第48話 賢女、人が人へ戻る手順を静かに見る
1.
私はエルン村の賢女であり、川向こうの地主レオンの妻、エレノア。
夏至祭まであと二日。朝の水はもう冬のように刺さらないのに、村の空気だけが妙に落ち着かなかった。
昨日のことが、村じゅうへ回っていたからだ。
村長と、道具屋の店員。
だが、娘衆が井戸端で口を押さえて笑うような話ではなかった。笑い声より、ため息のほうが多かった。しかも、そのため息には二つあった。
ひとつは、村の仕組みが変わることへのもの。
エルン村の村長は世襲ではない。
寄り合い衆の家から、聡い子を選び、幼いころから村の名、畑の境、家ごとの縁組、死者の顔、飢えた年と越せた年を叩き込む。そうして一人の人間を、村の記憶に近いものへ育てる。
だから村長は娶らず、酒にも溺れず、女にも近づかず、ただ村の側に立ち続けるものだと、みな何となく思ってきた。
けれど今は、その記憶が紙へ移り始めている。私の夫が持ち込んだ帳面と台帳が、少しずつ、しかし確かに、村長の肩から重みを移していた。
もうひとつのため息は、もっと人間らしいものだった。
村人たちは長いあいだ、あの二人を見てきた。村長は幼なじみ夫婦を看取り、その娘を抱え込みすぎぬよう遠くから支え、成人すると道具屋へ口を利いた。
店員はその恩に報いるように、明るく、きびきびと働いてきた。
誰も言わなかっただけで、皆、見ていたのだ。
――もう、いいのではないか。
口に出せば乱暴になるその思いが、朝の村には薄く広がっていた。
そして今日もまた、村長とレオンは二人で話していた。
今度は村長の家ではない。昼の酒場である。
2.
私は夫の隣に座り、冷めかけた豆の煮込みを匙で崩していた。向かいには村長。昼時だというのに、椀へほとんど手をつけていない。
村長は朝よりさらに老けて見えた。四十五という年そのものより、昨夜から一つも眠れていない顔のせいだろう。
「……ワシは、見てしもうた」
低い声だった。
「何をですか」
夫は平板に問う。そこに責める気配はない。ただ、逃がさないだけだ。
村長はしばらく黙り、やがて視線を落とした。
「女としてじゃ」
私は息をつかなかった。つけば、その音ひとつで場が壊れそうだった。
「今まで、一度もそうではなかった。
あれは幼なじみの娘で、
守るべき相手で、村の者で――
それで十分じゃった」
そこで言葉が切れる。
「じゃが昨夜から、違う」
自分の口で言いながら、村長は自分を嫌悪しているのが分かった。欲を抱いたことより、その欲が自分の中に生まれたことそのものが許せない、という顔だった。
「今さらじゃ。遅すぎる。卑しい」
夫は少しだけ眉を寄せた。
「それは違います」
「違わぬ。恩を着せたようなものじゃ。
育て、働き口を世話し、
そこへ来て男の目で見るなど……」
「だからこそ、
勝手に言わないでいるんでしょう」
その一言で、村長の口が止まった。
そこへ、膳を抱えた村娘が通りかかった。まだ十代の終わりか二十そこそこ。酒場の手伝いをしている、よく喋る娘だ。彼女は空いた皿を見て、気軽な調子で言った。
「村長、食べないんですか」
「食える顔に見えるか」
「見えません」
娘はあっさり答え、それから話の端だけ拾ったらしく、首をかしげた。
「でも、四十五とか、
そこ気にするとこです?」
村長が顔を上げる。
「……若いのがガツガツしてくるより、
普段おとなしい人がたまに熱いほうが、
女には効くことありますけど」
酒場の端で、誰かが吹き出しかけて咳払いでごまかした。
村長は本気で絶句していた。
「何を言うとるんじゃ、おぬしは」
「本当ですって。枯れた感じ、
妙にそそられる時あるんですよ」
娘はそれだけ言って、何事もなかったように去った。
村長はしばらく石像のように固まっていた。
3.
そのとき、戸が開いて、道具屋の店員が入ってきた。
昼餉を取りに来たのだろう。いつも通りの足取りで、いつも通りの顔で、主人に声をかけている。昨日のことが夢だったかのように、明るく、よく働く娘のままだった。
村長の身体が、わずかに強張った。
それから一瞬だけ、視線が落ちた。
本当に、一瞬だけだった。
娘の腰、その下へ。
すぐに逸らした。だが、逸らしたからといって、見たことは消えない。
村長の頬から血の気が引くのが、私にも分かった。
「……終わりじゃ」
掠れた声だった。
隣の卓から、村人の一人が椀を置いた。四十がらみの、畑持ちの男だ。騒ぎを聞くでもなく聞いていたらしい顔で、こちらを見る。
「何がです」
村長は答えない。
男は肩をすくめた。
「人間ですからね」
あまりに雑な言い方で、私は危うく吹きそうになった。だが、村長にはそれが効いたらしい。打たれたように黙る。
「見たのか」
「……」
「で、触ったのか」
「するか」
「なら結構」
男は豆の煮込みをひと口すすり、平然と続けた。
「見たくらいで終わるなら、
世の男はみんな聖人ですよ。
そこから先を間違えないのが、
村長でしょうが」
夫が、小さく息を吐いた。
「だから、手順を踏みましょう」
その言葉に、村長は長く沈黙した。
酒場のざわめきの向こうで、店員が勘定を済ませている。彼女はまだこちらを見ない。見ないまま、いる。
村長はようやく口を開いた。
「……ワシは、直接は言えぬ」
誰も急かさなかった。
「あの娘に言えば、それだけで縛る。
恩も、年も、立場もある。
だから言えぬ」
そこで村長は、ゆっくり夫のほうを向いた。
「だが、黙って退くのも違うと……
今、ようやく分かった」
老いた男の顔ではなかった。ただ、ひどく不器用な男の顔だった。
「レオン」
「はい」
「勝手な真似にならぬよう、
間に立ってくれ」
夫は一拍だけ置いた。
「それは、仲人をしろと?」
村長は目を伏せたまま、小さくうなずいた。
「……そうじゃ」
4.
しん、と酒場が静まった。
誰もすぐには喋らなかった。笑い飛ばす者も、囃す者もいない。
やがて、隅の卓から拍手がひとつ鳴った。
ぱち。
続いてもうひとつ。次にまたひとつ。
派手ではない。昼の酒場に似つかわしい、乾いた、けれど温かな音だった。それが少しずつ広がっていく。祝宴のようではなく、長く息を詰めていた者たちが、ようやく息を吐いたような拍手だった。
村長は顔を上げられずにいた。
「……聞いておったのか」
村人の男が肩をすくめる。
「酒場ですからね」
そのとき、店員がこちらへ来た。
騒ぎに気づかぬはずがない。けれど彼女は、浮き立つような顔もしなければ、恥じらって俯くこともしなかった。
まっすぐに夫の前へ立ち、次いで私のほうへ向き直る。
そして、深く頭を下げた。
「……お世話を、おかけしました」
それだけだった。
笑顔はない。むっつりしているのでもない。言葉を軽くできぬほど、ありがたいのだと、その頭の深さだけで分かった。
私は小さく会釈を返した。夫もまた、妙に困ったような顔で頭を下げ返す。
それから店員はようやく村長を見た。
村長もまた、彼女を見た。
もう、村長の顔ではなかった。ただの男の顔だった。店員もまた、ただの女の顔でそれを受けていた。
私は思った。
人が人に戻るのは、たぶん堕ちることではない。
欲を持ち、恥を知り、それでもなお、勝手な手では取らずに、手順を乞う。
その不器用さごと引き受けて初めて、人は人の形になるのだろう。
酒場の拍手は、いつまでも続かなかった。すぐに誰かが椀を取り、誰かがパンをちぎり、昼の喧噪が戻ってくる。
村は、たぶんこうして変わっていく。
大仰な鐘もなく、神託もなく、ただ一人の男が静かに頭を下げ、それを村が静かに受け取ることで。
私は冷めた煮込みをひと匙すくい、ようやく口へ運んだ。
少ししょっぱかった。だが、悪くはなかった。




