第3章:日常への侵食(ディナー&バスタイム)
隣国の王子様に拉致――もとい、保護されて数時間。 私は早くも、この「溺愛」という名の異常事態に頭を抱えていた。
「エリーゼ、口を開けて」
「……自分で食べられます」
「だめだ。君は放っておくと、研究に夢中でパンをかじるだけで済ませるだろう? それでは栄養バランスが崩れる」
夕食のテーブルで、アルフレッド様が優雅にナイフとフォークを操り、一口サイズに切ったステーキを私の口元へ運んでくる。 周囲に控える侍女たちが、生温かい目で見守っているのが居た堪れない。
「時間の無駄です。私は早く地下の研究室に行って、新しい機材のチェックを……」
「んー」
「……」
彼が引く気配がない。
しかも、その金色の瞳が「食べてくれないと泣いちゃう」と言わんばかりに潤んでいる。 ……卑怯だ。10年前のあの時と同じ、捨てられた子犬のような目をするなんて。
「……今回だけですからね」
私は負けを認め、ぱくりと肉を口に含んだ。
悔しいけれど、最高級の肉は頬が落ちるほど美味しかった。
「美味しいかい? 良かった。……ふふ、君に食事をさせるのがこんなに幸せだなんて知らなかったな」
彼がとろけるような笑顔を見せるので、私は咀嚼するふりをして顔を伏せた。
調子が狂う。私のペースが、ことごとく彼に崩されていく。
だが、真の試練は夕食後だった。
最高級の香油が使われたお風呂を堪能し、バスローブを羽織って部屋に戻った時のことだ。
「さあ、おいで。髪を乾かそう」
「……なぜあなたがここにいるのですか」
当然のように私の寝室のソファに座り、タオルを構えている王子様。 私は濡れた銀髪を手で絞りながら抗議した。
「髪くらい、風魔法で一瞬で乾かせます。乾燥の術式なら0.2秒で……」
「だめだよ。君の髪は絹のように繊細なんだ。魔法で乱暴に扱ったら傷んでしまう」
彼は有無を言わさず私をソファに座らせると、背後から優しくタオルを被せた。
大きな手が、私の頭を包み込む。
その手つきは驚くほど丁寧で、魔法を使わず、指先で髪を梳きながら水分を拭い取っていく。
「……手間でしょうに。侍女に任せればいいのでは?」
「僕が触れたいんだ。……それに」
彼の手が、不意に私の首筋――呪いの痕が残るあたりで止まった。
「この美しい髪をかき分けた先にある、君の『証』を見ることができるのは、僕だけの特権でありたいからね」
背後からの囁きに、背筋がぞくりと震えた。
彼の指先が、呪いの茨模様をなぞるように優しく触れる。
忌まわしい傷跡として、誰もが目を背けた場所。私自身も隠し続けてきた場所。 それを、彼はまるで宝石でも扱うように愛でている。
「……物好きですね、あなたは」
「一途と言ってほしいな」
鏡越しに目が合うと、彼は愛しげに目を細めた。
濡れた髪を乾かすその時間は、私が提案した「0.2秒の術式」よりも遥かに長く、非効率で――けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
(……温かい)
彼の体温と、優しい指の感触。 それに絆されそうになる自分を、私は必死に理性で叱咤する。
(騙されてはだめよ、エリーゼ。これは高度な懐柔策だわ。快適な生活に依存させて、思考力を奪う作戦に違いない……!)
私は赤くなりそうな頬を両手で挟み、鏡の中の自分を睨みつけた。 だが、鏡に映るアルフレッド様の幸せそうな顔を見ると、どうしても邪険に払いのけることができないのだった。




