第58話 遊び人、家宰の名を背負わされる
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……この頃は、その札だけじゃ説明が足りねえ。札の裏に「家宰」とでも書き足された気分だが、正直、まだ腹の底で馴染んじゃいない。
というか、馴染むか、あんな言い方で。
ついさっきまで俺を見もせず「お前は下がっていなさい」と来た男が、その次の瞬間には「この男は私の家宰、ディオンです」だ。
どっちだよ。人を立ててんのか、こき使ってんのか、もう少し加減ってもんを覚えろ、書記野郎。
だが、腹が立つのと、効くのは別だ。
支配人の顔から、あの薄笑いはきれいに剥げ落ちていた。
昔の値札で俺を見ていた目が、そこで初めて別の勘定を始めやがる。ドラゴミルのドラグ。船底へ詰め込まれる荷物みてえに人を数える連中の、手垢のついた呼び名だ。
そいつが今は、レオンの横に立つ「家宰」。そりゃ計算も狂うだろうよ。
レオンは、そんなことをいちいち気にも留めねえ顔で、さらに支配人へ向き直った。
「申し遅れました。私はエルン村のレオン。
川向こうの地主であり、
温泉の管理者であり、
寄り合いの末席を汚しており……
ヴァルディス領
ゴブリンの森の領主です」
本人は礼儀正しく名乗ったつもりなんだろう。実際、声も姿勢も丁寧なもんだった。
だが、支配人には違って聞こえたはずだ。
村の有力者。魔族圏との接点持ち。力仕事も辞さねえ男。しかも、俺を昔の値札から引っぺがした張本人。
そこで支配人の目が、レオンの胸元へ落ちた。
首から提げた、あの指輪だ。オークから奪ったせいで本人の指には合わず、革紐に通して下げてる代物。俺にゃ細けえ紋の意味なんざ分からねえ。だが、境界の匂いに鼻の利く手合いには、別の勘定で読めるんだろう。
支配人の喉が、小さく動いた。
ああ、読めたな、と思ったね。
2.
それでも、支配人はすぐには崩れなかった。
腐ってても、ああいう連中はそこで一度、損得を数えやがる。押し切れるか。ごまかせるか。村の揉め事として丸められるか。そういう算盤を、顔の裏で弾いてる。
「行き違いがあったようです」
支配人は口調だけ柔らかくした。
「宿の運営には、
どうしても荒事も混じります。
ですが当方も、
村との協調を望んでおりまして――」
薄皮だ。
刃物を抜いた馬鹿も、女を沈めた仕組みも、前借りで縛るやり口も、全部その薄皮の下へ押し込んで、「行き違い」で済まそうとしてやがる。
俺は横で聞きながら、鼻の奥が冷えていくのを感じた。
こいつらは、最後までそうだ。
人を沈めるときは、泥の上からじゃねえ。板を敷き、香油を塗り、言葉だけは丁寧にして、その下で息ができなくなるまで押さえつける。
レオンは静かな顔のまま言った。
「不都合があれば、
王都までご挨拶に伺いますが」
その一言で、支配人の指先が止まった。
ああ、今ので決まった。
村の若い地主が背伸びしてる、くらいなら、まだ笑えたんだろう。だが王都まで、となると話が違う。本店筋。金主。境界取引。帳簿の裏。そういうものまで線が伸びる。
しかも目の前には、ゴブリンの森の領主を名乗る男と、その家宰扱いされた元奴隷崩れの遊び人。
踏み損ねた時の損が、急にでかくなった。
支配人はそこで、ようやく丁寧に頭を下げた。
「それには及びません。
こちらでも見直しましょう。
今夜のところは、どうか――」
その時だった。
戸口のほうで、聞き慣れたばたばたした足音がした。
3.
ゴブリンどもだった。
嫌な予感しかしねえ顔で、耳をぴんと立てている。妙に達成感まで漂わせてやがる。
「アニキ! 連れてきたっす!」
レオンが、ぴくりと眉を動かした。
「何をです?」
「足っす!」
嫌な答えだった。
こいつらの言う「足」が、まともな馬で済んだ試しはねえ。俺は反射で、春先の荒れ地を思い出した。
巨大有輪犂。地竜の子ども。犂の柄を握ったレオンが、半日ずっと宙に浮いたまま引きずり回されて、夕方には泥まみれで吐いていた、あの地獄だ。
たぶんレオンも同じもんを思い出したんだろう。顔が一瞬だけ、うんざりした。
「歩いて帰ります」
即答だった。
そこへ頭目が慌てて両手を振る。
「いやいや、
せっかく連れてきたんっすから!
火の坊は旦那が嫌がるっすし、
水の嬢ちゃんも
壊すなって言うっすから!」
支配人の顔色が、そこでまた一段抜けた。
火竜。水竜。
名前だけで十分だったんだろう。呼べるが断ってた、って響きが一番まずい。選択肢の中に普通に入ってるってことだからな。
で、その最後だ。
外が、ふっと暗くなった。
戸口の向こうで、影が動く。馬車の屋根なんてもんじゃねえ。建物ごと日差しを削るような、でかい影だ。
次の瞬間、庭先へ重い着地音が響いた。土が鳴り、軒先の埃が落ちる。
黒い鱗。夜みてえな翼。子どもじゃねえ。親だ。
黒竜だった。
宿の人間どもが、まとめて息を呑む。支配人なんざ、口を開いたまま閉じられなくなっていた。
その黒竜が、まずゴブリンどもを睨んだ。
「お前、ワシを乗合馬車に使うなと
あれほど……」
低い声だった。腹の底へ響くくせに、妙にはっきり言葉になる。
黒竜は鼻先を動かし、空気を嗅いだ。それから不機嫌そうに喉を鳴らす。
「硫黄が出来たと聞いたから
来ただけだ。
ついででもなければ
人里まで降りるか」
ゴブリンどもが揃って耳を伏せた。
「でも疲れてるっすから……」
「精製したてっす……」
「善意っす……」
「黙れ。量が減る」
……駄目だ。怖いのに、少し笑いそうになった。
支配人のほうは笑うどころじゃねえ。黒竜が喋る。ゴブリンを下級魔族扱いする。そのうえ欲しい物があるから、自分からここまで降りて来てやがる。
命令で従ってるんじゃねえ。
あいつらには、黒竜を里まで引っ張ってこられるだけの餌と手際がある。
そう見えたはずだ。
4.
レオンは、心底嫌そうな顔で一歩引いた。
「歩いて帰ります」
さっきより強い拒否だった。
まあ当然だ。オークの背中に飛び乗って、なかなか死なねえ野郎に振り回された記憶がある。そのうえ地竜に半日引きずられた。魔族に乗ってろくな目に遭ってねえ男が、黒竜だからって喜ぶわけがない。
だが、ここで二人とも断るのは収まりが悪い。
ゴブリンどもは完全に「いいことをした顔」だし、黒竜も黒竜で、来た以上は手ぶらで帰るのも癪そうだった。
俺は小さく息を吐いた。
家宰、ねえ。
ああいう呼び方をされた借りを、こんな形で返すのも変な話だが、さっきあいつが俺の値札をひっくり返したのも事実だ。場を納める役なら、ここは俺が被るしかねえ。
「……じゃあ、俺が乗る」
ゴブリンどもの耳がぴんと立つ。
レオンがこっちを見た。止めはしねえ。その代わり、少しだけ気の毒そうな顔をした。お前、やっぱり俺を使う時は使うよな。
俺は黒竜の前まで歩いた。近くで見ると、さらにでかい。目線だけで人を押し潰せそうな圧がある。だが、黒竜は面倒くさそうに片翼を少し下げただけだった。
「早くしろ」
「へいへい」
乗ってみる。
……あれ。
思ったより、ずっと安定していた。鱗の重なりが座面みてえに身体を受ける。揺れも少ねえ。高いだけで、変な跳ね方をしない。
俺は思わず言った。
「おっ……馬車より快適じゃねえか」
その一言で、支配人の顔が死んだ。
分かるぜ。ついさっきまで、お前呼ばわりで使い潰せると思ってた男が、今は黒竜の背で乗り心地を品評してるんだからな。しかもそれが見せつけじゃなく、本気の感想だと来てる。
黒竜は鼻を鳴らした。
「当然だ。人間の板車と一緒にするな」
支配人はもう、何も言わなかった。
いや、言えなかったんだろう。
自分が敷いてきた値札も、帳簿も、薄皮の理屈も、その全部が届かねえ相手をようやく見た顔だった。
翌朝、支配人はいなくなっていた。
帳場は引き出しが開け放たれ、床には紐の切れた帳簿が転がっていた。残された女たちと給仕どもが、未払いだ、立替はどうなる、鍵はどこだと朝から怒鳴り合い、宿は寝起きのまま腹を裂かれたみてえな顔をしていた。
抜けるだけ抜いて、夜のうちに逃げたらしい。
俺は黒竜の背からその有様を見下ろして、ひとつ鼻を鳴らした。
家宰なんて呼び名は、まだ腹に落ちちゃいねえ。
だがまあ――値札をひっくり返す役なら、悪くねえかもしれなかった。




