第14話 賢女、春の腹下しに手立てを見る
1.
私はエルン村の賢女――槍使いレオンの妻、エレノア。
火迎えの夜が近い。今年の冬も、村では何人かが寒さと飢えで命を落とした。
辺境の冬は長い。水は凍てつき、畑は眠り、食卓に上がるのは干した肉、塩漬けの野菜、そしてエールばかり。子供や老人、それに冬のあいだに弱った者には、少なからず重い。
そして雪が解け、水が緩むころになると、弱った者から順に腹を下す。吐く者もいる。腹の中から水が抜け、口の中まで乾き、力の尽きた者はそのまま死ぬ。
春は芽吹きの季節であると同時に、命を取り立てる季節でもあった。
私は樫の樹皮やベリーの葉を少しずつ調合し、セージを合わせた煎じ薬にカモミールを含ませて患者へ与える。
大麦か燕麦の粥をすすめ、脂っこいものを避けさせ、腹を冷やさぬよう温めた水を飲むよう指示する。
数日たっても治まらぬときは腹に手を当て、しこりを探る。嫌な固さを感じたときには、胸の内でそっと命数を数える。
――辺境の賢女にできることは限られている。
五日前、レオンが買った羊皮紙五千枚のうち、五百枚が村長の家に届いた。
あれから夫は、寄り合い衆や村長を相手に、村の生者と死者の日付を書き付け続けている。エルン村で文字を知る者は、私を含めて八人。いや、最近八人になった、というべきか。
夫はこの村へ来た日、自分の名すら書けなかった。けれど婚姻の夜が明けるなり、村に記録が要ると説き始めた。
二昼夜かけて書き付けの文言を考え、それを私に書かせるあいだに、当の本人は文字まで覚えてしまった。
四日後には皆の前で、婚姻の書き付けを自分で書いたのだから、笑うしかない。
夫はアルセリアの文字を知らなかっただけだ。彼は、私たちとは別の体系で、淵のように深い知識を身につけてきたのだろう。――辺境の人間には、窺い知れぬほどの。
「エレノアさん、何か考えてるんですか?」
「……ええ。春がすぐそこまで来た、
そう思って」
村長の家からの帰り道だった。夫と二人で、村人たちの日付と記録を羊皮紙に刻んできたのだ。
2.
「うわっ、また踏んじゃった、もう……」
「ああっ、なんだよこの泥、
勘弁してよ……」
レオンは道端の牛のふんを踏み、轍に溜まった泥へ足を突っ込んだ。私は思わず眉を寄せる。この人、歩くときの警戒がなさすぎる。
村の道は土だ。家畜も人も通る。春先になれば雪解け水でぬかるみ、ふんも藁屑も流れきらずに残る。見て避ければ済む話なのに、この人はいちいち踏んでしまう。
「帰ったら手を洗って……足も拭わなきゃ」
しかも、この人は汚れに異様な不快感を示す。村に文句を言うわけではない。ただ、匂いと泥とふんに対して、心底うんざりした顔をするのだ。
どんなところで生きてきたのかは知らないが、道にふんが落ちておらず、轍に泥が溜まらず、手や足を少し汚したくらいで顔をしかめる必要のない場所だったのだろう。アルセリアの王都ですら、そこまで清潔ではないはずなのに。
夫は小さく舌打ちしてから、ふと真顔になった。
「エレノアさん。この時期、
腹を下す人、多いですよね」
「多いわ。毎年のことよ」
「水と、手と、食べ物。それに服。
……たぶん、汚れが一緒に
口へ入ってるんです」
私は目を瞬かせた。
「汚れが……腹下しの原因だと?」
「全部じゃないです。
でも、減らせるはずです」
言い切る口調だった。魔法も知らず、オークもゴブリンも知らなかった男が、こういう時だけは妙に確信を持つ。
この人は、見えているものの意味づけが違う。私たちが春先の腹下しを季節の厄介ごととして受け止めるところを、この人は「減らせるはずのもの」と見ている。
――裏庭で紙を作っていたときの匂いと汚れも大概だったけれど。
あの時は、村じゅうのぼろ布と灰汁と尿で、裏庭が地獄みたいな臭いになった。なのに今、夫の言うことを、私は笑い飛ばせない。
3.
数日後の午後。私は神殿で人々の治療にあたっていた。患者の多くが下痢、そして嘔吐。症状の重い者は戸板に乗せられて運ばれてくる。
程度の差こそあれ、この時期にはありがちなことだ。ディオンは腹を押さえながらギルドへ行くし、リラも私も、用便の回数が増える。
「エレノアさん、
ミントと塩、頂けますか?」
戸口から声がした。振り向くと、レオンが立っていた。私は訝しみながら、二つの壺を差し出す。
夫は戸板に横たわる男の患者へ歩み寄った。
「すみません。服、脱いでもらえますか」
患者も私も訝しむ。何をするつもりなのか。だが夫はかまどの灰をかき出し、男の服へふりかけて揉み込み、それから大鍋に水を張ってミントと塩を入れ、服を煮始めた。
「何やってんだ兄さんっ?!」
「半刻ほど、お待ちください」
夫はそれだけ言って、鍋を見守る。灰と藁束で大鍋の縁をこすり、湯が濁れば布を引き上げ、また鍋を整える。
妙に手際がいい。まるで、調理人のようだった。
祈りひとつほどの時が過ぎ、夫が服を広げた。大鍋の湯はどろりと濁り、その表面には小さな虫がいくつも浮いていた。シラミだ。
私は思わず息を呑んだ。患者も目を見開く。
「一月に一回くらい、
少しだけでも熱い湯に
服を漬けてください。
できれば、体を拭く布も」
半刻後、夫は服を返した。男は慌てて袖を通し、それから自分の胸元や脇腹を確かめる。
「……臭くねえし、痒くもねえ」
「それから、よく手を洗ってください。
食べ物と水は、できるだけ火を通す。
口に入れる前に、
汚れた手で触りすぎない」
患者は訝しげに瞬いた。夫は少しだけ間を置いてから、続ける。
「そうすれば、腹を下したり、
吐いたりすること、減るはずです」
神殿の空気が変わった。
薬草の名でも、祈りの文句でもない。けれどそれは、確かに病の手前にあるものを指していた。私たちが症状を見ているあいだに、この人は、その手前――穢れが口へ入るところを見ている。
4.
患者が帰ったあとも、私はしばらく大鍋を見つめていた。湯の表面に浮くシラミ。塩とミントの匂い。灰でこすられた鍋の縁。
魔法でも薬草でもなく、熱い湯と洗い方ひとつで、目の前の男の痒みが消えた。そして、それだけでは済まない。
私は今まで、春先の腹下しを、辺境の厳しさの一部として受け入れてきた。弱った者がさらに弱り、死ぬ。そういうものだと。だが、原因のすべてに手が届くなどとは考えなかった。
けれど夫は違う。
記録がなければ、人は忘れると言った。羊皮紙が高いなら、紙を作ればいいと言って、本当に作ってしまった。そして今度は、腹下しの前に汚れを断てと言う。
それは賢女の領分ではない。薬草師の理でも、神殿の教えでもない。もっと暮らしの底の、道や手や水や衣服にまで降りていく理屈だ。
「……何この人」
私は小さく呟いた。
「どうかしました?」
どうかしたのは、たぶんこちらの方だ。この人を、文字を覚えるのが異様に早い男、紙を作るためなら裏庭を地獄に変える男、その程度に思っていたのかもしれない。
違う。この人は、私たちが「そういうもの」として見過ごしてきた悲しみや苦労を、一つずつ減らそうとしている。
火迎えの夜が近い。冬を越えた者たちは、これから春の水を飲み、畑へ出て、また暮らし始める。その中で、死ななくていい者が死なずに済むなら。
私は夫を見て、少しだけ笑った。
「……いいえ。あなた、
本当に何者なのかと思っただけ」
夫は困ったように眉を下げる。
「ただの槍使いですよ」
嘘だ、と私は心の中で返した。
ただの槍使いが、村の記憶を紙に留め、春先の腹下しの手前で人を救おうとするものか。
あの人がこの村へ来てから、まだ半月も経っていない。なのにもう、エルン村の暮らしの形が、少しずつ変わり始めている。
――何この人。




