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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第二部

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23/80

第23話 賢女、記録の先に村の冬支度を見る

1.


 私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。


 アルセリア暦五百五年九月三十日。


 朝の空気は澄み、夏の湿り気はすでに遠い。畑の刈り取りはほぼ終わり、家々の軒には麦束と干した草が並び、倉の戸は何度も開け閉めされている。村人たちの手は、収穫の余韻よりも、その先に来る冬の計算へ向いていた。


 私も朝から村長の家に詰めている。机の上には羊皮紙が広げられ、細かな字と日付が整然と並んでいた。


 夫がこの村へ来てから半年。生まれた日、婚姻、死別、家と土地の移り変わり。記憶の中に散らばっていたものを一つ一つ拾い、確かめ、書き留め続けてきた結果が、ようやくひとまずの形になったのだ。


 村人は二百十二人。半年前から数え始めて、そのあいだに八人が生まれ、四人が息を引き取った。数だけ見れば簡単な増減だが、その裏にある出来事を、私はすべて覚えている。泣き声も、笑い声も、弔いの沈黙も。


 村長は大きく息を吐き、寄り合い衆も肩の力を抜いた。長く背負ってきたものを、ようやく床へ下ろした顔だった。


 だが、その空気の中で、夫だけは羊皮紙の端を指で整えながら言った。


「これからが始まりです。

  ここで歩みを止めれば、

  記録は記憶より使えない代物に

  成り下がります」


 寄り合い衆の一人が苦笑する。ようやく終わったという空気を、この人は容赦なく切り替える。


「それに、羊皮紙も二千枚使いました。

  後三千枚残っていますが、

  来年の今ごろには紙をきちんと

  作れるようにしておきたいですね」


「人数が倍にでもならんと、

  なくならんのではないか?」


 そう言われても、夫は穏やかに首を振った。


「村人の記録だけではありません。


  決めごと、作業の順番、

  井戸や川屋の管理、冬の備え、

  病や死の傾向。

  書き残すべきことは多いです」


 淡々としているが、その視線はすでに先を見ている。


「この冬は、記録に関する諸々を

  皆で話し合って決める時期に

  すべきでしょう」


 村長はしばらく黙り、それから小さく笑った。


「……ワシは、まだ死ねんのう」


 場に笑いが広がる。夫は少し遅れて意味を受け取り、ようやく頭を下げた。


2.


 昼には、夫とディオン、リラ、それに私の四人で酒場へ向かった。村の空気はどこか軽く、寄り合い衆の顔にも疲れより安堵が浮かんでいる。


 ディオンはこの半年、村人たちを相手に怒鳴り、なだめ、まとめあげて、川屋を二十基、給水と排水の工事まできっちり仕上げた。


「俺は遊び人だぞ」


 口を開けばそう愚痴っていたが、いまでは誰も本気にしない。


 うちの夫も槍使いを名乗っているが、私は最近、それが本質ではないと思い始めている。槍を持って強いのは事実だが、この人の強みは、どう見ても別のところにある。


 酒場に入ろうとしたとき、村長が戸を押さえ、若い娘に道を譲っていた。


「村ちょ――」


 声をかけようとした夫の腕を、ディオンがそっと押さえる。


「空気読め、お前は」


 夫は不思議そうに見返したが、何も言わず口を閉じた。こういうところだけは素直である。


 娘は道具屋で働く若い女だった。夫が小声で問う。


「あの女性は、村長の娘さんですか?」


 私は苦笑して首を振る。十年前に流行り病で両親を亡くし、それ以来、村長が陰で支えてきた娘だ。仕事の口を利いたのも彼である。


 夫は二人を見て、柔らかい顔をした。そのまま何か言い出しかねない気配に、ディオンが低く釘を刺す。


「余計なこと考えるなよ。

  他人が口出す話じゃねえ」


 夫は「はい」と小さく頷いた。納得しているかどうかは怪しいが、少なくとも止まる。


 酒場ではいつもの煮込みと黒パンを取り、ディオンは昼から薄いエールまで頼んだ。


 夫は食事のあいだも、さっきの二人を何となく気にしている様子だったが、余計なことは言わなかった。そのぶんだけ、少しは学んでいるのかもしれない。


 食事を終えると、私たちはそれぞれの仕事へ散った。私は神殿へ戻り、夫はギルドから回された牧場仕事へ向かった。


3.


 夕食の席で、夫は珍しく不機嫌そうにしていた。黙っているつもりなのだろうが、口の中で文句が止まらない。


 リラが肩をすくめる。


「レオンったら、牧童たちに

  散々笑われたのよ。

  『何でもできるレオン兄さん、

  乳搾りは下手っぴだなあ』って」


「彼らは慣れているだけです。

  本当にもう……」


 夫は眉をしかめる。ディオンはエールを飲みながら、笑いを堪えている。


「三刻もやって、牛にふんを

  浴びせられるし、子どもの半分しか

  採れなかったし、

  見てて面白かったわよ」


 リラはわざと私を見る。


「最後になんて言ったと思う?」


 私は首を振る。


「『勝手が違うんだから、

  仕方ないでしょう?!』ですって」


 ディオンが吹き出し、夫はさらにむっとする。


「笑いごとじゃありません。

  あれは力任せでも駄目だし、

  弱すぎても駄目だし、牛の機嫌まで

  見なきゃいけないんですよ」


「だから皆、笑ってたのよ」


 リラが悪びれずに言うと、夫は不満げに唇を結んだ。


 この人は、先のことはよく見える。村の流れも、人の動きも、冬の備えも、誰より早く考える。


 けれど目の前の作業になると、とたんに不器用になる。泥を踏み、ふんを浴び、手順を外して失敗する。


 私はそんな夫を横目で見ながら、椀を置いた。


 本当に妙な人だと思う。あれほどの男が、牧童たちにからかわれて本気で拗ねているのだから。


4.


 寝床に入っても、夫はまだぶつぶつ言っていた。藁袋を抱え、牧童の言い方がどうだの、牛の機嫌がどうだのと、子どものように不満を並べる。


 私は苦笑しながら、その頬へ手を伸ばした。少し撫でてやれば、落ち着くだろうと思ったのだ。


 その瞬間だった。


「ああっ! そこはだめっ!」


 妙な声。脇腹に奇妙な感触。続いて、くぐもった破裂音。


 私は眉をひそめ、寝具の中へ手を差し入れる。触れたのは、ぬるりとした革袋だった。


「……どうして、革袋が

  こんなところにあるの?」


 夫はうなだれる。


「明日、皆でヨーグルトを

  食べようと思って。


  寒いと発酵が進まないでしょう?

  だから、その……寝床なら

  温度がちょうどいいかと」


 理屈だけは分かる。分かるが、人に何も言わず仕込む話ではない。


 革袋は破れ、甘酸っぱい匂いが部屋に広がる。藁も布もすっかり濡れていた。私は自分の手に付いた白いものを見て、しばし言葉を失う。


 昼には村のこれからを語り、冬の備えを見据え、紙の枚数を数えていた男が、いまは寝床にヨーグルトを仕込んで潰しているのだ。


 夫は慌てて起き上がる。


「すぐ掃除します。藁袋も換えます」


 私はその腕を引いた。


「そうね、入念に掃除してもらわないと」


 夫の顔が見る見る赤くなる。分かりやすい人だ。さっきまで牧童への不満でいっぱいだったくせに、今度は別の意味で固まっている。


 私はわずかに唇の端を上げた。


「……覚悟はいいわよね」

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