第57話 遊び人、宿を丸ごと奪いにかかる
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……もっとも、この頃はその一枚じゃ説明が足りねえ。村の揉め事に首を突っ込んでると、殴る蹴るの喧嘩より先に、どこで金が湧いて、どこへ流れ、どこで人の首に縄が掛かるのかを見なきゃならなくなる。
宿屋なんてのは、なおさらだ。
酒場があって、寝床があって、女がいて、前借りがあって、賭場がある。表から見りゃ旅人相手の商いだが、裏じゃ村の若いのや行き場のねえ連中を、少しずつ沈める仕掛けが幾重にも噛んでいる。
だから建物まるごとにいきなり手をつけるより、先に一本、いちばん分かりやすい血管を断つほうがいい。
賭場である。
いかさまがあるなら、正面から潰せる。客の金を吸う口を塞げば、宿の回りも鈍る。貸し付けの入口としても、あそこはちょうどいい。表の看板より先に、裏の循環を止める。レオンの考えはそういうことだった。
「まず、奥の卓を切ります」
あいつはいつもの調子で、淡々と言った。
「騒ぎは最小限に。
ただし、不正は確実に押さえます」
「で、そのために俺が鴨のふりをしろと」
「得意でしょう」
ぬかしやがる。
まあ、否定はしねえ。遊び人の看板ってのは、こういう時に使うためのもんだ。札遊び、賽、相手の目線、手癖、勝ち負けに浮く呼吸。そういうのを読むのは、昔から俺の仕事だった。
だから俺は外套の前を少しだらしなく崩し、財布の紐も緩く見えるようにして、宿の奥へ入った。
沼に沈む客の顔くらい、いくらでも作れる。
2.
賭場は薄暗かった。
灯りは卓の上だけを照らし、壁際は酒気と人いきれで濁っている。勝った負けたで声を荒げる客もいりゃ、黙って唇を舐めてるだけの客もいる。
どいつもこいつも、自分が今どこまで沈んでるかを考えないようにしてる顔だった。
よく出来た沼だ。
俺は卓につき、最初は素直に沈んだ。
二度、三度と負ける。札の巡りが悪い顔をして舌打ちし、賽でも少しだけ熱くなったふりをする。
負けが込むと、人は自分の手元しか見なくなる。そう思わせればこっちのものだ。向こうも、俺をただの鴨として数え始める。
そこでようやく、卓の癖が見えた。
配り手の指先が、たまに余計に滑る。札を置く順が、客の反応を見てほんのわずかに変わる。賽は卓の角へ当てる角度がいつも同じだ。視線は勝ちそうな客じゃなく、もう引き返せない客の手元へ落ちる。
古い手だが、古い手ほど油断する。
俺は流れを読んで、一度だけ大きく張った。勝つ。次は少し引く。相手が取り返せると思ったところで、また勝つ。そうやって相手の焦りを育てる。勝ち続けるより、まだ戻せると勘違いさせたほうがいい。
卓の空気が変わった。
さっきまで薄笑いを浮かべていた配り手の頬から、笑い皺が消える。横に立っていた無言の用心棒が、ようやく俺の顔を覚える。
「兄ちゃん、今日はついてるな」
「そりゃどうも」
言いながら、俺は次の手を待っていた。いや、待っていたんじゃねえ。待たせてるのは向こうだ。帳尻を戻そうとして、手つきが一段雑になる。そこでまた食う。
賭場銭を食い破るってのは、こういう感触だ。最初は店の余裕を削り、次に配り手の汗が増え、最後は奥の袋に手が伸びる。
運用金を吐かせた時点で、もう終わりだった。
この場は、客が運で勝ったんじゃない。店が不正を誤魔化しきれなくなったんだと、周りにも分かる。
だからちょうどその頃合いで、奥から人が出てきた。
3.
宿屋の支配人だった。
顔を見た瞬間、腹の底がひやりと冷えた。
嫌な記憶ってのは、姿かたちより先に匂いで戻る。香油と古い革袋、帳面をめくる乾いた指先、金を数える時だけ丁寧になる声音。昔、船底へ人を詰め込む商売のそばで嗅いだ臭いだ。
向こうは俺を見て、口の端だけで笑った。
「これはこれは。
どこかで見かけたと思えば、
ドラゴミルのドラグじゃないか」
その名を、今さら出すかと思ったね。
胸糞は悪かった。だが、そこで足がすくむほど、もう安くはねえ。昔の名は昔の値札だ。首にぶら下げられていた時はともかく、今の俺は、自分で飯を食い、自分で刃物を持ち、自分で選んだ側に立っている。
だから鼻先で笑って返した。
「人違いじゃねえのか」
「いいや。忘れるものか。
口が回って、手先が利いて、
売るにはちょうどいい男だった」
言い草がまるで変わらねえ。
人間じゃなく、値のつく荷として見ていた頃のままだ。
だが、本当に腹が決まったのはその次だ。
「あの南方の女芸人とは、
まだつるんでんのか」
リラのことだった。
その瞬間、頭のどこかで、かちりと音がした。
ああ、そうかと思ったね。こいつにとっては俺も、リラも、泣いた娘も、借りを背負わされた若いのも、みんな同じだ。痛い目を見た人間じゃねえ。昔つかんで、値をつけて、売ったり貸したりした品の延長でしかない。
だったら遠慮はいらねえ。
俺は椅子を鳴らして立ちかけた。慇懃な顔の真ん中へ拳を叩き込んでやれば、その鼻持ちならねえ笑いも少しは曲がるだろうと思った。
だが、その前に声が落ちた。
「お前は下がっていなさい」
冷たい声だった。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。支配人じゃない。レオンだ。横へ出てきたあいつが、いつもの静かな顔のまま、俺を見もせずそう言った。
は、と喉の奥で音が鳴る。
――お前。
そんな言い方、するのかよ。
そう思ったところで、レオンは支配人へ向き直った。
4.
「失礼ですが」
あいつの声は低かった。低いくせに、妙に澄んでいた。
「この男は私の家宰、ディオンです」
支配人の顔から、笑いが消えた。
俺のほうは、それどころじゃなかった。
……は。
いや待て。
何て言った。
――家宰。
今、家宰って言ったのか。
誰が。
誰のことを。
少なくとも、ついさっきまで卓で鴨のふりしてた俺の話じゃねえ。
……と思ったのに、他に誰もいない。
支配人が何か言い返そうと口を開く。けれど、その前に耳へ引っかかったのは、もうそっちじゃなかった。昔の名で呼ばれたことより、その一言のほうがよっぽど乱暴だった。
値札の上から、別の名を置かれたみたいだった。
遊び人でも、流れ者でも、売られた過去の残りかすでもなく。あの場で、あの男の前で、別の札をつけられた。
聞いてねえぞ、そんな話は。
聞いてねえのに、言われた途端、拳を握ったまま立ってるのが馬鹿みてえに思えてきた。俺がここで殴りかかったら、汚れるのは俺の手だけじゃない。あいつが今この場に置いた名まで、まとめて泥をかぶる。
参ったね。
あんな言い方をされたら、下がるしかねえ。
しかも、ただ下がるんじゃない。その名を背負ったまま下がれってことだ。
賭場のざわめきが、少し遅れて耳へ戻ってくる。卓の上の灯り、酒の臭い、青ざめた配り手の顔、白くなった支配人の口元。
何もかも見えているのに、うまく頭へ入ってこない。
レオンの横顔だけが、妙に遠く、妙に近かった。
……家宰だと。




