第47話 遊び人、村長が人に戻る夜を見る
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。
……この頃は、その札の裏に「人間が仕組みに化ける瞬間を見張る役」とでも書き足したくなっていた。
夏至祭まであと三日。昼下がり。村長の家の広間は、妙に息苦しかった。
「……家に、迎えろと?」
村長の声は乾いていた。半歩だけ下がって、正面から道具屋の娘を見ている。その顔にあるのは怒りでも照れでもねえ。
ただ、何を言われたのか、根っこから分かっていない顔だった。
「……何を、言うとるんじゃ?」
数歩の距離をあけて向かい合う二人のまわりで、誰も動けねえ。レオンは目を見開いたまま黙りこみ、新しく戸主になった若いのは、妙に居心地悪そうに立ち尽くしている。
娘は息を整え、それでも視線を外さなかった。
「私なら、あなたの生きた証、
あなたの子どもを産むことができます」
広間の空気が、ひとつ遅れてざわついた。並みの男なら、その場で腰が抜ける。少なくとも、顔の一つも赤くなる。だが村長は違った。
「ワシは、村長じゃぞ?」
そこで俺は腹の底で確信した。ああ、この人は、自分が何を言われてるのか、本当に分かってねえ。
男としてどうこうじゃない。人間として、そこに自分が含まれていない。
娘は一度だけ唇を噛んで、それでも静かに言った。
「知ってますよ。
私が生まれる前から、村長でしたよね。
……だから何なんですか」
戸主の一人が、おずおずと口を開いた。
「村長、返事は……してやるべきですよ。
だめだって」
それも、この村じゃ普通の言葉だ。情けでも恋でもねえ。仕組みの中に生きる男が、仕組みの作法として言ってるだけだ。
俺は隣のレオンに小さく言った。
「村長はな、男じゃねえ。……ある意味、人間でもねえ。仕組みそのものなんだ。あの娘の言葉、呑み込めてねえ」
レオンはしばらく村長を見ていたが、やがてすっと前へ出た。
「村長さん。
少しだけ、二人で話したいです」
村長は怪訝そうな顔のまま、それでも頷いた。二人は奥の小部屋へ消え、戸が閉まる。
俺はその戸を見て、妙に嫌な汗をかいた。こいつが腹を決めて誰かと長く話す時は、だいたい元の場所へは戻れねえ。
2.
小部屋の戸が閉まったあと、広間には妙な静けさが残った。娘は立ったまま、拳を握っている。指先が白い。
最初に動いたのはエレノアちゃんだった。あの娘のそばへ行き、何も言わず、ただ隣に立つ。慰める顔じゃねえ。分かった上で踏み込んだ者を見る顔だ。
「……分かって、言ったのね」
娘は小さく頷いた。
「分かってました。
あの人が村長だってことも。
あの人に、そういう言葉が
通じにくいことも」
「それでも、言わずにいられなかった」
「はい」
エレノアちゃんは、そこでやっと息を吐いた。
「なら、あなたは間違ってないわ」
娘の肩が、少しだけ揺れた。だが泣かなかった。あの娘もまた、村の中で生きてきた女だ。村長の重さは知ってる。知った上で越えた。だから、ただの勢いじゃねえ。
俺は壁に背を預けたまま口を挟んだ。
「あの人は、おまえを拒んだんじゃねえよ」
娘がこちらを見る。
「受け取る場所が、ねえんだ。
自分がそういう言葉を
向けられていい人間だと思ってねえ」
娘は目を伏せた。
「……届かなかったんですね」
「いや」
俺は首を振った。
「深すぎて、まだ腹に落ちてねえだけだ」
エレノアちゃんが、ふと閉じた戸を見る。
「たぶん、あの人」
そこで少しだけ言葉を切った。
「村長に戻れない話をしてるんでしょうね」
俺は黙った。中で何を話してるかなんて分からねえ。
だが、エレノアちゃんがそういう顔をする時は、だいたい外していない。理屈じゃなく、暮らしの中でレオンの異様さを知ってる顔だった。
時間が、やけに長かった。昼の光が少しずつ傾き、若い戸主どもが座り直し、誰かが水差しを替えに立っても、戸は開かねえ。
半日近く経って、ようやく戸が開いた。
先に出てきたのはレオンだ。いつもの真面目な顔だったが、妙に静かだった。続いて村長が出てくる。
その肩が、見て分かるほど小刻みに震えていた。
俺は思わず息を呑んだ。
「……お前、何を言った」
レオンは俺を見たが、答えなかった。
村長も何も言わない。ただ一度だけ、道具屋の娘を見た。その目には、昼の理解不能はもうなかった。代わりにあるのは、足場を失った人間の顔だった。
それでも、この場では何も決まらねえ。決められるわけがねえ。
村長は杖もつかず、ゆっくりと座り込んだ。広間の誰も、すぐには口を開けなかった。
3.
夜。酒場の喧噪も少し引いて、村のあちこちで戸の閉まる音がしていた。俺は杯を傾けながら、向こうの卓を何となく見た。
レオンが黙って湯気の立つ木杯を持っている。その少し離れたところで、エレノアちゃんがあいつを見ていた。
責めるでもねえ。拗ねるでもねえ。
ただ、妙に静かな目だった。
ああ、と俺は思った。
あの女は、分かったんだ。根を生やすと言って、この村で暮らして、畑を見て、飯を食って、ちゃんとここに残る顔をしていた男が、今日だけは、明日消えてもおかしくねえ話をしたのだと。
嘘じゃねえ。たぶん、レオンは本気で根を生やそうとしてる。
だが、それでもなお、あいつは別の時間を知ってる。村より広く、長く、冷てえ時間だ。今日、村長に向けたのは、その顔だ。
エレノアちゃんは、それを嗅ぎ取ったんだろう。
他人事じゃねえな、と思った。
俺もリラも、最初からきれいに根を下ろしてた人間じゃねえ。流れ着いて、拾われて、ようやく今の暮らしに手をかけてるだけだ。明日ひとつ歯車が噛み違えば、またどこかへ押し流される側かもしれねえ。
気づいたら、隣のリラをそっと抱いていた。
リラは少しだけ目を丸くしたが、すぐに抵抗をやめた。温かかった。
「……俺は、所詮、流れてきただけだ」
口から出たのは、それだけだった。
リラは俺の胸に額を預けて、小さく笑った。
「私もよ」
それから、少し間を置いて続ける。
「もう、帰る家なんてないもの」
詳しいことは聞かなかった。聞く必要もねえ。そういう言い方をする時の声は、だいたい全部を語ってる。
俺は腕に少しだけ力を込めた。
4.
外では、初夏の風が戸板を軽く鳴らしていた。昼間、あれだけ人の声で満ちていた村が、今は妙に静かだ。
村長は、たぶん今夜、自分の中に「村長じゃない自分」がいると知って震えてる。道具屋の娘は、自分が越えた境界の痛みを抱えたまま眠れねえだろう。
エレノアちゃんは、根を生やすと言った男の遠さに触れて、たぶん少し怖くなっている。レオンは何も言わず、何も言わせず、それでも人の形だけを変えていく。
みんな、どこかで根なし草だ。
村に生まれて村に埋まるはずの人間ですら、役目に根を食われて空っぽになる。外から来た男は、根を生やそうとしてなお遠い。境界を越えた娘は、もう元の場所へは戻れねえ。
だからせめて、今ここにいる奴を抱くしかない夜もある。
リラが俺の服をきゅっと掴んだ。俺は何も言わず、そのまま抱き返した。
根のある人生なんざ、最初から持ってなかったのかもしれねえ。
それでも、腕の中に人の温もりがあるうちは、まだ流され切っちゃいない。
その夜、俺は初めて、村の静けさが少しだけ怖いと思った。




