第14話 友達の夢
ラヴィナは、摘みかけたフィレナから指を離した。
(こっちは……弱いな。じゃあ、隣は?)
昨日までなら、こんなことは考えなかった。必要な花を摘み、胸元へ挟んで名前を唱える。それだけでよかった。だがディルクに教わってから、花畑の見え方が変わった。目の前の花の一輪一輪が、それぞれ違う力を持っているように思える。
朝日が花畑を照らし、葉先の露が光っている。ラヴィナは目を細めた。かすかな水の気配のようなものがある。けれど強さを比べようとすると途端に曖昧になる。
「ラヴィナ、さっきから何してるの?」
ミレイが籠を腕に掛けて立っていた。
「フィレナを選んでる」
「いつも選んでるじゃない」
「今日はちょっと違うんだよ」
「どう違うの?」
「強そうなやつ」
「……花が?」
「精霊力が」
ミレイは不思議そうに首を傾げた。
「花にも強いとか弱いとかあるの?」
「あるんじゃねーの?」
「なんで疑問形なの?」
「教わったばっかだからな」
ミレイは呆れたように笑った。
「じゃあ、まだ分からないんだ」
「だから今、試してんだよ」
「ふふ。頑張ってね」
ラヴィナは口を尖らせたが、すぐに花へ意識を戻した。焦っても仕方がない。昨日ようやく知ったことが、今日すぐ身につくわけではない。
ミレイは少し離れた場所で、売り物にする花を一輪ずつ確かめていた。今日は妙に慎重だ。花弁の端に少し傷があるだけで見送り、色も形も整ったものだけを籠に収めている。
「今日、やけに真剣じゃね?」
「いつも真剣だよ」
「いや、いつもより」
ミレイは照れたように笑った。
「実はね、今日はちょっと特別な日なの」
「誕生日か?」
「違うよ」
「じゃあ何だよ」
「あとで話す」
「今話せよ」
ミレイは答えず、選んだ花を籠に入れた。ラヴィナが呆れていると、しばらくしてミレイの方から話し始めた。
「この前、村で花を売ってた時にね、貴族のお屋敷で執事をしている方が来たの」
「執事?」
「うん。シャルネの珍しい花を気に入ってくださって。どこで摘むのかとか、どれくらい用意できるのかとか、たくさん聞かれたんだ」
「へえ」
「それでね、ルベルの街で花屋を開いてみませんかって!」
ラヴィナは思わず顔を上げた。
「店?」
「うん!」
「ルベルで?」
「そう!」
毎朝一緒に山へ登り、村で花を売っていたミレイ。その幼なじみが、街で自分の店を持つという。
「……マジかよ」
驚いているラヴィナを見て、ミレイは嬉しそうに笑った。
「私も最初、冗談だと思ったよ。でも、今は使っていないお店があるんだって」
「店なんて借りたら、金かかるだろ」
「それがね、店は無料で貸してくれるんだって」
「無料?」
「うん。代わりに、売れた分から少しだけ納めてほしいって」
ラヴィナは眉を寄せた。
「そんなうまい話あんのか?」
「私も驚いたよ」
「その執事、本当に大丈夫なのか?」
「ちゃんとした方だったよ。話も丁寧に聞いてくださったし」
「そりゃそう言うだろ」
「ラヴィナ、疑いすぎ」
ミレイは笑っていたが、ラヴィナは少し引っかかった。無料で店を貸すというのは、少なくとも自分の知っている商売とは違う。
「心配してくれてるの?」
「騙されてたら面倒だろ」
「ありがとう」
「礼を言うところじゃねーよ」
ミレイが楽しそうに笑う。ラヴィナもそれ以上は言わなかった。
ふと、ミレイの視線が花畑の端へ向いた。ディルクの大海嘯によって大きな岩が吹き飛んだ場所。削れた地面がむき出しになり、岩の破片が転がっている。
「……本当は今日、もっとたくさん摘みたかったんだけどな」
「花はそんなに傷んでねーだろ」
「そういう問題じゃないの」
「またそれかよ」
「珍しい花を探すのも楽しみにしてたんだよ。今日は大事な日だから」
ミレイは籠の中身を見つめた。ラヴィナはあの一撃を思い出す。あれを見た時はただ圧倒されたが、花を大切にしているミレイには別の意味があったのだろう。
「……悪かったな」
「ラヴィナがやったわけじゃないでしょ?」
「まあな」
「でも、あの人と一緒だったんだから、もう少し止めてほしかったな」
「止められるわけねーだろ。あんなの」
「次からは花畑であんなことしないでよ?」
「俺に言うなよ!」
二人は顔を見合わせ、いつものように笑った。
花摘みが終わる頃、ミレイは急に真面目な顔になった。
「ねえ、ラヴィナ。実はお願いがあるの」
「何だよ」
「今日、一緒にルベルへ来てくれない?」
「……ルベル?」
今日は店の下見で、昼過ぎに執事と待ち合わせているという。ミレイは籠を両手で持ち直した。
「初めてのことだし、一人だと少し不安で。ラヴィナがいてくれたら安心すると思うの」
「俺、花屋のことなんか分かんねーぞ」
「それでもいいの」
ラヴィナは少し考えた。
「ルベルって、歩くだけでも半日かかるぞ?」
「知ってるよ」
「帰りどうすんだよ」
「一泊二日で行くつもり」
「泊まるのか?」
「うん。日帰りは大変でしょ?」
(ルベル……)
ディルクがエレナとアランに会った街だ。二人が元気に食事をしていたと聞いた場所。ラヴィナはその街を少し見てみたくなった。
「親には言ったのか?」
「もちろん! お父さんもお母さんも、ラヴィナと一緒なら行っていいって」
「……俺と?」
「うん」
「何で?」
「だってラヴィナ、強いでしょ?」
ラヴィナの笑みが少し止まった。アルトの剣、切られたフィレナ、動かなくなった身体。あの時の自分は何もできなかった。けれどミレイは無邪気に笑っている。
「だから、私の護衛も兼ねて!」
「……護衛扱いかよ」
「頼りにしてるんだよ?」
「都合いいな」
「だめ?」
「……しょうがねーな」
「本当!?」
「まだばあちゃんに聞いてねーだろ」
「じゃあ聞きに行こう!」
「気が早いって!」
◇
シャルネ村へ戻った二人は、リゼアの家で事情を説明した。
「ばあちゃん、今日ミレイとルベルに行ってくる」
「ルベル?」
「ああ。ミレイが店を見に行くんだって」
ミレイが丁寧に頭を下げる。
「ルベルで花屋を開くお話をいただいたんです。今日は店舗の下見で……」
リゼアは急かさず最後まで聞いた。
「ミレイも、いよいよ自分のお店を持つのですね」
「はい!」
「もしかして、泊まりかい?」
「そうらしい」
リゼアは少し考えてから頷いた。
「行っといで」
「……いいのか?」
「まあ、ミレイが一緒なら安心でしょ」
「俺がミレイを守るんじゃねーの?」
「剣のことばかり考えているあなたには、ミレイがついていてくれた方が安心です」
ミレイが吹き出した。
「ふふっ」
「笑うなよ!」
「だって、ラヴィナったら」
「何なんだよ、二人とも!」
家の中に明るい笑い声が広がった。
◇
旅支度を整え、二人はシャルネ村を出た。ミレイは花の籠を大切そうに抱え、ラヴィナは荷物と一本の小太刀を携える。山道には木漏れ日が差し、鳥の声が枝の間を渡っていた。
「お店ってどんなところだろ。楽しみ」
「さっきから何回言ってんだよ」
「だって、すごく楽しみで」
「店を見てから喜べばいいだろ」
「こういう時くらい一緒に喜んでくれてもいいのに」
ラヴィナは苦笑した。ミレイは普段から花が好きだったが、今日は一輪見るたびに、これを店に並べたらどうなるだろうと考えているらしい。
森を抜ける途中、ミレイが足を止めた。
「見て、あの花」
「それ、売るのか?」
「ううん。見るだけ」
「じゃあ早く行こうぜ」
「ラヴィナだってフィレナ見つけたら止まるでしょ?」
「……まあな」
ミレイは花を傷つけないように葉を戻した。ラヴィナはその手つきを眺めた。自分が小太刀を扱う時、ミレイもこんなふうに呆れているのだろうか。
しばらく歩くと、木々の間から明るい斜面が見えた。草の上を風が渡り、遠くの山並みが淡く重なっている。道は細く、足元に小石が多い。二人は歩き慣れた道を、いつもよりゆっくり進んだ。
「そういや、店を貸してくれる奴ってどんな奴なんだ?」
ラヴィナが尋ねると、ミレイは少し考えた。
「詳しくは聞いてないんだけど……クロイツ家っていう貴族のお屋敷で執事をしている人なんだって」
「クロイツ家?」
「うん」
「その貴族が店を貸してくれるのか?」
「そうみたい。執事さんが話をしてくれたんだけどね」
ミレイは弾んだ声で続けた。
「近いうちに、たくさんの花が必要になるんだって」
ラヴィナの足が少し緩んだ。
「……たくさん?」
「うん。かなりの量が必要になるらしいよ」
「何に使うんだ?」
「そこまでは聞かなかったな」
(大量の花、ねえ……)
結婚式。祝宴。それとも葬儀。そこまで考えた時、エレナの顔が浮かんだ。新聞には、エレナ王女が亡くなったと書かれていた。本人が生きていると知っているラヴィナには、あまりにおかしな話だ。
(……まさかな)
王女の葬儀に使う花。そんな可能性まで考えたが、口にはしなかった。
「どうしたの?」
「いや、何でも」
ミレイは頷いて先へ進む。ラヴィナも後を追ったが、クロイツ家という名と、大量の花という言葉が頭に残った。
やがて山道が終わり、二人は幅の広い街道へ出た。細い道から左へ曲がると、遠くにルベルの街並みが見えた。
「わあ……!」
ミレイが立ち止まる。シャルネとはまるで違う。建物が幾重にも並び、街道には荷馬車や旅人の姿がある。街へ近づくほど、商人の呼び声や車輪の音が聞こえてきた。
「……あそこに、私のお店ができるんだ」
「まだ見てもねーだろ」
「そうだけど!」
ミレイは嬉しそうに歩く速度を上げた。昼過ぎ、二人はルベルへ到着した。
◇
「この辺りで待ち合わせなんだけど……」
街の入口でミレイが辺りを見回した。人の往来はシャルネよりずっと多い。ラヴィナも荷馬車の陰や道沿いに目を走らせる。
「あっ、あの方!」
ミレイが声を上げた。落ち着いた身なりの男性が、もう一人の男とともに近づいてくる。
「こんにちは!」
「こんにちは。お約束どおりお越しくださったのですね」
執事は丁寧に会釈した。そして隣の男性を示す。
「こちらは、私がお仕えしておりますクロイツ家の当主、ユリウス・クロイツ様です」
ミレイの背筋がぴんと伸びた。
「えっ……当主様ですか?」
ラヴィナも相手を見た。細身の金属フレーム眼鏡を掛けた、端正な身なりの男だった。灰青色の目が静かに二人へ向けられる。兵士のような威圧感はない。だが、周囲が騒がしいせいか、かえって落ち着いた立ち姿が目立った。
「遠いところをよく来てくれました」
ユリウスの声は穏やかだった。
「本日はよろしくお願いいたします!」
ミレイが深く頭を下げる。ラヴィナも軽く頭を下げた。
「……どうも」
ユリウスはその挨拶を咎めることもなく、小さく頷いた。
執事の案内で街の中を進む。広い石畳の道を荷馬車が通り、左右には食堂や商店が並んでいる。布の日除けの下では品物を選ぶ客がいて、窓辺には花鉢を置いた店もあった。
ミレイはあちこちを見ている。
「ラヴィナ、あのお店、花を飾ってる」
「そりゃ飾るだろ」
「どんな花が人気なのかな」
「知らねーよ」
「あとで見てみたいな」
ラヴィナは呆れながらも、ミレイの歩調に合わせた。
やがて執事が一軒の建物の前で立ち止まる。
「こちらになります」
ミレイは建物を見上げた。
「……ここ、ですか?」
思っていたよりずっと大きい。村で籠を置いて花を売る場所とは、まるで違う。扉が開くと、さらに広い室内が現れた。
窓から差し込む光が、まだ何も並んでいない床へ落ちている。奥まで見渡せる空間に、ミレイはしばらく言葉を失った。
「……ここを、私が使っていいんですか?」
「はい。こちらの店舗をお使いいただけます」
執事が答えると、ミレイは小さな籠を見下ろした。
(これだけじゃ、全然足りない……)
今朝あれほど丁寧に選んだ花が、急に少なく見えた。店の片隅へ置けば、たちまち広さに負けてしまうだろう。
ラヴィナも室内を見回している。
「でけーな。村で売ってたのと全然違うじゃん」
「……うん」
ミレイは頷いた。嬉しい。けれど、その嬉しさに混じって、胸の奥が少し落ち着かない。
ユリウスは店内を一通り見たあと、二人へ向き直った。
「店舗の使い方については、執事から説明させます」
「ありがとうございます!」
ミレイが深く頭を下げる。ユリウスは軽く頷き、ラヴィナにも短く挨拶をした。それ以上の話はせず、執事へ後を任せて店を出ていく。
ラヴィナはその背中を見送った。
(貴族って、あんな感じなのか)
王族のエレナとはずいぶん違う。だが、相手が何を考えているかなど、あれだけの会話で分かるはずもない。
「ラヴィナ、すごいね……」
「ああ。思ってたよりでけーな」
「私、本当にここで花屋を開くんだ……」
ミレイは嬉しそうに笑った。その手は、まだ籠の持ち手を強く握っている。
◇
執事の説明が始まると、ミレイの表情はすぐに真剣になった。
どこへ花を並べるか。どれだけ用意するか。搬入した花をどう扱い、売れた分をどう記録するか。店を開ける日や、売れ残った花の扱いまで考えなければならない。
「毎日、こんなにたくさんの花が必要なんですか?」
ミレイが室内を見渡して尋ねた。
「最初からすべてを花で埋める必要はございません。扱える量から始めていただいて結構です。ただ、まとまったご注文が入ることもございます」
「まとまった注文……」
ミレイは小さく繰り返した。
村で売る時は、花を摘んで籠へ入れ、買ってくれる人を待てばよかった。だがここでは、花が足りなければ客を待たせる。多すぎれば売れ残る。花は摘んだまま永遠に美しく咲いていてくれるわけではない。
「そういや、大量の花が必要になるって言ってたよな」
ラヴィナが口を挟んだ。
「あ、そうでした。何に使うんですか?」
執事は穏やかに答えた。
「いろいろでございます。貴族となると王族との関わりも増え、それに伴って様々な行事が催されます。安定して常に綺麗な花を供給したいというユリウス様の御意向です」
「なるほど……」
ミレイは頷いたが、ラヴィナは黙っていた。
(やっぱり、何かあるのか?)
王族という言葉が引っかかった。しかし執事はそれ以上詳しく話す様子もなく、次の説明へ移った。ラヴィナも追及しなかった。
説明が一段落すると、ミレイは改めて室内を歩いた。窓辺に花を並べたら綺麗だろう。奥には背の高い花を置ける。色の違う花を隣り合わせにしたら、きっと通りを歩く人も足を止めてくれる。
まだ何も置かれていないのに、ミレイの目には少しずつ店の姿が見えてきた。
「ここに、シャルネの花を並べるんだ……」
ラヴィナはその横顔を見た。
剣を握ることばかり考えていた自分とは違う。ミレイは花を選ぶ時のように、一つずつ先のことを考えている。けれど、何かを目指している時の目は、どこか似ている気がした。
「頑張れよ、ミレイ」
ミレイが振り返った。
「……ラヴィナ?」
「何だよ」
「今、応援してくれた?」
「悪いかよ」
「ううん!」
ミレイは籠を抱えたまま笑った。
「ありがとう!」
ラヴィナは少し照れくさくなり、空いた棚の方へ顔を向けた。
◇
店を出た後も、ミレイの話は尽きなかった。
「ねえ、ラヴィナ。あのお店、本当に広かったね!」
「ああ。ミレイの籠、何個分だろうな」
「もう! そういうこと言わないでよ」
「でも、花足りねーだろ?」
「……それは、ちょっと思った」
二人は笑いながら街を歩いた。長い道のりで足が疲れている。ラヴィナは食堂の看板を見つけるたびに目を向けていた。
「そろそろ飯にしねーか?」
「そうだね。私もお腹すいた」
手頃な食事処へ入ると、店内には住民や旅人が集まっていた。皿の触れ合う音、客の話し声、焼いたパンの香り。ラヴィナは席につくなり料理を選び始める。
「これ、うまそうだな」
「まだお店の話、終わってないんだけど」
「飯食いながらでもできるだろ」
「ラヴィナらしいね」
注文を済ませ、料理を待つ間にラヴィナは店内を見回した。
壁の掲示板に、一枚の張り紙がある。
見覚えのある名前だった。
アラン・フォルディス。
ラヴィナは立ち上がった。
「どうしたの?」
「……ちょっと」
掲示板へ近づくと、王国騎士団長アラン・フォルディスの身柄確保命令と、所在に関する情報提供を求める文面が読めた。
その下には、さらに嫌な言葉があった。
『エレナ王女死亡に関する重要関係者』
(まだ探してんのか……)
傷だらけでシャルネに来たアランを思い出す。エレナを守ろうとして負傷し、リゼアの治療を受けた男だ。二人が一緒に過ごした時間を、ラヴィナは知っている。
それなのに、この紙だけを見た者には、アランが王女の死に関わる危険な人物のように映るかもしれない。
「……アラン様」
ミレイが小さく呟きながら、隣に立っていた。
「ああ」
「エレナ様と一緒にいるのに……」
ミレイは張り紙の上部を見た。ここは王家の緊急伝令を運ぶ騎馬急使の取扱所も兼ねた食事処らしい。王国からの正式な通達が掲示されている。
「この書き方だと、アラン様が悪いことをしたみたい……」
「そう見せたい奴がいるんだろ」
ラヴィナは低い声で答えた。誰が何のためにそんなことをしているのかは分からない。
アルトがシャルネ村で口を滑らせた言葉を思い出す。死んだと発表されたエレナを、あいつは探していた。
(あいつら、何考えてんだよ)
ミレイは張り紙から目を離せなかった。
少し前まで、エレナは自分たちと花を摘んでいた。穏やかに話し、知らない花の名前を尋ねてくれた。アランも傷が癒えてからは、二人で静かに暮らしている。
ディルクから元気だと聞いた時は、胸が軽くなったのに。
「……エレナ様、これを見たら悲しむよね」
ミレイの声は小さかった。ラヴィナは何も答えられなかった。
しばらくして、店員が料理ができたと声を掛けてきた。二人は席へ戻った。
温かい料理が並んだのに、ミレイはなかなか手を伸ばさない。
「食わねーの?」
「……ちょっと考えちゃって」
「エレナのことか?」
「うん」
ラヴィナはパンを手にしたまま考えた。
「あの、おっさんから聞いた感じだと元気だったみたいだし、だったら今はそれでいいじゃん」
「そうだね」
ミレイが顔を上げた。
「ラヴィナって、そういうところは前向きだよね」
「腹減ってるだけだよ」
ミレイは少し笑った。
「もう……」
ようやく料理に手を伸ばす。ミレイも食べ始めた。いつものように軽口を交わしても、掲示板の文字だけは胸の奥に残っていた。
◇
その夜、二人は貸店舗の二階で休むことになった。
昼間はあれほど広く感じた建物も、夜になると別の顔を見せた。階下にはまだ商品がなく、通りを歩く人々の声が時折窓の外から届く。遠くで馬車の車輪が鳴り、やがて静かになった。
ミレイは横になってもなかなか眠れなかった。
窓の向こうにはシャルネにはない数の灯りが見える。そのどれか一つ一つに人の暮らしがあり、明日も店を開け、働き、誰かを迎えるのだろう。
(私も、ここで……)
昼間見た店内が目に浮かぶ。窓辺に花を並べる。客が扉を開ける。好きな花を尋ねられたら、自分の言葉で答える。
考えるだけで嬉しくなる。
けれど、その次に思い浮かぶのは空いた棚だった。
今朝の籠一つでは、あの店は広すぎる。毎朝山で摘み、半日歩いて運び、それから店を開ける。それでは日が暮れてしまう。花の鮮度も気になる。売れ残りをどうするかも、まだ考えなくてはいけない。
隣ではラヴィナが横になっていた。
「ねえ、ラヴィナ。起きてる?」
「起きてる」
「ちょっと相談してもいい?」
「何だよ」
ミレイは少し迷った。
「私ね、今日お店を見て思ったんだけど……」
「何?」
「あんなに広いお店、一人でやっていけるのかなって」
ラヴィナは昼間の光景を思い出した。あの広さでは、確かに籠一つの花では心もとない。
「毎朝、山まで花を摘みに行って、それからルベルへ運んで……。お店も開けなきゃいけないでしょ?」
「無理じゃね?」
「だから相談してるんだよ!」
ミレイは思わず笑った。ラヴィナも少しだけ笑う。
そしてミレイは、思い切って言った。
「ねえ、ラヴィナ。一緒に花屋をやらない?」
ラヴィナが身体を起こした。
「……俺が?」
「うん」
「花屋?」
「そう!」
ラヴィナは思わず吹き出した。
「俺、花なんか売ったことねーぞ」
「売るのは私がやるよ」
「じゃあ俺は何すんだよ」
ミレイは身体を起こし、昼間から考えていたことを話し始めた。
「ラヴィナには、山の花畑からお店まで花を運んでほしいの。花を摘む場所はよく知ってるでしょ?」
「そりゃ知ってるけど」
「私はここで花を売る。ラヴィナが摘んで運んでくれたら、毎日山まで戻らなくてもいいし」
ラヴィナは顎に手を当てた。
「でも、シャルネからルベルまで半日かかるぞ」
「毎日じゃなくてもいいよ。必要な分をまとめて持ってきてくれれば」
「そんなに簡単に言うなよ」
「もちろん、お仕事だからお金も払うよ」
ラヴィナの顔が変わった。
「金もらえんの?」
「当たり前でしょ!」
「へえ……」
花畑はよく知っている。山道も歩き慣れている。珍しい花を探すことだって、今まで何度も手伝ってきた。
剣を振るわけではないが、自分にできない仕事ではなさそうだ。
「それにね、私、前から思ってたんだ」
ミレイの声が少し変わった。
「何を?」
「ラヴィナ、もう少し危なくない仕事をしてもいいんじゃないかなって」
ラヴィナは黙った。
「山賊と戦って、怪我して帰ってくることもあるでしょ?」
「まあな」
「昨日だって、本当に危なかったんだよ」
ミレイは膝の上で手を握り合わせた。
アルトが剣を振り上げた瞬間、身体が冷たくなった。リゼアが止めようとしても、兵士たちが声を上げても、あの騎士は止まらなかった。自分にできたのは、地面に頭を下げて許しを乞うことだけだった。
目の前のラヴィナが、もう二度と立ち上がれなくなるかもしれない。そんなことを考えたくもなかった。
「私、ラヴィナが強いのは知ってる。でも、強いからって絶対に負けないわけじゃないでしょ?」
ラヴィナは少し視線を落とした。
「……ああ」
フィレナを失った時の重さが、まだ身体のどこかに残っている気がする。あの時は、どれだけ剣を握りたくても握れなかった。
「だったら、花を運ぶ仕事の方がずっといいよ」
ミレイは少し笑った。
「それに、一緒にお店をやった方が楽しいと思うんだ」
ラヴィナは顔を上げた。ミレイは、もう危険な仕事をするなとも、剣を捨てろとも言わない。ただ別の道もあるのだと、静かに差し出してくれている。
「それに、小さな荷車ならうちにあるし……あっ、そうだ!」
ミレイが急に声を弾ませた。
「もうすぐロイが鉱山の仕事から戻ってくるから、二人でやれば仕事も早いし!」
「……ロイ?」
「うん」
「戻ってくんのか、あいつ!」
ラヴィナは驚いて身を乗り出した。
ロイは昔、ミレイと三人でよく遊んだ友達だった。走って遊んだ道や、くだらないことで言い合った声が懐かしく蘇る。鉱山へ出稼ぎに行ってからは、以前のように顔を合わせることもなかった。
「いつ戻るんだ?」
「もうすぐって聞いてる。詳しい日はまだ分からないけど」
「へえ……。あいつ、どんな顔して帰ってくんだろうな」
「きっとラヴィナと会ったら驚くよ」
「何でだよ」
「だって、今度は花屋を手伝うかもしれないんでしょ?」
「まだ決めてねーって!」
ミレイが声を立てて笑った。
ラヴィナも笑いながら、ふと祖母の顔を思い出した。リゼアは、いつか剣を捨てて普通に暮らしてほしいと言っていた。あの願いが何を意味するのか、昨日までは分かったつもりで分かっていなかったのかもしれない。
自分にとって剣は大切だ。元々は祖父のガルドが護身用に教えたものだ。ただ、もっと強くなりたいという気持ちも消えていない。ディルクの力を見た今なら、なおさらだ。
けれど、だからといって、毎日誰かと戦わなければ生きられないわけでもない。
花を摘み、荷車に積み、街へ運ぶ。
ミレイが店で客を迎え、ロイも戻ってくる。
そんな日々を思い浮かべると、妙におかしかった。
「……まあ」
ラヴィナが口を開く。
「それも面白そうだな」
ミレイが顔を上げた。
「本当!?」
「ああ。花運ぶくらいならできそうだし」
「やった!」
ミレイは思わず両手を握った。
「じゃあ、一緒にやってくれる?」
ラヴィナは少し考え、にやりと笑った。
「まだ決めてねーよ」
「ええっ!?」
「金の話もしてねーだろ」
「もう、ラヴィナったら!」
二人の笑い声が、静かな二階の部屋に広がった。
ミレイはようやく横になった。まだ決まっていないことは多い。店にどんな花を並べるかも、どうやって運ぶかも、明日から考えなければならない。
それでも、さっきよりずっと気持ちが軽い。
「ねえ、ラヴィナ」
「今度は何だよ」
「今日は来てくれてありがとう」
「まだ明日も帰り道があるだろ」
「うん。でも、ありがとう」
ラヴィナはしばらく黙っていた。
「……おう」
やがてミレイの呼吸が穏やかになった。
ラヴィナは窓の外へ目を向ける。
ルベル。エレナとアランが通った街。アランを探す張り紙が残る街。そして、ミレイが花屋を開こうとしている街。
(まだ探してるんだよな……)
夕食の店で見た名前が浮かぶ。エレナとアランがこの先どうなるのか、今のラヴィナには分からない。
隣ではミレイが眠っている。昼間、空っぽの店舗を見て目を輝かせていた姿が思い出された。
ラヴィナはその寝顔を見て、張り紙のことをいったん考えるのをやめた。
今は、友達が見つけた新しい夢を応援してやりたい。
(花屋、か……)
自分が荷車いっぱいの花を運ぶ姿を想像すると、思わず笑みが漏れた。
窓の外では、ルベルの夜が静かに更けていった。




