第64話 賢女、命を分ける火の番に立つ
1.
私はエルン村の賢女であり、川向こうの地主レオンの妻、エレノア。
年が明けてからというもの、村の空気には、乾いたざわめきが残っていた。
高値に目がくらみ、穀物も干魚も薪も、売れるだけ売った家がある。冬を越す備えまで崩しておきながら、春までもたせるぶんを何とかしてくれと、今度はレオンへ頭を下げに来る。
夫は貸した。だが、配りはしなかった。
量を量り、紙に記し、返す時期まで先に決める。誰が相手でも同じ升、同じ秤、同じ書き付け。顔なじみだからと曖昧にはしない。困っている家にも、寄り合い衆の縁の家にも、同じように線を引いた。
「助けてくれないのか」
そう言われても、夫は首を振る。
「助けます。でも、
丸ごと埋めるわけではありません」
冷たい、と陰で言う者もいた。倉にまだ残りがあるくせに、どうして配らないのか、と。
けれど私は知っている。この人が切っているのは、人ではない。事だ。売らなくてよい備えまで売った、その判断の後始末を、そっくり共同体へ背負わせないために線を引いているのだ。
その一方で、この冬から雪解けにかけて、村では出産が相次いだ。
乳飲み子を抱えた家。産後で起き上がれぬ女のいる家。若い夫婦だけで手が足りぬ家。
そうした家へは、夫は穀物と干魚、布と薪を、貸付ではなく配給として出した。返済は求めない。そこは埋めるべき穴ではなく、守るべき次代だからだ。
「貸すのは渋るくせに、
赤子には気前がいいんですね」
そう言った男に、夫は静かに答えた。
「渋っているんじゃありません。
分けているんです」
「何をだ」
「投機の失敗と、
共同体の未来を、です」
その言葉を、村人たちは面白くない顔で聞いていた。
けれど、反論は続かなかった。乳の要る子に、返済の証文を切れとは、さすがに誰も言えない。
その頃、村長の長兄の家でも、出産が近づいていた。村長の父が寝ている、あの家だ。
あの家にも、これまで夫は貸付をしていない。
それでも、産後に必要なぶんは配給に回す。家の格でも、好き嫌いでもない。生まれてくる命に、返済は求めない。
その線引きが、ようやく村の中で、言い逃れのできぬ形を持ち始めていた。
2.
子が生まれたのは、まだ朝の冷えの残る日だった。
雪はだいぶ痩せたが、屋根の陰には白いものが残り、戸口から入る風は頬を刺した。私は産婆の手伝いで長兄の家へ入り、湯を替え、布を温め、女たちとともに夜明けから動いていた。
昼前になって、ようやく産声が立った。
小さい、しかしはっきりした声だった。冬の名残がまだ消えぬ家の中で、その声だけがまっすぐ前へ進むように響いた。
男の子だった。
母親は疲れ切っていたが、子は力強く泣いた。私は湯で身体を拭き、布でくるみ、産婆へうなずく。家の中に詰めていた者たちの肩から、ようやく力が抜けた。
村長も来ていた。無口な顔のまま、赤子を見て、それから奥の寝台へ目をやる。
父親――かつて法と治安を担っていた老人は、そこに横たわっていた。
喉の病は、もう隠しようがないところまで来ている。前よりさらに細くなり、首筋は痩せ、息をするたび喉の奥でかすかな音が鳴る。
水を含ませても、ひと息に飲み下すことができない。話そうとすれば、まず息を整えなければならず、整えたところで長くは続かない。
私は赤子を抱き、寝台のそばへ行った。
「見えますか」
老人は、ゆっくりまぶたを上げた。濁りのある目が、私の腕の中の布の塊へ向く。私はそっと身をかがめ、その腕へ赤子を渡した。
細くなった手が、震えながらも確かにその重みを受ける。
老人はしばらく何も言わなかった。言えなかったのだと思う。ただ、赤子の顔を見ていた。村長を見て、村長夫人を見て、もう一度、腕の中の小さな命へ視線を戻す。
その目元が、ほんのわずかにゆるんだ。
喉が鳴る。息をひとつ、ふたつ、苦しそうに継ぎ、それから、絞るような声が落ちた。
「良かった……」
それだけだった。
言葉はそこで尽きた。けれど、その一語で足りていたのだと思う。
家に子が継がれたことも。村長の肩にだけ、もう全部を載せずに済むことも。
老人は赤子を抱いたまま、しばらく目を閉じていた。やがて私が腕から子を受け取ると、その手はもう力を戻さなかった。
3.
亡くなったのは、その日の夕刻だった。
泣き声はなかった。女たちは目を赤くしたが、取り乱しはしない。前から、皆わかっていたのだ。喉の病がここまで来て、冬を越しただけでも長かった。
だから、これは唐突な死ではなく、ようやく身体が役目を終えたのだという静けさが、家の中にはあった。
村長は父の顔をぬぐい、長兄は薪の手配に出た。若い衆は火葬の場所を整え、女たちは身を拭う湯と布を用意する。
生まれたばかりの子は、別の部屋で眠っていた。母親のかたわらで、小さく息をしている。
同じ家の中に、産の床と死の床が並んでいる。
私はそのあわいに立ちながら、村というものは、こうして生と死を同じ手で受け渡してきたのだと思った。
翌日、日が落ちる前に、火は焚かれた。
エルン村の火葬は、騒がしくない。歌も、大きな祈りもない。ただ、送り出す者たちが集まり、薪を積み、火を渡し、その場を見守る。死を遠ざけるためではなく、共同体の中で最後まで引き受けるための火だ。
夫もそこにいた。
この人は、こういう儀礼の中心に立つ人ではない。だが今日は、離れたところから見ているだけではなかった。薪を運び、火の回りを確かめ、誰が何を要るかを先に見て動いている。
宿の始末から始まったこの人の仕事は、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。
紙を書き、升を揃え、貸付と売り方に法を入れた。
どれも、目の前の暮らしを少しでも持たせるためだった。
けれど今、火の前に立つこの人の仕事は、それだけではない。
生まれた子に布と薪を回し、産後の女へ食を届け、老いて死んだ者を村が送る、その順を崩さぬために動いている。
統治とは、物だけのことではなかった。
4.
火はゆっくりと薪を食った。
ぱちり、と乾いた音がするたびに、夜気の冷たさが少し遠のく。炎の向こうで、村長は黙って立っていた。長兄も、その妻も、若い衆も、誰も大きな声は出さない。ただ、火を見ている。
私はその少し後ろで、夫の横顔を見た。
難しい顔をしていた。悲しみに沈んでいるというより、何かを深く量り直している顔だった。
「……どうしました」
小さく問うと、夫は火から目を離さずに答えた。
「村は、こういうところを
抱えなきゃいけないんですね」
私は返事をしなかった。
たぶん、この人の中でいま、いくつものことが一本に繋がったのだろう。貸すことと配ること。助けることと甘やかすこと。生まれる者を守ることと、去る者を送ること。
共同体の責任とは何か。その線が、火の明かりの中ではっきりしたのだ。
冬の高値に浮かれ、備えを切り売りした者の穴は、丸ごと埋めない。
だが、乳を飲む子、産後で起き上がれぬ女、老いて役目を終えた者への送りは、村が抱える。
そこに返済を求めない。
そこを惜しまない。
その線引きが、ようやくエルン村の公の顔になり始めていた。
火が少し落ち着いたころ、村長が一歩前へ出た。炎の向こうにあるものを見つめるその背に、私は老人のまなざしを思い出す。
もう背負わなくてよいものと、これから背負うべきもの。
それを確かめるような、あの静かな目を。
帰り道、家々の戸口からは、まだ春を待つ匂いがしていた。だが、その中にはもう、赤子のいる家へ回す布と薪の行き先も、火葬を終えた家へ運ぶべき食のことも、ひとつの道理として含まれている。
宿屋の始末から始まった話は、ついにここまで届いたのだ。
人の欲と、人の弱さの始末だけではない。
生まれ、老い、病み、死ぬものを、どこまで共同体の責任として抱えるのか。
その中身へ、とうとう手が届いたのだった。




