第5話 賢女、異邦の理と魔法の差を知る
1.
私はエルン村の賢女エレノア。
私は今朝、薬草を取りに森に入り、窮地に陥った。すべてを諦めかけたそのとき、私を救ったのが、いま私の隣にいる異形の男――レオン。
「かはぁ……ヒリヒリしますね」
「目をこすらないでっ」
レオンの目は充血していた。オークの血は弱い毒を含む。皮膚につけば炎症を起こし、目に入れば、下手をすると失明する。
返り血はこすらずに洗い流す。子供でも知っているはずのことを、彼は知らない。――この男、常識が抜け落ちている。
いや、この男は、どこか噛み合っていない。オークも、ゴブリンも、辺境の恐ろしささえ知らない。
けれど、命を救われたのは事実だ。たとえ彼がその後で私をどう扱おうと、少なくともいまは、私の方が恩を返す番だ。
私はレオンの手首を掴んだ。
「泉へ行きましょう。
目を洗わないと危ないです」
すると彼は妙に身を引いた。
「あ、いや……自分で歩けます」
さっきの、服を着るときと同じ反応。なにをいまさら。
「歩けるなら、
なおさら来てください。
すぐに洗い流さないと」
私は手に力をこめ、さらに彼を引っ張った。彼は素直についてくる。
体格に似合わず、こういうところが妙におとなしい。いや、おとなしいというより、妙にぎこちない。血まみれになって、あれだけ暴れていた男と同じ人物には見えなかった。
泉はすぐ近く。私は布を水に浸し、レオンの顔についた血をそっと拭った。彼は最初だけ身を強張らせたが、すぐにおとなしくなった。
2.
間近で見ると、レオンの顔立ちは整っている。このあたりではあまり見ない、やや線の細い顔だ。学者か、あるいは王宮の書記のような。
ただ背が高く、骨格がしっかりしているから、黙っていれば威圧感がある。さっきまでの戦いぶりを思い出せばなおさらだ。
いまレオンは目を閉じて、血を拭う私に身を委ねている。思わず、微笑みそうになった。私は咳払いして、小さく詠唱した。
「この者の痛みを
拭いたまえ……ヒール」
「この者の暗闇を
取り除きたまえ……クリア」
女神への祈りとともに、手のひらの奥から温かな力が流れ出す。薄い光がレオンのまぶたの上でほどけ、赤く腫れた皮膚が少しずつ落ち着いていく。
治癒と浄化。強力ではないが、日常の傷や毒には十分な魔法だ。これが使えるから、私はパーティでも一応重宝されている。
「……いまのは、なんですか」
レオンは目を開けるなり、呆けたように、自分の手のひらを見つめた。
「ヒリヒリしない。見える。
……いや、いつもよりくっきり見える。
メガネ、要らなくなったな。
……もしかして、
裸眼で二・〇行った?」
また、分からないことをつぶやいている。私は布を絞りながら答えた。
「回復と浄化の初級魔法です」
「ま……ほう?」
レオンの反応を見て、私は本当に言葉を失った。魔法を……知らない? 治癒の祈りなど、子供でも口にするものだというのに。
彼は本気で驚いていた。ふざけている様子もない。
3.
「あの、申し遅れました。僕はその――」
彼はなぜか改まった口調で名乗った。
――あかねしやくしょしみんかのわたなべれおん。
どこからどこまでが名前なのか分からない。私は目を瞬かせた。
「私はエレノアです。
さっきも言いましたけど」
「いえ、その……
ありがとうございます。
命も、目も助かりました」
礼儀正しい。少なくともその点だけは分かった。しかし、なぜこちらを見て話さないのか。口調と態度の開きが大きすぎる。
「あの、レオンさん。
こちらを向いてお話しするのが
礼儀ではありませんか」
言わずもがなのことを、言ってしまった。彼は頭を掻きながら私を見る。微妙な沈黙。
「何か、私の顔に付いてますか?」
「……い、いえ、
そういうわけではありません」
そういうわけではない――なら、なぜ、こうも言葉に詰まるのか。
視線が合った瞬間、ほんのわずか、彼の息が乱れた。次の瞬間には何事もなかったかのように整えていたが、遅い。いまの一瞬で十分だ。だいたい察しがつく。
私は布をもう一度水に浸し、何事もなかったかのように彼の頬へ当てた。
「気になるなら、言ってください。
汚れなら、落とします」
「い、いえ、本当にその……
そういう意味ではなくてですね」
やはり歯切れが悪い。言葉を選んでいるというより、選びきれていない。無理もない。あの状況のあとだ。まったく何も意識していないという方が不自然だろう。
私は手を止め、わずかに首を傾げた。
「……先ほどのことを、
気にしているのですか」
彼の肩がびくりと揺れた。分かりやすい。
「さ、先ほど……?」
「その……状況的に、
仕方のないことでしたが」
「あー……その……はい、
ちょっとだけ」
正直でよろしい。少なくとも、嘘はつかない男らしい。
私は小さく息をついた。
「安心してください。
私は治療を優先しただけです。
深くは見ていません」
レオンは体を震わせた。
「何か?」
「いえ! 何でもないです!」
……反応が忙しい。
しかし、これ以上この話題に触れても、互いに得るものはない。私は布を絞り、話を切り替えた。
「それより――
先ほどのあれ、本当に
分からないのですか」
「え?」
「回復と浄化の魔法です。
知らないように見えましたが」
彼はきょとんとした顔で、今度こそまっすぐ私を見た。
「……はい。まったく」
迷いのない返答だった。冗談やはぐらかしではない。
私は言葉を失った。魔法を知らない――そんな人間が、この世にいるのだろうか。
4.
レオンは軽く咳払いをした。
「ここは、どこですか?」
私は少し考えてから答えた。
「アカネガルドの南方、
アルセリアの辺境地帯、
エルン村のはずれの森です」
彼はまたきょとんとした。子供のように目を丸くして、それから小さく呟いた。
「ラノベかよ」
意味は分からない。
だが、その声音に滲んでいたのは、喜びでも絶望でもなく、ひどく困ったような諦めだった。
レオンは、辺境の常識から外れているだけではない。もっと根本のところで、私たちと違う――そう確信した。
このまま森に放ってはおけない。恩もあるし、何より危ない。
「村へ行きましょう」
私は言った。
「事情はそこで聞きます。
ここにいても埒が明きませんから」
レオンはしばらく泉の水面を見つめていたが、やがて観念したように頷いた。




