第79話 遊び人、もっともの先の寒さを見る
1.
俺の名前はディオン。レオンの家宰をやってる。
……と言っても、近ごろの俺の仕事は、帳面の尻を追うことでも、酒場で揉め事の芽を踏むことでも、それだけじゃ足りねえ。
もっともな顔をした理屈が、どこで人の置き場を決め始めるのか。そういうのを横で見てる時間のほうが、よっぽど生業らしくなってきた。
一月。雪は村の端にまだ残り、朝の板壁は指へ張りつくほど冷たい。だが去年の冬と違って、鍋は回るし、湯気も絶えねえ。紙も工房も止まらず、畑の帳尻だって前より見える。
暮らしがましになるってのは、ただ楽になるって話じゃねえ。前なら曖昧にして済ませてた置き場まで、はっきり見えちまうってことだ。
このところ寄り合いで何度も口に上がるのは、森のゴブリンどものことだった。台帳へ載せるのか。怪我をしたら誰が診るのか。死んだらどこへ埋めるのか。湯屋は。祭礼は。物の売り買いは。どこまで一緒でいいのか。
誰も「人間と同じか」なんてでけえ言葉は使わねえ。そんな言葉を真正面から口にできるほど、自分が何を量ろうとしてるか分かっちゃいねえからだ。
だが、話の行き先は結局そこへ寄る。
便利なものは受け取る。厄介なものは外へ寄せる。
湯屋でも、工房でも、宿でも、そうやって村は回ってきた。もっともな理由で線を引き、その線のおかげで暮らしは少しずつ楽になった。楽になったからこそ、その線が今度は生き物の置き場へ伸びてきたってわけだ。
その日の寄り合いも、最初は静かだった。
静かってのは、話が穏やかって意味じゃねえ。皆、自分の口から何が出るか、うっすら分かってる時の静けさだ。
2.
「働きは分かる」
先に口を開いたのは、酒場主だった。
「湯を掘り、紙を漉き、鍋も石鹸も作る。
森の連中が役に立ってること自体は、
いまさら誰も否定せん」
そこで一拍置く。
「だが、だからといって、
同じ帳面へ載せるのかとなると別だ」
年かさの戸主が続いた。
「攫われかけたなら止める。
傷を負ったなら診る。そこまではいい。
じゃが、その先はどうする。
婚姻は。戸は。相続は。弔いは」
どれも、もっともだった。
もっともだから場が沈む。相手が馬鹿を言ってるわけじゃねえ時ほど、話は重くなる。
そこで村長が、レオンへ目をやった。
「レオン殿。お前さんはどう思う」
何人かの視線もそっちへ流れる。もう、そういう位置だ。あいつが何か言えば、それは意見じゃ済まねえ。場の地面が少し傾く。
レオンはすぐには口を開かなかった。帳面を見てる時みてえに、少しだけ目を伏せる。それから静かに顔を上げた。
「僕は……人間か否か、という話を
先にするつもりはありません」
寄り合い衆が黙る。
「ただ、村の繁栄を支える手を、
都合が悪くなった途端に
外へ落とすなら、
次に誰が落とされても
文句は言えなくなる、とは思います」
そこで空気が変わった。怒鳴るやつはいねえ。だが、皆、腹へ落ちる音を聞いた顔をした。
「秩序というのは、
使う時だけ内側へ入れることじゃ
ないはずです」
正しい。筋も通ってる。
だが俺は横で、あいつの声に混じった苦さを聞いていた。
こいつはいま、新参の連中を土地へ結びつけ、責任区画を持たせ、負債と返済で縛る仕組みを進めてる最中だ。外へ落とす理屈を嫌う男が、別の形では線を引いている。
そのことを、本人がいちばんよく知ってやがる。
だから綺麗事にはならねえ。
そこで俺も口を挟んだ。
「一度、外へ落としていい理屈を
通したらよ」
何人かがこっちを見る。
「次に落ちるのは、役に立たねえ人間だ」
座が、しんとした。
俺は高尚なことを言いたかったわけじゃねえ。ただ見てきたから言っただけだ。新参の貧民も、森のゴブリンも、余裕がある時だけ隣人で、都合が悪くなりゃ厄介者になる。そういう勘は、腹に残る。
3.
エレノアちゃんは、そのあいだ一度も口を挟まなかった。
賢女の席に座ったまま、皆の顔を見ていた。目の前の人間じゃなく、その奥にある集まりの癖を見てる顔だった。
ようやく村長に促されて、静かに言った。
「手当ての場では、
種族より先に傷と熱があるわ」
そこまでは、いつもの彼女だ。
「でも……村が弱った者をどう置くかで、
本性は出ると思うの」
言い切ったあとで、また口を閉じた。制度の形までは踏み込まねえ。踏み込めるほど現場が綺麗じゃないと、知ってるからだろう。
聖陽教は礼節の言葉で線を引く。村は暮らしの都合で線を引く。レオンは整合と責任で線を引く。
誰か一人だけが悪いわけじゃねえ。
だからこそ、始末が悪い。
話はそこで、善悪の顔をやめた。
「働く手としては認めるが、
祭礼まで一緒は違う」
「診るのは診る。だが順はある」
「台帳へ載せるなら、
どこまで法の内へ入れる」
「入れぬなら、攫われた時にどこまで守る」
もっともな言葉ばかりが並ぶ。もっともな言葉ばかりだから、逆に逃げ場がねえ。誰かが悪い顔をしてくれりゃ、そいつを殴って済む。だが本当に厄介なのは、皆が自分の暮らしの延長でしか喋ってねえ時だ。
豊かさは、境目を濃くする。
便利になるほど置き場が要る。置き場を決めれば、そこから外れるやつが出る。決まりってのは、誰もかもを抱くための顔をして、結局は誰をどこへ置くかを決めるもんでもある。
そこまで話が沈んだところで、村長が長く息を吐いた。
「……筋を通すというのは、
ずいぶん骨の折れることじゃの」
誰も笑わねえ。
年かさの戸主が、苦い顔でレオンを見た。
「お前さんは、
ようこんなものを毎度抱え込むな」
別の寄り合い衆も続く。
「紙も湯も、宿も畑もそうだ。
揉める筋を見つけては、
わざわざ背負いに行きおる」
皮肉の顔じゃなかった。半分は呆れ、半分は本気でそう思ってる顔だった。
4.
それから、村長がぽつりと言った。
「領主なら、そういうことを
決めていくのかもしれんの」
座が動く。
冗談みてえな口ぶりだった。だが、冗談で済ませるには少し重かった。
レオンは、その言葉にすぐ返さなかった。少しだけ眉が寄る。逃げたいのに、どこへ逃げればいいか分からねえ顔だ。
村長は続けた。
「いや、王だ伯だという話ではない。
ただ……誰かが線を引かねば、
皆、もっともなことを言うだけで
止まってしまう」
それは、その通りだった。
もっともなことを言うのは簡単だ。飯椀の数、水桶の重さ、湯屋の順番、墓地の置き場。どれも本当に重い。重いから、皆、自分の立ってる場所からしか物を言えねえ。
寄り合い衆の一人が肩をすくめた。
「お前さんが決めりゃいい、とは言わん」
言わん、という顔で言ってやがる。
「だが、こういう筋を
最後まで考え抜けるのは、
お前さんくらいなもんだろう」
信頼の顔をしていた。
同時に、責任を渡す顔でもあった。
俺は横で、それを見ていた。褒めてるんじゃねえ。押してるんだ。しかも背中を。前へ出ろ、決めろ、嫌でも引き受けろと、善意の顔でな。
レオンは黙ったままだ。
その沈黙が、妙に長かった。
きっと分かってるんだろう。ここで頷けば、弱った者を救う側でいるだけじゃ済まねえ。誰を内へ入れ、誰を外へ置くか、その責任まで引き受けることになる。
村を良くするってのは、綺麗な話だけじゃ終わらねえ。
誰かをこちら側へ寄せれば、別の誰かの置き場が狭くなる。守る仕組みは、たいてい別の自由を削る。線をなくすことなんざできねえ。せいぜい、どの線を引くかで悩むだけだ。
やがてレオンは、ようやく顔を上げた。
「……考えます」
それだけだった。
寄り合いが終わって外へ出ると、空はもう薄暗かった。雪の残る道を踏むたび、靴の裏でしゃり、と音がする。村の戸口からは鍋の匂いが漏れ、湯屋の屋根からは白い湯気が上がっていた。
暮らしは温かい。
だが、その温かさを守るために、誰をどこへ置くのかって話になると、人は急に線を引きたがる。
自分の椀を守る重さを知ってるから、そうするんだ。
その線が、次には誰へ伸びるのかも知らずにな。
俺は隣を歩くレオンを見た。あいつは珍しく、何も言わなかった。帳面を睨む時みてえに、前だけを見て歩いている。
ああ、こいつはまた一つ、逃げ場のねえものを抱え込んだな、と思った。
村のために筋を通そうとするたび、自分の手もまた別の線を引く側へ回っていく。
その先で何と呼ばれるのかなんて、本人はたぶん、まだ名づけたくもねえんだろう。




