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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第四部

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第50話 賢女、村長の重荷が下りる先を見る

1.


 私はエルン村の賢女であり、川向こうの地主レオンの妻、エレノア。


 夏至祭が終わってから数日、村の空気は妙に静かだった。浮かれが消えたというより、収まるべきところへ収まった、という感じに近い。


 村長と、道具屋の店員。


 あの二人が並んで戸口へ立つたび、村人たちはもう珍しいものを見る顔をしない。まるでずっと前からそうだったように、自然に道をあけ、自然に声を掛ける。


 収まるべくして収まったのだと、誰もが思っているのだろう。


 そして、村長は若返った。


 いや、顔の皺が消えたわけではない。長く働いた手の節くれがなめらかになったわけでもない。ただ、これまで肩へ重く掛かっていた見えない外套を、一枚脱いだように見えた。


 目元が違うのだ。


 これまでの村長は、誰と話していても、どこかで村の内側全体を見ていた。だが今は、ときおり、自分の今ある暮らしをそのまま喜んでいるような顔をする。


 人が一人、役目の中から少しだけ戻ってきたのだと思った。


 その日の昼、私たちは川向こうの畑へ出た。レオンと私、それから村長夫婦である。


 大麦も燕麦も、春先にヤギへ食われた分がある。三分の一ほどは痛んだ。だが、それでも若葉は青かった。風が渡るたび、畝はやわらかく揺れる。休耕地ではヤギが草を食み、そのあとへ黒いふんをぽとぽとと落としていた。


 村長は目を細めて畑を眺めた。


「よう育ったの」


「まだ途中です」


 レオンはそう答えたが、声音はいつもより少しだけやわらかかった。


 村長はうなずき、それから何気ないように問うた。


「次は、何に取り掛かるかの」


 レオンは畑の向こう、風に撫でられる夏の色を見たまま、ひと息置いた。


「村が飢えや冬越しを

  心配しないで済むようになるには、

  あと三年はかかるでしょう。

  ……ただ、時間は待ってくれません」


 そのとき、彼の目が森のほうへ移った。


 川、その向こうのエルン村、そのさらに先。森へ続く丘の中腹、街道沿いに、石組みの大きな建物が立ち上がりつつある。村の神殿よりも目立つ、温泉を当て込んだ宿屋だった。


「村が、変わるじゃろうの」


 村長が言う。


「ディオンさんも、そう言っていました」


 私はその石壁を見ながら思った。新しいものが立つ時、立ち上がるのは建物だけではない。人の利も、欲も、言い分も、そこへ一緒に姿を現すのだと。


2.


 そのあと、村長は私たちを長兄の家へ連れていった。


「ワシは八つのときにこの家を出ての。

  先代の村長のもとで

  記憶を手繰り始めた。


  それ以来、どうも

  この家が縁遠くていかん」


 はにかむようにそう言う顔は、少しだけ花婿の顔に近かった。


 長兄に案内されて中庭へ入ると、回廊の縁台に老人が座っていた。痩せた身体を薄い夏衣に包み、首には革袋を提げている。


「ワシの父親じゃ。

  寄り合い衆の一人じゃが、

  もう……八十が近い」


 村長はその前へ進み、静かに老人の手を取った。


 老人は座ったまま、両手でその手を握り返した。目は濁っていない。だが喉のあたりが不自然に膨れている。


「頭ははっきりしておるようじゃが、

  喉にしこりがあっての。

  ここ二年ほど、養生を重ねておる。

  寄り合いにも出てはおらん」


 老人はゆっくりと首の革袋を外した。それを村長へ差し出す。村長は一度だけ目を伏せ、それを受け取った。


 それから、私たちのほうを見る。


「寄り合い衆の印綬じゃ。

  盾と秤をあしらっておる。

  法と治安の役目のものじゃ」


 そこで少しだけ、村長の声が苦くなった。


「この村じゃ、ずっと

  お座なりの役目じゃった。


  オークは跋扈し、狼は来る。

  小さな揉め事は、寄り合いで何とかなった。

  ……何とかならぬ分は、ワシが抱えた」


 私は老人を見た。老人は黙っている。だが、その革袋を外した手は、もう役目を握り続ける力を失っていた。


「今までは、それでも回った。

  じゃが、これからは

  そうもいかんじゃろう。


  宿も立つ。外の金も入る。

  人が増えれば、利も増える。

  利が増えれば、揉め事もまた肥える」


 村長はそこでレオンへ向き直った。


「この前、おぬしから

  詰めた話を聞いての。

  増やすことと治めることが、

  もう別ではないと知った」


 レオンの表情が固くなる。


「……ワシはな、

  父の重荷も下ろしてやりたい」


 その言葉は、役目の話でありながら、どうしようもなく息子の声だった。


「そのうえで頼む。

  村の法を、引き継いでやってくれんか」


3.


 レオンはすぐには答えなかった。


 視線がわずかに揺れ、私のほうへ来る。私は何も言わなかった。ここで私が言葉を差し挟めば、夫の返事が私のものに見えてしまう気がしたからだ。


 レオンはやがて、村長へ向き直った。


「……考えさせてください」


「うむ」


 村長は短くうなずいた。責める気配はなかった。むしろ、その保留を当然のものとして受け取っていた。


 だが、そのあとで、低く付け足した。


「貧乏くじを引かせるようで、

  すまんの」


 レオンが目を上げる。


「おぬしのやりようを

  ワシは支持しとる。


  じゃが、そのやりようで

  村が豊かになれば、

  今度は村の中で奪い合いが始まる」


 村長の目は穏やかだった。穏やかなまま、厳しい。


「誰の土地か。

  誰が取り分を持つか。

  誰が口を出してよいか。

  そういう話ばかりになる。


  褒められるより、恨まれるほうが

  増えるかもしれん」


 私は宿屋の石組みを思い出した。あれは温泉を当て込んだ建物であり、同時に、村の欲が形を持ちはじめた印でもある。


 法と治安。


 古びた名だ。だが、これから村で争われるのは、槍で追い払う外敵だけではない。畑と地代と人の出入りと、正しさの取り分だ。


 レオンはゆっくりと息を吐いた。


「……分かりました。

  いまは、それ以上、言えませんが」


「それでよい」


 老人はそのやり取りを黙って見ていた。細い喉が上下し、何か言いたげに唇が動く。だが声にはならない。


 代わりに、その目だけが、長く提げてきた重荷の行く先を見定めるように、私の夫へ向いていた。


4.


 その夜、寝台の上で、私は昼のことを夫と話した。


 法と治安を継ぐこと。村長が父の重荷を下ろそうとしたこと。宿屋と、その先に増えるであろう面倒のこと。


 けれど、結論は出さなかった。


 出せるはずもなかった。あれは一晩で決めてよい話ではない。受けるにせよ退くにせよ、どちらも村の形を変える。


 話がいったん途切れたあと、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


「どうしましたか」


 訝しげな顔で、レオンがこちらを見る。


 私は視線を逸らしかけて、やめた。昼にあれだけ重い話をされた相手へ、今さら妙な恥じらいだけを向けるのも違う気がしたからだ。


「……あの人に、

  相談を持ちかけられるの」


「あの人?」


「村長夫人よ」


 まだ少し照れくさい呼び方だった。だが、もうそう呼ぶのが自然でもある。


「夫婦生活の先達みたいに

  思われてるみたいで」


 レオンが珍しく言葉に詰まった。


「それは……また」


「ちょっと、

  聞いていられないくらいで」


 本当だった。耳まで熱くなるような話もあった。だが、私を赤くさせたのは下品さそのものではない。そんな工夫があるのか、そんな手順が効くのか、と妙に感心してしまった自分のほうだった。


 私は小さく口角を上げた。


「教える側が、

  いろいろと学ぶことも

  あるって分かったわ」


 レオンが、ほんのわずかにたじろぐ。


 私はその顔を見て、少しだけ可笑しくなった。昼の話がまだ頭に残っているのだろうに、こちらまで身構えられてはたまらない。


 けれど、役に立つと知ったことを、試してみたくなるのは仕方がない。


 それが畑でも、帳面でも、

  ……夫婦のことでも。

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