第9話 賢女、異邦の男の寝所に忍び込む
1.
私はエルン村の賢女エレノア。
アルセリア暦五百五年三月三十一日。今日は、朝から晩まで、ひどく長い一日だった。
薬草採りに出た森でオークに捕まり、泥と汗と恐怖にまみれて、私は自分の最期を覚悟した。
そこへ現れた異邦の男、レオンが私を助け出した。あまりに急な出来事ばかりで、いまも現実味が薄い。
半刻ほど前、私は夕食を出した。眠りを妨げないよう、腹に重すぎないものを選んだだけの粗末な軽食だ。
それでもレオンは受け取るなり、ほっと息をついて「ああ……落ち着きます」と言った。
食べ方も妙に印象に残った。辺境の男のようにかき込まず、貴族のように気取らず、ひとつひとつ確かめるように口へ運ぶ。
育ちが良い、というのとも少し違う。壊さず、荒らさず、粗末にしないことが身に染みついている――そんな手つきだった。
「寝床は整えてあります。
夜は冷えますから、
予備の毛布と藁袋、
遠慮なく使ってください」
そう告げると、彼は素直にうなずいた。
「ありがとうございます、エレノアさん。
ディオンさん、リラさん、
それでは、お先に失礼します」
穏やかに会釈し、自分にあてがわれた部屋へ入っていく。その背を見送ったとき、私は彼の肩がわずかに落ちていることに気づいた。
助けられた私だけでなく、助けた彼にとっても、今日という日は短くなかったのだろう。
私は食器を片づけ、土鍋にエールを注いでかまどの残り火にかけた。はちみつを落とし、干したベリーをひとさじ加え、木杓でゆっくり混ぜる。
三つのカップに注いで暖炉の前へ戻ると、ディオンが火を見つめたまま、しみじみと言った。
2.
「しかし……面白えヤツだな」
私は答えず、続きを待った。
「突然現れてオークを倒し、
ゴブリンどもまで手懐けた。
槍も使える、頭も回る。
手練れでも二年はかかるだけの
魔石を一日で集めて、おまけに
オークから領主印まで拾いやがった」
彼は鼻で笑う。
「現れて半日で、ゴブリンの森で
食っていくどころか、
治める権利まで手に入れたんだ。
しかも本人は、
その値打ちをまるで分かってねえ」
そして私に向き直る。
「ありゃ領主様ってタマじゃねえな。
せいぜい書記だ。力はある、頭も回る、
見栄えも悪くねえ。
なのに肝心なところでうぶだ」
私は指先でカップの縁をなぞった。
徴税権。交易。領主印。どれも村の暮らしから見れば大きすぎる言葉だ。けれど、その全部を握った男が、つい先ほど薄いスープに安堵していたことを私は知っている。そのちぐはぐさが、妙に胸をざわつかせた。
「で、エレノアちゃん――決めたんだろ?」
3.
私はカップを置き、ディオンに向き直った。
「ええ。その通りよ。
私はレオンをパーティに引き入れる。
そして、繋ぎとめるわ」
リラが目を細め、ディオンはやはりなという顔で肩をすくめた。
「薬草師と、遊び人と吟遊詩人じゃ、
戦いが厳しすぎるもの。
前衛が必要でしょう?」
もっともらしい理屈だった。けれど、それだけではないことを、私は自分で知っている。
違う。私は、自分のために彼を繋ぎとめたいのだ。
今日この家に迎え入れ、温かいものを食べさせ、ようやく落ち着いた顔を見せたあの男を、明日の朝、何ごともなかったように送り出したくない。
辺境では、腕の立つ男ほど、ふいに死ぬ。昨日まで笑っていた者が、次の日には土に還っていることも珍しくない。だから、これは色恋ではない。――そう言い聞かせる。
神殿育ちの孤児が、辺境で生きぬくための算段。助けられた恩に報いるためでもあり、村と自分の明日を繋ぐためでもある。
そう並べれば綺麗に言える。けれど、胸の奥の熱までは消えなかった。私は彼を欲しいと思っている。そのことを認めると、自分が少し浅ましく思えた。
ディオンが低く言った。
「止めねえよ。ただし二つだけ言っとく。
ひとつ、自分のために行け。
綺麗な言い訳を前に出すな。
そういうのは、あとで足をすくう」
彼は一度言葉を切った。
「もうひとつ。
朝になって泣くな」
「……泣かないわよ」
その横でリラがカップを揺らしながら言った。
「でもさ、レオンって、たぶん
エレノアちゃんのこと、
気に入ってると思うんだよね」
「え……そう?」
胸のどこかに、小さく火が入る。
4.
「ただし」
リラは人差し指を立てた。
「ああいうタイプって、いざとなったら
するっと逃げるよ。
真顔で『申し訳ありません』とか
言い出しかねない」
私は一気に現実へ引き戻された。たしかに、あり得る。レオンは妙なところで律儀だ。こちらが差し出したものほど、受け取る理由を探す顔をする。
自分から踏み込んで、拒まれたら。あの真面目な顔で困ったように謝られたら。――立ち直れないかもしれない。
そんな私の顔を見て、ディオンが鼻で笑った。
「心配すんな。脈はある。
飯を食わせてもらって
『落ち着く』なんて言う男はな、
もう半分、囲われてるようなもんだ」
囲う、という言葉に、私は息を止めた。
「しかも、部屋の戸を閉めて
閂を掛けねえヌケ作だ。
どっちにしろ、俺の出る幕じゃねえよ」
そう言って彼は立ち上がり、戸口で一度だけ真顔になった。
「……行くなら、自分で決めて行け」
ディオンが去ると、リラが腰を上げた。
「じゃ、保険をかけよっか」
「金縛りと、チャーム。
どっちも浅く掛ける。
本気で縛るんじゃなくて、
逃げ腰になるのを止めるくらいに」
一瞬、ためらいが胸をかすめた。そこまでしていいのか、と。
だが、ここで引けば私はきっと明日の朝も何も言えない。何もしなかったことを、長く悔やむ気がした。
私はゆっくりとうなずいた。
廊下は冷えていた。床板を鳴らさぬよう気をつけながら、私はリラと並んでレオンの部屋の前へ立つ。
戸にそっと手をかける。……まだ、戻れる。そう思った自分に、私は苦く息を吐いた。ここまで来て、まだ綺麗でいたいのか。
私は小さく首を振り、戸を押した。やはり閂は掛かっていなかった。
部屋の中では、レオンが藁袋の上で静かに眠っていた。起きているときより、いくらか幼く見える寝顔だった。可愛い、などと思ってしまった自分に、私はひそかに動揺する。
リラが小声で呪を唱える。空気がわずかに張り、レオンの体が強ばった。だがその気配で眠りが浅くなったのか、彼はゆっくりと目を開けた。
「……え?」
状況の分からない顔で、天井を見、それから私とリラを見る。驚きと混乱が形を結ばないうちに、リラがもう一つ短い呪を落とす。
「大丈夫。少しだけ、
素直になってもらうね」
チャーム。
レオンの目から険が抜けるのを見届けると、リラは私の肩を軽く叩いた。
「じゃ、がんばって」
彼女が部屋を出ていき、戸が静かに閉まる。
私は藁袋の脇に膝をついた。レオンはまだ戸惑った顔のまま、私を見上げている。伸ばした指で、その頬にそっと触れた。熱い。生きている熱だ。
ここまで来ても、心臓がうるさい。手を引くなら、まだ今だ。
でも、私は引かなかった。
「……取引よ」
私はそう囁いた。




