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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第四部

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第48話 賢女、人が人へ戻る手順を静かに見る

1.


 私はエルン村の賢女であり、川向こうの地主レオンの妻、エレノア。


 夏至祭まであと二日。朝の水はもう冬のように刺さらないのに、村の空気だけが妙に落ち着かなかった。


 昨日のことが、村じゅうへ回っていたからだ。


 村長と、道具屋の店員。


 だが、娘衆が井戸端で口を押さえて笑うような話ではなかった。笑い声より、ため息のほうが多かった。しかも、そのため息には二つあった。


 ひとつは、村の仕組みが変わることへのもの。


 エルン村の村長は世襲ではない。


 寄り合い衆の家から、聡い子を選び、幼いころから村の名、畑の境、家ごとの縁組、死者の顔、飢えた年と越せた年を叩き込む。そうして一人の人間を、村の記憶に近いものへ育てる。


 だから村長は娶らず、酒にも溺れず、女にも近づかず、ただ村の側に立ち続けるものだと、みな何となく思ってきた。


 けれど今は、その記憶が紙へ移り始めている。私の夫が持ち込んだ帳面と台帳が、少しずつ、しかし確かに、村長の肩から重みを移していた。


 もうひとつのため息は、もっと人間らしいものだった。


 村人たちは長いあいだ、あの二人を見てきた。村長は幼なじみ夫婦を看取り、その娘を抱え込みすぎぬよう遠くから支え、成人すると道具屋へ口を利いた。


 店員はその恩に報いるように、明るく、きびきびと働いてきた。


 誰も言わなかっただけで、皆、見ていたのだ。


 ――もう、いいのではないか。


 口に出せば乱暴になるその思いが、朝の村には薄く広がっていた。


 そして今日もまた、村長とレオンは二人で話していた。


 今度は村長の家ではない。昼の酒場である。


2.


 私は夫の隣に座り、冷めかけた豆の煮込みを匙で崩していた。向かいには村長。昼時だというのに、椀へほとんど手をつけていない。


 村長は朝よりさらに老けて見えた。四十五という年そのものより、昨夜から一つも眠れていない顔のせいだろう。


「……ワシは、見てしもうた」


 低い声だった。


「何をですか」


 夫は平板に問う。そこに責める気配はない。ただ、逃がさないだけだ。


 村長はしばらく黙り、やがて視線を落とした。


「女としてじゃ」


 私は息をつかなかった。つけば、その音ひとつで場が壊れそうだった。


「今まで、一度もそうではなかった。

  あれは幼なじみの娘で、

  守るべき相手で、村の者で――

  それで十分じゃった」


 そこで言葉が切れる。


「じゃが昨夜から、違う」


 自分の口で言いながら、村長は自分を嫌悪しているのが分かった。欲を抱いたことより、その欲が自分の中に生まれたことそのものが許せない、という顔だった。


「今さらじゃ。遅すぎる。卑しい」


 夫は少しだけ眉を寄せた。


「それは違います」


「違わぬ。恩を着せたようなものじゃ。

  育て、働き口を世話し、

  そこへ来て男の目で見るなど……」


「だからこそ、

  勝手に言わないでいるんでしょう」


 その一言で、村長の口が止まった。


 そこへ、膳を抱えた村娘が通りかかった。まだ十代の終わりか二十そこそこ。酒場の手伝いをしている、よく喋る娘だ。彼女は空いた皿を見て、気軽な調子で言った。


「村長、食べないんですか」


「食える顔に見えるか」


「見えません」


 娘はあっさり答え、それから話の端だけ拾ったらしく、首をかしげた。


「でも、四十五とか、

  そこ気にするとこです?」


 村長が顔を上げる。


「……若いのがガツガツしてくるより、

  普段おとなしい人がたまに熱いほうが、

  女には効くことありますけど」


 酒場の端で、誰かが吹き出しかけて咳払いでごまかした。


 村長は本気で絶句していた。


「何を言うとるんじゃ、おぬしは」


「本当ですって。枯れた感じ、

  妙にそそられる時あるんですよ」


 娘はそれだけ言って、何事もなかったように去った。


 村長はしばらく石像のように固まっていた。


3.


 そのとき、戸が開いて、道具屋の店員が入ってきた。


 昼餉を取りに来たのだろう。いつも通りの足取りで、いつも通りの顔で、主人に声をかけている。昨日のことが夢だったかのように、明るく、よく働く娘のままだった。


 村長の身体が、わずかに強張った。


 それから一瞬だけ、視線が落ちた。


 本当に、一瞬だけだった。


 娘の腰、その下へ。


 すぐに逸らした。だが、逸らしたからといって、見たことは消えない。


 村長の頬から血の気が引くのが、私にも分かった。


「……終わりじゃ」


 掠れた声だった。


 隣の卓から、村人の一人が椀を置いた。四十がらみの、畑持ちの男だ。騒ぎを聞くでもなく聞いていたらしい顔で、こちらを見る。


「何がです」


 村長は答えない。


 男は肩をすくめた。


「人間ですからね」


 あまりに雑な言い方で、私は危うく吹きそうになった。だが、村長にはそれが効いたらしい。打たれたように黙る。


「見たのか」


「……」


「で、触ったのか」


「するか」


「なら結構」


 男は豆の煮込みをひと口すすり、平然と続けた。


「見たくらいで終わるなら、

  世の男はみんな聖人ですよ。

  そこから先を間違えないのが、

  村長でしょうが」


 夫が、小さく息を吐いた。


「だから、手順を踏みましょう」


 その言葉に、村長は長く沈黙した。


 酒場のざわめきの向こうで、店員が勘定を済ませている。彼女はまだこちらを見ない。見ないまま、いる。


 村長はようやく口を開いた。


「……ワシは、直接は言えぬ」


 誰も急かさなかった。


「あの娘に言えば、それだけで縛る。

  恩も、年も、立場もある。

  だから言えぬ」


 そこで村長は、ゆっくり夫のほうを向いた。


「だが、黙って退くのも違うと……

  今、ようやく分かった」


 老いた男の顔ではなかった。ただ、ひどく不器用な男の顔だった。


「レオン」


「はい」


「勝手な真似にならぬよう、

  間に立ってくれ」


 夫は一拍だけ置いた。


「それは、仲人をしろと?」


 村長は目を伏せたまま、小さくうなずいた。


「……そうじゃ」


4.


 しん、と酒場が静まった。


 誰もすぐには喋らなかった。笑い飛ばす者も、囃す者もいない。


 やがて、隅の卓から拍手がひとつ鳴った。


 ぱち。


 続いてもうひとつ。次にまたひとつ。


 派手ではない。昼の酒場に似つかわしい、乾いた、けれど温かな音だった。それが少しずつ広がっていく。祝宴のようではなく、長く息を詰めていた者たちが、ようやく息を吐いたような拍手だった。


 村長は顔を上げられずにいた。


「……聞いておったのか」


 村人の男が肩をすくめる。


「酒場ですからね」


 そのとき、店員がこちらへ来た。


 騒ぎに気づかぬはずがない。けれど彼女は、浮き立つような顔もしなければ、恥じらって俯くこともしなかった。


 まっすぐに夫の前へ立ち、次いで私のほうへ向き直る。


 そして、深く頭を下げた。


「……お世話を、おかけしました」


 それだけだった。


 笑顔はない。むっつりしているのでもない。言葉を軽くできぬほど、ありがたいのだと、その頭の深さだけで分かった。


 私は小さく会釈を返した。夫もまた、妙に困ったような顔で頭を下げ返す。


 それから店員はようやく村長を見た。


 村長もまた、彼女を見た。


 もう、村長の顔ではなかった。ただの男の顔だった。店員もまた、ただの女の顔でそれを受けていた。


 私は思った。


 人が人に戻るのは、たぶん堕ちることではない。


 欲を持ち、恥を知り、それでもなお、勝手な手では取らずに、手順を乞う。


 その不器用さごと引き受けて初めて、人は人の形になるのだろう。


 酒場の拍手は、いつまでも続かなかった。すぐに誰かが椀を取り、誰かがパンをちぎり、昼の喧噪が戻ってくる。


 村は、たぶんこうして変わっていく。


 大仰な鐘もなく、神託もなく、ただ一人の男が静かに頭を下げ、それを村が静かに受け取ることで。


 私は冷めた煮込みをひと匙すくい、ようやく口へ運んだ。


 少ししょっぱかった。だが、悪くはなかった。

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