第66話 遊び人、春の境目のざらつきを嗅ぐ
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……この頃は、その札だけじゃ説明が足りねえ。村の空気がどこで濁るかを嗅いで、誰がその濁りを見て見ぬふりするかまで眺めるほうが、よっぽど生業らしくなってきた。
火迎えを越えたエルン村は、見た目だけならずいぶん景気がよかった。
雪解け水で川は太り、川向こうの広い畑では春播きの支度が進む。休耕地じゃヤギや羊が草を食み、村の中では乳を煮る匂いと鍋の湯気が絶えねえ。農具の柄を削る音も、冬のあいだより軽く聞こえた。
冬を越えるだけだった暮らしが、ようやく回り始めてる。そんな顔つきだ。
だが、回るようになったものほど、置き場の都合ってやつが出てくる。
紙、石鹸、土鍋、台所道具。臭いのきつい工房は、いつの間にかみんなヴァルディス領、ゴブリンの森へ押し込められていた。排水も臭気も村で抱えたくねえからだ。
理屈は分かる。分かるが、皆あまりに当然みてえな顔で受け入れてやがる。
「便利なもんは要るが、
臭えもんは外でやってくれ」
言葉にすりゃ、それだけの話だ。
俺はそのたび、村の顔を見た。誰も悪びれねえ。便利なものは欲しい、厄介なものは外へやる。それで何もかも片づいたつもりの顔だ。
その横で、レオンだけが少し渋い顔をしていた。あいつにしちゃ珍しい。理屈で押し切るでもなく、妙に引っかかった顔だ。
もっとも、村人どもは、あいつのその顔の意味まで気にしちゃいねえ。
で、春ってのは、だいたいそういうときに別の厄介まで運んできやがる。
2.
最初に来たのは、一人だった。
昼前、酒場の裏手で水をもらってた男だ。身なりはぼろぼろ。年は三十かそこらだろうが、腹の減った顔をしてやがった。荷もねえ。家もねえ。手に職がある顔でもねえ。
その翌日には、女が一人。さらに二日ほどして、子ども連れの親子が来た。
別に押し寄せてきたわけじゃねえ。ぽつり、ぽつりとだ。だが、ぽつりが三つ四つ重なると、村の空気は目に見えねえ形で変わる。
「日雇いなら、草むしりくらいは」
「いや、こっちだって
食わせる余裕があるわけじゃ……」
「一晩くらいならともかく、
居つかれたら困る」
誰も怒鳴らねえ。追い返せとも言わねえ。
だが鍋をよそう手が、一拍止まる。寝床の話になると、目だけが泳ぐ。村外れの空き小屋の話が出ても、誰も先に鍵を出そうとしねえ。
そういうのは、分かる。
助けたい気持ちがねえわけじゃない。だが、春先の村は自分の家の仕事で手一杯だ。
畑を起こし、種を播き、家畜を動かし、水を見て、冬の遅れを取り返す。誰だって、自分の飯椀を一つ増やすことの重さくらい知っている。
だから、正しいことほど口が鈍る。
エレノアちゃんは、一度だけ子どもの手を取っていた。指先が荒れて、爪の縁が割れていたからだろう。だが、そのあと何も言わなかった。言えなかったんだと思う。
村長も、表では静かだった。
「水と粥くらいは出そう。
だが、その先は軽々に決められん」
それだけだ。
冷たいようで、村を潰さねえための言い方でもある。こういうときの村長は、ほんとに外さねえ。外さねえが、そのぶん重い。
俺はそのやり取りを横で聞きながら、妙な既視感を覚えていた。
臭い工房を森へ寄せた時の顔と、今の村人どもの顔が、どこか似ていたからだ。
便利なら受け入れる。厄介なら外へ寄せる。
今度は物じゃねえ。人間だ。
3.
その日の夕方、俺は川向こうへ足を向けた。レオンがまた、広くなった畑の縁に立っていたからだ。
地竜で引っくり返した土地は、遠目にはずいぶん立派に見える。だが近くで見りゃ、広いだけで手間の塊だ。
種を播いて終わりじゃねえ。草を見て、水を見て、畦を守って、獣を追って、夜には見張りも要る。
前にヤギへ食われた時の青い顔を、俺はまだ忘れちゃいねえ。
俺が隣へ立つと、レオンは畑を見たまま言った。
「賃仕事だけじゃ、
やっぱり回りませんね」
「今さらかよ」
俺は鼻を鳴らした。
「人手を雇えば播ける。草も取れる。
でも、それだけです」
「それだけで十分な時もあるだろ」
「畑は回ります。でも、
土地には張りつきません」
言い方が、また書記臭え。だが、言いたいことは分かった。
日当で呼んだ手は、日が暮れりゃ帰る。自分の畑があれば、そっちへ戻る。飢えた流民が雑役をしたところで、翌朝にはまた食い扶持を探すだけだ。
播いて終わりじゃねえ。見張るやつ、直すやつ、荒らされたら困ると思うやつが要る。そういう手間を積み上げて、ようやく畑になる。
レオンは黙ったまま、川向こうの端まで目をやった。
その先にいるのは、今日来た流民どもでも、村の若い衆でもねえ。もっと面倒な筋道でも見つけた顔だった。
俺はそこで、少し嫌な感じがした。
こいつはたぶん、また筋の通った答えへ手を伸ばしかけている。だが、その答えが村の肌ざわりに合うかどうかまでは、まだ分かっちゃいねえ顔だ。
「お前、また何か考えてるだろ」
レオンはすぐには答えなかった。
「……まだ、うまく言えません」
「言えねえなら考えるな」
「無理です」
即答だった。ほんと、そういうところだぞ。
4.
村へ戻る頃には、日が落ちかけていた。夕餉の匂いが戸口から漏れ、鍋の蓋が鳴る。そういう当たり前の温かさの中に、今日は少しだけ、別の匂いが混じっていた。
よそ者の腹の減った匂いだ。
酒場の裏手では、昼の男が壁にもたれて座っていた。村長の家の軒先には、親子連れが小さくうずくまっている。追い払われちゃいねえ。だが迎え入れられてもいねえ。
その半端さが、春のぬるい空気の中で妙にざらついていた。
村人どもは戸を閉め、家の中で飯を食う。鍋は回る。乳も煮える。畑の支度も進む。暮らしそのものは前より良くなってるはずなのに、どこかで指先が引っかかる。
豊かになるってのは、誰でも入れてやれるってことじゃねえ。
むしろ逆だ。持つもんが増えるほど、人は線を引きたがる。
こっちは内、そっちは外。こっちは食わせる、そっちは日雇い。こっちは村、そっちは森。そうやって切り分けて、ようやく安心した顔をする。
俺はその顔を、今日だけで何度も見た。
酒場の戸口で、レオンが足を止めた。流民の親子を見て、それから川向こうの畑がある方角へ、ちらりと目をやる。
ああ、と思ったね。
こいつ、また面倒なものを拾いやがった。
助けるだけじゃ足りねえ。日雇いだけでも長くは保たねえ。村の外へ押しやるだけじゃ、そのうち何かが溢れる。
……そこまでの言葉には、まだなっていないんだろう。だが、あいつの顔はもう、その嫌な筋道の入口に立っていた。
春の村は、表向きには景気がいい。
鍋は煮え、畑は広がり、工房は回る。だが、そのぶんだけ、外へ押しやるものも増える。
便利なもの。臭いもの。厄介なもの。食い詰めた人間までな。
どうやら面倒は、また一つ増えるらしい。
しかも今度のは、ヤギの尻なんかより、よほど長く尾を引きそうだった。




