第35話 賢女、対岸の土地に根の重さを見る
1.
私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。
三月も終わりに近づき、雪解けの水が村の土をゆるませ始めると、川向うの景色まで少しずつ輪郭を持ち始める。
冬のあいだ白く曇っていた向こう岸には、雑木と枯れ草と、踏み固められたことのない湿った地面が広がっていた。
道はない。畑の畝もない。誰かが木を伐り、石をどけ、土を返した痕跡もない。ただ浅い流れが幾筋も走り、名もない池が点々と光を溜めている。
ここは畑ではなく、水の集まる場所なのだと、賢女の目で見てもすぐに分かった。
その荒れ地を見ながら、レオンは寄り合いの席で言った。
「向こうを開けば、
二年先の食い扶持に余裕ができます」
言い方はいつもと同じだった。静かで、整っていて、誰かを煽るような熱はない。けれどこの人がそういうとき、もう頭の中ではだいぶ先まで盤面が出来上がっていることを、私は知っている。
寄り合い衆の反応は、冷たかった。
「あんなところ、ろくな木の実もならん」
「湿地で牛も入らんわ。
いまの耕作地を維持するだけで
手一杯だ」
「鳥獣の巣だ。耕したければ、
お前さんが一人で耕すんだな」
笑い混じりの拒絶だった。面倒な話を、こちらへ押し返すための笑いだ。だがその中の一人が、少しだけ違う顔で言った。
「それに、水はどうする。
あの広さを開けば、
吸う水の量も変わるぞ」
私はその一言に、ひそかに目を上げた。やはり、そこを見る者はいる。
上から奪うわけではない。ただ、向こうで多く吸えば、こちらに残る湿りも変わる。池を干し、小川を生かして畑へ水を回せば、今までそこに溜まっていたものが、別のかたちで流れ出す。
そういう揉め方になるのだと、私は思った。
レオンはすぐには答えず、口を結んだまま村長を見た。村長は杖に手を置き、しばらく沈黙したあとで、静かに言った。
「開墾をすれば、お前さんの求める
全体最適に益するじゃろう。
そして、お前さん自身にもな。
根を持つことができる」
レオンは黙っていた。村長はそのまま言葉を継いだ。
「根を張るということは、
抜けられんということじゃ。
いままでは嫌なら離れられた。
土地を持てば、そうはいかん。
その根元に集まる者を、
抱えるということじゃ」
寄り合いの空気が少しだけ重くなる。村長の声は穏やかだったが、言っていることは重かった。
「青葉が茂れば、
それを快く思わん者も出る。
風雪を耐える大樹になるか」
その問いに、レオンは俯いたまま答えた。
「大樹になることが正解なら、
そうするしかありません」
それから顔を上げ、今度は寄り合い衆のほうを見た。
「エルン村とゴブリンの森、
二つを考えれば、
この地は耕されるべきです。
……それも、二年のうちには」
その一言で、場の空気が変わった。冗談でも思いつきでもない。本気だと、誰もが理解したのだ。
2.
数日後、私たちは川向うへ渡った。村長、寄り合い衆、レオン、そして私。
長靴の裏に泥がまとわりつき、足を持ち上げるたびに重くなる。踏み入るたび、土の下で水がかすかに動く。
浅い流れが縫うように走り、膝ほどの草のあいだに小さな池がいくつも口を開けていた。人の手が入っていない土地というより、水だけが気ままに道を知っている場所だった。
地境石を置く位置を決めるたび、寄り合い衆の何人かは真っ先に流れを見た。石そのものより、その近くのぬかるみや、細い水筋の向きを確かめる。
ここを切ればどこへ流れるか、どの池が先に干上がるか、まだ形にもならぬ先のことを、皆なりに測っているのだろう。
若い衆は面白半分に石を転がし、年寄りは一歩離れて腕を組む。寄り合い衆のひとりは、石より先に水筋の先を見ていた。
誰もこの土地を惜しんではいない。けれど、誰も無関心でもない。
広さだけを言えば、エルン村の八倍。その数字を口にした者がいたとき、さすがに私も息を呑んだ。だが、羨望は起こらない。ただ「やれるならな」という、半ば呆れたような視線だけが残る。
石が土へ打ち込まれるたび、曖昧だった場所に人の線が引かれていく。同じように湿っている土なのに、こちらと向こうが別のものになる。
水は境など知らずに走っているのに、人はそこへ境を作る。私はそれを見ながら、奇妙な心持ちになった。
賢女としては、水が動けば良いものだけでなく悪いものも動くと知っている。けれど妻としては、その境の向こうにレオンの根が降ろされていくのを、どこかで安堵している自分に気づいてしまう。
この人は、もう流されるだけの人ではない。どこから来て、いつまた離れていくのか分からぬ異邦人でもない。留まるための線を、自分の手で引こうとしている。
3.
契約は村長の家で交わされた。土地売買契約書に加え、水利権の共有契約書も置かれる。
水は村のものでもあり、対岸の新しい耕地にも必要になる。流路の大きな変更は寄り合いの承認を要すること、既存の畑へ不利益が出た場合には協議を行うこと。
紙の上に落とされる文言は静かだが、その中にはもう先の火種が埋まっていた。
代金は三百スクルト。
その額を聞いたとき、私は思わず鼻白んだ。安すぎる、と感じたのだ。
価値がないのではない。誰も背負おうとしなかっただけだ。あれだけの広さがあり、水があり、手を入れれば食を支える土地になるかもしれないのに、その代価は、ひとりの雇われ人が二十日もあれば稼ぎ出す金額でしかない。
金が軽いのではない。責任が重すぎるから、値がつかないのだ。
レオンは黙って革袋を差し出した。中身は、温泉の使用料と管理料としてゴブリンたちが受け取った金の、その五分の一を領主名義で受けたもの。一冬で積み上がった三百スクルト。その全額だった。
私は一瞬、言葉を失った。あの人は、冬のあいだに得た蓄えを、まるごとこの土地へ投げ込んだのだ。
革袋が卓に落ちる音は、思いのほか重く響いた。中身の重さより、そのあとに残る軽さのほうが、むしろはっきりと分かる音だった。
寄り合い衆は笑った。
「せいぜい、がんばるんだな。
村一番の大名主さん」
からかうような声だった。だがその中の一人は、笑いながらも紙の上の水利の文言を何度も目で追っていた。
「水は上から来るぞ」
小さく、そんな声が混じった。笑いで済ませられる話ではないことを、皆どこかで分かっているのだ。
村長だけは、署名の終わった紙を見て、小さく頷いた。その顔には祝うような色はなく、ただ、これで一つの線が確かに引かれたのだという確認だけがあった。
4.
帰り道、川風はまだ冷たかった。向こう岸の荒れ地は、朝と何も変わらぬ顔で湿っている。だが私には、もう違う土地に見えた。
誰のものでもない場所ではなく、これから手を入れられ、争われ、守られ、そして食べ物へ変わっていく場所。
隣を歩くレオンは、しばらく黙っていた。少ししてから、ようやく力の抜けた声で言った。
「相談もせず、
大きな買い物をしちゃいました」
私は思わず小さく笑った。
「ええ。本当に」
そう返してから、私は少しだけ歩調を緩め、彼と並んだ。
「……でも、もう戻れないわね」
レオンは一瞬だけこちらを見た。
「はい」
たったそれだけの返事だった。
けれど、その短い返事の中に、この人がようやくこちら側へ根を下ろしたのだという実感があった。
村を変え、森と行き来し、それでもどこか定まらなかった人が、初めて自分から留まるための重さを背負ったのだ。
対岸の土地はまだぬかるみ、池は冷たく光り、小川は好きなように走っている。あれを畑に変えるには、人手も、道具も、家畜も、水の段取りも、何もかもが足りない。
この流れが、ただ従うとも思えなかった。
それでも私は、不思議と怖さだけでは見ていなかった。
水は、いずれどこかでぶつかる。人の思惑も、土地の境も、流れの前では簡単には揃わない。それでも、その流れの中に留まる場所を作ろうとしている人が、今は隣にいる。
川向うの荒れ地は、もう「無主地」ではない。
そして私の夫も、もう、どこへでも行ける人ではなくなった。




