第16話 王都の夜に集まる3人
王都ローディスは、日が沈んでも眠らない。
昼間は荷馬車の軋む音と商人の呼び声が響く石畳の大通りも、夜になると別の顔を見せる。酒場の窓から暖かな光がこぼれ、仕事を終えた職人たちの笑い声に楽器の音が重なった。高台にそびえるローディス王城の中央塔は、夜空を背にして静かに街を見下ろしている。
商業地区の賑やかな通りから一本外れた路地にも、まだ灯りが残っていた。
酒場ヴェルモーラ。
木の看板を掲げた店の中では、ようやく最後の客が帰ったところだった。
「……これで終わりね」
フェリア・ノルンは洗い終えた杯を布で拭いた。灰銀色の長い髪を後ろで一つに束ね、いつものように片付けをする。すらりとした身体つきながら、椅子を運ぶ腕の動きには確かな力があった。皿を重ね、椅子を整え、最後のランタンを確かめる。その一つ一つに無駄がない。
暖炉の火は小さくなり、店内には酒と木の香りが残っていた。つい先ほどまで客で埋まっていた卓も、今は空っぽだ。
フェリアは入口を見た。
(そろそろ来る頃かしら)
閉店後、決まって顔を見せる男がいる。ただ、今日はもう一人来る。今夜はどちらもまだ来ていない。
その時、扉が開いた。
「まだ飲めるか?」
聞き慣れた声に、フェリアは振り返る。
「ごめんなさい。もう閉店よ」
「そうか。じゃあ帰る」
男は本当に扉を閉めようとした。
「ちょっと。そこはもう少し粘らないの?」
「閉店と言ったのはお前だろう」
「冗談よ。入って」
シオン・レイヴァルは、わずかに口元を緩めた。
深い紺を含んだ黒髪に銀灰色の瞳。長身で細身ながら、鍛えられた身体を持つ。城門の勤務を終えたばかりなのに背筋はまっすぐで、歩く時も余計な音を立てない。
「お疲れさま。今日は遅かったわね」
「人の出入りが多かった。やたらと話しかけられてな」
「門番なんだから、話しかけられるのは当たり前じゃない?」
「道案内だけならいいんだが」
シオンはいつもの席に腰を下ろし、店内を見回した。
「ディルクは?」
「まだよ」
「久しぶりの休みだからのんびりとまた歩いて帰ってんだろ」
「そのうち帰ってくるでしょう。あの人のことだもの」
「そうだな。まずはビールを一杯頼む」
「はいはい」
フェリアは木製の杯を取り、ビールを注いだ。細かな泡が縁まで盛り上がる。シオンは差し出された杯を受け取ると、大きく傾けた。
喉が上下する。半分ほど飲んだところでようやく手を止め、長く息を吐いた。
「……うまい」
「それ、いつも言ってるわね」
「いつもうまいからな」
「じゃあ、もう少し味わって飲んだら?」
「最初の一口だけは譲れん」
「半分飲んでおいて一口なの?」
二人は小さく笑った。
外ではまだ誰かの笑い声が聞こえる。けれど店内には、気心の知れた二人だけの静かな時間が流れていた。
フェリアはカウンターの下から新聞を取り出した。
「ねえ。これ、もう読んだ?」
シオンの目が見出しに止まる。
「……王女殿下のことか」
「ええ」
エレナ王女死亡。
その文字は、何度読み返しても変わらなかった。
ヴェルモーラは騎馬急使の伝令を取り扱う店の一つでもある。王都からの知らせはここにも届き、必要な情報は客の目に触れるよう掲示していた。今夜も入口近くには、アラン・フォルディスの所在について情報を求める手配書が残されている。
「城門でもこの話ばかりだった?」
「ああ。詳しいことを聞かれたが、俺だって新聞以上のことは知らん」
「みんな門番なら知っていると思うのね」
「俺は情報係じゃないんだがな」
フェリアは手配書をカウンターへ置く。
「アラン・フォルディスの身柄確保命令も出ているわ」
「騎士団長が行方不明か」
「王都へ戻ってきていないそうよ」
シオンは新聞を引き寄せた。
「山賊に襲われた、か。騎士団長が同行していたんだろう?」
「ええ。護衛もいたはずよ」
「それで王女殿下を守れなかったというのなら、随分と心許ない話だ」
「王国騎士団って、もっと頼りになるものだと思ってたんだけど」
フェリアの言い方には、わずかな皮肉が混じっていた。
「城門の警備の方がましだったかもしれんな」
「自分の仕事を褒めてるの?」
「少なくとも、今日の俺は門を無事に守った」
「それはご立派」
笑いは短かった。
シオンは記事の下段を指でなぞった。
「……だが、実際に何があったのか分からん」
「そうね。襲撃の詳しい様子も書かれていない」
「相手の数も、護衛がどう動いたのかも不明だ。騎士団が弱かった、それだけで済む話じゃない」
「アランが戻らない理由もね」
「身柄確保は事情を聞くためだ。有罪になったわけではない」
「分かってる。でも、今日のお客さんの中には、もう犯人扱いしている人もいたわ」
「噂は勝手に走るものだな」
フェリアは新聞を畳みかけて、手を止めた。
「……これで公に残る王族は、陛下お一人になってしまったのね」
シオンの表情が変わった。
暖炉の薪が小さく弾ける。
「……そうだな」
エレナが本当に亡くなったなら、王家には次代を担う者がいなくなる。国王レオルドはまだ若い。しかし、王女の死が王家の将来に及ぼす影響は、決して小さくない。
「六貴族家も黙ってはいないでしょうね」
「たしかに、特にフォルディス家が今後どう出るか?」
フェリアの表情が一瞬厳しくなった。
「また、良くないことがありそう」
「それに、後継者の問題がある。いずれ王都会議でも避けて通れんだろう。」
「まだ亡くなられたと発表されたばかりなのに……」
フェリアは新聞の上に手を置いた。
「陛下は、どんなお気持ちなのかしら」
シオンはすぐには答えなかった。
王として国を治めることと、父として娘を失うことは違う。新聞には王女の死を知らせる文字が並ぶが、そこに父親の悲しみは書かれていない。
「……せめて、何があったのか分かればな」
その言葉のあと、二人はしばらく黙った。
やがて扉の向こうで、重い足音が止まった。
「遅くなった」
開いた扉の向こうに、大柄な男が立っていた。
「ディルク!」
ディルク・ハイゼンは広い肩を少し傾け、店内へ入ってきた。黒に近い鋼灰色の短髪、暗い鉄青色の瞳。厚い胸板と大きな体格が目を引くが、表情は穏やかだった。
「戻ったか。随分ゆっくりだったな」
シオンが言う。
「少し寄るところがあった」
「旅先で酒でも飲みすぎたか?」
「飲んだのは否定しない」
「正直ねえ」
フェリアが笑い、空いた席を示した。
「お帰りなさい。疲れたでしょう」
「大丈夫だ。それより二人に聞きたいことがある」
ディルクの視線が、カウンターの新聞に止まった。
「エレナ王女殿下のことだ」
シオンがうなずく。
「今、その話をしていた」
「アラン・フォルディスの手配書も届いているわ」
「そうか……」
ディルクは腰を下ろしたものの、新聞から目を離さなかった。
「実は、ルベルで妙なことがあった」
「妙なこと?」
フェリアが尋ねる。
「酒場で二人連れに会った。若い女性と、鍛えられた身体の男だ」
「それが?」
「……エレナ王女殿下とアラン・フォルディスだったと思う」
フェリアの手が止まった。
「何ですって?」
シオンも杯を置く。
「おい。王女殿下は亡くなられたと発表されたんだぞ」
「知っている。だから俺も驚いている」
「いつの話?」
「王都へ戻る前、ルベルに立ち寄った時だ。二人は普通の客と変わらず酒場にいた」
「それで王女殿下だと分かったの?」
フェリアは眉を寄せた。
「王族は十六歳で成人するまで王都の外へ出ないでしょう。庶民の服を着て人混みに紛れていたら、見慣れていない人には分からないはずよ」
「その通りだ。しかもアランは、まだ団長になって1年ちょっと。庶民からしたら2人に会ってもわかる人はそうおいない」
シオンも腕を組む。
「俺が王女殿下のお姿をはっきり見たのは、誕生日旅行へ出発された時が初めてだった。正直に言えば、顔の細部までは覚えていない」
「あなたも?」
「遠目に見ただけだ。誰かと間違えないと言い切る自信はない」
二人の視線がディルクへ集まる。
「本当に王女殿下だったのか?」
ディルクは急いで答えなかった。あの酒場での光景を、ひとつずつ思い返す。
淡いプラチナブロンドの長い髪。透明感のある青紫色の瞳。落ち着いた物腰の女性と、その隣にいた、広い肩を持つ男性。
「最初は、俺も妙な二人だと思っただけだ」
「妙?」
「服装は庶民のものだった。だが、女性の立ち居振る舞いが違った。相手への接し方も、言葉の選び方も。誰かに見せつけるような気品じゃない。自然に身についているものだった」
フェリアは静かに聞いている。
「それだけなら、裕福な家の娘かもしれないわ」
「そうだな。俺もそれだけで断定はしない」
「なら、何が決め手だった?」
シオンの問いに、ディルクは答えた。
「左手首だ」
「左手首?」
「月の紋章が入ったブレスレットをしていた」
フェリアとシオンの表情が変わる。
「……王族の証ね」
「ああ。見間違いではないと思う」
ディルクは言葉を続けた。
「同行していた男もアラン・フォルディスに見えた。顔立ちも体格も、俺の知っている特徴と合っていた」
シオンは新聞へ視線を落とす。
「王女殿下が生きていて、護衛責任者と一緒にいた……?」
「俺の見たものが正しければな」
「なら、なぜ王都へ戻らないの?」
フェリアの問いに、ディルクは首を横に振った。
「そこまでは分からない。事情を聞けるような状況でもなかった」
「王女殿下が亡くなられたという発表と、あなたの目撃談。両方が正しいはずはないわ」
「そうだ」
「でも、片方が間違いだと決めつけるには、まだ足りない」
フェリアは手配書をそっと裏返した。
「この話を誰にでもしていいわけじゃないわね」
「俺もそう思う」
シオンがうなずく。
「事実を確かめる前に噂が広がれば、かえって面倒なことになる」
三人はそこで言葉を止めた。王都へ戻らない理由も、新聞がそう伝える理由も、まだ誰にも分からない。
ディルクはしばらく新聞を見つめていたが、ふと顔を上げた。
「そうだ。もう一人、会った人がいるぞ」
「誰?」
「ガルド様のお孫さんだ」
シオンが身を起こした。
「……ガルド様の?」
「ラヴィナという娘だ。シャルネ村で元気にしてた」
フェリアの表情が柔らかくなる。
「お孫さん……今はもう、随分大きくなっているでしょうね」
「ああ。たくましくなっていたよ」
ディルクは、どこか楽しそうに右の頬へ手を当てた。
「俺なんか、ここを蹴られてしまった」
「……何?」
シオンが目を丸くする。
「お前が?」
「そうだ」
フェリアは一瞬きょとんとして、それから口元を手で覆った。
「ちょっと待って。どういうこと? あなたが女の子に蹴られたの?」
「そんなにおかしいか?」
「おかしいというか……想像できないのよ」
「俺も驚いた」
ディルクが平然と言うものだから、フェリアはとうとう笑ってしまった。
「ふふっ、ごめんなさい。だって、そんな話を笑いながらするんだもの」
「笑い話だからな」
シオンはまだ納得していない様子で、ディルクの頬を見た。
「本当に当たったのか?」
「確かに当たった。かなり勢いもあった」
「それで、よく平気な顔をしているな」
「痛くなかったわけじゃない」
「ますます分からん」
ディルクは低く笑った。
「三十秒の勝負をしたんだ。俺は素手で、あの娘は小太刀を使う。時間内に一撃でも当てられたら、俺の負けという約束だった」
「小太刀を当てられたの?」
「いや。刃は一度も届かなかった」
「それなのに蹴られた?」
「ああ」
ディルクは自分の杯がないことに気づき、フェリアへ目を向けた。彼女は笑いを抑えながら新しい杯を用意する。
「続きは?」
「途中で精霊花を使った。動きが速くなったから、俺はその力を追っていた。右へ、左へと動いても、居場所は分かる。刃の軌道も見えていた」
「なら、どうして当たった?」
シオンの問いに、ディルクは少し楽しそうに答えた。
「最後の瞬間、あの娘は花を手放した。小太刀も地面へ突き立てた。俺が追っていたものが、同時に攻撃の線から消えたんだ」
「……なるほど」
「俺は一瞬、攻撃が終わったと思った。ところが、あの娘にはまだ左脚が残っていた」
シオンは数秒黙り、それから小さく息を吐いた。
「精霊力を追っているお前の癖を、利用したのか」
「そういうことだ」
「大したものね」
フェリアは新しい杯を置いた。
「それで、あなたは負けを認めたの?」
「もちろん。約束は約束だ」
「剣を当てたわけじゃないのに?」
「一撃と言った。剣とは言わなかった。そこを見抜かれたんだから、俺の負けだよ」
シオンは苦笑した。
「お前らしいな」
「そうか?」
「負けたことより、どうやって負けたかを楽しそうに話している」
ディルクは杯を手にしたまま、少しだけ目を細めた。
「……あの娘は、諦めなかったからな」
その声に、フェリアは笑うのをやめた。
「ガルド様のお孫さん、か」
「ああ」
「どんな子だった?」
「口は悪い。気も強い。思ったことをすぐ口にするし、簡単には引かない。だが、ただ向こう見ずなだけじゃない。相手をよく見ている」
「なるほど。ずいぶん気に入ったみたいね」
「そう聞こえるか?」
「ええ」
ディルクは否定しなかった。
ラヴィナの踏み込みを思い出す。届かないと分かっても攻め方を変え、最後には自分の強みを利用して一撃を当てた。剣を振る姿勢に、ふと懐かしいものを感じたこともあった。
「……ガルド様を思い出したよ」
その名を聞くと、シオンも杯から手を離した。
「ガルド様、か」
しばらく、誰も話さなかった。
かつて剣聖と呼ばれたガルド・ベルク。三人にとって、その名はただの英雄の名ではなかった。自分たちが剣を握る理由や、何を守ろうとしてきたのかを思い返す時、いつもそこへ戻る。
「厳しい方だったな」
シオンがつぶやく。
「そうね。少しの油断も見逃してくれなかった」
フェリアは懐かしそうに笑う。
「でも、誰かがうまくできた時には、ちゃんと見ていてくださった」
「褒め言葉は多くなかったがな」
「そうそう。だから余計に覚えてるのよ」
ディルクは二人の会話を聞きながら、杯の縁へ指を置いた。
「俺は、あの方の前では自分の力を過信できなかった」
「お前ほどの体格でも?」
「体が大きいだけで勝てるなら、剣を学ぶ必要はないだろう」
シオンが笑った。
「それはそうだ」
「ガルド様は、力任せに前へ出るだけでは足りないと、何度も気づかせてくださった」
「私は速く動くことばかり考えていた気がするわ」
フェリアは自分の手を見た。
「でも、速いだけじゃ守れないものもあるのよね」
「技を磨けば何でも解決するわけでもない」
シオンが静かに続けた。
「結局、何のために剣を使うのか。そこへ戻る」
ディルクはうなずいた。
「……あの方なら、そうおっしゃるだろうな」
三人の間に、穏やかな沈黙が生まれた。
誰かが笑えば、つられて笑える。けれど、その名を口にした時にだけ生まれる静けさもある。もう会うことのできない人の話は、懐かしいだけでは終わらない。
フェリアは酒棚へ目を向けた。
「お孫さんがそんなに強くなっているなんて、ガルド様が聞いたら何ておっしゃるかしら」
「まずは、調子に乗るな、と言うかもしれん」
シオンの答えに、ディルクが笑う。
「確かにな。あの娘も、きっと言い返すだろう」
「似た者同士だったら面白いわね」
フェリアの言葉に、三人の笑い声が重なった。
しばらくして、笑いが落ち着く。
ランタンの火は小さくなり、シオンの杯からはもう泡が消えていた。外の通りも、先ほどより静かになっている。
フェリアはカウンターの新聞を手に取った。
エレナ王女死亡。
その隣には、アラン・フォルディスの手配書がある。
ほんの少し前まで、二人の名前は記事と手配書の中にしかなかった。今はそこへ、ディルクが自分の目で見たという二人の姿が重なっている。
王都の人々は王女の死を信じている。新聞も、そう伝えている。
しかし、目の前の男は違うことを言う。
「……もし本当に生きておられるなら」
シオンが言いかけ、そこで口を閉じた。
フェリアは続きを促さなかった。何を言いたいのかは分かる。けれど、今の段階で答えを出すことはできない。
ディルクがゆっくり杯を置いた。
「俺は、この目で見た」
その声は静かだった。
フェリアは新聞を畳んだ。紙の端が擦れる音が、妙にはっきり響く。
店の外では、夜の王都がまだわずかに息づいていた。遅くまで開く酒場の灯り、帰路につく人の足音、遠くに見える王城の塔。
街はいつもと変わらない夜を過ごしている。
けれど、ヴェルモーラのカウンターに置かれた一枚の新聞は、三人にとって、もう先ほどまでと同じ意味では読めなかった。
ガルドの思い出話が途切れると、三人の間に穏やかな沈黙が戻った。
酒場ヴェルモーラの外から、遅い時間まで飲み歩く客の笑い声が聞こえてくる。フェリアは拭き終えた杯を棚に戻した。店内のランタンは、もういくつか火を落としている。
シオンは杯の底に残ったビールを飲み、隣の大男を見た。
「で? わざわざ休みを取って戻ってきたんだ。それなりに理由があるんだろ?」
ディルクはすぐには答えなかった。
「そういえば、いつもより早かったわね」
フェリアもカウンターに手を置く。
「ガルド様のお孫さんに会えたのはよかったけれど、それだけじゃなさそうね」
「少し気になることがあってな」
「気になること?」
ディルクは木杯から手を離した。
「最近、ヴェルネシアから魔導書が大量に入ってきているらしい」
「魔導書?」
シオンが眉を上げる。
「ああ。以前よりも明らかに数が増えている」
ディルクが働くヴァレスタの港には、毎日のように貨物が届く。船から降ろされる木箱、荷車へ移される品々。すべての中身を知るわけではないが、繰り返し運ばれてくるものなら嫌でも目につく。
「初めは気にしていなかった。書物が運ばれてきたところで珍しくもない。だが、魔法科学に関するものが増えたと聞いてな」
「どこへ運ばれているの?」
「分からん」
「買っている人も?」
「そこまでは知らない。港で見聞きしただけの話だ」
曖昧なところを曖昧なまま伝えるディルクに、フェリアは小さくうなずいた。
「研究するのは自由だけど……そんなに魔導書って人気があるものなのかしら?」
「俺にも分からん」
「魔法なんて普通の人には縁のない話でしょう? それを大量に買い込むなんて、誰が何に使うのかしら」
シオンは肩をすくめた。
「ヴェルネシアは魔法科学の研究が進んでいる国なんだろう?」
「ああ」
「だったら、向こうでは当たり前の書物なのかもしれないな。外国の常識と、俺たちの常識は違うものだ」
「随分と楽観的ね」
「本が増えただけで国が危なくなるなら、王都の書店はとっくに危険地帯だ」
「そういう話じゃないでしょ」
フェリアが呆れて笑う。
「あなた、門でもそんな調子なの?」
「仕事中はもっと真面目だ」
「本当かしら」
軽口に笑いが生まれた。だが、ディルクだけは杯を見つめたままだった。
シオンがその様子に気づく。
「……まだ何かあるのか?」
「ああ。実は、シャルネ村で妙な騎士に会った」
「騎士?」
「王国騎士団の男だ」
フェリアが顔を上げた。
「シャルネ村に?」
「ガルド様のお孫さんに剣を向けていた」
「……何ですって?」
フェリアの声が低くなる。さっきまで笑っていたシオンも、杯を置いた。
ディルクは村で見たことを順に話した。兵士を伴った若い騎士がアランの行方を尋ねていたこと。ラヴィナと言い争いになったこと。そして、自分が到着した時にはラヴィナは武器を失い、それでも相手の剣先は彼女へ向いていたこと。
「武器を持っていない子にまで?」
「ああ。周りの兵士も止めようとしていた」
「それで、お前が止めたのか」
シオンが聞く。
「ああ」
「相手は誰だ?」
「アルト・フォルディス」
シオンの目が細くなった。
「アランの弟か」
「そうだ。今は騎士団長代理らしい」
フェリアは新聞へ目を向けた。行方不明の兄。その代わりに騎士団を率いる弟。そして、その弟が兄を探して小さな村に現れた。
「……妙な話ね」
「それで、どうやって止めた?」
ディルクは少し笑った。
「賭けをした」
「賭け?」
「三十秒間、俺が素手で奴の剣を避けきれたら、あの娘を見逃すという約束だ」
フェリアが額に手を当てた。
「相変わらず無茶なことをするのね」
「そうでもない」
「素手で剣の相手をしたんでしょう?」
「相手も条件を飲んだ」
「そういう問題じゃないわよ」
シオンは苦笑した。
「それで、どうなった?」
「三十秒間、一度も斬られなかった」
「だろうな」
「あなたまで……」
フェリアは二人を交互に見て、ため息をついた。
だがディルクの表情は晴れなかった。
「……ただ、妙な感覚があった」
「どんな?」
「奴の剣から、普通の人間とは違う力を感じた。精霊力じゃない。もっと異質なものだ」
シオンの表情が変わる。
「魔力か?」
「断定はできん。だが、精霊力とは明らかに違った」
ディルクはあの花畑で感じた、近づくほどに不快になる気配を思い出す。相手の動きは捉えられた。刃を避けることもできた。だが、剣の向こうにある何かが、ずっと気にかかっていた。
「その力は、どんなものだったの?」
「強いというより……不快だったな」
「不快?」
「俺の精霊力が、あいつの中にある何かを拒んでいるような感覚だ」
シオンは腕を組む。
「精霊力と相反する力、か」
「そう考えれば説明はつく。だが、正体までは分からん」
ディルクは無理に結論を出さなかった。
「それに、あの男は妙に落ち着いていた」
「剣を振り回していたんでしょう?」
「ああ。だが、普通の怒り方とは違った」
狙いを定め、迷いなく踏み込む。相手を傷つけることをためらわない。その様子が、今も記憶に残っている。
「相手を斬ることに、ためらいがなかった」
「……王国騎士団長代理が、民間人の少女にか」
「兵士たちも止めていた。それでも聞かなかった」
「それは、力の問題以前に騎士としてどうなのかしら」
フェリアの声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「ラヴィナは大丈夫だったのね?」
「ああ。あの場は収まった」
「そう……」
フェリアはようやく息を吐いた。
しばらく沈黙が続いた。シオンは新聞を引き寄せる。エレナ王女死亡の記事と、アラン・フォルディスの手配書。その二つを見比べているうちに、指が止まった。
「……待てよ」
「どうしたの?」
「少し整理したい」
シオンは指を一本立てる。
「王女殿下は山賊の襲撃で亡くなったと発表された」
「ああ」
「護衛責任者だったアランは王都へ戻っていない」
「そうね」
「そのアランの弟が、騎士団長代理になった」
ディルクがうなずく。
「そして、その弟がアランを探してシャルネ村まで来ていた」
どれも、それだけなら説明のつく話だった。責任者が不在なら代理は必要だし、行方の分からない者を探すのも当然だ。
しかし、ルベルでの目撃談を重ねると、簡単には納得できなくなる。
「……アランが戻ってこない理由が分からないのよね」
フェリアがつぶやく。
「ああ。王女殿下が亡くなられたなら、なおさら王都へ戻って報告するべきだ」
「戻れない事情があるのかもしれないわ」
「それが何かは、分からん」
シオンは手配書を押さえた。
「身柄確保は事情を聞くためだ。罪を犯したと決まったわけじゃない。それなのに本人は現れない」
ディルクが静かに言った。
「だが、俺はルベルで二人を見た」
その一言で、また沈黙が訪れた。
王女が生きているなら、死亡発表は何だったのか。アランはなぜ戻らないのか。アルトはなぜ兄を追い、少女へ剣を向けたのか。
フェリアには、答えが見えなかった。考えを一つ先へ進めようとするたび、必要な事実が欠けている。
「……何か、おかしいわね」
「まだ何も分からない。だが、良くないことが起きている気がする」
シオンが低く答えた。
「俺もそう思っている」
ディルクは二人を見た。
「魔導書の件も、アルトの力も、今はつながりがあるとは言えん。だからこそ、決めつけたくない」
「ええ。私もそう思う」
フェリアは新聞を畳んだ。
ビールの泡はとうに消え、ランタンの火も小さくなっている。外の通りを通る人の足音も、すっかりまばらになった。
「……今日はもう遅いわ」
「そうだな」
シオンが席を立ち、ディルクもゆっくり腰を上げた。けれど、二人ともすぐには扉へ向かわない。
フェリアはカウンターの上の新聞と手配書を見比べた。
王女死亡。アランの身柄確保。騎士団長代理となったアルト。遠いヴェルネシアから運び込まれる魔導書。
一つ一つは、まだ別々の出来事だった。
フェリアは折り目をそろえた新聞を棚へしまい、最後のランタンを見上げる。
「何が本当なのか、まだ分からないわね」
誰も否定しなかった。
王都ローディスの夜は、何事もなかったかのように静かに更けていく。




