第21話 賢女、冬越しの先に少しの余白を思う
1.
私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。
夏至が過ぎると、村の空気はゆっくりと色を変える。朝夕の風はまだやわらかいのに、人の手だけが先に冬へ向く。
干し草は束ねられ、薪は積み増され、塩漬けの桶がひとつ、またひとつと増えていく。畑を見回る足取りにも、どこか急くものが混じり始める。
辺境の冬は待ってくれない。備えの薄い者から順に、静かに命を削っていく。だから、夏の盛りに冬を見て動くのは、この村では当たり前のことだった。
その中で、うちの夫はというと、女たちの働きを妙に真剣な顔で眺めていた。
紙も、水も、道も、便所も、ひとまず落ち着いた今、また別の何かを探している顔だ。この人は、ひとつ困りごとを減らすと、すぐ次の「足りなさ」を見つけてしまう。
その日も、帰り道で女たちが豆を干し、葉を束ね、土鍋を磨くのを見ながら、考え込んでいた。
「冬は……鍋だよな」
ぽつりと、そう言う。
私は足を止めた。鍋。調理器具の話だろうか。冬と結びつく理由が思い浮かばない。薪の節約か、汁物の都合か。
けれど彼の顔は、そういう現実の計算をしているものではなかった。どこか懐かしむようでいて、同時に何かを決めた顔だった。
夫はそのまま猫車を引っ張り出した。
「少し行ってきます。夕方には戻ります」
行き先も説明もない。私は肩をすくめた。レオンは、考えを言葉にする前に、まず形にしてしまう人だ。止めても無駄だし、どうせ止まらない。
この人の「思いつき」は、たいてい村を巻き込む。
それでも――止めるより、見届けた方がましだと、私はもう知っていた。
2.
夕方、夫は猫車を押して戻ってきた。麻布が何枚も積まれ、その表面に白い粉が吹いている。脇には網に詰めた海藻の束。そして小さな壺がいくつか。
近づいた瞬間、私は鼻をしかめた。魚が傷みかけたような匂いが、かすかに混じっていたからだ。
「どちらまで行かれましたか?」
「南の漁村です。思ったより、
ずっと良い収穫でした」
嬉しそうに言って、彼は荷を下ろす。最初に広げたのは海藻だった。赤いもの、緑のもの、黒く長いもの。戸板に並べ、丁寧に皺を伸ばしていく。
「ダルスに……シーレタス……
このケルプが良いですね」
私は目を瞬かせた。漁村で教わったと夫は言うが、海藻にそこまでの違いがあるとは知らなかった。私にとっては、食べられるかどうか、それだけだ。
だが夫は、薬草を扱うような手つきでそれらを見分けている。
次に麻布を広げたところで、ディオンが来た。
「何だそれは」
「塩です。布に海水を含ませて
持ってきました」
白い粉を舐めて、ディオンの顔が明るくなる。
「おお、塩じゃねえか――」
そこで固まった。布を見て、顔が引きつる。
「お、お前……」
夫が頭を掻く。
「手近に布がなくて」
ディオンは口の中のものを吐き出すように唾を飛ばした。
「次から下衣使うのやめろ!」
私は思わず目を伏せた。たしかに塩ではある。けれど、その過程は考えたくない。
そこへリラが壺を見つけた。
「何これ、臭い」
「魚の内臓です。
塩漬けにしてもらいました」
二人の顔が揃って歪む。
「お前、やっぱりおかしい」
「捨てて!」
だが夫は、少しだけ誇らしげに言った。
「食べるんじゃなくて、
汁を使うんです」
その場は悲鳴とため息で終わった。ディオンは露骨に距離を取り、リラは鼻を押さえて首を振る。
「絶対に食卓に出さないでよ、それ」
「俺も同席しねえからな」
二人とも本気の顔だった。私は壺を見つめる。何を考えているのか分からない。ただ、この人が本気で持ち帰ったものは、だいたい意味がある。
それが理解できるかどうかは、別の話だ。
3.
それから十日ほど経った頃だった。
壺は、明らかに様子が変わっていた。中で泡が立ち、蓋の隙間から匂いが漏れる。触れずとも分かる変化だった。
「……腐ってるだろ、これ」
「完全にダメよこれ!」
ディオンとリラは、本気で嫌がった。今度ばかりは私も、擁護できなかった。これは明らかに、食べ物ではない状態に見えたからだ。
夫はしばらく黙って壺を見ていたが、やがて肩を落とした。
「……分かりました」
その日のうちに、彼は壺を猫車に積み、村の外へ持っていった。
戻ってきたときには、手ぶらだった。
「……はあ、助かった」
ディオンが大げさに息を吐く。
「ほんとよ。あれが残るなら、
家出するところだったわ」
リラも肩の力を抜いた。二人とも、あからさまに安堵している。家の空気が、少し軽くなった気がした。
私は何も聞かなかった。彼も何も言わなかった。ただ、それで終わった話のように、誰もその壺のことには触れなくなった。
代わりに夫は、また別のことを始めた。
ひよこ豆を三袋、どこからか持ち込んできたのだ。
煮て、潰して、麻布で絞る。白く濁った汁を木枡に入れ、海水を煮詰めたものを混ぜる。しばらくして、彼は肩を落とした。
「……固まらない」
搾りかすをつまんで口に入れる。
「これは、まあ食べられる」
私はその白い汁を見て、少し考えた。
「固めるなら……
ゼラチンを使ってみては?」
試してみると、たしかに柔らかく固まった。夫はそれを口に運び、小さく頷く。
「悪くないですね」
そのときの表情が、妙に静かだった。嬉しさとも違う、何かを思い出すような顔。
私は胸の奥に引っかかるものを感じた。
「故郷の味が恋しいの?」
そう尋ねると、夫は首を傾げた。
「違います」
あっさりと否定する。
そして、続けた。
4.
「冬の食べ物に広がりがあれば、
少しは楽しくなるかなと思って」
私は言葉を失った。
冬を、楽しくする。
その発想が、私にはなかった。
辺境の冬は、生き延びるための時間だ。食べるのは、死なないため。選ぶ余地などない。干し肉、粥、塩漬け。それで足りれば十分で、それ以上を望むのは贅沢だと、私はずっと思ってきた。
だから、思わず鼻白んだ。
楽しむ? 冬を?
――そんな余裕があるのなら、備えに回すべきではないのか。
そう言いかけて、言葉が止まった。
外に干された海藻が、夕日に透けている。赤は柔らかく、黒は薄く、見慣れない色が並んでいる。白い塩、淡い豆の色。どれもこの村にはなかったものだ。
それが、冬の食卓に並ぶ。
湯気の中で混ざり、香りが立ち、少しだけ違う味になる。
――それなら、確かに。
一瞬だけ、そう思いかけて。
私は小さく息を吐いた。
いや、と首を振る。
それでもやはり、私の知る冬は変わらない。死なないために食べるものだ。楽しさなど、求めるものではない。
けれど夫は、冗談の顔をしていなかった。
「同じものばかりだと、
気持ちも沈みますから」
その一言に、私は少しだけ息を詰めた。
気持ち。
私は、体のことばかり見てきた。熱、脈、腹、吐瀉。見えるもの、触れられるもの。そこに手を入れて、どうにか命をつなぐ。それが賢女の仕事だと思ってきた。
けれどこの人は、その手前を見ている。
手や水や道に手を入れたときと同じだ。私たちが「仕方ない」と受け入れてきたものに、別の見方を持ち込む。
私は外に干された海藻を見た。
違和感は、まだ消えない。
けれど――それだけではない何かが、確かにそこに混じっていた。
私にはまだ分からない。
ただ一つ分かるのは――
私の夫は、やはりどこかおかしいということ。
そして、そのおかしさが、いつも村を少しだけ先へ進めてしまうということだった。




