第75話 遊び人、縄の結び目の先を見に行く
1.
俺の名前はディオン。レオンの家宰をやってる。
……と言っても、近ごろの俺の仕事は、帳面の尻を見ることでも、若い衆の愚痴を聞くことでも、それだけじゃ足りねえ。
村の空気がどこで濁るかを嗅いで、誰がその濁りを受け入れるか、誰が見て見ぬふりをするかまで眺める。そういう面倒のほうが、よっぽど生業らしくなってきた。
十月。収穫の終わりが見え始め、畑の土にも、夏とは違う乾いた匂いが混じっていた。籠の中の豆は増え、納屋の中の束も積まれ、見た目だけなら今年はずいぶんましだ。
川向こうの畑も、前みてえな笑い話じゃ終わらなかった。広げた土地は、ちゃんと土地として残り始めている。
そのぶん、今度は別の置き場が要るようになった。
酒場の裏手、空き小屋の軒、村長の家の脇。春から夏にかけて、ぽつりぽつりと流れてきた連中が、まだ消えずに残っている。
四十五人。男も女もいる。子どももいりゃ、腹の大きい女もいる。すぐには働けねえ年寄りまで混じってる。
二年前の春に記録を取った時、エルン村は二百八人だった。いまは、新参を除く村の側だけで二百三十五人。そこへさらに四十五人だ。
五人に一人近い数の余所者を、ただ「そのうち何とかなる」で抱えられるほど、村は大らかでも、豊かでもねえ。
レオンは、その数字を帳面へ落としていた。
種、農具、糞、見張り、用水、補修、人手、負債、返済。誰にどれだけ持たせるか。どこまで共同体の内へ入れ、どこから先は区画で縛るか。
いつもの、あの顔だ。妙に冷静で、妙に細けえ。こういう時のこいつは、善人面より先に書記の面が出る。
だが、俺には分かった。
こいつ、分かってやってやがる。
ゴブリンを村の外へ置いたときもそうだった。湯屋を分けたときも、工房を森へ寄せたときも、理屈はいつだってもっともだった。便利は受け取る。厄介は置き場を作る。その線引きで、暮らしは回るようになった。
いま、同じ手つきが人間へ伸びようとしていた。
2.
その日の昼、俺は神殿へ顔を出した。エレノアちゃんが、新参の女を診ていたからだ。
寝台の上には、痩せた若い女が横になっていた。腹はもうはっきりと出ている。傍らには、細い腕の子どもが一人。たぶん上の子だろう。
足元には、夫らしい男が帽子を握って立っていた。何か言いたげな顔をしてるくせに、口を挟む場所が分からねえ顔だ。
エレノアちゃんは、いつも通り静かだった。腹へ手を当て、脈を見て、水を飲ませる順を決める。相手が村人だろうが、新参だろうが、そこに違いはねえ。だが、その目の奥には、賢女として別の勘定があった。
「このまま放っておけば、冬は越せないわ」
診察が終わったあと、そう言った。
「母体も弱いし、子どもも痩せている。
粥と寝床だけでは足りない。
継続して食べさせて、
働ける者には働き口を持たせないと、
結局また崩れるわ」
俺は壁にもたれて腕を組んだ。
「守るなら、縛るしかねえって顔だな」
エレノアちゃんは一度だけ俺を見た。それから、小さく息を吐いた。
「守る仕組みは、たいてい自由を削るものよ。
村の中で守られている人だって、
好き放題に生きている
わけではないもの」
「でも、それを自覚している人は少ないわ」
分かる気がした。
村人どもは、そこまできれいに言葉へしねえ。だが、うっすらとは感じている。
井戸端で新参の女が深々と頭を下げるのを見て、年寄りが妙な顔をした。湯屋の前で若い男が「ありがとうございます、レオン様」と言った時、戸主どもが一瞬だけ黙った。
助けてやらねば死ぬ。働かせねば村も回らぬ。そこまでは腹へ落ちる。だが、同じ人間のはずの相手が、村人とは違う深さで頭を下げ、違う声色で礼を言う。その違和感まで、消えるわけじゃねえ。
聖陽教は「同胞である人間をまず法の内へ」と言う。村人は「使える者を先に」と言う。レオンは「責任区画を持たせるべきだ」と言う。
言葉は違う。
だが、やってることは似ていた。
皆それぞれの理屈で、人を置き場へ結び始めていた。
3.
その夕方、酒場の奥で小さな寄り合いが開かれた。村長、戸主衆、レオン、俺。表向きは「川向こうの土地の人手について」だ。だが、中身はもっと露骨だった。
「賃仕事だけでは、
来年も同じことになります」
レオンが帳面を開いた。
「播き時だけ雇い、草取りだけ雇い、
収穫だけ雇う。
それでは土地へ責任が張りつきません。
荒らされても、壊れても、翌日には
別の場所へ移れる人手では、
維持の手間が浮いたままです」
固え言い方だ。だが、春からの騒ぎを見てきた連中には通じる。ヤギに食われた畑、見張りの抜けた区画、誰の責任か曖昧な補修。曖昧な助け合いだけじゃ足りねえ土地が、もう川向こうには出来ちまってる。
「だったら、どうする」
村長が訊いた。
「定着耕作者として入れます」
レオンは即答した。
「住む場所を与え、種と農具を貸し、
肥料と水の配分を決める。
収穫から返済を取る。
区画ごとに責任を持たせる。
逃げにくくはなりますが、その代わり、
放り出されにくくもなります」
酒場の空気が、少しだけ止まった。
逃げにくくなる。
こいつ、自分でそこまで言いやがる。
誰もそこを責めなかった。責められねえからだ。別の戸主が口を開く。
「家族持ちはどうする。
子どもや年寄りもいるぞ」
「働ける者だけでなく、家ごと抱えます」
また即答。
「そうでないと、冬ごと崩れます。
帳尻が合いません」
帳尻、だとよ。俺は奥歯で舌を押さえた。こいつはほんと、肝心なところで書記臭え。
だが、その冷たさがなきゃ四十五人は抱えられねえのも事実だった。
村長が杖へ手を置いたまま、低く言った。
「救う、だけでは済まんのう」
「はい」
レオンは頷いた。
「済みません」
その時、俺にははっきり見えた。こいつは、自分が何を結ぶのか知っている。慈悲の縄じゃねえ。土地と負債と責任で、人を村へ縫いつける縄だ。だが、結ばなきゃ死ぬ連中がいる。結ばなきゃ畑も荒れる。だから結ぶ。
善悪で割れねえ。そういう決め方だった。
4.
話が済んだあと、夜の冷えた道を歩いて川向こうへ出た。
新参の連中が、割り当てられる予定の区画を見に来ていたからだ。空き小屋の前で、焚き火のそばに寄り合っている。痩せた顔、疲れた目、けれど、完全に死んだ目じゃねえ。明日どうなるかを待つ顔だ。
レオンが、帳面を抱えて立った。
「春までの間に、小屋を直します。
今冬は仮住まいですが、
来年からは区画ごとに見ます。
種と農具はこちらで貸します。
収穫から返してもらいます。
病人と妊婦は、家内の指示に
従ってください」
聞こえてくるのは、短い返事ばかりだった。
「はい」
「ありがとうございます」
「助かります」
そのへんまでは、まあいい。助かった人間は礼を言う。腹が減ってりゃなおさらだ。
だが、最後に一人、まだ若い男が、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、レオン様」
そこで、空気が少しだけ変わった。
近くにいた女が、つられるように頭を下げる。
「旦那様、うちの子にも……その……
春まで食わせていただければ」
旦那様。
その言葉を聞いた瞬間、俺は横目で村人どもの顔を見た。誰も騒がねえ。だが、ああ、とでも言いたげな、言葉にならねえ顔をしたやつが何人もいた。
助けてやるのは分かる。働かせるのも分かる。だが、もうこれは、ただの救済じゃねえ。村の有力者が余所者を雇った、なんて軽い話でもねえ。土地を与え、返済を握り、家族ごと抱え込む側へ向けられる呼び名だ。
レオンは、その呼び名にぴくりとした。
何か言い返しかけたんだろう。口がわずかに開く。だが、飲み込んだ。
「……しかるべく、整えます」
それだけ言って、帳面を抱え直す。
焚き火の火が、乾いた音を立てた。頭を下げる新参の背中の向こうで、川向こうの広い畑が、夜の闇に沈んでいる。春には耕されるだろう。種も入るだろう。飯椀も増えるだろう。
その代わり、縄も結ばれる。
内と外。村人と新参。日ごとの手間と、区画へ張りつく責任。誰もそんなでかい言葉じゃ考えちゃいねえ。だが、皆もう、少しずつ感じ始めていた。
助けるという形で、人を低く置く。守るという形で、逃げ道を狭める。
焚き火の向こうで、もう一度、「レオン様」と声がした。
俺はその響きを聞きながら、小さく鼻を鳴らした。
どうやら今度の面倒は、湯屋の仕切りや工房の臭いなんかより、よほど根深いところまで尾を引くらしい。




