第53話 遊び人、宿屋の裏の臭いを嗅ぐ
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……この頃は、その札だけじゃ説明が足りねえ。村の空気がどこで濁るかを嗅ぎ、どの濁りがただの揉め事で、どれが後まで腐る厄介事かを見分ける。そういう真似のほうが、短剣を抜くより先に来る。
自警団を立ててから、まだ半月も経っていなかった。
なのに宿屋のまわりは、もう目に見えて荒れていた。
夜になれば酒場前で怒鳴り声が上がる。酔っ払い同士の殴り合いくらいなら、まだ分かる。酒が入れば馬鹿になる奴はどこにでもいる。
問題はその先だ。
娘衆の腕をつかんで離さねえ奴、帰り道を塞ぐ奴、戸口まで追ってくる奴が出始めた。
朝になれば苦情が来る。
「畑が踏まれてる」
「戸を叩かれた」
「水場のそばで吐かれた」
「いや、吐いたどころじゃねえ。
糞までしていきやがった」
自警団の五人は、昼は家々を回ってなだめ、夜は見回りに出て、喧嘩を止めて、誰かが笛を鳴らせばまた走る。
あいつらはよくやってる。だが、よくやってるからどうにかなるって話でもなかった。
面倒ってのは、起きる数より、起きる場所が増えると一気にきつくなる。
宿屋の前。裏手の路地。井戸端。畑の縁。誰かの戸口。
村の暮らしの場所そのものへ、汚れが散り始めていた。
最初のうち、村人どもはまだ我慢していた。新しい商いには多少の騒ぎがつきものだ、って顔をしてな。
だが被害が家の前まで来りゃ、そうも言ってられねえ。
寄り合いのあと、レオンはあちこちで捕まっていた。
「何とかしてくれ」
「法と治安はレオンさんの仕事だろ」
「自警団を作ったんじゃなかったのか」
責める声ってのは、怒鳴るばかりじゃねえ。困った顔で言われるほうが、よっぽど堪える。
レオンは一つずつ聞いて、頷いて、記録していた。だが紙に書いたからって、夜中の馬鹿が減るわけじゃない。
俺はその横で、人の顔を見た。
怒ってる家。怯えてる家。黙ってる家。
で、黙ってる家の中に、妙に強くは言わねえ連中が混じってるのも見えた。
宿へ薪を下ろしてる家。野菜を売った家。若いのが宿で小遣いを稼ぎ始めた家。
迷惑は迷惑だが、金が落ちるのも本当。
そのへんが、もう嫌な臭いだった。
2.
その晩、俺とレオンは宿へ入った。
表の酒場は、景気よく見えたね。笑い声がでかくて、卓は埋まり、焼いた肉と酒の匂いが混ざってる。ぱっと見だけなら、繁盛してる店だ。
だが、目を凝らすと別のもんが見える。
女がいた。
薄着で、よく笑って、客の膝へ手を置くのに慣れてる女だ。こっちの村の娘衆みてえな、気恥ずかしさ混じりの愛想じゃねえ。相手の酔い加減と財布の紐を、同時に測る手つきだった。
一人が男の肩へ寄りかかる。
もう一人が、杯をつぐ。
三人目が、耳元で何か囁く。
そうしてふらついた男が、一人、また一人と二階へ消える。
奥の卓じゃ賭場まで立っていた。札遊びじゃねえ。カードとダイスの混じった、街道筋でたまに見かける、あの手のやつだ。負けが込んだ顔の男の横には、妙に無言な用心棒が立っている。
荒くれ者を追い払うための腕じゃねえ。
逃がさねえための腕だ。
レオンもそこまで見て、さすがに眉を寄せた。
「……ただの宿屋では、ないですね」
「今ごろかよ」
鼻で笑ったが、笑いきれねえ。
さらに悪いことに、見知った顔まで混じってやがった。村の若いのだ。昼間は荷運びだの草刈りだのしてる連中が、勝った負けたで顔を熱くしてる。
一人は小銭を全部吐き出したあとで、まだ卓に残っていた。
もう一人は、二階へ上がる女の背中を見て、ぼんやり立ち尽くしていた。
ああ、こりゃ駄目だ、と思ったね。
旅人が一晩荒らして去るだけなら、まだ浅い。
だがこれは、村の貧しさと若さに鉤をかけて、じわじわ引いていくやり方だ。
酒と女と賭け事で、足を取る。
そのうえで、また来させる。
見えてる喧嘩だけ止めても、根は残る。
そういう臭いだった。
3.
翌日、レオンは筋を通しに行った。
宿屋の土地を貸してる寄り合い衆の一人のところだ。俺もついていった。
相手は、別に悪びれちゃいなかった。むしろ、面倒くせえ話を持ち込まれた、くらいの顔で座っていやがる。
「私は土地を貸しただけです」
開口一番、それだ。
「経営しているのは、
王都筋の金主に雇われた支配人です。
客の揉め事まで、
私の責にされても困る」
レオンは言い返した。
「土地を貸した結果、
村に実害が出ています」
「実害、ねえ」
相手は肩をすくめた。
「客は金も落としているでしょう。
薪も、野菜も、酒も売れる。
儲かってる家まであるはずだ」
その言い方が、実に腹立たしかった。
間違ってねえからだ。
正しい顔をした言葉ほど、責任逃れには都合がいい。
「それに」
そいつは指を卓に打ちつけた。
「法と治安は、レオン殿の役目です。
私は商いの場を貸した。
治めるのはそちらでしょう」
レオンは黙った。
理屈の筋だけなら、たしかに通ってる。通ってるが、都合よく切り分けすぎだ。
宿が客を呼ぶ。女を置く。賭場を立てる。荒くれを寄せる。
で、荒れたぶんだけ村が尻拭いをする。
美味いところだけ吸って、泥は他人に投げる。
そういう顔だった。
横で聞いてて、俺は心の底から思ったね。
――お前が言うな。
だが口には出さねえ。ここで俺が噛みついたところで、喧嘩にしかならねえからだ。
そのあと支配人のところへも行ったが、こっちも似たようなもんだった。
「酒場での諍いは客同士の問題です」
「二階の件は、男女の合意でしょう」
「遊戯は遊戯ですよ。
誰も強いてはおりません」
表へ出す言葉が、一つ残らず薄皮をかぶってやがる。刃物を振るう馬鹿より、こういう連中のほうがよほど面倒だ。
しかも被害を受けた家の中には、訴えを引っ込めるところまで出た。
「もう関わりたくねえ」
「娘のことがある」
「名が傷む。
嫁入り前なんだ」
そう言われりゃ、それまでだ。
相手がどこの誰とも知れねえ旅人で、宿の裏には腕の立ちそうな男まで立っている。揉めて得があるか、と問われりゃ、そりゃねえ。
声が上がらねえ被害は、帳面にも残りにくい。
だから余計に腐る。
4.
その夜明け前、見回りの帰りに、俺たちは宿の裏で足を止めた。
帳場の明かりがまだ消えていなかった。裏口から若い男が一人、ふらついて出てくる。昼に見た村の若いのだ。顔色は悪く、足元も定まってねえ。
後ろから帳場の男が出てきて、低い声で何か言った。
「次で返せ」
「払えなきゃ、荷の口を回してもらう」
若いのは頷くしかねえ。手元の紙切れに印をつけさせられ、それを懐へねじ込まれていた。
借りだ。
賭けで負けたか、女に入れ込んだか、その両方かは知らねえ。だが、どっちでも結果は同じだ。
今日の負けを明日に回す。
明日の働き口まで担保にして、また宿へ戻る。
それを見て、ようやく全部つながった。
喧嘩は表だ。
娘を追うのも表だ。
畑を踏むのも、戸を叩くのも、見える汚れだ。
だが奥で回ってるのは、もっと静かなやり方だった。酒を飲ませ、気を大きくさせ、負けさせ、抱かせ、借りを作る。そうして足首に縄を巻く。
地味だし、声も上がりにくい。
だから長持ちする。
レオンも同じものを見たらしい。しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……まずは、分かりやすいところから
片付けましょう」
俺は鼻を鳴らした。
そうだな。
いきなり帳場の奥までひっくり返すにゃ、まだ手が足りねえ。
だったら先に、酒場で刃物を抜く馬鹿、娘に手を出す馬鹿、畑を踏んで笑う馬鹿から消していく。
分かりやすい汚れを掃けば、その下にこびりついた別の腐れも、ようやく輪郭が見える。
宿屋の裏口で冷えた朝の空気を吸い込みながら、俺はその紙切れを思い出していた。
どうやら今回の相手は、酔っ払いじゃねえ。
村の足首に縄を巻く手合いだ。




