第50話 賢女、村長の重荷が下りる先を見る
1.
私はエルン村の賢女であり、川向こうの地主レオンの妻、エレノア。
夏至祭が終わってから数日、村の空気は妙に静かだった。浮かれが消えたというより、収まるべきところへ収まった、という感じに近い。
村長と、道具屋の店員。
あの二人が並んで戸口へ立つたび、村人たちはもう珍しいものを見る顔をしない。まるでずっと前からそうだったように、自然に道をあけ、自然に声を掛ける。
収まるべくして収まったのだと、誰もが思っているのだろう。
そして、村長は若返った。
いや、顔の皺が消えたわけではない。長く働いた手の節くれがなめらかになったわけでもない。ただ、これまで肩へ重く掛かっていた見えない外套を、一枚脱いだように見えた。
目元が違うのだ。
これまでの村長は、誰と話していても、どこかで村の内側全体を見ていた。だが今は、ときおり、自分の今ある暮らしをそのまま喜んでいるような顔をする。
人が一人、役目の中から少しだけ戻ってきたのだと思った。
その日の昼、私たちは川向こうの畑へ出た。レオンと私、それから村長夫婦である。
大麦も燕麦も、春先にヤギへ食われた分がある。三分の一ほどは痛んだ。だが、それでも若葉は青かった。風が渡るたび、畝はやわらかく揺れる。休耕地ではヤギが草を食み、そのあとへ黒いふんをぽとぽとと落としていた。
村長は目を細めて畑を眺めた。
「よう育ったの」
「まだ途中です」
レオンはそう答えたが、声音はいつもより少しだけやわらかかった。
村長はうなずき、それから何気ないように問うた。
「次は、何に取り掛かるかの」
レオンは畑の向こう、風に撫でられる夏の色を見たまま、ひと息置いた。
「村が飢えや冬越しを
心配しないで済むようになるには、
あと三年はかかるでしょう。
……ただ、時間は待ってくれません」
そのとき、彼の目が森のほうへ移った。
川、その向こうのエルン村、そのさらに先。森へ続く丘の中腹、街道沿いに、石組みの大きな建物が立ち上がりつつある。村の神殿よりも目立つ、温泉を当て込んだ宿屋だった。
「村が、変わるじゃろうの」
村長が言う。
「ディオンさんも、そう言っていました」
私はその石壁を見ながら思った。新しいものが立つ時、立ち上がるのは建物だけではない。人の利も、欲も、言い分も、そこへ一緒に姿を現すのだと。
2.
そのあと、村長は私たちを長兄の家へ連れていった。
「ワシは八つのときにこの家を出ての。
先代の村長のもとで
記憶を手繰り始めた。
それ以来、どうも
この家が縁遠くていかん」
はにかむようにそう言う顔は、少しだけ花婿の顔に近かった。
長兄に案内されて中庭へ入ると、回廊の縁台に老人が座っていた。痩せた身体を薄い夏衣に包み、首には革袋を提げている。
「ワシの父親じゃ。
寄り合い衆の一人じゃが、
もう……八十が近い」
村長はその前へ進み、静かに老人の手を取った。
老人は座ったまま、両手でその手を握り返した。目は濁っていない。だが喉のあたりが不自然に膨れている。
「頭ははっきりしておるようじゃが、
喉にしこりがあっての。
ここ二年ほど、養生を重ねておる。
寄り合いにも出てはおらん」
老人はゆっくりと首の革袋を外した。それを村長へ差し出す。村長は一度だけ目を伏せ、それを受け取った。
それから、私たちのほうを見る。
「寄り合い衆の印綬じゃ。
盾と秤をあしらっておる。
法と治安の役目のものじゃ」
そこで少しだけ、村長の声が苦くなった。
「この村じゃ、ずっと
お座なりの役目じゃった。
オークは跋扈し、狼は来る。
小さな揉め事は、寄り合いで何とかなった。
……何とかならぬ分は、ワシが抱えた」
私は老人を見た。老人は黙っている。だが、その革袋を外した手は、もう役目を握り続ける力を失っていた。
「今までは、それでも回った。
じゃが、これからは
そうもいかんじゃろう。
宿も立つ。外の金も入る。
人が増えれば、利も増える。
利が増えれば、揉め事もまた肥える」
村長はそこでレオンへ向き直った。
「この前、おぬしから
詰めた話を聞いての。
増やすことと治めることが、
もう別ではないと知った」
レオンの表情が固くなる。
「……ワシはな、
父の重荷も下ろしてやりたい」
その言葉は、役目の話でありながら、どうしようもなく息子の声だった。
「そのうえで頼む。
村の法を、引き継いでやってくれんか」
3.
レオンはすぐには答えなかった。
視線がわずかに揺れ、私のほうへ来る。私は何も言わなかった。ここで私が言葉を差し挟めば、夫の返事が私のものに見えてしまう気がしたからだ。
レオンはやがて、村長へ向き直った。
「……考えさせてください」
「うむ」
村長は短くうなずいた。責める気配はなかった。むしろ、その保留を当然のものとして受け取っていた。
だが、そのあとで、低く付け足した。
「貧乏くじを引かせるようで、
すまんの」
レオンが目を上げる。
「おぬしのやりようを
ワシは支持しとる。
じゃが、そのやりようで
村が豊かになれば、
今度は村の中で奪い合いが始まる」
村長の目は穏やかだった。穏やかなまま、厳しい。
「誰の土地か。
誰が取り分を持つか。
誰が口を出してよいか。
そういう話ばかりになる。
褒められるより、恨まれるほうが
増えるかもしれん」
私は宿屋の石組みを思い出した。あれは温泉を当て込んだ建物であり、同時に、村の欲が形を持ちはじめた印でもある。
法と治安。
古びた名だ。だが、これから村で争われるのは、槍で追い払う外敵だけではない。畑と地代と人の出入りと、正しさの取り分だ。
レオンはゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました。
いまは、それ以上、言えませんが」
「それでよい」
老人はそのやり取りを黙って見ていた。細い喉が上下し、何か言いたげに唇が動く。だが声にはならない。
代わりに、その目だけが、長く提げてきた重荷の行く先を見定めるように、私の夫へ向いていた。
4.
その夜、寝台の上で、私は昼のことを夫と話した。
法と治安を継ぐこと。村長が父の重荷を下ろそうとしたこと。宿屋と、その先に増えるであろう面倒のこと。
けれど、結論は出さなかった。
出せるはずもなかった。あれは一晩で決めてよい話ではない。受けるにせよ退くにせよ、どちらも村の形を変える。
話がいったん途切れたあと、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「どうしましたか」
訝しげな顔で、レオンがこちらを見る。
私は視線を逸らしかけて、やめた。昼にあれだけ重い話をされた相手へ、今さら妙な恥じらいだけを向けるのも違う気がしたからだ。
「……あの人に、
相談を持ちかけられるの」
「あの人?」
「村長夫人よ」
まだ少し照れくさい呼び方だった。だが、もうそう呼ぶのが自然でもある。
「夫婦生活の先達みたいに
思われてるみたいで」
レオンが珍しく言葉に詰まった。
「それは……また」
「ちょっと、
聞いていられないくらいで」
本当だった。耳まで熱くなるような話もあった。だが、私を赤くさせたのは下品さそのものではない。そんな工夫があるのか、そんな手順が効くのか、と妙に感心してしまった自分のほうだった。
私は小さく口角を上げた。
「教える側が、
いろいろと学ぶことも
あるって分かったわ」
レオンが、ほんのわずかにたじろぐ。
私はその顔を見て、少しだけ可笑しくなった。昼の話がまだ頭に残っているのだろうに、こちらまで身構えられてはたまらない。
けれど、役に立つと知ったことを、試してみたくなるのは仕方がない。
それが畑でも、帳面でも、
……夫婦のことでも。




