第1話 お約束の筋肉痛
【登場人物】
・紀伊 露草…学校帰りに桜にナンパされて「雲世界」に飛ばされた少年。剣道をしていた。
・矩…「雲世界」で出会った男勝りの少女。魔力を持つが過去のトラウマから使えない。
・夕凪…矩と一緒に暮らしている青年。露草の師となる。
・樹氷…矩の兄。露草に身体の元を貸出中のため実体がない状態。
・刃璃…「雲世界」の現統治者。露草と矩と同じ年頃の少女。
・朝凪…夕凪の双子の兄。
・凩…樹氷の旧友で楽天的な性格。これでも統治者の右腕とよばれる一族の一人。矩の師となる。
露草は久しぶりに筋肉痛というものを実感していた。
昨日は夕凪の指導に食らいついていくのに必死でひたすらに身体を動かしていたが、やはり普段使わない筋肉は悲鳴を上げていたらしい。
体を起こすだけでどこかの筋肉が刺激され、露草は思わず眉を顰めた。
(こんな筋肉使ってたんだ……)
もはやどの動きが原因でどの部分の筋肉痛が起こっているのか分からない。
しかし今日もまた修行はあるのだ。
(さすがの矩も昨日は相当だったしな)
一日目を終えて帰って来た矩もまた、どんな修行内容だったのかへとへとの状態だった。
「ただいまー」
そんな声が玄関の方から聞こえてから、一向に彼女は姿を見せない。夕食の準備で手を離せない夕凪の代わりに露草が廊下にひょいと顔を覗かせると、上がり框に腰かけた矩の背中が見えた。
その背は朝見た時のようなシャキッとしたものではなく、だらりと怠そうだった。何だか力尽きたボクサーのような。あの彼女の元気なオーラが消えている。
「矩?」
そっと呼び掛けてみるが、返事がない。もしかして寝てる? 気絶してる?
露草は自分もまた重く感じる足を引きずって、彼女に近付いた。
「矩」
「……ああ、露草。よお」
矩が肩越しに振り返り、弱々しく片手を上げて笑った。これは重症だ。
「修行そんなにすごかったのか?」
「……やってることは全然大したことじゃなかったんだ。けど……」
矩は脱力するように「はあー」と大きく息を吐いた。
「なんか自分に足りないものを改めて突き付けられたというか……」
「ああ、それは分かる。すごく分かる」
露草も同じだった。今の段階では夕凪とまともに手合わせすることさえ遠いと感じる。
「風呂の用意できてるから、先に入って来いよ」
矩は小さく頷き、立ち上がろうとした。だが、足は小さく震えるだけで力が入らないようだった。
「くっそ……」
「その様子だと、今風呂に入るのは危ないな」
露草は矩の左腕を取り、肩に担ぐようにして支え立ち上がらせた。
(……軽)
「悪い、露草。お前も疲れてるだろうに」
「別に」
とりあえず居間の方に運び込むと、夕凪が驚いたように矩を見た。
「初日からそんなに頑張ったんですか?」
「……まあな」
「ということは、凩もちゃんと師の仕事をしたのですね」
夕凪はどちらかというと凩の方に驚いているようだった。
温かいお茶の入った湯呑を夕凪から受け取った矩は、一口啜ってようやくほっとしたように頬を緩ませた。
「あったかい……」
夕凪はそんな矩の様子を見ながら訊ねた。
「今日は夕食は簡単に済ませて、さっさとお風呂に入って寝ますか?」
首を横に振る矩。
「お腹はすいてる。だからいっぱい食べるつもり」
ひとまず食欲はあるらしい。夕凪も安堵したように頷いた。
「でも今日は早く寝た方が良いですね」
「良いも何も、よく眠れるに決まっている」
確かに。露草も同感だった。
そして、翌朝にはお約束の筋肉痛がきたのである。
「今日も午後からは魔獣狩りだよな」
筋肉痛を意識的にスルーしながら身支度を整える。
(魔獣狩りは朝凪も一緒……)
夕凪の双子の兄で、統治者の側近でもある朝凪。露草をこの世界に案内した本人だ。刃璃からの指令もあり、魔獣狩りは朝凪も受け持つことになっている。
見かけは夕凪とそっくりであるが、夕凪とは違いどこか近寄り難いオーラがある。また、同じ敬語でも全然話しやすさが違うのだ。
昨日、昼食を終えてから魔獣が出る桜の森へと足を向けた。先日樹氷に会いに行った方角とは反対の方だった。
しかし本当にいつ見ても綺麗に咲いている。年中花見の季節である。
「そういえば朝凪もいるんだっけ?」
「はい。もう魔獣払いを始めているかもしれませんね。――この辺りからもう出てきますよ」
夕凪は言いつつ、いつでも木刀を振れる体勢になっている。
露草も気を引き締めて木刀――本当は竹刀の方が良いのだが、先日ばっきりやられたこともあり木刀にした――を構えた。
と、夕凪が何を思ったかふつりと緊張感を解いた。
「露草」
「何?」
「大したことではないのですが、一つお願いがありまして」
「お願い?」
夕凪から改めてそんなことを言われること自体が珍しい。一体何だろう。
「朝凪と、できるだけ多くお話してあげてくれませんか」
「え?」
全く想像もしていないお願いに露草はぽかんとした。
夕凪はいたって真面目な顔をしていた。
「どんな些細なことでも構いません。朝凪はあんななのでとっつきにくいと感じるでしょうけど、露草を邪険にすることはないと思います」
まあ、凩や矩に対しては多少雑ですけどね、と夕凪はボソリと付け加えた。露草は思わず苦笑いを返す。
「でも、どうしてわざわざそんな頼みを?」
「そうですね……理由を話すのはちょっと難しいんですが、私の勝手な老婆心でしょうか」
夕凪は自嘲気味に笑い、頭上に広がる桜の枝を仰いだ。
「彼が少しでもこの世界を、人を好きになってくれたら良いなと思って」
「? それはどういう――」
露草がさらに意味を問おうとしたところへ、冷ややかな声が遮った。
「こんな所で呑気に話しているとは余裕ですね」
前方の桜の幹の後ろから、すっと人影が姿を現した。噂をすれば朝凪だ。
「もう来てたんだね、朝凪」
和やかに声をかける夕凪に朝凪は半眼を返す。
「……ぼけっと突っ立っていると邪魔だ」
相変わらず兄弟間では遠慮のない物言いだったが、夕凪の方は全然気にしていないのか微笑んでいる。
朝凪は露草に視線を移した。
「露草も魔獣払いをするのですか」
「う、うん。これも修行の一つだから。それに刃璃にも言われたし」
「そうですか。言っておきますが、強い魔獣もいますよ」
「うん」
それは分かっている。そもそも、今の露草にとっては全ての魔獣が自分より強いと言えるだろう。
(だからこそ、やりたいって気持ちもあるんだよな)
あの夕凪の魔獣払いを目にしてから、自分もあんなふうに鮮やかに仕留めたいという思いが心の中にあった。
「では、何かあれば呼んでください」
朝凪はそれだけ言って背を向けた。一応、心配してくれてはいるらしい。
「危なくなったら私も呼ぶからね、朝凪」
「お前は呼んでくれなくていい」
朝凪の即答に夕凪が肩を竦める。
「だいたいお前に心配はいらないだろう。私もお前も――」
朝凪はそこではたと口を噤んだ。何かを誤魔化すように咳払いをして、「それでは」と足早に行ってしまった。
「朝凪は何を言いかけたんだ?」
露草が不思議に思いながら訊くと、夕凪は小さく息を吐いた。
「さあ、何だったんでしょうね」
その言い方は、まるで言葉の続きが分かっているかのように露草には聞こえた。だが、突っ込んで聞くべきか迷っているうちに夕凪が歩き出した。
「では、私たちも魔獣払いを始めましょうか」
「あ、うん」
前を行く夕凪に緊張感が戻って来る。露草も再度気を引き締めて、神出鬼没の魔獣に備えた。
(夕凪にお願いされたけど、結局昨日は初めのちょこっとと帰り際しか話せなかったんだよなあ)
露草はほとんど夕凪の側にいるので、別の場所で魔獣狩りをしている朝凪とは物理的に距離が開くのだ。もう少し強くなって一人で払えるようになったら自由に動けるのだが……。
(まだ無理そう)
はあとため息を吐いて、露草は階下に向かった。いくら筋肉痛といえども、朝のウオーミングアップをしないと気持ち悪い。
階下に行くと、すでに夕凪が起きていた。
「おはようございます、露草。身体は大丈夫ですか?」
「おはよう。見事に筋肉痛だよ」
「でもちゃんと筋肉を使えているということですね」
「まあ、そういうことになるのか……?」
「変な癖がつかないようにだけ注意しましょう」
まだ今日の修行は始まっていないのに、夕凪はもう師のそれである。
「矩は?」
「余程疲れていたのか、まだ起きてきてません」
夕凪は露草が下りて来た階段の上を見遣った。
「凩はどんな修行をしたんだろうな」
「初日でしたし、矩は魔力を使えない状態なので基礎的なことしかやっていないと思うのですが」
「でもあのタフな矩がああまでなるってよっぽどだよな」
「そうですねえ」
あの凩が師としてどんな指導をしたのかも気になるところだが。
夕凪は暫く矩の部屋の方を見ていたが、小さく頭を振った。
「――矩の師は凩ですからね。彼に任せましょう」
「信用してるんだ」
「まあ、あれでも統治者の右腕ですから。それに、何だかんだ言いながら面倒見が良いんですよ」
「へえ?」
「矩も、それから刃璃様も小さい頃から凩に面倒を見てもらってましたからね」
「そのわりに二人とも凩に対して雑対応すぎない?」
面倒を見てもらった者に対しての敬意を感じないのだが。
露草の素朴な問いに、夕凪は何も答えずただ微笑んだ。
ご無沙汰しております。ここまで読んで下さってありがとうございます。
露草も矩もぼろぼろの毎日のようですね…(苦笑)。双子たちのやりとりは書いていて楽しいです。
(2026.07.25)




