第55話 遊び人、宿の縄張りを断ち始める
1.
私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。
秋が深まるにつれ、診療所へ持ち込まれる相談の質が、少しずつ変わり始めていた。
最初は、ただの愚痴だった。塩が前より高い。布が手に入りにくい。釘が足りず、荷車の修繕が延びている。干魚まで抜かれたせいで、冬支度の算段が狂う。
どれも一つなら、どこにでもある不満に見える。だが同じ話が別々の家から続けば、それは気のせいでは済まない。
この村では長く、物も労も、ほぼ実費と相互扶助で動いてきた。暴利を取らぬ代わり、誰もがどうにか冬を越せる値で回す。その均しの上に、家も畑も、病人の世話も成り立っていた。
ところが宿屋が賑わい、外から商人や手先が入り込み始めると、その均しが崩れた。
安い、と笑いながら、塩も布も鉄釘も、まとめて買っていく者がいる。村で使うぶんを越えて持ち出しているのは、見れば分かった。宿屋向けの仕入れも重なり、棚は空きやすくなる。残った品には、前より高い値がつく。
値が上がるだけなら、まだ耐えられる家もある。だが次に、人足の声が変わった。
「半日なら、宿のほうがいい」
「現金で払ってくれるから」
そう言って、若い男たちが畑や修繕から抜ける。娘たちも、水場や台所の手伝いより、給仕へ回るようになった。
今日食うぶんの銅貨を、目の前で渡される。それが悪いとは言わない。言わないが、その銅貨がどこへ戻るかを見れば、話は別だった。
昼に稼いだ金が、夜には宿で落ちる。酒に流れ、札に吸われ、女の笑みに巻かれ、翌朝には手元に残らない。
畑の手伝いは集まらず、荷車は捕まらず、屋根の修繕は延び、冬前に済ませるべき仕事がじわじわ後ろへ押されていく。
宿屋は村の外から富を運ぶ場ではなく、村の現金と労働を吸い上げる場になりつつあった。
それを、私は診療所の薬棚の減り方と、人の顔つきで知った。
2.
十月の終わり頃から、男たちが妙に目を逸らすようになった。
傷でもないのに歩き方がぎこちない者。腰を下ろすとき、ほんのわずかに息を詰める者。診るまでもなく、どこが悪いのか察せられるのに、誰もそこを言葉にしたがらない。
最初に来たのは、一人の若者だった。戸口に立ったまま、しばらく何も言えず、ようやく絞り出した声が、ひどく小さい。
「……ちょっと、膿が」
私は頷き、診療台の布を整えた。
「見せてください」
それだけで、相手は耳まで赤くなる。だが診ねば治らない。私はいつも通りの声で、湯、布、薬草酒、焼いた器具を揃えた。
腫れ。熱。膿。宿の女を介して広がるたぐいの、厄介な膿み病だった。放っておけば、先へ回る。ひどい者になると、鼠径まで硬く張っている。痛みをこらえていたのが、触れた瞬間に分かる。
診るべきものは診る。見慣れている。だが、しかしまあ――。
(小っさ)
「染みますが、我慢してください」
薬草酒を含ませた布を当てると、若者は肩を跳ねさせ、歯を食いしばった。私は余計な慰めを言わない。羞恥の上に憐れみまで重ねられれば、男はますます口を閉ざす。
「しばらく女は避けなさい。酒も控えて。熱が上がるようなら、また来てください」
彼は首まで赤くしながら頷き、布代を置いて逃げるように出ていった。
それで終われば、まだ個人の不始末だった。だが終わらなかった。
三日と空けず、また一人。さらに一人。症状は似ていて、しかも皆、宿へ近づいたあとの顔をしていた。
私はそのたび同じように処置し、同じように口を閉ざした。診療台の上で人を裁くのは、私の役目ではない。
ただ、数、そして形だけは嘘をつかない。
3.
女の側は、もっと厄介だった。
男は痛ければ来る。膿が出れば、さすがに怖くなる。だが女は違う。熱があっても、下腹が痛んでも、黙って働き続ける者が出る。
顔色を白くし、歩幅を狭め、それでも笑って杯を運ぶ。止まれば食い扶持が減る。泣けば自分の恥になる。そう知っている顔だった。
ある夕方、給仕をしている娘が、裏口から一人で来た。戸を閉めるなり、壁へ手をついたまま動けなくなる。
「熱がありますね」
「……大丈夫です」
「大丈夫な人は、そんな汗をかきません」
そう言うと、娘は唇を噛んだ。強情というより、崩れたくない顔だった。
診れば、赤みと腫れがあった。触れるだけで腹が硬い。今は熱と痛みで済んでいても、後で子を宿すときに返ってくるかもしれない硬さだった。
私は湯を替え、煎じ薬を包み、安静を言い渡した。だが相手は目を伏せたまま、困ったように笑う。
「休むと、居場所が……」
その言葉の先を、私は聞かなかった。聞かずとも分かる。宿で働く女は、賃金だけで縛られているのではない。寝床、食事、前借り、噂、男の機嫌、そういう柔らかな縄で幾重にも絡め取られている。
診療所の灯りの下で見ると、その縄は余計に醜かった。
宿屋の毒は、もう風紀の話ではなかった。誰が誰と寝た、誰がだらしない、そういう軽い舌で済ませてよい段を過ぎている。
身体の内へ入り、熱と膿になり、女の腹の奥に先の傷を残しうるものになっていた。
村は、来年の春だけで出来ているのではない。次の冬、その次の婚姻、その先の子らまで含めて、ようやく村だ。
そこへ毒が回り始めている。
そう思ったとき、診療所の空気は急に冷たく感じられた。
4.
その夜、私は帰ってきたレオンに、湯気の立つ椀を渡しながら、今日あったことを順に話した。
塩と布の値。人足の流れ。昼の賃金が夜に消えること。羞恥に顔を伏せた若者たちのこと。熱を隠して働く娘のこと。
言葉を選んだつもりだったが、最後のあたりでは、私の声も少し硬くなっていた。
レオンは一度も口を挟まなかった。椀を持つ手だけが、途中で止まる。
話し終えると、しばらく沈黙があった。
「……そうですか」
それだけ言って、彼は椀を置いた。いつもの、記録をまとめる前の顔ではない。もっと静かで、もっと冷えた顔だった。
「僕は、まだ少し甘く見ていました。
宿屋の問題を」
私は黙って待った。
「風紀の乱れや、搾取の話だと
思っていました。
もちろんそれもあります。
ですが、もうそれだけではない。
治安の話で終わらない。
病が回り始めている。
男の身体だけではない。
女の腹の奥まで傷む。
その先の婚姻も、子の生まれ方も、
村の続き方そのものも」
言いながら、彼の指先が卓の上で揃う。考えを固めるときの癖だ。
「見える暴力を減らしただけでは、
足りなかったんですね」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。ようやく、同じところまで来たのだと思った。
宿屋は、ただ騒がしいだけの場所ではない。村の値を狂わせ、人手を吸い、恥を餌に人を黙らせ、最後には身体の内へ膿をつくる。
冬の入口に来て、その毒はとうとう診療台の上にまで現れた。
私は薬箱の蓋を閉じるときの音を思い出しながら、椀を持ち直した。
たぶん、ここから先はもう、放っておけば済む話ではない。




