第78話 遊び人、境目に付く名の重さを聞く
1.
俺の名前はディオン。レオンの家宰をやってる。
……と言っても、近ごろの俺の仕事は、帳面の尻を追うことでも、若い衆の愚痴を酒場で聞くことでも、それだけじゃ足りねえ。
変わっていく男を、横で眺めることまで混じってきた。
最初は、妙に細けえ書記野郎だった。次は、暮らしを良くするためなら、誰に嫌がられても紙も鍋も湯も押し込む男になった。
今じゃ違う。便利を配るだけじゃねえ。その便利がどこを通り、誰の手を経て、誰を内へ入れ、誰を外へ置くかまで、まとめて抱え込み始めてやがる。
十二月。初冬の寄り合いだ。
森の縁で起きた誘拐未遂のざらつきは、まだ村人どもの顔に残っていた。ゴブリンを縄で縛って攫おうとした商人崩れ。あれを止めた村人。所払いで済ませた寄り合い。どれも、きれいに片づいた顔はしていねえ。
だから今日の議題は、ゴブリンの扱いだという顔で卓へ乗った。
だが、実際に転がっていたのは、もっと嫌な話だ。帳面へ載せるのか。怪我をしたら誰が診る。死んだらどこへ埋める。湯屋は。祭礼は。戸は。婚姻は。相続は。
つまり、どこまで同じ共同体とみなすのか、だ。
しかもそこへ、聖陽教の修道者どもまで顔を出している。白パンと礼節で戸口から入り込み、善きものは善きものと褒めたうえで、「惜しい営み」を整えたがる連中だ。
感じがいいまま、線だけ残す。そういうやり口は、前から嗅いでいた。
だから俺は、最初から嫌な予感しかしなかった。
2.
議論は、最初のうちはまだ宗教の顔をしていた。
「人の姿を器へ刻むのは、慎むべきでは」
「暮らしを支える者へ、
いつしか祈りめいた思いが集まる」
アルベールが、いつもの穏やかな声でそう言う。責める口ぶりじゃねえ。上等な顔で、惜しいですね、と置いていく。村人どもも、正面からは反発しにくい。だが、そこで終わる話でもなかった。
酒場主が、腕を組んだまま口を開いた。
「……いや、待てよ。
信仰がどうこうの前に、
そもそも工房は森だろう」
座が、少しだけ止まった。
「紙も石鹸も鍋も、臭えもんはみんな
ヴァルディス領の森へ寄せた。
で、うちはその品で楽をしてる」
誰も、すぐには口を挟まねえ。
もっともだからだ。
冬に助かったものが、鍋も紙も石鹸も、気づけばみんな森を通って来る。村人どもがそこで何を思うかなんざ、分かりきってる。
別の戸主が続けた。
「王国の村が、外国領の魔族工房へ
暮らしを預けてるってことだ。
しかも、その森の領主は誰だ」
そこで何人かの目が、一斉にレオンへ向いた。
あいつは何も言わねえ。
言えねえ、と言った方が近いかもしれねえ。
「村のためなのか、森のためなのか」
「隣人を助けてる顔をして、
実のところは、もう一つの領分を
肥やしてるだけじゃねえのか」
きつい言い方だった。だが、下卑た悪口って顔じゃねえ。真面目な顔で、もっともらしく言いやがる。そういう時の言葉は、棍棒より痛い。
便利は受け取る。厄介は外へ寄せる。
その線引きで回ってきた村が、いま初めて、その外側にも同じ男の手があると気づいたんだ。
そりゃ、座りも悪くなる。
3.
アルベールは、そこで静かに口を開いた。
「彼らを憐れむことはできましょう」
一拍置く。
「ですが、憐れみと、
同胞として遇することは
同じではありますまい」
感じのいい声だった。だからこそ、腹へ沈んだ。
「暮らしを支える者へ、人は思った以上に
頭を垂れます。器であれ、湯であれ、
紙であれ、日々の便利を通して」
その指先が、卓の上の石鹸包みへ向く。
「信仰の乱れは、祭壇より先に、
生活の習いの中へ忍び込むことも
あるのではないでしょうか」
上手え言い方だと思ったね。
偶像だの魔族だのと露骨に切らねえ。だが、暮らしの便利、工房、森、賢女殿の顔、それら全部を一つの不穏な束へ寄せていく。
それから、アルベールはレオンを見た。
「あなたがなさってきたことには、
理があります」
褒め言葉の顔だった。だが、その次が来る。
「飢えぬこと。病を捨て置かぬこと。
弱き者が冬を越せるよう、手を打つこと。
そういう秩序を、一つずつ
形にしてこられた」
レオンは黙ったままだ。
「人はもう、あなたの裁きと配分に
生を預け始めております。
名を避けても、役目はそこへ集まる」
寄り合い衆の何人かが、微妙な顔をした。露骨すぎるとまでは思ってねえ。むしろ、言われてみりゃそうだ、という顔だ。
酒場主は眉をひそめ、年かさの戸主は膝の上で指を組み直した。誰も頷かねえ。だが、誰も笑いもしねえ。
「村が生き残るには、誰かが束ねねば
ならぬ時もありましょう。
力でではなく、理と節度で」
勧めてるわけじゃねえ。そんな顔はしない。だが、やってることは同じだ。お前はもう、そこへ足を踏み入れている、と礼節の声で言いやがる。
レオンがそこで初めて、少しだけ目を伏せた。反論のために開きかけた口を、そのまま閉じる。卓の木目へ一瞬だけ視線が落ちる。
英雄になりたい顔じゃねえ。
面倒な名を、正面から聞かされた顔だった。
4.
寄り合いの帰り道、レオンは無言だった。
冬の道は硬く、吐く息は白い。村の戸口から漏れる灯りだけが、やけに遠く見えた。
俺はしばらく黙って歩いた。
どうせ、今のあいつに安い慰めは届かねえ。腹が立ってるわけでも、傷ついたと騒ぐ気分でもあるまい。もっと冷えたところで、自分の立ち位置を測り直してる顔だったからだ。
それでも、黙ったままで済ませるのも違う気がした。
「……ここで俺に相談しねえのか」
レオンの歩幅が、ほんの少しだけ狂った。
だが、こっちを見ねえ。
「お前、そっち側へ入ったな」
返事はすぐには来なかった。
村のために何かを良くしようとする。そこまではまだ、俺も横から口を出せた。だが今日の話は違う。どこまでを内と呼び、誰を同胞とみなし、どの線を制度へ刻むのか。そういう話は、もう並んで困る側の相談じゃねえ。
もう、横で悪態ついて済む重さじゃねえ。
やがてレオンが、前を見たまま小さく言った。
「……そうかもしれません」
それだけだった。
否定しねえ。言い訳もしねえ。
ああ、と思ったね。
こいつ、ようやく自分が何になりつつあるかを、村の口から聞かされたんだ。
便利を運ぶ改善者じゃない。帳面をつける書記でもない。王国の村と、外国領の森と、その両方の暮らしを、理でつなぎ、理で切り分ける側だ。
歴史の中で、だいたい面倒を呼ぶ類の男だよ。
冬の風が、頬を撫でていく。
前を歩くレオンの背中は、いつもと同じようで、少しだけ遠かった。
……厄介な名ってやつは、だいたいこうして身につく。




