第8章:甘い罰と、招かれざる「愚者」の来訪
彼の顔が近づいてくる。
逃げようと思えば、魔法で彼を吹き飛ばすこともできたはずだ。
けれど、私の体は金縛りにあったように動かなかった。いや、心のどこかで――彼に触れられることを、期待してしまっている自分がいた。
「……目、閉じて」
甘い命令に、私は逆らえずに瞼を下ろした。
唇に、温かくて柔らかい感触が押し付けられる。
「んっ……」
挨拶代わりのような軽い口付けではなかった。
角度を変え、何度も啄まれ、やがて深く絡め取られるような濃厚なキス。
息ができない。頭が痺れる。
彼の熱が、キスを通じて私の体内に流れ込んでくるようだ。
(……エラー。思考回路、断絶。心拍数、計測不能……)
私の脳内で、赤い警告灯が明滅している。
でも、それを止める術がない。
彼の大きな手が、私の背中に回され、体を密着させる。
「……エリーゼ。好きだ。愛してる」
キスの合間に囁かれる言葉が、呪いよりも強力に私の心を縛り付ける。
もう、認めざるを得ない。
私はとっくに、この計算高いけれど不器用な王子様に、陥落させられていたのだと。
「……私も……」
私の口から、降伏宣言が漏れそうになった、その時だった。
コンコンコンッ!!
無粋極まりないノックの音が、甘い空気を切り裂いた。
アルフレッド様の動きがピタリと止まる。
「……セバスチャン?」
「申し上げます、殿下。緊急事態でございます」
扉の向こうから聞こえる執事の声は、いつもより少しだけ硬かった。
アルフレッド様は私からゆっくりと体を離し、深いため息をついた。その瞳から、急速に甘い色が消え、代わりに凍てつくような冷たさが宿る。
「……僕が『緊急時以外は邪魔をするな』と言っておいたのを忘れたわけではないだろうね?」
「はい。ですが、門前に『害虫』が現れました」
「害虫?」
「隣国のカイル王太子殿下です。『盗まれた私の婚約者を返せ』と、騎士団を引き連れて騒いでおられます」
カイル。
その名前を聞いた瞬間、私の背筋が冷えた。
甘い夢から一気に現実に引き戻される。そうだ、私は追放された身で、ここは彼に保護されているだけの場所だった。
「……っ、私が、行きます」
私は震える手で布団を握りしめた。
これ以上、アルフレッド様に迷惑はかけられない。私が前に出て、話をつけなければ。
けれど。
ベッドから降りようとした私の肩を、アルフレッド様が優しく、けれど強く抱き寄せた。
「いいや、君はここにいて。……続きは、邪魔者を掃除してからだ」
「え?」
見上げると、彼は微笑んでいた。
けれど、その笑顔は私に向けられる「子犬」のものではない。
獲物を前にした猛獣の、美しくも残酷な笑みだった。
「せっかくエリーゼが僕を受け入れてくれそうだったのに。……万死に値するとは、まさにこのことだね」
彼が指を鳴らすと、部屋の空気がビリビリと震えた。
「セバスチャン。彼らを広間へ通せ。……僕が直々に、地獄の釜の蓋を開けて差し上げよう」
怒れる王子様が、立ち上がる。
その背中を見て、私は初めて、自分の元婚約者に同情した。
ああ、カイル殿下。あなたは虎の尾を踏むどころか、竜の逆鱗を全力で踏み抜いてしまったようです、と。




