第33話 遊び人、広がる盤面の代償を見る
1.
俺の名前はディオン。ギルドの木札に書いた職業は遊び人。……今じゃ、村の空気がどこで淀み、誰がどこで得をしようとしているかを嗅ぎ分けるほうが、よほど本業らしくなってきた。
三月の初め、エルン村では巡回役の制度がようやく形を取り始めていた。食い扶持の足りねえ家、病人を抱えた家、働き手の減った家。
冬を越えるあいだに見えた穴を、村の中だけでどう埋めるか。そのための足で、目で、手順でもある。
で、その「手順」が紙へ落ちると、途端に匂いが変わる。
巡回役たち、台帳を触るレオンやエレノアちゃん、それから寄り合い衆。誰が見て、誰が書き、誰が決めるか。
今までは古い顔役どもの腹の中にあったものが、少しずつ外へ出てきた。出てきた途端、皆が気づく。――記録を持つ者が強い。
そりゃそうだ。紙へ落ちたものは残る。残れば、あとで持ち出せる。順番も、免除の理由も、拠出の記録も、誰かの都合で丸めにくくなる。弱い家が、声の大きい家に押しのけられにくくもなる。
だが、それだけじゃ終わらねえ。
上から見りゃ、回しやすい制度だ。下から見りゃ、助かる仕組みだ。で、その真ん中で、どいつがうま味をつかむかだけが、静かに争われる。
レオンが持ち込んだものは、だいたいいつもそうだ。正しい。役に立つ。だからこそ、誰の手に乗るかで別の顔をする。
俺は配給所の列でも湯屋の勘定でも、何度もそれを見てきた。数字が人を救うこともある。だが数字は、人と人のあいだへ線も引く。
温泉の決まりがそうだった。読み書きの場がそうだった。鍋が回るようになっても、決める手は一か所へ寄っていた。
巡回役まで紙の上へ乗れば、次に揉めるのは「誰が動くか」じゃない。「誰が決める側へ座るか」だ。
寄り合い衆がそこを嗅ぎ取れねえほど鈍い連中なら、俺もこんなに胃は痛くならねえんだがな。
2.
同じ頃、水車と工房の全体計画も、ようやく最後の詰めへ入っていた。
川沿いに下掛け水車を並べる。森のほうでは、温泉の落差を使って上掛けで回す。紙を漉くには、繊維をほぐし、洗い、灰汁を使い、膠も炊く。
レオンが最初に言い出したときは、また村中が臭くなるのかと顔をしかめたもんだが、今じゃ皆、別のところを見ている。臭いだの手間だのより、その先で何が握れるかだ。
そして、そこへ来て、ゴブリンどもが工房をまとめて引き受けると言い出した。
製紙。灰汁。洗うための塊。膠。
胸を撫で下ろした寄り合い衆は、別のところへ手を伸ばした。
巡回役の管理権。任命権。配分の決裁。水車の配置。工房の運用に関わる名目。実際に泥を掻く手や、灰汁に顔をしかめる役は要らねえ。ただ、「決める場所」だけは渡したくない。そういう顔だった。
俺は横で見ながら、思わず鼻で笑いそうになった。
紙と同じじゃねえか。
枠取りの世界だ。
しかも今回ややこしいのは、ゴブリンどもが単に押しつけられてるわけじゃねえことだ。あいつらはあいつらで、分かっている。
工房を握れば、道具と資材の側を押さえられる。エルン村が農牧を出すなら、自分たちは工業を出す。そういう立ち位置を、向こうから取りに来てる。
食い物を出す村。物を作って返す森。ようやく、対等に近い形になる。
たぶんレオンは、それを見たんだろう。いや、見たというより、盤の上へ並べた。エルン村住民として村の都合も背負い、ゴブリンの森の領主として向こうの立ち位置も考える。
その両方の当事者だからこそ、分かる線引きだったんだと思う。
正論を押し通せば、こうはならねえ。村に工業を抱え込ませる話になる。だが、そんなもんは寄り合い衆の腹に落ちるわけがない。表じゃ言わなくても、本音は見える。
――エルン村に工業なんざ似合わねえ。村は村のやりようで回ればいい。手に余るもんは、外へ寄せる。
で、レオンはそこを呑んだ。
呑んだ上で、ゴブリンの森へ工房を寄せた。
正論じゃねえ。政治だ。
俺はその変わり方に、少しだけ寒くなった。あいつは前より賢くなった。だが、賢くなったぶん、手放したものもある。
3.
寄り合いの席で、条件が積み上がっていく。
人間側の確認手順。運用の名目。報告の形式。立会いの位置づけ。あれもこれも、「村のため」と言えば聞こえはいい。実際には、主導権の綱を手放さねえための紐だ。
昔のレオンなら、その場で一つずつ噛みついていたはずだ。効率が悪い。責任の所在が曖昧だ。稼働率が落ちる。無駄だ。そういう正しいことを、正しい順で並べただろう。
だが、その日のあいつは違った。
「それでよろしいかと思います」
寄り合い衆の言葉を、きれいに受ける。譲るところは譲る。公開原則だけは残し、独占が露骨にならねえ形だけは押さえる。それ以上は押し返さない。
俺は横で、内心ぎょっとした。
何だお前、その受け方。
正気か、とも思った。だが同時に、分かってもいた。ここで全部の筋を通しに行けば、また同じことになる。
前より便利になったくせに、腹の底では反発だけが残る。湯屋でも、入湯の勘定でも、俺たちはそれを散々見た。正しいことをまっすぐ言えば、それだけで人の意地が立つ。
寄り合いが終わって、皆がばらけたあとだった。
村長が、杖をついてレオンを呼び止めた。
「全体最適を、そこまで広げたかの」
静かな声だった。褒めているようでもある。だが、あれはそれだけじゃない。お前さんが盤面をこさえたのだと、そう言っている声だ。
村と森を見渡して、並べて、誰がどこで動くかまで敷いたのはお前だ、と。
是認でもある。
同時に、ちくりと刺す棘でもある。
お前がそこまで広げたなら、そこで起きることもお前の持ち分だろう、と。
村長は露骨には言わねえ。だが、ああいう人は言わねえぶん重い。
レオンは、少しだけ目を伏せた。
弁解はしなかった。
否定もしなかった。
それで十分だった。ああ、こいつ、自覚してやったんだなと思った。正しさを通す側じゃなく、盤を設計する側へ回ったんだと。
しかもそれを、村にも森にも、どちらにも属する立場でやったんだと。
便利な男が、とうとう責任の置き場に座っちまった。そんなふうに見えた。
4.
村長の家を出た帰り道、雪解けで重くなった土が靴裏に重かった。日も落ちかけて、吐く息が白く残る。俺はしばらく黙って歩いたが、結局こらえきれずに聞いた。
「……何考えて、ああした」
レオンはすぐには答えなかった。家へ戻って、戸を閉めて、ようやくこっちを向いた。前みたいな、理屈を並べるときの顔じゃなかった。疲れてるくせに、妙に静かな顔だった。
「いろんなことで、
さすがに僕も学習しました」
苦笑いに近い口元だった。
「エルン村とゴブリンの森、
両方の幸せを考えると、
正論を押し通す優先順位が
低くなった。それだけです」
それだけ、ね。
言葉は淡々としてたが、軽くはなかった。
正論が間違いになったわけじゃねえ。捨てたわけでもねえ。ただ、優先順位を下げた。もっと面倒で、もっと濁ったもののために。村が飲める形。森が立てる形。その両方を通すために。
政治ってのは、たぶんそういうことなんだろう。
全部を綺麗に通すんじゃない。どこを呑んで、どこだけは残すかを決めることだ。
俺は椅子へ腰を下ろし、ようやく息を吐いた。
こいつは前よりだいぶ分かる男になった。だがそのぶん、前よりずっと厄介だ。盤を読む。線を引く。誰がどこで得をし、どこで不満を溜めるかまで見たうえで、あえて飲ませる。そういう手つきになり始めている。
たぶん、必要なんだろう。必要だから、村長も止めなかった。寄り合い衆も利用しようとする。ゴブリンどもも乗ってくる。
ただ、必要なものってのは、だいたい使い手を削る。
俺は暖炉の火を見ながら、ぼんやりそう思った。
村は食い物を出し、森は物を返す。巡回役が足で繋ぎ、紙があとを残す。並びだけ見りゃ、ずいぶん綺麗なもんだ。
だが、きれいに並んだ盤ほど、誰が並べたかなんざ、皆すぐ忘れる。
そして、何かがこぼれたときだけ、思い出したようにその名を呼ぶ。
……面倒くせえ春になりそうだ。




