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アカネガルドの槍使い ~市職員の辺境開拓年代記  作者: 早瀬 構
第二部

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21/80

第21話 賢女、冬越しの先に少しの余白を思う

1.


 私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。


 夏至が過ぎると、村の空気はゆっくりと色を変える。朝夕の風はまだやわらかいのに、人の手だけが先に冬へ向く。


 干し草は束ねられ、薪は積み増され、塩漬けの桶がひとつ、またひとつと増えていく。畑を見回る足取りにも、どこか急くものが混じり始める。


 辺境の冬は待ってくれない。備えの薄い者から順に、静かに命を削っていく。だから、夏の盛りに冬を見て動くのは、この村では当たり前のことだった。


 その中で、うちの夫はというと、女たちの働きを妙に真剣な顔で眺めていた。


 紙も、水も、道も、便所も、ひとまず落ち着いた今、また別の何かを探している顔だ。この人は、ひとつ困りごとを減らすと、すぐ次の「足りなさ」を見つけてしまう。


 その日も、帰り道で女たちが豆を干し、葉を束ね、土鍋を磨くのを見ながら、考え込んでいた。


「冬は……鍋だよな」


 ぽつりと、そう言う。


 私は足を止めた。鍋。調理器具の話だろうか。冬と結びつく理由が思い浮かばない。薪の節約か、汁物の都合か。


 けれど彼の顔は、そういう現実の計算をしているものではなかった。どこか懐かしむようでいて、同時に何かを決めた顔だった。


 夫はそのまま猫車を引っ張り出した。


「少し行ってきます。夕方には戻ります」


 行き先も説明もない。私は肩をすくめた。レオンは、考えを言葉にする前に、まず形にしてしまう人だ。止めても無駄だし、どうせ止まらない。


 この人の「思いつき」は、たいてい村を巻き込む。


 それでも――止めるより、見届けた方がましだと、私はもう知っていた。


2.


 夕方、夫は猫車を押して戻ってきた。麻布が何枚も積まれ、その表面に白い粉が吹いている。脇には網に詰めた海藻の束。そして小さな壺がいくつか。


 近づいた瞬間、私は鼻をしかめた。魚が傷みかけたような匂いが、かすかに混じっていたからだ。


「どちらまで行かれましたか?」


「南の漁村です。思ったより、

  ずっと良い収穫でした」


 嬉しそうに言って、彼は荷を下ろす。最初に広げたのは海藻だった。赤いもの、緑のもの、黒く長いもの。戸板に並べ、丁寧に皺を伸ばしていく。


「ダルスに……シーレタス……

  このケルプが良いですね」


 私は目を瞬かせた。漁村で教わったと夫は言うが、海藻にそこまでの違いがあるとは知らなかった。私にとっては、食べられるかどうか、それだけだ。


 だが夫は、薬草を扱うような手つきでそれらを見分けている。


 次に麻布を広げたところで、ディオンが来た。


「何だそれは」


「塩です。布に海水を含ませて

  持ってきました」


 白い粉を舐めて、ディオンの顔が明るくなる。


「おお、塩じゃねえか――」


 そこで固まった。布を見て、顔が引きつる。


「お、お前……」


 夫が頭を掻く。


「手近に布がなくて」


 ディオンは口の中のものを吐き出すように唾を飛ばした。


「次から下衣使うのやめろ!」


 私は思わず目を伏せた。たしかに塩ではある。けれど、その過程は考えたくない。


 そこへリラが壺を見つけた。


「何これ、臭い」


「魚の内臓です。

  塩漬けにしてもらいました」


 二人の顔が揃って歪む。


「お前、やっぱりおかしい」


「捨てて!」


 だが夫は、少しだけ誇らしげに言った。


「食べるんじゃなくて、

  汁を使うんです」


 その場は悲鳴とため息で終わった。ディオンは露骨に距離を取り、リラは鼻を押さえて首を振る。


「絶対に食卓に出さないでよ、それ」


「俺も同席しねえからな」


 二人とも本気の顔だった。私は壺を見つめる。何を考えているのか分からない。ただ、この人が本気で持ち帰ったものは、だいたい意味がある。


 それが理解できるかどうかは、別の話だ。


3.


 それから十日ほど経った頃だった。


 壺は、明らかに様子が変わっていた。中で泡が立ち、蓋の隙間から匂いが漏れる。触れずとも分かる変化だった。


「……腐ってるだろ、これ」


「完全にダメよこれ!」


 ディオンとリラは、本気で嫌がった。今度ばかりは私も、擁護できなかった。これは明らかに、食べ物ではない状態に見えたからだ。


 夫はしばらく黙って壺を見ていたが、やがて肩を落とした。


「……分かりました」


 その日のうちに、彼は壺を猫車に積み、村の外へ持っていった。


 戻ってきたときには、手ぶらだった。


「……はあ、助かった」


 ディオンが大げさに息を吐く。


「ほんとよ。あれが残るなら、

  家出するところだったわ」


 リラも肩の力を抜いた。二人とも、あからさまに安堵している。家の空気が、少し軽くなった気がした。


 私は何も聞かなかった。彼も何も言わなかった。ただ、それで終わった話のように、誰もその壺のことには触れなくなった。


 代わりに夫は、また別のことを始めた。


 ひよこ豆を三袋、どこからか持ち込んできたのだ。


 煮て、潰して、麻布で絞る。白く濁った汁を木枡に入れ、海水を煮詰めたものを混ぜる。しばらくして、彼は肩を落とした。


「……固まらない」


 搾りかすをつまんで口に入れる。


「これは、まあ食べられる」


 私はその白い汁を見て、少し考えた。


「固めるなら……

  ゼラチンを使ってみては?」


 試してみると、たしかに柔らかく固まった。夫はそれを口に運び、小さく頷く。


「悪くないですね」


 そのときの表情が、妙に静かだった。嬉しさとも違う、何かを思い出すような顔。


 私は胸の奥に引っかかるものを感じた。


「故郷の味が恋しいの?」


 そう尋ねると、夫は首を傾げた。


「違います」


 あっさりと否定する。


 そして、続けた。


4.


「冬の食べ物に広がりがあれば、

  少しは楽しくなるかなと思って」


 私は言葉を失った。


 冬を、楽しくする。


 その発想が、私にはなかった。


 辺境の冬は、生き延びるための時間だ。食べるのは、死なないため。選ぶ余地などない。干し肉、粥、塩漬け。それで足りれば十分で、それ以上を望むのは贅沢だと、私はずっと思ってきた。


 だから、思わず鼻白んだ。


 楽しむ? 冬を?


 ――そんな余裕があるのなら、備えに回すべきではないのか。


 そう言いかけて、言葉が止まった。


 外に干された海藻が、夕日に透けている。赤は柔らかく、黒は薄く、見慣れない色が並んでいる。白い塩、淡い豆の色。どれもこの村にはなかったものだ。


 それが、冬の食卓に並ぶ。


 湯気の中で混ざり、香りが立ち、少しだけ違う味になる。


 ――それなら、確かに。


 一瞬だけ、そう思いかけて。


 私は小さく息を吐いた。


 いや、と首を振る。


 それでもやはり、私の知る冬は変わらない。死なないために食べるものだ。楽しさなど、求めるものではない。


 けれど夫は、冗談の顔をしていなかった。


「同じものばかりだと、

  気持ちも沈みますから」


 その一言に、私は少しだけ息を詰めた。


 気持ち。


 私は、体のことばかり見てきた。熱、脈、腹、吐瀉。見えるもの、触れられるもの。そこに手を入れて、どうにか命をつなぐ。それが賢女の仕事だと思ってきた。


 けれどこの人は、その手前を見ている。


 手や水や道に手を入れたときと同じだ。私たちが「仕方ない」と受け入れてきたものに、別の見方を持ち込む。


 私は外に干された海藻を見た。


 違和感は、まだ消えない。


 けれど――それだけではない何かが、確かにそこに混じっていた。


 私にはまだ分からない。


 ただ一つ分かるのは――


 私の夫は、やはりどこかおかしいということ。


 そして、そのおかしさが、いつも村を少しだけ先へ進めてしまうということだった。

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