるの」


 右にも海、左にも海。船も波も光も、見るたびに少しずつ姿を変える。


「どこから見ればいいのか分からないわ」

「好きなところから見ればいいよ」

「でも、あっちを見ている間に、こっちの景色が変わってしまうでしょう?」

「それは忙しいね」

「本当に!」


 エレナは声を立てて笑った。


 アランもつられて笑う。旅の途中、彼女が物音に身を固くしたこともあった。あの日の恐怖が消えたわけではない。それでも今は、海に夢中になっている。


 その笑顔を見られたことが、アランには嬉しかった。


「あの船はどこへ行くの?」

「別の港かな。外国へ向かう船かもしれない」

「外国……あの向こうにも街があるのね」

「ああ」


 エレナは水平線を見つめた。


「地図では、海も陸も同じ紙の上にあったの。指を少し動かせば遠い国にも届くでしょう? でも、実際にはこんなに遠いのね」

「そうだね」

「本で読んだときは、分かったつもりだったの」


 アランはうなずいた。自分が見慣れていた海を、彼女は今日初めて見たのだ。その驚きを隣で分けてもらうと、同じ景色が少し違って見えた。


「ねえ、波はずっと動いているの?」

「静かな日もあるけど、止まるわけじゃないよ」

「疲れないのかしら」

「波が?」

「うん。ずっと岸まで来て、また戻って……」

「波に聞いてみる?」

「もう。またそういうことを言うのね」


 二人は笑った。


 強い風が吹き、エレナの髪が顔の前へ流れた。


「わっ……!」

「大丈夫?」

「大丈夫。髪が全然言うことを聞いてくれないの」

「海風は手加減してくれないからね」

「でも、こんな風まで嬉しいの」


 エレナは髪を押さえるのをやめた。海鳥が近くを横切ると、顔を上げてその行方を追った。


「……気持ちよさそう。空も海も、あんなに広いんだもの」


 アランはその横顔を見た。彼女の肩から緊張が抜けている。彼自身も、いつの間にか遠くの人々の動きを追うことをやめていた。


 しばらくして、エレナの声が静かになった。


「……アラン」

「うん?」

「連れてきてくれて、ありがとう」


 彼女は海を見たまま続けた。


「ずっと見てみたかったけれど、本当に見られる日が来るなんて……」

「海を見たいって、ずっと言っていたからね」

「でも、こんなに綺麗だなんて思わなかった」


 エレナが振り返った。


「アランと一緒に見られて、よかった」


 アランはすぐには答えず、エレナの顔を見つめた。


 潮風にプラチナブロンドの髪を揺らしながら、嬉しそうに微笑んでいる。


 あの山道で、もう二度と見られないかもしれないと思った笑顔が、今はこんなにも近くにある。


「……俺も嬉しいよ。エレナがそんなに喜んでくれるなんて」


「ふふっ。だって、本当に綺麗なんだもの」


 エレナはもう一度海へ顔を向けた。


「ねえ、アラン。見て。あの遠くの船、さっきより小さくなってない?」


「本当だ。ずいぶん遠くまで行ったね」


「あんなに遠くまで行けるなんて……」


 エレナは目を輝かせたまま、水平線を見つめている。


 アランはその横顔を眺め、静かに微笑んだ。


 二人は顔を見合わせて笑った。


 遠くでは荷運びの声が響き、岸へ寄せる波が繰り返し音を立てていた。港は相変わらず賑やかなのに、二人の間には穏やかな静けさがあった。


 エレナは水平線を指さした。


「あの向こうには、どんな景色があるのかな」

「俺も全部は知らないよ」

「アランでも?」

「俺だって、世界中を見てきたわけじゃないからね」

「そうよね……知らない場所が、まだたくさんあるのね」


 その瞳には、恐れよりも期待が浮かんでいた。


 潮風が吹く。青い海面を光が走り、遠くの帆がゆっくり動いていく。


 エレナは胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「ねえ、アラン。もう少しここにいてもいい?」

「もちろん」


 エレナはほっとしたように微笑んだ。ふと隣を見ると、アランも笑っている。いつもの落ち着いた表情とは違う、肩の力の抜けた柔らかな笑顔だった。


「……アランも、嬉しい?」

「ああ。とても」


 エレナは何も言わず、彼の手を握り直した。


 潮風が二人の間を通り抜けていく。船の帆が揺れ、海鳥が鳴き、波は変わらず岸へ寄せていた。


 今は、急いでどこかへ行かなくてもいい。


 ただアランと並んで、この海を見ていたい。


 エレナは水平線へ視線を戻した。握った手の温かさを感じながら、いつまでも続く青を眺めていた。


 エレナは、もう一度水平線を見つめてからアランを振り返った。


「ねえ、あの船の近くまで行ってみてもいい?」

「いいよ。荷物を運んでいる人の邪魔にならないようにね」

「ええ、気をつけるわ」


 港の通りへ戻ると、先ほどまで遠くに聞こえていた声が急に近くなった。荷車が石畳を鳴らし、木箱を担いだ男たちが互いに声を掛け合う。船のそばでは太い綱が引かれ、次々と荷物が下ろされていた。


「わあ……見て、アラン。あんなに大きな箱を、次から次へと運んでいるのね」

「ああ。船が着くと忙しくなるんだろうね」

「あれは全部、どこへ行くの?」

「倉庫か、街の商店かな。もっと遠くへ運ばれるものもあると思うよ」


 荷車が近づくと、エレナはすぐに道を譲った。押していた男と目が合い、軽く会釈する。男も片手を上げて通り過ぎた。


「港って、こんなにたくさんの人が働いているのね」

「船を動かす人だけじゃないからね」

「ええ……海から届いたものが、ここで誰かの手に渡っていくのね」


 エレナは行き交う人々を見つめた。王城で地図を眺めていた頃、港は小さな印でしかなかった。その印の中に、こんなにも多くの人々の暮らしがある。


 魚を並べた店先に目を留め、また足が止まる。


「アラン、あの魚も、さっきまで海にいたのかしら」

「たぶんね」

「すごいわ。海って、眺めるだけのものじゃないのね」


 そのとき、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。


「……あら」

「どうしたの?」

「お腹が空いてきたみたい」


 自分で言って少し照れるエレナに、アランは笑った。


「朝から歩いていたからね。何か食べようか」

「ええ。できれば海が見えるところがいいな」

「まだ見足りない?」

「全然」


 あまりにも迷いのない返事に、二人は顔を見合わせて笑った。


 ◇


 港に面した食事処の窓からは、停泊する船がよく見えた。


 卓に運ばれてきたのは、香ばしく焼かれた魚と温かな付け合わせ、それにパンだった。魚の表面には薄く焼き色がつき、湯気が立っている。


「おいしそう……」


 そう言いながら、エレナの視線は窓の外へ向いていた。船上で人影が動き、大きな帆が畳まれていく。


「エレナ、料理が冷めるよ」

「あ……そうね。でも、あの船が気になるんだもの」

「船は食べ終わってからでも見られるよ」

「その頃には行ってしまうかもしれないわ」

「じゃあ、今のうちによく見ておこうか」


 アランが笑うと、エレナもおかしくなったように笑った。


「もう。アランまでそんなことを言うのね」

「今日は初めての海だから、仕方ないよ」


 ようやく魚を一口食べたエレナは、驚いたように目を細めた。


「おいしい……! 海を見ながら食べると、もっとおいしく感じるのね」

「それは海のおかげかな」

「ええ、きっとそう」


 窓の向こうでは船が揺れ、人々が働いている。皿の上の魚も、あの賑やかな港を通ってここまで届いたのかもしれない。そう考えると、何気ない昼食まで特別に思えた。


 アランはパンをちぎりながら、彼女の様子を眺めていた。道の先や周囲の人影を警戒することなく、エレナが料理に驚いたり、船に気を取られたりする姿をただ見ていられる。そんな時間が、ひどく久しぶりに感じられた。


「……アラン?」

「うん?」

「何かおかしい?」

「いや。楽しそうだなと思って」

「楽しいわ。とっても」


 エレナはそう言って、また一口食べた。


 ◇


 食事が一段落した頃、アランは窓の外を一度見てから口を開いた。


「エレナ。少し、これからのことを考えようか」

「これから?」

「ああ。いつまでも旅を続けるわけにはいかない」


 エレナは手を止めた。


 王都を離れてから、二人は目の前の道を進むことで精いっぱいだった。海を見ることは、ずっと待ち望んでいた。その先の日々を考えなかったわけではない。それでも、こうして向かい合って話すのは初めてだった。


「……そうね。住む場所も決めなければいけないもの」

「それに、生活していくためのお金も必要だ」

「仕事も、ね」

「ああ」


 エレナは窓の向こうを見た。荷車を押す人、魚を売る人、船で働く人。誰もがそれぞれの役目を果たしていた。


「私も、何かできることを探したい」


 アランは少し驚いたように彼女を見る。


「エレナも?」

「ええ。アラン一人に全部任せるのは違うと思うの」

「慣れないことばかりだよ」

「それは分かっているわ。でも、知らないから何もしないままでは、いつまでも知らないままでしょう?」


 声を強めたわけではない。ただ、彼女の眼差しは真剣だった。


「……そうだね。一緒に考えよう」


 その返事に、エレナの口元が柔らかくなる。


「アランは、どんなお仕事ができそう?」

「俺なら身体を使う仕事かな。港には荷運びの仕事もありそうだし」

「アランが荷運びを?」

「そんなに意外?」

「ううん。ただ、今までとは全然違うお仕事だから」

「そうだな。でも、働くことに変わりはないよ」


 エレナはアランの手を見た。剣を握ってきた手。自分を守るために傷ついたこともある手だ。


「……身体を痛めたりしない?」

「気をつけるよ。もっとも、まだ雇ってもらえるかも分からないけどね」

「そうだったわね」


 二人は小さく笑った。


 アランには、これまでの経歴をそのまま明かせない事情がある。働く場所を見つけることも、身元を尋ねられたときにどう答えるかも、簡単ではないだろう。だが、まだ何も見ずに諦める理由もなかった。


「エレナは何をしてみたい?」

「そうね……お店で人とお話しするお仕事なら、できるかしら。品物を並べたり、お客さんのお話を聞いたり」

「向いているかもしれないね」

「それから、文字を読んだり書いたりすることなら、少しは役に立てると思うの」

「それは十分、強みになるよ」

「でも、お店の仕事そのものは知らないことばかりよね」

「覚えることはあるだろうね」


 エレナは頷いた。


「まずは、どんなお仕事があるのか見てみたいわ。できると思っていても、実際には違うかもしれないもの」

「焦って決めなくてもいいよ」

「ええ。でも、私も働いてみたい」

「無理をしなくてもいいんだよ」


 彼女は小さく首を振った。


「無理じゃないわ。私もアランと一緒に暮らしていきたいもの」


 アランはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。


「……ありがとう、エレナ」

「どうしてお礼を言うの?」

「一緒に考えてくれるから」

「それは当然でしょう?」


 エレナは少し不思議そうに首を傾げ、それから笑った。


「だって、二人の暮らしなんだもの」


 ◇


 食事処を出ると、昼の陽射しは少し柔らかくなっていた。


 二人は港の賑やかな通りを離れ、住宅の並ぶ静かな道へ入った。石畳には家々の影が伸び、窓辺には花が飾られている。軒先では洗った布が風に揺れ、開いた窓から誰かの話し声が漏れてきた。


「ここは、港の近くなのに静かなのね」

「大通りから離れるだけで、ずいぶん違うね」


 エレナは一軒の小さな家の前で足を緩めた。扉の脇に鉢植えがあり、窓から柔らかな光が差し込んでいる。


「……こういうお家も素敵ね」

「気に入った?」

「ええ。窓のところに花があって、可愛らしいわ」


 家を見上げながら、エレナは続ける。


「窓から海が見えたら、もっと素敵でしょうね」

「それは、少し贅沢かもしれないね」

「そうなの?」

「海が見える場所は、住みたい人も多そうだから」

「……なるほど」


 しばらく考えたあと、エレナはふっと笑った。


「じゃあ、海が見えなくてもいいわ」

「いいの?」

「ええ。お休みの日に、一緒に見に来ればいいもの」


 そして、アランを見上げる。


「それに、アランと一緒なら、きっと楽しいわ」


 アランは思わず足を止めた。


「……さっきまで海が見える家がいいって言っていたのに」

「だって、海は逃げないのでしょう?」


 アランは目を丸くした。港へ向かう途中、自分が言った言葉だった。


「覚えていたんだ」

「もちろん」


 エレナが得意そうに微笑む。アランはつられて笑った。


 王城にいた頃、二人で暮らす家の大きさや窓辺の花について話す日が来るなど、想像もしなかった。今はまだ住む場所も決まっていない。それでも、こうして一軒の家を前に立ち止まり、何気ない未来を語り合えることが嬉しかった。


 少し先では、一人の女性が軒先の洗濯物を取り込んでいた。乾いた布を丁寧に畳み、腕に重ねて家の中へ運んでいく。


 エレナはその姿をしばらく見つめた。


「……ねえ、アラン」

「どうしたの?」

「私、ちゃんと暮らしていけるかしら」


 アランが振り向く。


「どうして?」

「お料理も、お洗濯も……今まで誰かにしてもらってばかりだったから」


 エレナは少し恥ずかしそうに視線を落とした。


「働きたいなんて言ったけれど、自分の暮らしのことさえ、できないことがたくさんあるのね」


 アランは急いで励ますことをせず、彼女の隣に立った。


「俺だって、得意なことばかりじゃない」

「本当に?」

「もちろん。料理だって、何でも作れるわけじゃないし」

「……そうなの?」

「ああ。二人で少しずつ覚えていけばいいんじゃないかな」


 エレナは顔を上げた。


「二人で?」

「ああ。失敗したら、次は違うやり方を試せばいい」

「……そうね」


 エレナはもう一度、洗濯物の揺れる軒先を見た。


「最初から何でもできる人なんて、いないものね」

「うん」

「でも、アラン。私が料理を失敗したら、ちゃんと言ってね」

「分かった」

「無理しておいしいって言うのはだめよ」

「それは難しい注文だな」

「どうして?」

「エレナが頑張って作ってくれたら、嬉しくておいしいって言ってしまうかもしれない」


 エレナは少しだけ頬を赤くした。


「……もう。そういうことを言うんだから」


 それでも、先ほどまでの不安げな表情は消えていた。


 ◇


 夕方、二人はもう一度、海を望む場所へ戻った。


 昼間は鮮やかな青色だった海が、今は夕日を受けて金色に輝いている。波が寄せるたび、光の帯が細かく砕けては、またつながった。船の影は長く伸び、空の端には柔らかな赤みが広がっていた。


「……わあ」


 エレナが小さく声を漏らした。


「アラン、見て。昼間とは全然違うわ」

「本当だな」

「海って、一日中見ていても飽きないのね」

「今日はずっと海の話をしているね」

「だって、本当に素敵なんだもの」


 アランが笑うと、エレナも嬉しそうに笑い返した。


 風が吹き、淡いプラチナブロンドの髪が肩から流れる。エレナは片手で髪を押さえ、もう片方の手をアランへ伸ばした。アランがその手を取ると、彼女は安心したように指を絡めた。


 昼間、二人は仕事や家のことを話した。まだ決められないことばかりだった。収入も住まいも、どんな仕事に就けるのかさえ分からない。


 けれど、エレナの胸には、昼食の席で聞いたアランの言葉が残っていた。


 二人で少しずつ覚えていけばいい。


 その言葉を思い出すと、知らない暮らしも、ただ怖いだけのものではなくなった。


「ねえ、アラン」

「うん?」

「私たち、ここで暮らせるかな?」


 アランは夕暮れの街を見つめた。


「まだ分からないよ。仕事も住む場所も、これから探さないといけないから」

「そうね……」

「でも、ここで暮らせたらいいなとは思う」


 エレナは彼の横顔を見た。


「私も」


 しばらく二人は黙って海を眺めた。波の音が寄せては引き、港からはまだ人々の声が聞こえてくる。


 エレナは握った手に少し力を込めた。


「明日から、一緒に探してみましょう?」


「ああ。そうしよう」


 アランが微笑む。エレナも笑い返した。


 十六歳の誕生日を祝うために始まった旅行だった。


 あのときは、こんな未来を二人で語り合うことになるなど、想像もしていなかった。


 楽しい思い出になるはずだった旅は、途中で何もかもが変わってしまった。


 失ったものもある。もう戻れない場所もある。


 それでも、こうしてアランと並んで海を眺めていると、エレナは思う。


 旅の始まりには、たくさんの人がいた。


 けれど、今は二人だけ。


 いつの間にか、この旅はアランと自分だけのものになっていた。


「……アラン」


「どうしたの?」


「今日、海を見られて本当によかった」


「俺もだよ」


 エレナはそっと彼の肩に寄り添った。


 もう旅は終わった。


 明日からは、二人で暮らしていくための新しい日々が始まる。


 夕日に染まった海を前に、二人はいつまでも寄り添っていた。


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