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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第六部

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第73話 槍使い、広い空の下で村を思い直す

1.


 夏の終わりが近づくころになると、エルン村には南方や東方の商人が、ぽつぽつ顔を出すようになった。


 紙、石鹸、鍋、薬種、アルカリ。目当てはそれぞれ違うけれど、荷車のきしむ音や馬の鼻息が、前よりずっと村の景色に混じるようになっている。


 広場を歩く人間の服も、言葉も、匂いも、ばらばらだ。酒場の前では、南方商人が鍋の厚みを指ではじき、女衆は紙の手触りを確かめ、子どもたちは聞き慣れない言葉を真似して笑っている。


 僕が最初にここへ来たころは、村人とゴブリン、それに、たまに来る行商人くらいのものだったのに。


 ずいぶん遠くまで来たもんだな、と僕は思った。いや、遠くまで来たのは僕なのか、村の方なのか、もうよく分からない。


 そんな広場の端を、見慣れない格好の男がすっと歩いていった。


 肩へかかる羽織みたいな上着。ゆったりした袴めいた下衣。細い帯。高く結い上げた髪。


 ……ちょんまげだ、と僕は思った。


 いや、ほんとうにそう呼んでいい髪形なのかは知らない。ただ、青い表紙の高校世界史教科書と、赤い表紙の日本史教科書の挿絵が、頭の中でいきなりつながった。


 教室の蛍光灯。蒸し暑い空気。欄外の地図。北宋。海の向こうの交易。南蛮、バテレン。


 そんな単語が、ひどく懐かしい感じで、でも妙に生々しくよみがえる。


 ……よくここまで来たもんだな、と、そこで僕は少しだけ思った。


 あかね市役所の市民課職員だった僕が、森で全裸から始まって、辺境の村でリアルちょんまげを見ているのだから、人生というのは本当に分からない。


 いや、人生じゃないか。二回目だし。


 そう思うと、ちょっとだけ笑ってしまった。


2.


 その東方商人は、石鹸を手に取り、紙を一枚透かして見て、鍋の縁を軽く爪ではじいた。


「ほう。辺境の村と聞いておりましたが、

  なかなか侮れませぬな」


 耳慣れない抑揚の混じるアルセリア語だった。でも通じる。商売人らしい目で、品物の出来を細かく見ている。


「ありがとうございます」


 僕がそう答えると、男はふっとこちらを見た。


「それにしても」


 何でもない調子で、口の端だけ少し上げる。


「ソレガシたちと、少し

  面立ちが似ておりますな」


 僕は曖昧に笑った。


「そうですか?」


「ええ。目元と鼻筋が、少々」


 冗談なのか、本気なのか、よく分からない言い方だった。でも、その一言で妙な気分になる。


 僕はこの村では、ずっと異物だったはずだ。今でもたぶん、少しはそうだろう。


 けれど、村の外まで目を向ければ、僕みたいな顔立ちの人間なんて、別に珍しくもないのかもしれない。


 そこでまた、教科書の記憶が引っかかった。


 あのころの僕は、同じ十世紀でも、北欧とかドイツとか、そっちばかり追っていた気がする。だから、こっちへ来てからも、なんとなく、その棚に世界を入れていた。


 でも、目の前のこの男は、それだけじゃ収まらない。


 いや、そもそも当たり前なのだ。同じ時代に、別の服を着て、別の言葉で商って、別の神を拝んでいる人間がいる。


 高校生のころの僕は、そのことを知っていたはずなのに、こっちへ来てからは目の前の暮らしに手一杯で、体感としてはどこか抜けていた。


 いや、違うな。忘れていたわけじゃない。なんとなく、ずっと分かってはいたのだ。


 だから僕は、紙を作っても、鍋を広めても、石鹸を回しても、どこかで慎重だった。


 この世界は、僕が前世の知識だけで好き勝手いじっていいほど、狭くも単純でもないだろう、と。


 ただ、その怖さに理屈がついていなかっただけだ。


 ……ああ、やっぱりな。


 そんな感じで、胸の奥で何かがようやく腑に落ちた。


 青い表紙と赤い表紙の教科書が反射みたいに浮かんだのは事実だ。でも、それで分かった気になるのは雑だ。ここは日本じゃないし、中国でも、ヨーロッパそのものでもない。


 せいぜい、僕の頭の中にある歴史の棚で、似たところを探しているだけだ。


 ここの歴史は、ここの歴史として、もう勝手に回っている。


3.


 そのとき、広場の向こうを聖陽教の一団が通りかかった。


 白い衣。整った所作。施しと礼節で、少しずつ村の中へ入り込んでいる連中だ。


 東方商人は、その姿を見て、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。


 本当に一瞬だった。見逃してもおかしくない程度の、わずかな歪み。


「……バテレンどもが」


 低い声だった。


 僕は聞こえないふりをした。相槌も打たなかった。


 でも、それで十分だった。


 赤い表紙の日本史教科書の語感が、つい反射して浮かぶ。けれど、すぐに思い直す。


 違う。ここは、あの教科書の十六世紀そのものじゃない。


 聖陽教だって、カトリックそのものじゃない。ただ、海の向こうから来た宗教者、よその秩序を背負ってくる集団、そういう感じだけが、僕の記憶のどこかにひっかかったのだ。


 それでも、一つだけははっきりした。


 聖陽教は、この世界の空気そのものじゃない。ただの一つの秩序にすぎない。辺境では大きく見えても、外から見れば、別に絶対でも何でもない。


 別の神がいて、別の文化があって、別の商圏がある。


 それが分かると、少しだけ息がしやすくなった。聖陽教が普遍じゃないのなら、ここで起きていることもまた、世界のすべてじゃない。


 でも同時に、ちょっと背筋も冷えた。


 世界が広いということは、この村で僕がやっていることだって、もっと広い流れのどこかに引っかかるかもしれない、ということだ。


 紙。石鹸。鍋。工房。交易。


 僕は、村の暮らしを少しましにしたかっただけだ。でも、その少しが、別の商人の目に留まる。別の宗教の目にも留まる。たぶん、そのうち別の権力の目にも留まる。


 だったら、やっぱり雑には進められない。


 産業チートだの何だの、そういう気分で勢いよく世界を塗り替える、みたいな真似は、最初から向いていなかったのだ。


 向いていないし、たぶん危ない。


 やっぱり、慎重なくらいでちょうどよかった。


4.


 ただ、外から来る人間が増えるほど、村の側もまた変わる。


 広い世界の気配は、視野を開く。でも、それだけじゃない。誰が内で、誰が外かを、前より強く意識させる。


 男衆は、酒場で誰と飲むかを少し選ぶようになった。女衆は、見知らぬ装いの相手を前よりよく見る。子どもたちだって、言葉の違う相手には、一瞬だけ足を止める。


 共同体って、たぶんそういうものだ。


 外が広がるほど、自分たちの輪郭も濃くなる。


 聖陽教は普遍の顔をしているけれど、実際には一つの秩序にすぎない。そのことを知って、僕は少し楽になる。


 でも村人たちにとっては、むしろ逆かもしれない。外の広さが見えるほど、手元の秩序へしがみつきたくなる人だって出るだろう。


 広い世界は、安心と不安を一緒に連れてくる。


 東方商人たちは、夕方にはもう荷をまとめ始めていた。高く結い上げた髪が、夕陽の中で少しだけ赤く見える。


 あの背中の向こうに、僕の知らない世界が普通に続いているのだろう。


 そう思うと、また少しだけ笑えてきた。


 好きで転生したわけじゃない。好きで辺境に放り出されたわけでもない。気づいたらこうなっていて、死なないようにして、何とかやってきたら、ここまで来てしまっただけだ。


 でも、まあ。


 世界が広いなら、なおさら雑にはやれない。……そういうことなんだろう。


 仕方ない。


 僕は、たぶんこれからも、そうやってやっていく。

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