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月と剣のプリンセス ―Moon & Blade―  作者: 澄宵レク
第一部 未冠のプリンセス
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16/38

第16話 王都の夜に集まる3人

 王都ローディスは、日が沈んでも眠らない。


 昼間は荷馬車の軋む音と商人の呼び声が響く石畳の大通りも、夜になると別の顔を見せる。酒場の窓から暖かな光がこぼれ、仕事を終えた職人たちの笑い声に楽器の音が重なった。高台にそびえるローディス王城の中央塔は、夜空を背にして静かに街を見下ろしている。


 商業地区の賑やかな通りから一本外れた路地にも、まだ灯りが残っていた。


 酒場ヴェルモーラ。


 木の看板を掲げた店の中では、ようやく最後の客が帰ったところだった。


「……これで終わりね」


 フェリア・ノルンは洗い終えた杯を布で拭いた。灰銀色の長い髪を後ろで一つに束ね、いつものように片付けをする。すらりとした身体つきながら、椅子を運ぶ腕の動きには確かな力があった。皿を重ね、椅子を整え、最後のランタンを確かめる。その一つ一つに無駄がない。


 暖炉の火は小さくなり、店内には酒と木の香りが残っていた。つい先ほどまで客で埋まっていた卓も、今は空っぽだ。


 フェリアは入口を見た。


(そろそろ来る頃かしら)


 閉店後、決まって顔を見せる男がいる。ただ、今日はもう一人来る。今夜はどちらもまだ来ていない。


 その時、扉が開いた。


「まだ飲めるか?」


 聞き慣れた声に、フェリアは振り返る。


「ごめんなさい。もう閉店よ」


「そうか。じゃあ帰る」


 男は本当に扉を閉めようとした。


「ちょっと。そこはもう少し粘らないの?」


「閉店と言ったのはお前だろう」


「冗談よ。入って」


 シオン・レイヴァルは、わずかに口元を緩めた。


 深い紺を含んだ黒髪に銀灰色の瞳。長身で細身ながら、鍛えられた身体を持つ。城門の勤務を終えたばかりなのに背筋はまっすぐで、歩く時も余計な音を立てない。


「お疲れさま。今日は遅かったわね」


「人の出入りが多かった。やたらと話しかけられてな」


「門番なんだから、話しかけられるのは当たり前じゃない?」


「道案内だけならいいんだが」


 シオンはいつもの席に腰を下ろし、店内を見回した。


「ディルクは?」


「まだよ」


「久しぶりの休みだからのんびりとまた歩いて帰ってんだろ」


「そのうち帰ってくるでしょう。あの人のことだもの」


「そうだな。まずはビールを一杯頼む」


「はいはい」


 フェリアは木製の杯を取り、ビールを注いだ。細かな泡が縁まで盛り上がる。シオンは差し出された杯を受け取ると、大きく傾けた。


 喉が上下する。半分ほど飲んだところでようやく手を止め、長く息を吐いた。


「……うまい」


「それ、いつも言ってるわね」


「いつもうまいからな」


「じゃあ、もう少し味わって飲んだら?」


「最初の一口だけは譲れん」


「半分飲んでおいて一口なの?」


 二人は小さく笑った。


 外ではまだ誰かの笑い声が聞こえる。けれど店内には、気心の知れた二人だけの静かな時間が流れていた。


 フェリアはカウンターの下から新聞を取り出した。


「ねえ。これ、もう読んだ?」


 シオンの目が見出しに止まる。


「……王女殿下のことか」


「ええ」


 エレナ王女死亡。


 その文字は、何度読み返しても変わらなかった。


 ヴェルモーラは騎馬急使の伝令を取り扱う店の一つでもある。王都からの知らせはここにも届き、必要な情報は客の目に触れるよう掲示していた。今夜も入口近くには、アラン・フォルディスの所在について情報を求める手配書が残されている。


「城門でもこの話ばかりだった?」


「ああ。詳しいことを聞かれたが、俺だって新聞以上のことは知らん」


「みんな門番なら知っていると思うのね」


「俺は情報係じゃないんだがな」


 フェリアは手配書をカウンターへ置く。


「アラン・フォルディスの身柄確保命令も出ているわ」


「騎士団長が行方不明か」


「王都へ戻ってきていないそうよ」


 シオンは新聞を引き寄せた。


「山賊に襲われた、か。騎士団長が同行していたんだろう?」


「ええ。護衛もいたはずよ」


「それで王女殿下を守れなかったというのなら、随分と心許ない話だ」


「王国騎士団って、もっと頼りになるものだと思ってたんだけど」


 フェリアの言い方には、わずかな皮肉が混じっていた。


「城門の警備の方がましだったかもしれんな」


「自分の仕事を褒めてるの?」


「少なくとも、今日の俺は門を無事に守った」


「それはご立派」


 笑いは短かった。


 シオンは記事の下段を指でなぞった。


「……だが、実際に何があったのか分からん」


「そうね。襲撃の詳しい様子も書かれていない」


「相手の数も、護衛がどう動いたのかも不明だ。騎士団が弱かった、それだけで済む話じゃない」


「アランが戻らない理由もね」


「身柄確保は事情を聞くためだ。有罪になったわけではない」


「分かってる。でも、今日のお客さんの中には、もう犯人扱いしている人もいたわ」


「噂は勝手に走るものだな」


 フェリアは新聞を畳みかけて、手を止めた。


「……これで公に残る王族は、陛下お一人になってしまったのね」


 シオンの表情が変わった。


 暖炉の薪が小さく弾ける。


「……そうだな」


 エレナが本当に亡くなったなら、王家には次代を担う者がいなくなる。国王レオルドはまだ若い。しかし、王女の死が王家の将来に及ぼす影響は、決して小さくない。


「六貴族家も黙ってはいないでしょうね」


「たしかに、特にフォルディス家が今後どう出るか?」


 フェリアの表情が一瞬厳しくなった。


「また、良くないことがありそう」


「それに、後継者の問題がある。いずれ王都会議でも避けて通れんだろう。」


「まだ亡くなられたと発表されたばかりなのに……」


 フェリアは新聞の上に手を置いた。


「陛下は、どんなお気持ちなのかしら」


 シオンはすぐには答えなかった。


 王として国を治めることと、父として娘を失うことは違う。新聞には王女の死を知らせる文字が並ぶが、そこに父親の悲しみは書かれていない。


「……せめて、何があったのか分かればな」


 その言葉のあと、二人はしばらく黙った。


 やがて扉の向こうで、重い足音が止まった。


「遅くなった」


 開いた扉の向こうに、大柄な男が立っていた。


「ディルク!」


 ディルク・ハイゼンは広い肩を少し傾け、店内へ入ってきた。黒に近い鋼灰色の短髪、暗い鉄青色の瞳。厚い胸板と大きな体格が目を引くが、表情は穏やかだった。


「戻ったか。随分ゆっくりだったな」


 シオンが言う。


「少し寄るところがあった」


「旅先で酒でも飲みすぎたか?」


「飲んだのは否定しない」


「正直ねえ」


 フェリアが笑い、空いた席を示した。


「お帰りなさい。疲れたでしょう」


「大丈夫だ。それより二人に聞きたいことがある」


 ディルクの視線が、カウンターの新聞に止まった。


「エレナ王女殿下のことだ」


 シオンがうなずく。


「今、その話をしていた」


「アラン・フォルディスの手配書も届いているわ」


「そうか……」


 ディルクは腰を下ろしたものの、新聞から目を離さなかった。


「実は、ルベルで妙なことがあった」


「妙なこと?」


 フェリアが尋ねる。


「酒場で二人連れに会った。若い女性と、鍛えられた身体の男だ」


「それが?」


「……エレナ王女殿下とアラン・フォルディスだったと思う」


 フェリアの手が止まった。


「何ですって?」


 シオンも杯を置く。


「おい。王女殿下は亡くなられたと発表されたんだぞ」


「知っている。だから俺も驚いている」


「いつの話?」


「王都へ戻る前、ルベルに立ち寄った時だ。二人は普通の客と変わらず酒場にいた」


「それで王女殿下だと分かったの?」


 フェリアは眉を寄せた。


「王族は十六歳で成人するまで王都の外へ出ないでしょう。庶民の服を着て人混みに紛れていたら、見慣れていない人には分からないはずよ」


「その通りだ。しかもアランは、まだ団長になって1年ちょっと。庶民からしたら2人に会ってもわかる人はそうおいない」


 シオンも腕を組む。


「俺が王女殿下のお姿をはっきり見たのは、誕生日旅行へ出発された時が初めてだった。正直に言えば、顔の細部までは覚えていない」


「あなたも?」


「遠目に見ただけだ。誰かと間違えないと言い切る自信はない」


 二人の視線がディルクへ集まる。


「本当に王女殿下だったのか?」


 ディルクは急いで答えなかった。あの酒場での光景を、ひとつずつ思い返す。


 淡いプラチナブロンドの長い髪。透明感のある青紫色の瞳。落ち着いた物腰の女性と、その隣にいた、広い肩を持つ男性。


「最初は、俺も妙な二人だと思っただけだ」


「妙?」


「服装は庶民のものだった。だが、女性の立ち居振る舞いが違った。相手への接し方も、言葉の選び方も。誰かに見せつけるような気品じゃない。自然に身についているものだった」


 フェリアは静かに聞いている。


「それだけなら、裕福な家の娘かもしれないわ」


「そうだな。俺もそれだけで断定はしない」


「なら、何が決め手だった?」


 シオンの問いに、ディルクは答えた。


「左手首だ」


「左手首?」


「月の紋章が入ったブレスレットをしていた」


 フェリアとシオンの表情が変わる。


「……王族の証ね」


「ああ。見間違いではないと思う」


 ディルクは言葉を続けた。


「同行していた男もアラン・フォルディスに見えた。顔立ちも体格も、俺の知っている特徴と合っていた」


 シオンは新聞へ視線を落とす。


「王女殿下が生きていて、護衛責任者と一緒にいた……?」


「俺の見たものが正しければな」


「なら、なぜ王都へ戻らないの?」


 フェリアの問いに、ディルクは首を横に振った。


「そこまでは分からない。事情を聞けるような状況でもなかった」


「王女殿下が亡くなられたという発表と、あなたの目撃談。両方が正しいはずはないわ」


「そうだ」


「でも、片方が間違いだと決めつけるには、まだ足りない」


 フェリアは手配書をそっと裏返した。


「この話を誰にでもしていいわけじゃないわね」


「俺もそう思う」


 シオンがうなずく。


「事実を確かめる前に噂が広がれば、かえって面倒なことになる」


 三人はそこで言葉を止めた。王都へ戻らない理由も、新聞がそう伝える理由も、まだ誰にも分からない。


 ディルクはしばらく新聞を見つめていたが、ふと顔を上げた。


「そうだ。もう一人、会った人がいるぞ」


「誰?」


「ガルド様のお孫さんだ」


 シオンが身を起こした。


「……ガルド様の?」


「ラヴィナという娘だ。シャルネ村で元気にしてた」


 フェリアの表情が柔らかくなる。


「お孫さん……今はもう、随分大きくなっているでしょうね」


「ああ。たくましくなっていたよ」


 ディルクは、どこか楽しそうに右の頬へ手を当てた。


「俺なんか、ここを蹴られてしまった」


「……何?」


 シオンが目を丸くする。


「お前が?」


「そうだ」


 フェリアは一瞬きょとんとして、それから口元を手で覆った。


「ちょっと待って。どういうこと? あなたが女の子に蹴られたの?」


「そんなにおかしいか?」


「おかしいというか……想像できないのよ」


「俺も驚いた」


 ディルクが平然と言うものだから、フェリアはとうとう笑ってしまった。


「ふふっ、ごめんなさい。だって、そんな話を笑いながらするんだもの」


「笑い話だからな」


 シオンはまだ納得していない様子で、ディルクの頬を見た。


「本当に当たったのか?」


「確かに当たった。かなり勢いもあった」


「それで、よく平気な顔をしているな」


「痛くなかったわけじゃない」


「ますます分からん」


 ディルクは低く笑った。


「三十秒の勝負をしたんだ。俺は素手で、あの娘は小太刀を使う。時間内に一撃でも当てられたら、俺の負けという約束だった」


「小太刀を当てられたの?」


「いや。刃は一度も届かなかった」


「それなのに蹴られた?」


「ああ」


 ディルクは自分の杯がないことに気づき、フェリアへ目を向けた。彼女は笑いを抑えながら新しい杯を用意する。


「続きは?」


「途中で精霊花を使った。動きが速くなったから、俺はその力を追っていた。右へ、左へと動いても、居場所は分かる。刃の軌道も見えていた」


「なら、どうして当たった?」


 シオンの問いに、ディルクは少し楽しそうに答えた。


「最後の瞬間、あの娘は花を手放した。小太刀も地面へ突き立てた。俺が追っていたものが、同時に攻撃の線から消えたんだ」


「……なるほど」


「俺は一瞬、攻撃が終わったと思った。ところが、あの娘にはまだ左脚が残っていた」


 シオンは数秒黙り、それから小さく息を吐いた。


「精霊力を追っているお前の癖を、利用したのか」


「そういうことだ」


「大したものね」


 フェリアは新しい杯を置いた。


「それで、あなたは負けを認めたの?」


「もちろん。約束は約束だ」


「剣を当てたわけじゃないのに?」


「一撃と言った。剣とは言わなかった。そこを見抜かれたんだから、俺の負けだよ」


 シオンは苦笑した。


「お前らしいな」


「そうか?」


「負けたことより、どうやって負けたかを楽しそうに話している」


 ディルクは杯を手にしたまま、少しだけ目を細めた。


「……あの娘は、諦めなかったからな」


 その声に、フェリアは笑うのをやめた。


「ガルド様のお孫さん、か」


「ああ」


「どんな子だった?」


「口は悪い。気も強い。思ったことをすぐ口にするし、簡単には引かない。だが、ただ向こう見ずなだけじゃない。相手をよく見ている」


「なるほど。ずいぶん気に入ったみたいね」


「そう聞こえるか?」


「ええ」


 ディルクは否定しなかった。


 ラヴィナの踏み込みを思い出す。届かないと分かっても攻め方を変え、最後には自分の強みを利用して一撃を当てた。剣を振る姿勢に、ふと懐かしいものを感じたこともあった。


「……ガルド様を思い出したよ」


 その名を聞くと、シオンも杯から手を離した。


「ガルド様、か」


 しばらく、誰も話さなかった。


 かつて剣聖と呼ばれたガルド・ベルク。三人にとって、その名はただの英雄の名ではなかった。自分たちが剣を握る理由や、何を守ろうとしてきたのかを思い返す時、いつもそこへ戻る。


「厳しい方だったな」


 シオンがつぶやく。


「そうね。少しの油断も見逃してくれなかった」


 フェリアは懐かしそうに笑う。


「でも、誰かがうまくできた時には、ちゃんと見ていてくださった」


「褒め言葉は多くなかったがな」


「そうそう。だから余計に覚えてるのよ」


 ディルクは二人の会話を聞きながら、杯の縁へ指を置いた。


「俺は、あの方の前では自分の力を過信できなかった」


「お前ほどの体格でも?」


「体が大きいだけで勝てるなら、剣を学ぶ必要はないだろう」


 シオンが笑った。


「それはそうだ」


「ガルド様は、力任せに前へ出るだけでは足りないと、何度も気づかせてくださった」


「私は速く動くことばかり考えていた気がするわ」


 フェリアは自分の手を見た。


「でも、速いだけじゃ守れないものもあるのよね」


「技を磨けば何でも解決するわけでもない」


 シオンが静かに続けた。


「結局、何のために剣を使うのか。そこへ戻る」


 ディルクはうなずいた。


「……あの方なら、そうおっしゃるだろうな」


 三人の間に、穏やかな沈黙が生まれた。


 誰かが笑えば、つられて笑える。けれど、その名を口にした時にだけ生まれる静けさもある。もう会うことのできない人の話は、懐かしいだけでは終わらない。


 フェリアは酒棚へ目を向けた。


「お孫さんがそんなに強くなっているなんて、ガルド様が聞いたら何ておっしゃるかしら」


「まずは、調子に乗るな、と言うかもしれん」


 シオンの答えに、ディルクが笑う。


「確かにな。あの娘も、きっと言い返すだろう」


「似た者同士だったら面白いわね」


 フェリアの言葉に、三人の笑い声が重なった。


 しばらくして、笑いが落ち着く。


 ランタンの火は小さくなり、シオンの杯からはもう泡が消えていた。外の通りも、先ほどより静かになっている。


 フェリアはカウンターの新聞を手に取った。


 エレナ王女死亡。


 その隣には、アラン・フォルディスの手配書がある。


 ほんの少し前まで、二人の名前は記事と手配書の中にしかなかった。今はそこへ、ディルクが自分の目で見たという二人の姿が重なっている。


 王都の人々は王女の死を信じている。新聞も、そう伝えている。


 しかし、目の前の男は違うことを言う。


「……もし本当に生きておられるなら」


 シオンが言いかけ、そこで口を閉じた。


 フェリアは続きを促さなかった。何を言いたいのかは分かる。けれど、今の段階で答えを出すことはできない。


 ディルクがゆっくり杯を置いた。


「俺は、この目で見た」


 その声は静かだった。


 フェリアは新聞を畳んだ。紙の端が擦れる音が、妙にはっきり響く。


 店の外では、夜の王都がまだわずかに息づいていた。遅くまで開く酒場の灯り、帰路につく人の足音、遠くに見える王城の塔。


 街はいつもと変わらない夜を過ごしている。


 けれど、ヴェルモーラのカウンターに置かれた一枚の新聞は、三人にとって、もう先ほどまでと同じ意味では読めなかった。


 ガルドの思い出話が途切れると、三人の間に穏やかな沈黙が戻った。


 酒場ヴェルモーラの外から、遅い時間まで飲み歩く客の笑い声が聞こえてくる。フェリアは拭き終えた杯を棚に戻した。店内のランタンは、もういくつか火を落としている。


 シオンは杯の底に残ったビールを飲み、隣の大男を見た。


「で? わざわざ休みを取って戻ってきたんだ。それなりに理由があるんだろ?」


 ディルクはすぐには答えなかった。


「そういえば、いつもより早かったわね」


 フェリアもカウンターに手を置く。


「ガルド様のお孫さんに会えたのはよかったけれど、それだけじゃなさそうね」


「少し気になることがあってな」


「気になること?」


 ディルクは木杯から手を離した。


「最近、ヴェルネシアから魔導書が大量に入ってきているらしい」


「魔導書?」


 シオンが眉を上げる。


「ああ。以前よりも明らかに数が増えている」


 ディルクが働くヴァレスタの港には、毎日のように貨物が届く。船から降ろされる木箱、荷車へ移される品々。すべての中身を知るわけではないが、繰り返し運ばれてくるものなら嫌でも目につく。


「初めは気にしていなかった。書物が運ばれてきたところで珍しくもない。だが、魔法科学に関するものが増えたと聞いてな」


「どこへ運ばれているの?」


「分からん」


「買っている人も?」


「そこまでは知らない。港で見聞きしただけの話だ」


 曖昧なところを曖昧なまま伝えるディルクに、フェリアは小さくうなずいた。


「研究するのは自由だけど……そんなに魔導書って人気があるものなのかしら?」


「俺にも分からん」


「魔法なんて普通の人には縁のない話でしょう? それを大量に買い込むなんて、誰が何に使うのかしら」


 シオンは肩をすくめた。


「ヴェルネシアは魔法科学の研究が進んでいる国なんだろう?」


「ああ」


「だったら、向こうでは当たり前の書物なのかもしれないな。外国の常識と、俺たちの常識は違うものだ」


「随分と楽観的ね」


「本が増えただけで国が危なくなるなら、王都の書店はとっくに危険地帯だ」


「そういう話じゃないでしょ」


 フェリアが呆れて笑う。


「あなた、門でもそんな調子なの?」


「仕事中はもっと真面目だ」


「本当かしら」


 軽口に笑いが生まれた。だが、ディルクだけは杯を見つめたままだった。


 シオンがその様子に気づく。


「……まだ何かあるのか?」


「ああ。実は、シャルネ村で妙な騎士に会った」


「騎士?」


「王国騎士団の男だ」


 フェリアが顔を上げた。


「シャルネ村に?」


「ガルド様のお孫さんに剣を向けていた」


「……何ですって?」


 フェリアの声が低くなる。さっきまで笑っていたシオンも、杯を置いた。


 ディルクは村で見たことを順に話した。兵士を伴った若い騎士がアランの行方を尋ねていたこと。ラヴィナと言い争いになったこと。そして、自分が到着した時にはラヴィナは武器を失い、それでも相手の剣先は彼女へ向いていたこと。


「武器を持っていない子にまで?」


「ああ。周りの兵士も止めようとしていた」


「それで、お前が止めたのか」


 シオンが聞く。


「ああ」


「相手は誰だ?」


「アルト・フォルディス」


 シオンの目が細くなった。


「アランの弟か」


「そうだ。今は騎士団長代理らしい」


 フェリアは新聞へ目を向けた。行方不明の兄。その代わりに騎士団を率いる弟。そして、その弟が兄を探して小さな村に現れた。


「……妙な話ね」


「それで、どうやって止めた?」


 ディルクは少し笑った。


「賭けをした」


「賭け?」


「三十秒間、俺が素手で奴の剣を避けきれたら、あの娘を見逃すという約束だ」


 フェリアが額に手を当てた。


「相変わらず無茶なことをするのね」


「そうでもない」


「素手で剣の相手をしたんでしょう?」


「相手も条件を飲んだ」


「そういう問題じゃないわよ」


 シオンは苦笑した。


「それで、どうなった?」


「三十秒間、一度も斬られなかった」


「だろうな」


「あなたまで……」


 フェリアは二人を交互に見て、ため息をついた。


 だがディルクの表情は晴れなかった。


「……ただ、妙な感覚があった」


「どんな?」


「奴の剣から、普通の人間とは違う力を感じた。精霊力じゃない。もっと異質なものだ」


 シオンの表情が変わる。


「魔力か?」


「断定はできん。だが、精霊力とは明らかに違った」


 ディルクはあの花畑で感じた、近づくほどに不快になる気配を思い出す。相手の動きは捉えられた。刃を避けることもできた。だが、剣の向こうにある何かが、ずっと気にかかっていた。


「その力は、どんなものだったの?」


「強いというより……不快だったな」


「不快?」


「俺の精霊力が、あいつの中にある何かを拒んでいるような感覚だ」


 シオンは腕を組む。


「精霊力と相反する力、か」


「そう考えれば説明はつく。だが、正体までは分からん」


 ディルクは無理に結論を出さなかった。


「それに、あの男は妙に落ち着いていた」


「剣を振り回していたんでしょう?」


「ああ。だが、普通の怒り方とは違った」


 狙いを定め、迷いなく踏み込む。相手を傷つけることをためらわない。その様子が、今も記憶に残っている。


「相手を斬ることに、ためらいがなかった」


「……王国騎士団長代理が、民間人の少女にか」


「兵士たちも止めていた。それでも聞かなかった」


「それは、力の問題以前に騎士としてどうなのかしら」


 フェリアの声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。


「ラヴィナは大丈夫だったのね?」


「ああ。あの場は収まった」


「そう……」


 フェリアはようやく息を吐いた。


 しばらく沈黙が続いた。シオンは新聞を引き寄せる。エレナ王女死亡の記事と、アラン・フォルディスの手配書。その二つを見比べているうちに、指が止まった。


「……待てよ」


「どうしたの?」


「少し整理したい」


 シオンは指を一本立てる。


「王女殿下は山賊の襲撃で亡くなったと発表された」


「ああ」


「護衛責任者だったアランは王都へ戻っていない」


「そうね」


「そのアランの弟が、騎士団長代理になった」


 ディルクがうなずく。


「そして、その弟がアランを探してシャルネ村まで来ていた」


 どれも、それだけなら説明のつく話だった。責任者が不在なら代理は必要だし、行方の分からない者を探すのも当然だ。


 しかし、ルベルでの目撃談を重ねると、簡単には納得できなくなる。


「……アランが戻ってこない理由が分からないのよね」


 フェリアがつぶやく。


「ああ。王女殿下が亡くなられたなら、なおさら王都へ戻って報告するべきだ」


「戻れない事情があるのかもしれないわ」


「それが何かは、分からん」


 シオンは手配書を押さえた。


「身柄確保は事情を聞くためだ。罪を犯したと決まったわけじゃない。それなのに本人は現れない」


 ディルクが静かに言った。


「だが、俺はルベルで二人を見た」


 その一言で、また沈黙が訪れた。


 王女が生きているなら、死亡発表は何だったのか。アランはなぜ戻らないのか。アルトはなぜ兄を追い、少女へ剣を向けたのか。


 フェリアには、答えが見えなかった。考えを一つ先へ進めようとするたび、必要な事実が欠けている。


「……何か、おかしいわね」


「まだ何も分からない。だが、良くないことが起きている気がする」


 シオンが低く答えた。


「俺もそう思っている」


 ディルクは二人を見た。


「魔導書の件も、アルトの力も、今はつながりがあるとは言えん。だからこそ、決めつけたくない」


「ええ。私もそう思う」


 フェリアは新聞を畳んだ。


 ビールの泡はとうに消え、ランタンの火も小さくなっている。外の通りを通る人の足音も、すっかりまばらになった。


「……今日はもう遅いわ」


「そうだな」


 シオンが席を立ち、ディルクもゆっくり腰を上げた。けれど、二人ともすぐには扉へ向かわない。


 フェリアはカウンターの上の新聞と手配書を見比べた。


 王女死亡。アランの身柄確保。騎士団長代理となったアルト。遠いヴェルネシアから運び込まれる魔導書。


 一つ一つは、まだ別々の出来事だった。


 フェリアは折り目をそろえた新聞を棚へしまい、最後のランタンを見上げる。


「何が本当なのか、まだ分からないわね」


 誰も否定しなかった。


 王都ローディスの夜は、何事もなかったかのように静かに更けていく。


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