第60話 賢女、宿の女たちの盤面を閉じる
1.
私はエルン村の賢女であり、川向こうの地主レオンの妻、エレノア。
年の瀬が近づき、湯屋の湯気も、夏のそれとは違う重さを帯びていた。戸を開けるたびに白い息と湿った熱がぶつかり合い、石床へ落ちた雫が鈍い音を立てる。
冬の湯は、人の気を緩める。体だけではない。目つきも、口の端も、何を諦め、何をまだ諦めていないかまで、湯気の中では少し甘くなる。
あの宿に残った女たちも、そうだった。
支配人が逃げ、借金の鎖が切れ、露骨な商売は絞られた。だからといって、身の置き場まで一緒に消えるわけではない。
給仕に回る子もいる。洗い場へ入る子もいる。チーズ作りを覚え始めた子もいる。だが、それで全員がすぐに色を捨てるほど、人はきれいに切り替わらない。
とくに、新たな支配人が若く、金を持ち、立場があり、しかも女に冷たくしきれない男ならなおさらだ。
私の夫は、そう見える。
見えてしまう。
当人は本気で嫌がっているのに、ああいう子たちの目には、まだ値踏みの余地がある男に映るのだろう。
落とせるかもしれない。庇護を得られるかもしれない。うまくすれば、もっとましな暮らしへ乗り換えられるかもしれない、と。
責める気にはならなかった。
その計算は、卑しさではなく、生き延びる手つきだからだ。
けれど、計算がこの宿に残り続けるなら、宿はいつまでも半端なままだ。正業へ流れる子も、嫁ぎ口を探す子も、いつまでも色の残り香の中で肩身を狭くする。
閉じるなら、納得ずくで閉じさせたほうが早い。
説教より、盤面を見せるほうが早い。
そう判断したとき、私は湯の順を少しだけ動かした。
2.
あの子たちが湯へ来る時刻は、おおよそ決まっている。仕事の手が空き、男衆の目もほどよく集まるころ。偶然を装うには、充分に読みやすい時刻だ。
私はその少し前に湯屋へ入った。
何かを誇るつもりはなかった。ただ、いつものように髪をほどき、布を置き、湯へ沈む。肩へ乗った冬の冷えがほどけてゆくのを待ち、石縁へ指をかけて、息を整える。それだけだ。
やがて戸が開き、女たちが入ってきた。
声を潜めたつもりでも、気配は隠せない。視線というものは、見ないふりをするほど強く当たる。私は視線を合わせなかった。喧嘩にしたいわけではない。
私はいつものように湯を使った。
肩まで沈み、髪をすくい、額へ落ちた雫をぬぐう。冬の湯は肌の色を正直に出す。何もかもを湯気の向こうへ溶かさずに残す。
だから私は、かえって何もしない。同じ土俵へ降りることはない。
ほどなくして、もう一人、戸を開けた。
レオンだった。
この人は……本当に。無邪気が板についている。いや、だからこそ、あの子たちにはいっそう堪えるのかもしれない。
「エレノアさん」
夫の声に、私は顔を上げた。
「お先にいただいています」
「ええ……。
今日は、ずいぶん冷えましたね」
そう言って、夫は私の隣へ来た。広い湯船なのに、わざわざ私の横へ沈む。こちらの歩幅へ合わせるように、こちらの湯加減へ合わせるように、自然に私のそばへ定まる。
――この人は、傍目というものを知らない。
いや、知っていても、そこで自分の位置を変えるほど器用ではない。落ち着くところへ落ち着くだけ。夫の無邪気が、湯気の向こうの空気を静かに変えていった。
3.
湯の中で、夫はときどき私へ目を向ける。何か話しかけるほどでもない、ただ確かめるような目だ。
私が少し肩をずらせば、そのぶんだけ位置を直す。上がる段になれば、私が手をかける石縁へ先に手を伸ばし、当たり前のように私の側へ寄る。
私は手を引いていない。引き留めてもいない。ただいつものようにしているだけだ。なのに夫のほうが、私を定位置にしている。
あの子たちには、それがいちばん堪えただろう。
色で割って入る余地がない。気まぐれで声をかけられるのを待つ隙もない。あの男にとって落ち着く場所は、もう最初から決まっている。
盤面が、見えたのだ。
湯から上がるとき、腰布の合わせがほんの一瞬だけ甘くなった。夫は気づかない。私は直さない。
その瞬間、湯気の向こうで息を呑む気配があった。
誰かが小さく、「……見た?」と言った。
別の子が、答えた。
「見た」
それから、少し間があった。
「……びっくりしたわ」
私は振り向かなかった。
さらに誰かが、呆れたように、けれどどこか感心した声で言った。
「そりゃあ……姐さん、すごいわ」
それは下世話な囁きではなかった。見慣れている女ほど、一瞬で分かる種類の現実だった。あの男がどれほど並外れているかも、そのうえで、この女が何食わぬ顔で隣に立っていることも。
しかも、湯のあいだじゅう、あの男の居場所そのものになっている。
「姐さんには、敵わないわね」
その一言で、湯気の中の序列は決まった。
私はようやくそこで、ああ、これで閉じる、と分かった。勝ち負けですらない。位相が違うと、あの子たちが自分で理解したのだ。
4.
その日を境に、空気は変わった。
誰も改心した顔はしない。急に慎ましくなるわけでもない。色で上がる算段を、そっと取り除けたのだろう。すると人は、別の出口を探し始める。
給仕の手つきを真面目に覚える子が増えた。洗い場で手を動かす子も、前より長く持ち場に残るようになった。村の男と話すときも、前ほど売り物の声を使わなくなった子がいる。
すると男のほうも、値踏みの目を少し引っ込めた。どれだけ色があるかではなく、冬越しの手堅さや、家に入ってからの働きを測るような目つきへ、少しずつ変わっていった。
それでいいと思った。
正業へ行く子がいていい。嫁ぐ子がいていい。しばらく宿へ残り、様子を見る子がいてもいい。どれが上ということはない。
ただ、女が次へ移るとき、いらぬ恥で足を取られないようにしておけばいいのだ。
私はそのために、いくつか先へ手を回した。
洗い場へ入った子の過去を、わざわざ口にする男には、仕事を回さない。嫁ぎ話が出た子について、昔の商売を面白がって掘り返す者には、診療所でも湯屋でも手を貸さない。
女同士でも同じだ。後ろから泥を投げるのは許さない。
庇っているのではない。
そういう秩序にしただけだ。
そうしているうちに、あの子たちは私を自然に「姐さん」と呼ぶようになった。確認の印でもあり、敬意でもあり、生き残るための序列認識でもある呼び方だろう。
私は別に、姐さんになりたかったわけではない。
ただ、宿を半端なままにはしておけなかっただけだ。女が肩身の狭い思いをせずに次へ移れるようにし、そのうえで、私の夫へ妙な手が伸びないよう盤面を閉じた。
それだけのことである。
もっとも、当の本人は何も分かっていない。
数日後、湯上がりに髪を拭きながら、夫が不思議そうに言った。
「最近、みなさん親切ですね」
私は手を止めずに答えた。
「ええ。あなたが
素直でいらっしゃるからでしょう」
「それ、褒めてませんよね」
「どうでしょう」
夫は少しだけむっとして、それからまた、私に肩を寄せた。
まったく、この人は。
あの湯屋で何が終わったのかも知らず、今日も傍目を気にせず、私の隣へ落ち着く。
だから私は、その重みを押し返さずに受けた。もう十分に見せたのだ。この宿で、誰がどこに帰るのかを。




