第28話 賢女、湯屋の笑いが信仰めくのを見る
1.
私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。
十二月二十日。温泉は、もうすっかり村の暮らしの中へ入り込んでいた。
朝は年寄りが足を温めに来て、昼は子どもが湯気のまわりを走り回り、夕方には女衆が肩や腰をほぐしに来る。
洗濯小屋も家畜用の湯だまりも、文句を言いながら皆きちんと使い分けるようになった。
最初にレオンが言い出した細かな決まりはずいぶん削られたけれど、それでも前よりずっとましだ。湯は濁りにくくなったし、冬場の痛みや強張りで顔をしかめる者も減った。
神殿へ回す雑炊や軽い鍋も、少しずつ村に馴染み始めていた。配給所に立つ人の顔つきが、前よりほんの少し柔らかい。
倒れる者が急に消えたわけではない。けれど、口に入れても受けつけず、ただ疲れ切っていく顔は確かに減った。老人が椀を抱えて息をつきながらも食べている。
病み上がりの子どもが、昨日より一匙多く口へ運ぶ。その変化を見るたび、私は胸の奥で小さく息をついていた。
冬の入口で、ようやく村の呼吸が少しだけ整ってきた。そう思っていた。
だから、昨夜の騒ぎには気が抜けた。
村の入口で妙な笑い声が上がったと思ったら、その日のうちに若い衆の顔つきが揃っておかしくなった。にやついているくせに、妙に神妙でもある。
何事かと思えば、原因はまたレオンだった。
あの人は、まだ混浴に慣れない。人の少ない時刻を見計らって、一人で入ろうとしたらしい。そこまでは分かる。
問題は、そのとき腰巻のまま湯船へ入ってしまったことだった。
若い衆に、布を湯へ入れるな、汚れるだろうと注意されたらしい。ここまでは、まあいい。あの人ならやりかねない。
問題はそのあとだった。
意を決して腰巻を外したレオンを見て、若い衆が、思わぬ方向で黙ってしまったのだという。
そこから先は早かった。
何をどう見たのか、言葉は濁されるくせに、顔つきと含み笑いだけで十分に伝わる。槍使い、という呼び名が別の意味まで帯び始めた。
私は、頭が痛くなった。
2.
噂は、水より早く村を回る。
昼には酒場、夕方には井戸端、翌朝には神殿の前まで届いていた。しかも厄介なことに、今回は悪口ではない。
皆、面白がってはいるけれど、どこか本気で感心している。若い衆は、槍使いってのは伊達じゃない、などと妙に納得した顔で頷き、年寄りは年寄りで、そりゃ賢女も逃がすまい、と余計なことを言う。
私は聞こえないふりをしたかったが、そうもいかなかった。なぜなら今度は、その流れがこちらへ向いてきたからだ。
レオンがそうなら、それを相手にしているエレノアはどれほどなのか。
理解したくない理屈である。
私は別に何もすごくない。賢女として診て、薬草を煎じ、冬を越すために手を動かしているだけだ。なのに娘衆の目が変わった。
前から多少は羨望を向けられることはあった。顔立ちや身のこなしで見られることもあれば、異邦の大男を夫にしたことで好奇の目を向けられることもある。
だが今回は、それだけではない。畏敬と、妙な憧れ。
旦那がすごい。何か秘訣があるに違いない。
そんな顔をされる。
知らない。そんなものがあるなら、まず私が知りたい。
「レオンさんって、
やっぱりすごいんですか?」
娘衆の一人が、真顔でそう聞いた。
「確かにすごいけど」
「え、どういう……?」
「……」
しまった、と思ったときには遅かった。娘衆の目が一斉に輝く。
「どんなふうにですか?」
「その、やっぱり違うんですか?」
「何回くらい……?」
私は軽く息を吐いた。
「診療の話なら、いくらでもします」
話を切る。けれど、もう遅い。火はついたあとだった。
その日の夕方には、なぜか神殿の裏で恋愛相談の列ができていた。
3.
好きな男がいるけれど、目を合わせると逃げたくなる。
婚約の話が来ているけれど、どう振る舞えばいいのか分からない。
夫婦になったらどうすれば仲良くなれるのか。
旦那に大事にされるには何が要るのか。
――そんなこと、知りません。
いや、知らなくはないが、そんなもの、人によりけりだ。まして私は、村の流儀に沿って婿を取ったわけでもなければ、家同士の釣り合いで婚姻したわけでもない。
森で拾った異邦の男を夫にして、その夫が紙を作り、泥を掻き、湯を引き、冬の雑炊を作っているだけ。参考になるはずがない。
そう言っても娘衆は引かない。むしろ、「そういう特別な旦那様だからこそ」と勝手に話を盛り始める。
神話を作らないでほしい。
しかも皆、レオンのことは面白がっているくせに、こちらには妙に真面目な眼差しを向けるのだ。面白がられているのはあの人だけで、私はなぜか「うまくやった女」の側に置かれている。釈然としない。
だが、腹立たしさばかりでもなかった。
相談の合間に神殿の鍋を見に行けば、雑炊はちゃんと回っていた。
軽い出汁の匂いが立ち、弱っていた子どもが昨日よりましな顔で椀を抱えている。病み上がりの老人が、一匙ごとに息をつきながらも食べている。
配給の列も、この前ほど張り詰めてはいない。
あの人の工夫で、確かに村は持ち直し始めている。それは本物だ。
だから、私はますます困る。
本物の変化の上に、妙な噂と笑いが乗り始めているからだ。
尊敬なら、まだ扱いやすい。役に立つ者、頼れる者として見られるなら、筋は通る。
けれど、軽い笑い混じりの神格化は違う。
本人の実体から離れて、一人歩きする。しかも人は、そういう噂のほうを面白がって、よく覚える。
冬の食を起こした男、ではなく、槍使い。
そういう覚え方をされ始めている気配に、私はひそかに寒気を覚えていた。
面白いから愛がる。異物として、ちょうどよく丸めて、皆で笑いながら手元に置こうとする。
そうなり始めると、人は相手を理解するのをやめる。
便利な男でも、正しい男でもなく、笑いを引き受けるための存在になる。
そしてそういう扱いは、少しでも期待から外れれば、驚くほどあっさり冷える。
私はそれを知っている。
安堵と、嫌な予感が、胸の中で並んでいた。
4.
その夜、家へ戻ると、レオンは鍋を抱えたまま、妙に小さくなっていた。
「……僕、しばらく温泉行きたくないです」
「そうでしょうね」
私はかまどに火を足しながら、あっさり頷いた。
「今日は外、やめましょう」
「助かります……」
情けない声だ。耳の赤みがまだ引いていない。
私は桶に湯を張りながら、温度を確かめる。
「湯おけに湯を張りましょうね」
「……はい」
少し間があって、あの人はようやく肩の力を抜いた。
湯気の中で、顔つきがいつもの調子に戻っていく。
よしよし、と彼の背中を拭う。
外で何を言われていようと、ここではただの一人の男だ。
「……あの」
「何です?」
「その、変な噂、広がってます?」
「広がってます」
「ですよね……」
沈んだ声に、思わず少しだけ笑ってしまう。
「でも、大したことじゃありません」
「……そうですか?」
「ええ。皆、面白がっているだけです」
言いながら、ほんの少しだけ言葉が引っかかる。
面白がっているだけ、で済めばいい。
けれど――
私は思考を切る。
いま考えても仕方のないことだ。
レオンは湯に手を入れて、小さく息をついた。
「……あったかい」
「そのためのものです」
何でもないやり取りだ。
いつもと同じ。
なのに、不意に昼間の娘衆の顔がよぎる。
――確かにすごいけど。
自分で言っておいて、今さら遅い。
私は視線を外そうとして、ほんの一瞬だけ遅れた。
「……どうしました?」
「何でもないです」
少しだけ間を置いて、言い切る。
馬鹿らしい。
何を考えているのか。
私は首を振って、鍋のほうへ向き直った。
「明日の雑炊、少し変えます」
「まだ変えるんですか?」
「ええ。もう少し、入りやすくします」
そう言うと、レオンは素直に頷いた。
湯気がゆっくりと立ち上る。
冬の夜は長い。
やることはまだ尽きない。




