第2話 朝凪
【登場人物】
・紀伊 露草…学校帰りに桜にナンパされて「雲世界」に飛ばされた少年。剣道をしていた。
・矩…「雲世界」で出会った男勝りの少女。魔力を持つが過去のトラウマから使えない。
・夕凪…矩と一緒に暮らしている青年。露草の師となる。
・樹氷…矩の兄。露草に身体の元を貸出中のため実体がない状態。
・刃璃…「雲世界」の現統治者。露草と矩と同じ年頃の少女。
・朝凪…夕凪の双子の兄。
・凩…樹氷の旧友で楽天的な性格。これでも統治者の右腕とよばれる一族の一人。矩の師となる。
修行を始めてそろそろ一週間が経つ。
矩はもう初日終わりのように立って歩けなくなるようなことはなくなっているし、露草も初めの頃の筋肉痛が治まってきつつある。しかし相変わらず、二人とも毎日疲れ果てて爆睡する日々を送っていた。
露草はというと、例の『五百本メニュー』に慣れてきてはいたが、まだ夕凪に五百本打たせるところまでいっていない。調子が良くて、かろうじて三百に届くかどうかというところだ。
(悔しい)
心ではそう思うのに、体がついていかない。この後に魔獣狩りが控えていることを考えると、午前中で潰れる有様では話にならない。
本心では夕凪に延長戦を申し込みたいところだったが、その悔しさは魔獣狩りにぶつけることになった。
「うん、だいぶ慣れてきましたね」
小型の魔獣は露草一人でも何とか払えるようになってきた。払い方のコツも夕凪の動きを繰り返し見て実践している内に学んでいた。
だが、やはり多数で来られるとキツい。
「あ」
目の前の二匹を払ったところで、右斜め後方と後ろからの気配に気づく。
反射的に木刀を体の方に引き寄せて、魔獣の直撃を避けるように動いた。――と、左側から風圧を感じたと同時に魔獣が吹っ飛んだ。
「大丈夫ですか」
「……朝凪」
朝凪は涼しい顔で露草に訊ねたが、常に隙なく周りの気配を窺っている。
「ありがとう。助かった」
「夕凪は」
朝凪の眉が微かに寄ったのを見て、露草は慌てて言った。
「いや、ちょっとオレが離れすぎた」
「少なくとも、まだこのレベルのあなたを放っておく理由にはなりませんね」
手厳しい。しかし実際露草は危なかったのだから言い返せない。
「まあ、あそこで正面から刀を振らずに逃げようとしたのは正しい判断だったと思いますが。一匹仕留めたとして、怪我は必須だったかと」
「できることなら仕留めたかったけどな」
思わずぼやくと、朝凪の呆れたような視線を感じた。余談だが、これが剣道の試合なら多分相手に突っ込んでいたと思う。
「その向こう見ずなところは、少しあいつに似ていますね」
「え?」
「しかしあなたはただ怪我をしました、では済まないのですから気を付けてください」
朝凪がため息を吐いて、露草の頭の上に手を伸ばした。彼の指から桜の花びらがひらりと舞う。
露草は小首を傾げながら、自分より背の高い相手の顔を見上げた。
「朝凪も夕凪も、怪我をしたらただでは済まないだろ?」
露草を見下ろす朝凪は無表情だったが、微かに灰色の瞳が揺れたような気がした。
「――私たちは大丈夫ですよ。体が丈夫なので」
「それ答えになってる? まあオレが心配するほど二人ともやわじゃないのは知ってるけど」
朝凪の目が一瞬見開いて、すぐに細められた。
「そうですね、露草が心配することではありません」
つまりは露草に心配されるまでもないということか。そう言われてはもう何も言い返す言葉がない。
(でも、オレが勝手に心配するのは自由だよな)
朝凪がふと近くの桜の木に向かって言い放った。
「で、お前はそんなところで何をしているんだ。露草はお前の弟子だろう」
夕凪が微笑みながら出て来て、露草は何となくほっとした。
「いや、折角朝凪が助けてくれたから邪魔しちゃ悪いかなと思って」
「師のお前が真っ先にフォローすべきところだった」
「そうだね。だから、私からもありがとう」
けろっとした顔で兄に言ってのける夕凪は逞しい。ここ最近のこの兄弟のやり取りを見ていて、少しずつだが二人の関係が分かってきたような気がする。
(二人とも大人みたいに見えるのに、やり取りはオレと兄貴のそれとあんまり変わらないかも)
なぜだか、それが露草に安心感を与えた。この少し風変わりな双子も、そこらにいる普通の兄弟と変わらないところがあるのだと。
「露草、何を笑っているのですか」
「え?」
朝凪に指摘されて、露草は頬が緩んでいることに気付いた。
「朝凪はそんなに面白いこと言ってましたか?」
「なぜ私なんだ。お前だろ、夕凪」
「い、いや、二人ともが……」
そっくりな顔二つが同時に見つめてきて、露草は吹き出してしまった。
当の双子たちは、揃って意味が分からないという顔をしていた。
「朝凪。今日は夕飯どうする?」
帰り際、いつものように誘う夕凪に、朝凪もまたいつものようににべもなく返した。
「行かない。いい加減諦めろ。矩も修行から帰って疲労困憊の中、私と顔を合わせたくはないでしょう」
矩と朝凪の相性は悪い。確かに矩にとっては災難だろう。
「オレは朝凪と夕飯食べるの賛成だけど」
何となく今日は露草がそう口を挟むと、朝凪が虚を突かれた顔をこちらに向けた。
「だそうだよ、朝凪?」
夕凪が含み笑いで言うと、朝凪は我に返ったように首を振った。
「露草にそう言ってもらえるのは光栄ですが、私はこの後も仕事がありますので」
「え、まだ仕事あるの?」
もう魔獣狩りで疲れ果てている露草が訊くと、朝凪はあっさり頷いた。
「そろそろ『記念祭』の準備が始まるので、そちらの手配も進めなければならないのです」
「『記念祭』?」
どこかで聞いたことのあるワードだ。
記憶を手繰り寄せて、いつか矩が言っていたことを思い出す。あれは確か、凩の家からの帰り道だったか。
『記念祭ってのは、この雲世界ができた日を祝うんだ。毎年城下町で派手にやるんだぞ』
「今年もやるのですね」
「年に一度のお祭りですから、みな楽しみにしています。刃璃様もそれを分かっていらっしゃるのです」
確かに矩も楽しみにしていた。今年は露草も一緒に行こうと誘われた。
夕凪が小さく息を吐きながら兄に言った。
「刃璃様もあまり無理をなさらないよう気を付けて」
「分かっている。――では失礼します」
朝凪は露草に礼儀正しくお辞儀をし、城下町の方へと去って行った。
「私たちも帰りましょうか、露草」
「あ、うん。それにしても、朝凪は忙しそうだね」
「元より朝凪は色々と仕事をしてますけど、『記念祭』の準備となるとまた一層忙しくなりますね」
「オレも何か手伝えることがあれば良いけど、魔獣払いで手一杯だしなあ」
そもそもこの雲世界のこともよく分かっていない、部外者である。
「その気持ちだけで朝凪は泣いて喜ぶでしょう」
「ええ? 夕凪の冗談ってたまによく分からないよなあ」
「冗談じゃないんですけどねえ」
いつの間にか、こうして雑談をしながら岐路につくのが当たり前になっている。露草にとって夕凪は師であると同時に兄のような、友達のような親しい存在になっていた。
「そういえば夕凪って、朝凪にだけ敬語じゃないよな」
「露草はお兄さんに対して敬語なんですか?」
「違うけど」
「それと同じですね」
そう言われればそれまでなのだが。露草は何となく心の中にあった気持ちをぶつけてみた。
「無理にとは言わないけど、オレにも敬語じゃなくて良いよ」
言われたことが意外だったのか、夕凪が驚いた表情になる。そして、ふふとおかしそうに笑った。
「それ、樹氷や矩にも言われたことがありますね」
「そうなの? でも矩に対しても敬語のままだよね」
「何と言うか、もう敬語が癖になっているというか……」
困ったように言う夕凪は嘘をついているようには見えなかった。恐らく、本当に癖付いてしまっているのだろう。
「いやごめん。別に敬語をやめろって言ってるわけじゃなくて。なんかちょっと距離を感じる時あるから、もう少し砕けても良いよっていう感じで」
露草など年上且つ師匠である夕凪にずっとため口である。
「むしろオレの方が敬語を使わなきゃなんじゃ……」
「いえ、露草はそのままで良いですよ」
夕凪の即答にほっと胸を撫で下ろす。
いつの間にか桜の木が途切れて、家のある方へ延びる一本道に出ていた。背後の西日が目の前に長い影を二つ作る。
家が見えて来たと思ったら、玄関の前に小さな人影が見えた。
「あ、矩だ」
「今日は早いですね」
向こうがこちらに気付いて、大きく手を振る。
「露草! 夕凪! 腹減ったー!」
露草と夕凪は顔を見合わせて笑うと、彼女の方へと急いだ。
ここまで読んで下さってありがとうございます。朝凪がいっぱい喋っているなあと思いながら書いてました。
(2026.07.25)




