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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第六部

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第76話 遊び人、縄のほどけた先の傷を見る

1.


 俺の名前はディオン。レオンの家宰をやってる。


 ……と言っても、近ごろの俺の仕事は、帳面の尻を追うことでも、若い衆の愚痴を酒場で聞くことでも、それだけじゃ足りねえ。


 村の空気がどこで濁るかを嗅いで、誰がその濁りを見て見ぬふりするか、誰がうっかり足を突っ込んで沈むかまで眺める。そういう面倒のほうが、よっぽど生業らしくなってきた。


 十一月。初冬の入口だ。


 畑はもう半分眠りに入ってる。朝の土は硬えし、吐く息は白い。見た目だけなら、今年はずいぶんましに見えた。


 だが、暮らしが回るようになったってのは、別の置き場が要るようになったってことでもある。


 その日、俺は森の縁で、その置き場がとうとう人の肉へ届いたのを見た。


 ゴブリンの若いのが一匹、縄で手首を締め上げられていた。


 口には布。足は引きずられた跡。そばには荷車、縄束、目隠し布、薄笑いを浮かべた商人崩れ。聖陽教の施しに顔を出してる手合いだ。顔を見りゃ分かる。そういう連中の顔だった。


 ただし、現場でそいつを押さえ込んでいたのは、そっちじゃねえ。うちの村の男だった。


 普段なら畑で鍬を振るってる、どこにでもいるような村人だ。そいつが真っ青な顔で、商人の両腕を後ろへ回して縄を掛け、膝で背を押さえつけていた。勢いだけでやったんだろう。結び目がひどく乱れていた。


「お、おい……ディオンさん……」


 こっちを見る顔は、助けを求めるってより、自分が何をしたのか確かめたがってる顔だった。


「こいつ、その……ゴブリンを……」


「見りゃ分かる」


 俺がそう返したときには、もうレオンとエレノアちゃんも来ていた。レオンは縛られたゴブリンの手首を見て、エレノアちゃんは頬の擦り傷を見た。いつもの手つきだ。


 押さえつけられてる奴隷商人は、土に頬を擦りつけたまま、へらへら笑いやがった。


「痛えなあ。勘弁してくれよな、ったく。

  人助けしようとしただけだろうが」


 その一言で、場の空気がひやりとした。


 人助け、だとよ。こいつは自分が悪党だと思ってねえ。面倒な村に当たった――それだけの顔だった。


2.


 村長の家の脇へ連れていくと、村人どもがぽつぽつ集まってきた。だが誰も怒鳴らねえ。


 ゴブリンを見て眉をひそめるやつ、商人を見て目を逸らすやつ、縄を握ってる村人の手元ばかり見てるやつ。皆、妙に口数が少なかった。


 その沈んだ空気の中で、商人だけが軽かった。


「そんなに大ごとかねえでしょうに。

  まつろわねえ森の連中だろ?

  檻へ入れて、働かせるなり売るなり、

  何が悪いんです」


 へらへら笑う。口ぶりは軽い。だが言ってることは露骨だった。


「だって獣みてえなもんでしょう?

  湯屋も別、工房も別、皆さんだって

  分けてるじゃねえですか」


 縄を握っていた村人の指が、そこでびくりと震えた。


 分けてる。


 その言い方が雑で、下卑ていて、だからこそ嫌に真っ直ぐ腹へ入った。うちの村だって、何もかも一緒にはしてこなかった。理屈はいつだってもっともだった。もっともだったから、ここまで来た。


 商人はそこで、わざとらしく首を巡らせた。


「そうですよねえ? アルベール様」


 嫌な振り方をしやがる。


 その場にいた修道者のアルベールは、少しだけ目を伏せた。すぐには答えねえ。一拍置いてから、静かな声で言った。


「このような乱暴な真似は、感心しません」


 まず手段を切る。そこまではいい。


「ですが……憐れむべき存在と、

  同胞として遇するべき存在は、

  同じではありません。


  保護と混同は、

  慎まれるべきでしょう」


 場の空気が、もう一度だけ沈んだ。


 獣とは言わねえ。売れとも言わねえ。だが、同じ輪の内には置かない。礼節と秩序の言葉で、そう切り分けやがる。


 俺は横目でレオンを見た。あいつは何も言わなかった。怒鳴れば楽だ。だが相手は、感じのいい顔のまま、もっともらしい言葉で線だけ残す。レオンがいちばん嫌う類のやり方だ。


 縄を掛けた村人は、そこでとうとう青くなった。


「お、俺は……攫ってたから、止めたんだ」


 それだけ言って、口が止まる。止めた。だが、止めたあとをどうするかまでは考えていなかった顔だ。


 井戸端で誰かが、小さく舌打ちした。


「そこまでせんでも……」


 別のやつが、もっと小さい声で続けた。


「相手が相手だぞ……」


 誰も正面から責めちゃいねえ。だが視線だけは、もう商人じゃなく、その村人へ集まり始めていた。


3.


 結局、話は村長の前で収められた。


 村長は長く黙っていた。ゴブリンの傷を見て、商人の縄目を見て、村人の青い顔を見て、それからアルベールへ目をやった。


「この場で、人攫いまがいを

  見逃すわけにはいかん」


 そこまでは、皆が頷いた。


「じゃが、ここでこれ以上

  事を荒立てても、村に益はない」


 次の一言で、皆が黙った。正しいかどうかじゃねえ。村が明日も回るかどうかだ。村の長ってのは、結局そこへ戻るしかねえ。


 商人は所払いになった。村へ二度と近づくな、森の者へ手を出すな、次があれば寄り合い衆だけでは済まん、と。口ではきつい。だが実際には、縄をほどいて追い出すだけだ。


 その縄をほどく手つきが、またひどく重かった。


 誰も先に近づきたがらねえ。結局、俺がしゃがんで結び目へ指を掛けた。乱れた縄だ。きつく締まりすぎていて、爪が食い込む。ほどくあいだ、商人はずっと不満そうに鼻を鳴らしていた。


「勘弁してくれよな、ったくよう」


 縄が落ちる。


 商人は手首をさすり、土を払って立ち上がった。少し面倒に巻き込まれただけ、みてえな顔だった。最後まで、自分の世界観は揺らいでいなかった。


 その横で、縄を掛けた村人のほうが、よほど居心地悪そうに立っていた。


 周りの視線が、冷えてる。露骨じゃねえ。だから余計に逃げ場がねえ。


「いや……でも、攫ってたんだぞ」


 そいつは誰にともなく言った。弁明ってほど大きな声でもねえ。自分の足場がまだあるか、確かめるみてえな言い方だった。


 返事はなかった。


 代わりに、村人どもの間に薄い沈黙が落ちた。見て見ぬふりしたかったやつ、話を小さく畳みたかったやつ、そういう連中の黙り方だった。


 エレノアちゃんは、そのあいだもゴブリンの手首へ布を巻いていた。処分は軽い。傷は残る。その対比だけで、十分だった。


4.


 その夜、酒場は妙に静かだった。


 誰も昼の話をでかい声じゃしねえ。だが静かなときほど、本音はよく聞こえる。


「あそこまでやることはなかった」


「攫われたのは気の毒だが……」


「余所との揉め事を、わざわざ村へ……」


 誰も奴隷商人の肩を持っちゃいねえ。だが、縄を掛けた村人の肩を持つやつもいねえ。結局、いちばん重い目を食ってるのは、止めた側だった。


 そいつは酒場の隅で、一人きりで座っていた。追い出しはしねえ。だが、居場所だけ細くする。村ってのは、そういう時いちばん手際がいい。


 数日後、そいつは川向こうへ荷を運び始めた。


 別に、誰かが「出ていけ」と言ったわけじゃねえ。だが、本村の井戸端じゃ会話が止まり、仕事の声掛けは遅れ、家の前を通るやつの目つきまで変わった。家の者まで同じ冷たさを食らえば、話は別だ。


 川向こうなら、空気の代わりに区画がある。情の代わりに帳面がある。暮らしの代わりに負債がある。楽な場所じゃねえ。


 だが少なくとも、何をすれば明日食えるかは決まってる。曖昧な顔色より、よっぽどましだと思ったんだろう。


 俺は荷を担ぐその背を見ながら、鼻を鳴らした。


 ゴブリンを助けたから、じゃねえ。助けたあと、本村で生きにくくなったから、あいつは川向こうへ移る。そういう形で、人がまた一人、レオンの側へ流れた。


 追放じゃねえ。自分で選んだ移住だ。


 だが、こういう選び方をさせる時点で、もう話は同じだ。


 縄はほどけた。


 だが、ほどけたのはあの奴隷商人の手首だけだ。


 村の喉に掛かった縄は、むしろあの日から、前よりきつく締まり始めていた。

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