第80話 遊び人、貼り紙より軽い処遇を見る
1.
俺の名前はディオン。レオンの家宰をやってる。
……と言っても近ごろの俺の仕事は、帳面の尻を見ることでも、若い衆の愚痴を酒場で聞くことでも、それだけじゃ足りねえ。
誰がどこへ立ち、誰を内へ入れ、誰を外へ置くのか。そういう村の手つきを、横から見ておく役まで混じってきた。
三月の半ば、酒場の戸口へ一枚の文が貼り出された。
羊皮紙は上等でも何でもねえ。封の跡は崩れ、筆跡も妙に整いすぎていて、書いた人間の顔が見えない。
王都を通ってきた文だとは分かる。だが、王の手なんざ一欠片も乗っていなかった。大臣の用人、そのまた下あたりが、前の持ち主の文句ごと書き写したような、乾いた代物だった。
昼前には、村の連中が酒場の前へ寄ってきた。戸主、女衆、若いの、湯屋帰りの年寄り、工房へ向かう途中のゴブリンまでいる。貼り紙一枚でこれだけ人が集まるなら、村も昔よりだいぶ文字に慣れたもんだ。
もっとも、読めるやつはまだ少ねえ。
「ディオン、読め」
酒場主に顎でしゃくられ、俺は文の前へ立った。レオンは少し後ろだ。いつものように口を挟まず、ただ紙の下端を見ている。自分の名がそこにあると知ってる時の顔だった。
俺は咳払いして読み上げた。
「辺境エルン村および周辺地所の
管理運営に功ある者につき、
男爵または子爵相当として
処遇を勘案されたし。
細目は諸卿にて、
よきにはからうべし」
一瞬、誰も喋らなかった。
そりゃそうだ。文面は短え。短えくせに、村の空気だけはごっそり変えやがる。
功ある者。男爵または子爵。処遇。勘案。よきにはからうべし。
人の一生を、木札の裏書きみてえな軽さで並べやがる。村で何人が揉めて、どれだけ眠れぬ夜を越えたかなんざ、そこには一文字もねえ。ただ、棚へ載せる時の名前だけがある。
2.
「……誰のことだ」
若い農夫が間抜けな声でそう言ったが、隣の女房にすぐ肘で突かれた。
「そんなの、書いてなくても分かるでしょ」
ざわめきが広がる。だが歓声にはならねえ。祝うには、あまりに文が乾きすぎていた。
寄り合い衆の一人が鼻を鳴らした。
「男爵か、子爵か、とはな。
随分と景気のいい話になったもんだ」
別の年かさが、貼り紙を覗き込む。
「景気がいいというより、
雑に回されとるだけじゃろ。
王のお言葉ですらあるまい」
「そりゃそうだ」
酒場主が肩をすくめる。
「村ひとつの厄介事なんざ、
王都じゃ酒の肴にもならん」
もっともな話だ。もっともだから、誰も怒れねえ。
アルベールもその場にいた。白い顔で、白い声をして、相変わらず感じがいい。感じがいいまま、こういう時だけ余計なものが漏れる。
「……軽いですね」
小さな声だったが、妙によく通った。
「あまりにも軽い。
しかも、伝道の筋が拾われていない。
私は、辺境の便利屋を推したのでは
ありません。秩序の器になりうる者を
報せたつもりだったのですが」
失望しているくせに、腹を立てた顔はしねえ。教会の人間らしい抑え方だ。だが、言ってることは露骨だった。自分の報告が、王都じゃ爵位の箱へ押し込む話にしかなっていない、とこぼしてやがる。
若い衆の一人が、半ば笑うように言った。
「で、レオンさんは
もう貴族様ってことっすか」
その言い方で、ようやく皆の視線が少し動いた。まだ露骨には向かねえ。だが、向かう先はひとつしかない。
レオンは困ったように眉を寄せた。
「何も決まってませんよ。
勘案、ですから」
「だが名前が上がった」
寄り合い衆の年かさが低く言う。
「それだけで、十分重い」
その一言で、場の空気がまた沈んだ。任命はまだ。爵位もまだ。だが、“そう見る”文が中央から返ってきた。その重さだけは、誰の腹にも落ちたらしい。
3.
そこから先は、祝いでも悪口でもなかった。もっと始末の悪い、暮らしの勘定になった。
「男爵だ子爵だとなれば、
もう村の寄り合いだけの話じゃ
済まなくなるぞ」
「税はどうなる」
「兵は」
「裁きの権は」
「森の工房はどっちにつく」
ぽつり、ぽつりと飛ぶ。皆、聞きたいのは肩書きそのものじゃねえ。その肩書きで、自分の飯椀の置き場がどこまで揺れるかだ。
酒場主が腕を組んだまま、レオンを見ずに言った。
「湯も、紙も、畑も、宿も、
今までお前さんが口を出してきた。
そのうえで、上がそう見るなら……
まあ、筋は通ってる」
褒めてるようで、褒めてねえ。むしろ村の誰もが、今さら否定しきれない現実を口へ出しただけだ。
エレノアちゃんが静かに口を開いた。
「文が来たからといって、
明日から人が変わるわけじゃないわ」
「だが、見え方は変わる」
俺は横から言った。
「こういうのは、だいたいそこが先だ」
アルベールが、相変わらず感じのいい声で続けやがる。
「責を負う立場へ
相応の名が与えられること自体は、
無理からぬことでしょう」
腹の立つ言い方だった。名が追いついた、とでも言いたげだ。だが、こっちだって薄々分かっていた。
湯屋で揉めた時も、賃仕事へ値札を打った時も、自警団の泥をかぶった時も、宿の残りかすを始末した時も、皆、最後にはレオンの顔を見て決めてきた。今さら「ただの書記」で済むわけがねえ。
村長が、杖の石突きを床へ打った。
「静かにせい」
それだけでざわめきが引く。老いてなお、こういう時の声だけは強い。
「任じるだの、戴くだの、
そんな話はまだ先じゃ。
いまあるのは、貼り紙一枚。
じゃが、その一枚で、
ここに何が見えたかは別じゃ」
村長はそこで初めて、真っ直ぐレオンを見た。
「お前さんを、
もう村の一人としてだけ見て
済ませられん者が増えた。
……それだけは、よう分かった」
4.
そのあと、しんとした。
誰も上手い返しを持っていなかった。祝えば軽い。嫌味を言えば遅い。黙るしかねえ時の沈黙ってのが、村にはある。
貼り紙は風もないのに、端だけが少し浮いていた。薄っぺらい羊皮紙だ。大臣の用人の、代理の代理みてえな手を渡って来たんだろう。王の顔も、城の影も見えねえ。なのに、その紙切れ一枚で村じゅうの首の向きが変わる。
歴史ってやつは、たぶんこういう雑さで動くんだろう。
レオンは何か言おうとして、やめた。珍しいことだった。理屈で返せるはずの男が、いまはどの言葉も軽くなると知ってる顔だ。
若い衆が先に見た。戸主が続いた。女衆が、年寄りが、寄り合い衆が、アルベールまでが、順番もなく同じ方を向く。工房へ戻るつもりだったゴブリンの若いのまで、入口の脇で足を止めた。
誰も同じ顔はしていねえ。
納得したやつもいる。警戒したやつもいる。面倒の匂いを嗅いだやつ、得になるかを測るやつ、今さらかと思うやつ、そんな大げさな話かと戸惑うやつ。感情はばらばらだ。
だが、視線だけはひとつだった。
俺はその横顔を見ながら、ようやく腹へ落ちた。男爵だの子爵だのはまだ先だ。任命も、裁可も、どうせ王都のどこかで雑に回される。だが、もうそれは本筋じゃねえ。
もう終わったんだ。この村の中では
誰かが小さく息を呑む音がした。
レオンは立ったまま、皆を見返さなかった。ただ、貼り紙の下で少しだけ肩を固くしていた。
春を前にした昼の酒場で、村の全員が、その男を見ていた。




