第59話 遊び人、宿の残り火を抱え込む
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……この頃は、その札だけじゃ説明が足りねえ。泥をかぶる順番を見て、誰がどこまで踏み抜くかを横から眺めるのが、半ば仕事みてえになってきた。
十二月も半ばを過ぎ、朝の空気は痛えくらいに冷えていた。宿の軒先には霜が張りつき、戸を開けるたびに、酒と脂と、古い寝具に染みた人いきれの匂いが外へ逃げる。
支配人は逃げた。
逃げたが、建物までは消えねえ。帳面も寝台も、薄汚れた衝立も、その奥に残された女どもも、そのままだ。
面倒ってのは、たいてい本体より残りかすのほうが始末が悪い。
村の連中の中には、宿の裏で何が回ってたかを知って、これで片がついたみてえな顔をした奴もいた。馬鹿かと思う。胴元がいなくなったからって、腹を空かせた人間まで一緒に消えるわけじゃねえ。
辞める女もいた。泣いて荷をまとめるのもいりゃ、舌打ちしながら出ていくのもいた。だが、全員じゃねえ。半分は残った。
現金入りがいい。今さら他の仕事じゃ食えねえ。村へ戻る家がねえ。自分に向いてるのはこれだと割り切ってる。
寒村へ嫁に行くより、まだこっちのほうが稼げる。借金は切れたが、行く先がねえから、とりあえず屋根の下に残るしかねえ。
理由はばらばらだ。だが、ばらばらだから厄介なんだよ。
ここで一度に放り出せばどうなるか。私娼になって勝手に客を取る。別の胴元に拾われる。盗みをやる。病気を広げる。若い衆と揉める。冬だ、腹も減る。どこで何が燃え上がるか分かったもんじゃねえ。
レオンは、それを一つずつ数えていた。
嫌そうな顔でな。
2.
宿は閉める、で済む話じゃなかった。閉めたあとに溢れるものの始末まで考えなきゃ、ただの見栄だ。
だからレオンは、いちばんやりたくなさそうな顔で、いちばん逃げちゃならねえ場所に座った。
営業は絞る。泊まり客でも、素性の怪しいのは切る。借金で縛るのは禁止。暴力沙汰は一度で放り出す。病人は分ける。寝具は洗わせる。湯を回す。
エレノアちゃんとも連携して、体を診る順も決める。今すぐ全員を別の仕事へ移せるわけじゃねえが、いずれはチーズ作りや洗い場や繕い仕事へ回せるよう、手の空く女から少しずつ覚えさせる。
救うだの更生だのって話じゃねえ。
被害の総量を減らす。それだけだ。
俺は横で見ていて、つくづく、こいつは損な役回りばかり引くと思った。正しいことをしてる顔じゃない。嫌悪も面倒も飲み込んだ顔だ。臭えものに蓋をするんじゃなく、蓋を開けたまま腐り方を遅くする顔だった。
当然、女どもはすぐに嗅ぎつける。
昨日までの支配人は逃げた。代わりに前へ出てきたのは、若くて、金勘定ができて、殴りも怒鳴りもしねえ男だ。となりゃ、見る目は一つしかねえ。落とせる男、取り入るべき権力者、庇護を得る先。
露骨なのもいた。
帳面を見てるレオンの腕に、わざと指をかける女。礼を言う声を必要以上に甘くする女。困ってるんです、と目を潤ませて、ほかの連中より自分を先に見ろと寄ってくる女。
ああいうのは、色気ってより営業だ。腹を空かせた人間の手つきだ。だから笑えねえし、軽くも見えねえ。
そのぶん、当のレオンは本気で嫌がっていた。
嫌がるくせに、邪険にも切れねえ。
そこがまた、こいつの始末の悪いところだ。
3.
昼すぎ、裏手の薪小屋で、ようやく人目が切れたときだ。
レオンが、心底疲れた顔で息を吐いた。
「……本当に僕、いやなんですよ」
何がだ、と言うまでもねえ。さっきまで、女どもに代わる代わる声をかけられていた。
「家宰にそんなことを
おっしゃられましても」
俺がそう返すと、レオンはぎろりとこっちを見た。ほんの一瞬だけだがな。次にはもう、むすっとした顔で視線を逸らす。
「ディオンさん、根に持ってますよね」
「当たり前だろ」
「僕だって、好きで言った
わけじゃありません」
「へえ」
そう言ってやると、こいつは薪の積み方でも咎めるみてえな顔になった。
「本当にいやなんですよ。
ああいうふうに触られるのも、
その、甘い声で何か期待されるのも。
しかもエレノアさんに
誤解されたくないし……」
「誤解も何も、見たままだろ」
「見たままだから困るんです」
そこで少し間があって、レオンは急に子どもみてえな調子で言いやがった。
「じゃあ、あの場で何て言えば
よかったんです。
『お兄ちゃん』って言っとけば
よかったですか?」
思わず吹きそうになった。なるほど、まだそこへ戻るのかよ。
「似合わねえな」
「僕だってそう思いますよ」
「なら黙って触られてろ」
「いやです」
即答だった。妙なところだけ早え。
「そんな場所で喜べるほど
気楽な性格に見えますか……」
「そこまでは言ってねえよ」
「どうせ僕の場合、
面倒ごとを抱え込まされて
終わりでしょう」
それは、その通りだった。
色に溺れるって柄じゃねえ。こいつの場合、困ってる顔を見せられりゃ切れず、保護しなきゃと思った瞬間に、責任ごと首へ巻きつけられる。女に落とされるってより、面倒に懐へ潜り込まれる手合いだ。
だから俺は、鼻で笑ってやった。
「分かってるなら結構。
せいぜい帳面ごと抱いて寝ろ」
「いやですよ……」
こいつは本気で嫌そうだった。そこだけ見りゃ、まあ、少しは気の毒でもあった。
4.
だが、気の毒で済まねえのが現場ってやつだ。
夕刻、表へ戻ると、空気が少し変わっていた。炉の火が赤くなり、客の数も減り、残った女どもの視線だけが妙に落ち着かねえ。誰かが来たんだとすぐ分かった。
入口のところに、エレノアちゃんが立っていた。
いつものようにきちんとした身なりで、声も荒げず、顔も笑っていやがる。だが、その笑みが村の娘衆へ向くときと違う。やわらけえのに、逃がす隙がねえ。
「寝具を見ます。
洗うものは分けてください。
熱のある方は奥へ。
今日から湯の順も変えます。
客を取る部屋は、
使う前に窓を開けてください」
言ってることは、ただの実務だ。嫉妬だの怒りだのをぶつける言葉は一つもねえ。
なのに、女どもはあっという間に押し黙った。
さっきまでレオンの腕に触れてた女が、手を引っ込める。甘え声を使ってたのが、姿勢を正す。自分だけ先に見ろと寄っていたのが、順番を待つ顔になる。
誰も怒鳴られてねえ。脅されてもいねえ。
ただ、一目で分かったんだ。
この場で線を引くのが誰か。情けを配るにしても、規律を決めるにしても、最終的に宿の空気を握るのが誰か。
レオンは横で、少しだけ肩をすくめていた。助かったような、観念したような、妙な顔だ。
俺はその顔を見て、ようやく腑に落ちた。
流れ者の女どもは、まだ知らなかったんだ。
誰がこの宿を仕切ってるのか。




