第15話 賢女、見えぬ穢れの理を知る
1.
私はエルン村の賢女であり、槍使いレオンの妻、エレノア。
火迎えの夜は、明後日に迫っている。雪解けの水が川へ流れ込み、村の土にもじわりと染み込んでいく頃合いだ。
冬のあいだ、白い帳の下に隠されていたものが、春の気配とともに顔を出す。
轍には泥がたまり、藁屑と家畜のふんが混じり合い、踏み固められている。日が当たれば乾き、夜にはまた湿り、腐臭を強める。
この時期の村は、どうしても匂う。けれどそれは誰にとっても同じで、いちいち気にするものではない。
子どもたちは気にも留めず駆け回り、年寄りは顔をしかめながらも慣れた足取りで歩く。誰もがそれを避けようとはしない。
レオンと私は、昼までは村長の家で書記の真似事をし、午後は神殿で治療にあたっている。もっとも、レオンは私の助手というより、観察者に近い。
診療部屋の隅で、水の入った壺を覗き込んだり、布の置き方を変えたり、かまどの火加減を見たりしている。時折、患者の服を脱がせ、灰を揉み込み、鍋で煮て、干して返す。
最初は、シラミ落としだと思っていた。実際、それもある。だが、どうもそれだけではない。
泥の付き方、汗の染み、匂い――そういったものを見て、何かしらの基準で「煮るべきかどうか」を決めているらしい。汚れの重さや種類で、手を入れるかどうかを選んでいるようにも見える。
その基準が、分からない。
私は言った。
「ふんを踏んだり、泥を跳ねたり、
汚れた服を触ったり……
穢れるわよ?」
レオンは素直に頷く。
「そうですね。気をつけます」
言うことはまともだが、やることは違う。踏むし、汚すし、煮る。わざわざ穢れに近づいているようにさえ見える。
穢れを避けるのではなく、確かめている。そんなふうにも見えた。
私はさらに問う。
「女性の服は煮ないの?」
レオンは唖然とし、それから急に顔を赤くした。
「……そんなこと、できません」
私は首を傾げる。何を赤面することがあるのかしら。女の裸など、幼いころから見慣れているはずだ。湯浴みも水浴びも、隠すものではないのだから。
この人は、妙なところで妙だ。
2.
翌日の午後、レオンは森へ入った。夕方、診療部屋へ戻ってきたときには、腕いっぱいにハーブを抱えている。
「神殿の在庫を使ってしまったので、
これ、どうぞ」
受け取ってみれば、ミントにタイム、セージ。ちょうど補充を考えていたものばかりだった。葉の張りも良く、摘みたてだと分かる。
「ゴブリンたちに手伝ってもらいました」
私は思わず苦笑する。森の中で、大男とゴブリンが黙々とハーブを摘んでいる姿は、どうにも似合わない。
「助かるわ。ありがとう」
「……お役に立てたなら、よかったです」
夫と家に戻る途中、私はふと気づいた。この人は、村の男たちとはずいぶん違う。
帰るなり、まず手を洗う。かまどから灰をつまみ出し、手に擦り込み、指の間まで丁寧にこすってから、水で流す。
その水は、ただの水ではない。必ず一度煮て、冷ましたものだ。
さらに、カップに入れたその水に塩をひとつまみ入れ、口に含み、喉を鳴らし、吐き出す。もう一度、同じことを繰り返す。
灰を擦り込むのも、水を選ぶのも、ただの潔癖とは違う。何かを「落としている」ように見える。目に見えないものを、手や口から追い出そうとしているように。
手や足を洗うのは分かる。けれど、口の中まで洗う理由は何なのか。
食事のあとでも、外から戻ったときでも、必ずそれをやる。
――この人は、汚れを「外」だけのものだと思っていない。
そう気づいて、私は少しだけ考え込んだ。
3.
夕食後、ディオンが腹を押さえながら外へ出ていった。用便だろう。この時期は、誰もが少し腹を下す。珍しいことではない。
レオンは暖炉の前で、麻布の切れ端に棒で穴を開け、よった紐を通している。手つきは妙に手慣れている。
そこへ、乾燥させたミントを挟み込んだ。
「うん、できた」
耳に紐をかけ、口と鼻を覆う。不格好なあて布だ。
「……悪くない。匂い、まぎれるかな」
リラが興味を持ってそれを借り、同じように耳にかける。だがすぐに眉をしかめた。
「……息苦しい。私には合わないわね」
外から戻ってきたディオンも、呆れた顔をする。
「なんだそりゃ一体」
「わかんない。レオンが作った」
私はそのやり取りを眺めながら、あて布に視線を向けた。
匂いをまぎらわせるため、とレオンは言う。確かにミントの香りは強い。だが、それだけなら、袋に入れて首から下げればいい。
わざわざ口と鼻を覆う意味は、別にあるのではないか。
息を通す場所。口と鼻。そこは、外へ出るものと、内へ入るものが交わる場所だ。
――この人は、そこから何かが出入りすると考えている。
それを遮ろうとしている。
そう思ったとき、昼間の手洗いと口すすぎが、ひとつに繋がった気がした。
4.
寝室に戻ると、レオンは水桶に湯を汲み、布を浸して体を拭き始めた。
「はぁ……温泉にでも浸かりたいよな」
温泉など、この辺境にはない。王都よりさらに北へ、馬車で半月。あるいは魔族の領内に入るしかない。
――妙に神経質で、妙にきれい好き。
翌日、火迎えの夜。村は賑やかに浮き立っている。ディオンとリラは酒場へ出かけ、歌と酒に興じるのだろう。
私は寝室で、レオンの隣に座る。
「ウチの旦那様は、
娘衆以上にきれい好きね」
「……きれいにしてないと、
落ち着かないです」
「シラミもノミもいないし、病でもない。
そんなにきれいにすることが大切?」
レオンは水桶を指した。澄んだ、湯冷ましの水だ。
「水は、古くなるとけがれます。
清く見えても、
けがれているかもしれない」
「見えないものによって。
病も、それで起きるのかもしれません」
見えないもの。
もしそれが本当にあるのだとしたら、私は今まで、何を見て治してきたのだろう。
薬草の効き目、体の反応、熱や脈。私は「見えるもの」ばかりを頼りにしてきた。だがこの人は、その手前にあるものを見ている。
それは、薬でも祈りでもなく、暮らしそのものに手を入れるやり方だ。もしそれが正しいのなら、私たちは今まで、見なくていいものを見ずに済ませてきたことになる。
レオンは静かに問う。
「エレノアさんは、女神や精霊、悪魔が
いると思いますか?」
「いるに決まってるわ」
「見たことはありますか?」
私は首を振った。
レオンは、ほんの一瞬だけ、私の方を見た。視線が触れたように感じた、その直後、彼は目を逸らす。
「……僕は、女神を見たことがあります」
頬がわずかに赤い。
私は急に気恥ずかしくなり、視線を外した。やはり、この人は妙だ。
私は話を逸らすように、布を奪い取り、自分の体を拭こうとする。
「そ、そんな、もったいな……」
言いかけて、さらに顔を赤くする。
私は手を止めた。
――もったいない?
布でも、水でもない。さきほどの視線。私の肩口に落ちていたそれ。
匂い。
私はほんの少しだけ目を細めた。
なるほど。
この人は、きれいにしたいのではない。私の「今のまま」を、消したくないのだ。
可愛いおバカさん。
私は何も言わず、布を水桶に戻した。
レオンはほっとしたように、けれど少しだけ申し訳なさそうに笑う。
――今夜は火迎えの夜。
女神様が、あなたにご褒美をくださるかもしれない。




