第71話 遊び人、夜の乳のあいだで秤を嗅ぐ
1.
俺の名前はディオン。冒険者をやってる。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……だが近ごろは、その札だけじゃまるで足りねえ。家宰まがいの帳尻合わせに、夜泣きする赤子を抱いて歩く役まで混じってきた。
しかも、うちの息子ときたら寝顔まで俺に似やがる。眉の寄せ方までそっくりで、見てると笑えてくるくせに、笑った途端に泣き声を上げるから質が悪い。
六月のエルン村は、見た目だけなら景気がいい。工房の荷は途切れねえし、鍋の湯気も絶えねえ。紙も石鹸も鍋も、前よりずっとましだ。川向こうの畑も広がった。暮らしが回ってる顔をしてやがる。
だが、回るようになったものほど、置き場に困る。
昼前、酒場の裏で水をもらっていた男がいた。翌日には女が一人。その次には、子どもを連れた親子だ。
押し寄せたってほどじゃねえ。ぽつり、ぽつりだ。だが、ぽつりが重なると、村の空気は目に見えねえところから変わる。
「草むしりくらいなら……」
「いや、こっちも食わせる余裕が」
「一晩ならともかく、居つかれたら困る」
誰も怒鳴らねえ。追い払えとも言わねえ。だが、鍋をよそう手が一拍止まる。寝床の話になると、目だけが泳ぐ。そういうのは分かる。
初夏の村は、自分の家の手間でいっぱいだ。助けてえ気持ちがねえわけじゃねえ。だが、飯椀が一つ増える重さも、皆よく知ってる。
その横で、別の秤まで動いていた。
ゴブリンどもは納める日を守る。技術もある。村に金も落とす。対して、新しく流れてきた人間どもは、今のところ寝床と粥と手当てが先だ。返してるぶんより、食ってるぶんのほうが目につく。
口に出せば醜い。だから誰も、はっきりとは言わねえ。だが皆、心の中じゃ量り始めていた。魔族だが使える。人間だが使えない。そんな秤だ。
ひどく気持ち悪かった。
しかも、聖陽教の連中がそこへ、やわらけえ言葉を被せてきやがる。新参の貧民に白パンを渡し、子どもに読み聞かせをしながら、静かな声でこう言う。
「まず守るべきは、
同じ苦しみを負う人ではありませんか」
咎めてもいねえ。怒ってもいねえ。ただ、筋の良いことを言ってる顔だ。だから厄介なんだよ。
2.
レオンは、その空気を嫌がっていた。だが、嫌だで済ませる男でもねえ。川向こうの畑の縁に立って、流れてきた連中をどう張りつけるか、もう考え始めてやがる顔だった。
「賃仕事だけじゃ回りません」
畑を見たまま、そう言った。
「今さらかよ」
「播くのも、草を取るのも、
人手でできます。
でも、それだけです。
土地に張りつく者がいないと、
見張りも、繕いも、収穫も続きません」
言いたいことは分かる。日当で呼んだ手は、日が暮れりゃ帰る。流民が雑役をしたところで、翌朝にはまた食い扶持を探すだけだ。
畑は播いて終わりじゃねえ。荒らされたら困ると思うやつ、直さなきゃまずいと思うやつがいて、ようやく畑になる。
だが、その言い方を聞いたとき、俺は少しだけ背中が寒くなった。
聖陽教は、人を囲う。レオンは、人を張りつける。言葉は違うが、どっちも結局、都合の悪い者へ役割を与えて、居場所を決める話だ。
その夜、神殿へ顔を出すと、エレノアちゃんが新参の妊婦の足を見て眉を寄せていた。むくみがひどいらしい。
子どもの手を取って、指先の荒れまで見てやる。村の子だろうが、昨日来た子だろうが、あの娘の手つきは変わらねえ。
だが、ぽつりと漏らした声は重かった。
「弱った者を抱える仕組みは、
まだ村にはないわ」
優しい娘だ。だが甘かねえ。だから、その一言が腹に落ちた。
村も、聖陽教も、レオンも、別々の顔で同じところへ手を伸ばしかけてる。役に立つか、立たねえか。どこへ置くか。何を返させるか。まだ誰も正面から認めちゃいねえ。だが、空気だけはもう変わっていた。
で、こういう嫌な昼のあとに限って、夜のほうは別の忙しさで始まる。
もらい乳と分け乳を回す段取りだ。
リラ一人に任せてたら、さすがに持たねえ。乳を欲しがる赤子ども、それに乳の出る女は何人かいる。夜だけ動けるやつ、昼なら手を貸せるやつ、家を離れにくいやつ。それぞれ都合が違う。
だから今は、夜のもらい乳番が三人、昼の分け乳はリラを含めて四人で回していた。
俺はその真ん中で、順番を決める役だ。
「リラは起こすな。今夜は先に東の家だ。次は裏の双子んとこ。お前は昼に入れ、乳が張りすぎてる。お前は一刻寝ろ」
言いながら、自分でも一人抱いて歩く。口だけの差配役じゃねえ。そこまでやらなきゃ、女どもだって従いやしねえ。
3.
夜更けの村は、昼の寄り合いよりよほど本音が出る。
赤子の泣き声が一つ上がれば、戸を叩く。受け取る。飲ませる。背をさする。眠ったら返す。その合間に、次の家へ回す女を決める。湯を足す。布を替える。乳の張り具合まで見て、無理の来てるやつは外す。
そういう細けえ仕事の段取りが、夜中じゅう続く。
「ディオン、次どこだい」
「表の角の家。終わったら
そのまま川手へ回れ」
「リラは?」
「寝かせとけ。起こすな」
俺が言うと、女たちはぶつぶつ言いながらも動く。こっちも、赤子を抱いたまま次の家の戸口まで歩く。
息子だけじゃねえ。ほかの家の子でも、抱き方はもう手が勝手に覚えてやがる。
そんなふうに一山越えたところで、乳母役の女どもが桶を脇へ置いて、少しだけ腰を下ろした。井戸端会議ってやつだ。夜中だろうが、女はしゃべる時はしゃべる。
「ねえ、ディオン」
「何だよ」
「そろそろさ、遊び人の看板、
下ろしたらどうだい」
いきなり来やがった。俺が顔をしかめると、別の女が笑う。
「子を持ってから、
あんた面差しが良くなったねえ」
「前よりずっと、いい男だよ」
「赤子を抱くようになってから、
すっかり家の男の顔だ」
「うるせえな。
いい男かどうかで乳は出ねえだろ」
言い返したが、言ったあとで自分の声が少しだけ上ずってるのが分かった。くそったれ。女どもはそういうのを見逃さねえ。
「ほら、その困った顔。前はもっと、
しょうもない顔してたのに」
「今はちゃんと、一家を持つ男の面だよ」
家のある男の面、だとよ。
俺は桶を持ち直して立ち上がった。
「無駄口叩く暇あったら動け。次は西だ」
だが、呼ぶ声が一拍ずれたのは、自分でも分かった。背中が妙にむず痒い。遊び人だの冒険者だの言ってた男が、夜中に乳の順番で褒められてどうする。
それでも、女どもはもう勝手に次の話をしてやがる。誰の乳が足りる、どこの子が今夜は静かだ、明日は昼の分け乳をどうする。暮らしの話だ。色気なんざねえ。ねえくせに、さっきの言葉だけは妙に残った。
4.
明け方近く、最後の引継ぎでリラがようやく起きてきた。髪は少し乱れていたが、顔色は昨日よりずっとましだ。夜のあいだ、ちゃんと寝かせた甲斐はあったらしい。
乳母の一人が、受け渡しのついでにリラへ笑った。
「アンタ、良い旦那を捕まえたよ」
あろうことか、そんなことを言いやがる。
リラは眠たげな目を細めて、俺のほうを見た。それから、口の端を上げる。
「でしょう?
うちのは見た目だけじゃなくて、
使えるのよ」
言い方が雑だ。雑なんだが、何だか妙に胸へ来た。
乳母たちは笑う。軽口だ。夜明け前の、疲れた女どもの口から出るただの一言だ。だが、俺にはそう聞こえなかった。
俺たちは、もともと根無し草だ。奴隷に売られ、流され、行き着いた先でどうにか食いつないできた。
きちんとした家の旦那と女房なんてもんじゃねえ。拾われたみてえにして、一緒にエルン村まで流れてきただけだ。
それが今、夜の乳の引継ぎの場で、「良い旦那」だの「いい男」だのと言われている。村長でも神殿でもねえ。家の内実をいちばん見る女どもが、そう言う。
くそ、やめろよ、と思った。
そういうのは、妙に効く。
昼の村は、人を量っていた。役に立つか、立たねえか。どこへ置くか、何を返させるか。あの気持ち悪い秤は、たぶんこれからもっと露骨になる。
だが夜の村は、別の秤で動いている。誰を休ませるか。誰に乳を回すか。どの子が先か。どの母親が限界か。
こっちも人を分ける。役目も決める。だが、それは追い出すためじゃねえ。死なせねえためだ。
同じ差配でも、味が違う。
息子が、俺の腕の中で小さく身じろぎした。寝顔まで俺に似てる、笑えるやつだ。俺は鼻を鳴らして、その小せえ背中を軽く叩く。
……まったく。
遊び人って札、そろそろ掛け替え時かもしれねえな。




