第22話 槍使い、冬越しの味と熱を村へ繋ぐ
1.
私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。
夏の盛りは、長く続くようでいて、辺境ではあっけなく過ぎていく。
朝の風はまだ柔らかく、日差しも強い。畑には緑が残り、川の水も痩せてはいない。けれど、人の手だけはもう、ひと足先に冬へ向き始めていた。
家々の倉には穀物が収められ、干した肉や魚が吊られ、軒下には薪が積み増される。塩漬けの桶には蓋がされ、女たちは布を繕い、男たちは道具の柄や縄を点検する。子どもでさえ薪や藁束を運び、遊びの合間に手を貸す。
辺境の冬は待ってくれない。備えの薄い者から順に命を削る。だから夏のうちに冬を見るのは、この村では当たり前のことだった。
私もまた、神殿の裏で薬草を選り分け、束ね、干し、砕き、冬に備えていた。咳を鎮める葉、腹を温める根、熱を引かせる花、傷口を洗うための茎。
乾燥棚に並ぶ束が増えるたび、胸の奥に小さな安堵が積もっていく。冬のあいだ、村人の命を繋ぐのは、こうした細々とした備えの積み重ねだ。
それに今年は、記録の書き付けもある。生まれた日、婚姻、死別、家と土地の移り変わり。夫が持ち込んだあの面倒な仕事も、いまでは暮らしの一部になりつつあった。
村長の家に通い、古い記憶を確かめながら書き付ける作業は骨が折れるが、やればやるほど、この村がどのように生きてきたかが見えてくる。
夫もまた、そうした私の冬支度を黙々と手伝ってくれていた。薬草を摘み、束を運び、棚を直し、重い壺の位置を変える。
力仕事は頼めば淡々とこなすくせに、道で牛のふんを踏んでは露骨に顔をしかめる。妙なところで妙な人だと、何度思ったか知れない。
そんなある日、薬草の束を括り終えた私に、夫が言った。
「森に、行ってみませんか」
私は手を止めた。ベリー摘みもきのこ狩りも、とうに済んでいる。いまさら森に入る理由が思い浮かばない。
「何をしに?」
「エレノアさんに、
見せたいものがあるんです」
その言い方がどこか子どもじみていて、私は小さく息をついた。それでも結局、ついて行くことにした。
2.
夫と私は森へ向かった。夫は猫車を押している。何も積まれていない荷台が、がたごとと音を立てる。窪地を抜け、木立を進み、落ち葉を踏みしめる。夏の名残を残す森の空気に、かすかに乾いた匂いが混じっていた。
やがてゴブリンの領域に入る。頭目が現れ、夫に手を挙げた。
「アニキ、来たっすか」
「できましたか?」
夫が穏やかに尋ねると、頭目は頭を掻いた。
「できたっすけど……難しすぎるっすよ」
そう言いながらも、その声音にはどこか誇らしさがあった。頭目は私たちを工房へ案内する。
そこには、色とりどりの土鍋や壺が並んでいた。赤茶、灰色、くすんだ緑。揃ってはいないが、焼きの締まりが違う。いまの村の土器とは明らかに別物だった。手に取らずとも、いまの村の土器とは焼きの締まりが違うことが分かる。
夫は一つを取り上げ、縁を指で弾き、底を確かめ、内側へ目を凝らす。
「色は構いません。
揃っていなくてもいいです。
大事なのは、お願いした通りに
できているかどうかです」
そして矢継ぎ早に問う。
「水は染み出しませんか。
酢や塩で荒れませんか。
釉薬は十分に溶けていますか。
割れや厚みの不揃いは。
煮たものを動物に試しましたか。
急な湯気の噴きは?」
頭目は一つ一つ答えていく。私はそのやり取りを横で聞きながら、思わず苦笑した。夫はいつもこうだ。新しいものを前にしても、まず確かめる。使えるか、壊れないか、続けられるか。
やがて頭目が肩をすくめ、私を見た。
「アニキは尊敬してるっす。
厳しいけど、ちゃんと見てくれるっす。
でもアネゴはもっとすごいっす。
よくこんな面倒臭い人、
旦那にしたっすね?」
私は曖昧に笑って受け流した。
3.
土器の確認が終わると、夫はまた頭目に尋ねた。
「湯治小屋はどうですか?」
聞き慣れない言葉に、私は眉を上げた。頭目は森のエルン村側へ案内する。
切り拓かれた土地に、石組みの小屋が並んでいた。その奥、柵の中に白く濁った水と、泡を浮かべる水。湯気が立ちのぼり、ただの水ではない匂いが漂う。鼻の奥に残る硫黄の気配と、舌に触れるような炭酸の刺激。
私は柵の中に入り、息を呑んだ。夫は湯に手を差し入れ、満足げにうなずく。
「湯加減はいいですね。
でも、水はけと風よけはもう少し」
「まだ言うっすか……」
頭目が呻く。
「これは何なの?」
私が問うと、夫は声を潜めた。
「湯治用の温泉です。
あの大カラスのときに見つかった、
硫黄泉と炭酸泉です。
病人や老人が体を温めて
養生できるように」
私はおそるおそる手を差し入れた。温かさが掌に広がり、指の先から腕へとゆっくり伝わる。長く浸かれば、体の芯まで温まるだろう温度だった。
その瞬間、思い浮かぶ。冬に関節を痛める老人、冷えで寝込む者、弱ったまま春を迎える者たち。どれだけ楽になるだろう。
「これが……あなたの冬支度?」
夫は少し照れたように笑った。
「もうひとつ、あるんですよ」
4.
湯場の裏手の小屋に入ると、壺と干し魚、保存食が並んでいた。強い匂いが鼻を刺す。夫は壺を指さした。
「覚えてますか?」
あの魚の内臓だ。私はうなずく。夫は蓋を開け、少しすくって差し出す。
「匂いを嗅いでみてください」
顔をしかめながら嗅ぐ。強いが、ただ腐っている匂いではない。尖った匂いの奥に、まとまりがある。
「腐ってはいないのね」
「調味料です。まだ若いですけど、
来年には良くなります」
夫は蓋を戻した。その手つきは、いつもと同じだった。急がず、崩さず、先を見ている。
外へ出ると、夫は柵の外を指した。
「冬でも野菜が食べられたら、
いいでしょう?」
私は思わず夫を見る。できないことを、何でもないことのように言う。
「温泉の熱が、あの畑に伝わるんです」
私はしゃがみ込み、土に手をかざした。ほんのりと温かい。夏の名残ではない、内側からの熱だ。
胸の奥で、何かがほどけた。
冬は厳しい。備えがなければ削られる。それは変わらない。けれど、この人はただ耐えるだけの冬にしようとはしていない。
湯で体を戻し、器で食を支え、発酵で味を作り、温もりを畑へ回す。
冬の中に、少しだけ余白を残そうとしている。
私は夫を見た。妙な人だ。紙を作り、道を乾かし、村の記憶を書き留め、今度は冬越しの形まで変えようとしている。
呆れるほど先を見ている。
けれど、その先が人の命をつなぐのなら。
私は小さく笑った。
この人は、冬越しを、ただの我慢で終わらせるつもりがないのだ。




